話の発端は20年ほど昔にさかのぼる。1980年のことだったと記憶しているが、当時ぼくは、スロヴァキアの首都ブラチスラヴァの大学に留学していた。まだチェコスロヴァキアという連邦国家が存在していて、社会主義体制が不動のものに見えていた頃のことだ。
ある時、旧市街にある友人のアパートを訪れると、彼のガールフレンドが(その人はヤナ・シチェファーニコヴァーさんといって、このエッセイのテーマであるM・R・シチェファーニクの遠縁にあたる人だったが)、『写真で見るシチェファーニク』という本(以下『写真集』と表記)を貸してくれた。クロース布で装丁された簡素なアルバムで、1936年にプラハで出版されたものだった。それまで図書館でも古本屋でも見かけたことがなかった。
その当時スロヴァキア国内ではシチェファーニクにたいして、「連合国の利益のために反革命活動をしたブルジョア政治家」(1981年に刊行された『スロヴァキア百科事典』第5巻の表現)という政治的レッテルが張り付けられて、ほとんど黙殺に等しい扱いを受けていた。正直に白状すれば、ぼくもその時までシチェファーニクについては、ごくあいまいな知識しか持ち合わせていなかったと思う。本を貸してくれるとき彼女が意味ありげに、「ほかの人には見せないでね」とささやいたことを覚えている。当時の体制下では、シチェファーニクに関する本の多くは禁書リストにあがっていて、売買したり、他人に貸与したりすることが禁じられていたのだ。
禁断のリンゴはいっそう甘く感じられるという心理も手伝って、ぼくは大きな好奇心を持って『写真集』のページを繰った。それまでほとんど知らなかったシチェファーニクの生涯が、時代順に配列された118 枚の写真によって、ヴィジュアルに再現されていた。1880年にスロヴァキア西部の農村に生まれて、プラハで学生生活を送り、パリに出て天文学者になり、モンブラン山頂の測候所での天体観測、中央アジアやブラジルでの日食観測、ポリネシアのタヒチ島でのハレー彗星観測など、野心家でスタイリストでもあったらしい彼が、フランス帝国の学術活動の一翼を担いながら、世界中を股に掛けている姿が写し撮られている。
1914年に第1次世界大戦が勃発すると、フランス軍の飛行パイロットとして志願し、のちにはT・G・マサリクやE・ベネシュとともに、チェコスロヴァキア独立運動の主要メンバーの1人として、アメリカ合衆国やイタリアやシベリアで、チェコスロヴァキア軍団組織のために尽力したが、チェコスロヴァキア独立後の1919年5月、イタリアからブラチスラヴァに凱旋帰国する際、着陸直前に飛行機が墜落して死亡するという文字どおり波瀾万丈の生涯である。
意外なことに(当時のぼくにはそう思えたのだが)その『写真集』には、日本で撮影された2枚の写真が収められていた。日本とフランスの国旗が交叉され、菊の鉢植えで飾られた和風の建物の前での、11人の人物の記念撮影【写真1】と、和風の庭園に佇む同一人物たちのスナップ写真【写真2】で、明らかに同じ時に同じ場所で撮影されたものである。写真の写りは非常に鮮明で、下段には「横浜−1918年11月−シベリアのチェコスロヴァキア軍への旅の途上で、日本の将校たちを訪問するシチェファーニク将軍とジャナン将軍」という同一のスロヴァキア語のキャプションが添えられていた。
この2枚の写真に出会ったことが直接のきっかけになって、ぼくはシチェファーニクの生涯、とくに1918年(大正7年)10月−11月の日本滞在期のことを調べはじめた。さきに述べたような事情からスロヴァキア国内では、彼に関する文献資料は公式のルートを通してはほとんど入手できなかったので、ブラチスラヴァの古本屋に勤める友人の「コネ」を利用したり、西側の古書店(旧西ドイツにはチェコスロヴァキアの古書を扱う専門店があった)を経由して手に入れた。1981年春に帰国してからは、当時の日本の新聞などにも、復刻版やマイクロフィルムで目を通した。
