リレーエッセイ

第40回 - 2001.05.01

ネフスキイと東洋文庫

桧山真一

 ニコライ・ネフスキイは、一九二九年(昭和四)初秋、十四年間滞在した日本を去った。『民俗学』第一巻第三号(昭和四年九月)の「学界消息」欄に次のようにある。

○ネフスキイ氏  大阪外國語學校講師の同氏は今囘レニングラード大學教授に任命されて、八月末歸國することになつたので、下旬に在京の知人に挨拶のために上京した。同氏は大正四年宗教研究のため露都大學留學生として我國へ來たが、其後母國の政變のために續いて我國に滞在研究を續けてゐた。其間小樽高商講師から大阪外國語學校講師に輾じ、傍ら京都大學文學部に教鞭を執つてゐた。語學は天稟の才があつて最近には西夏語の研究が東洋文庫論叢で發表されるさうである。
 ネフスキイが実際に敦賀から故国へむかうのは九月七日であり、おもだった知友に別れの挨拶をするため上京するのは八月半ばすぎである。ネフスキイの「宗教研究」とは神道の研究のことである。それはそれとして、右の文章で気になるのは最後のくだりである。東洋文庫(大正十三年十一月設立)は、事業の一環として五種の刊行物を発刊していた。『東洋文庫論叢』はそのひとつで、「これは東洋學に關する論著にして、學界を裨益すること大なりと審査認定を經たるもので、一般書肆に於いて餘りに學究的なるが為に、出版を肯んぜざる底のものを主とし、文庫の内外を問はず、廣く海内學者の著作よりこれを採擇して出版刊行するものである。出來得る限り巻末に歐文を以て摘要を附し、歐米人の理解の助けとすることにしてゐる」(岩井大慧編輯『東洋文庫十五年史』昭和十四年)というものである。ネフスキイの西夏語研究がわが国で高く評価されていたことがわかる。大正十四年から昭和十三年まで、二十五点の『東洋文庫論叢』が刊行されているが、ネフスキイの西夏語研究書はそれらの中に見当らない。東洋文庫に照会したところ、今日まで、東洋文庫からネフスキイの著作が刊行された形跡はないという返事であった。

 「西夏学研究小史」(N・ネフスキイ『西夏文献学』第一巻、モスクワ、一九六○年所収)の中で、ネフスキイは次のように書いている。

スタインの著作のひとつに、B・ラウファーによって解読されたチベット文字による音声表記からの西夏文字の断片が掲載されている。しかし彼のこの著作はいかなる批判にも耐えない。西夏語をまったく知らずに、彼はチベット語の草書を解読したのである。チベット文字の草書体の書き方を取り違え、音声学的に互いになんら共通性もないのに、同一の表意文字に二通りのまた三通りもの読みを与えたのである。 この一覧表から自分が作成した一覧表に新しい表意文字を加えて、チベット文字による音声表記から五○○以上の西夏文字を私は得た。それらの一覧表は印刷の準備がなされ、日本から私が出発する前に、東京の東洋文庫に手渡された。東洋文庫はそれを刊行することを私に約束した。
 これこそ『東洋文庫論叢』の一冊として刊行されるはずであったネフスキイによる西夏語の研究書である。ネフスキイの上京は友人知人に別れを告げるためだけでなく、東洋文庫に西夏語研究の原稿を渡すという大切な目的もあったのである。印刷刊行されなかった原稿はどうなったのだろうか。その行方を追跡する第一歩は、ネフスキイと面識のあった東洋文庫の主事・石田幹之助の周辺を探ることである。この前の戦争で東京は空襲をうけているので、ネフスキイの原稿が焼失していることもありうる。しかし原稿が奇跡的に残っているとすれば、大発見ということになる。




HOME「バイコフと虎」シリーズ新刊・近刊書既刊書書評・紹介チャペック