シチェファーニクの日本滞在に関する資料を検討しはじめると、じきにひとつの謎に突き当たった。「横浜−1918年11月」という『写真集』のキャプションが、腑に落ちないのである。彼の日本における1か月の足取りは、同行した副官F・ピーセツキーの日記と、フランス軍事使節団長M・ジャナン中将の回想録の記述によって、ほぼもれなく再現できるのだが、それによるとシチェファーニクが横浜に立ち寄ったのは、日本に到着した当日の10月12日と、静養のために箱根宮ノ下に赴く途中の10月20日、そして遅れて到着したジャナン中将一行を出迎えた10月24日の3回だけで、11月に彼らが横浜を訪れたという記録は見当たらないのである。
とはいえそれ以上の手掛かりをつかめないまま、1989年秋に、チェコスロヴァキアで社会主義体制が崩壊する様子を報じるニュースを聞きながら、ぼくはそれまでの調査結果をまとめて、「ミラン・ラスチスラウ・シチェファーニクの日本滞在−1918年秋−」(『共同研究 ロシアと日本』第2集、1990年)という論文を書いた。その際、問題の記念写真【写真1】をイラストとして掲載し(この写真をぜひ日本の読者に紹介したかったのだ)、『写真集』のキャプションにある「日本の将校たち云々」という個所から推測して、「フランス軍事使節団一行と日本の将校たち。撮影の日時と場所は不明だが、10月31日の参謀本部主催の晩餐会の折のものと思われる」というコメントを付けた。さらにさしあたり特定できる人物として、「前列左から3人目がシチェファーニク、1人おいてジャナン、右端が副官ピーセツキー」と記しておいた。
社会主義体制が崩壊したあとスロヴァキア国内では、シチェファーニクの歴史的復権プロセスが堰を切ったように進行した。彼はふたたび「20世紀最大のスロヴァキア民族の英雄」として遇されるようになり、生涯を扱った伝記や研究書が、復刊されたり新たに出版された。そのなかには、問題の記念写真をイラストとして使ったものも何冊か見受けられたが、いずれも「横浜−1918年11月」という『写真集』のキャプションを、そのまま使っていた。ぼくは歯がゆかったけれど、いつどこで撮影されたのか、特定できているわけではなかったので、黙っているほかはなかった。
その後しばらくの間、この謎は解かれないまま、懸案としてぼくの心の片隅に蟠っていたが、1998年9月にブラチスラヴァを訪問した際、思いがけず解決への糸口をつかむことができた。ぼくはこの時はじめて、町の郊外の丘の上にあるスロヴァキア国民文書館を訪れて、M・R・シチェファーニク文書の資料を閲覧したのだが、幸いこの文書については、詳細な『ミラン・ラスチスラウ・シチェファーニク 1859−1947年 目録』が作成されていて、目的のファイルをたやすく特定して閲覧することができる。その第VIII部「写真とアルバム」の日本関係のファイルのなかに、『写真集』で見慣れた2枚の写真と、さらに初見の写真3枚が収められていたのである。
問題の記念写真は大小2種類あって、大型のほうの写真の裏側には、「横浜−日本−1918年11月 シベリアのチェコスロヴァキア軍への旅の途上で、日本の将校たちを訪問するシチェファーニク将軍とジャナン将軍」という手書きのスロヴァキア語のコメントが読み取れた(『写真集』のキャプションは、おそらくこのコメントに基づいて付けられたと推測されるが、なぜ「横浜」という地名が書き込まれたかは不明である)。
もう1枚のほうは、その写真をもとに作成された絵はがき【写真3】で、下欄にはフランス語で「チェコ・スロヴァキア軍司令官M・ジャナン将軍とステファン(ママ)将軍およびその随員のイナバタ家訪問」、日本語で「チヱコヲ、スロヴアク軍總司令官ジヤナン將軍一行稻畑邸訪問」というキャプションが読み取れる。絵はがきの裏面には手書きのフランス語で、「ステファン(ママ)将軍閣下宛て」と書かれ(ただし切手は貼られておらず、実際に使用された形跡はない)、次のようなフランス語の文面が印刷されていた。−「稲畑氏とその家族は、謹んで貴殿に1919年への最良の祈念と、あわせて連合軍の栄光ある勝利への衷心からのお祝いの言葉をお伝えし、そしてこの知らせが、あらゆる種類の幸福と繁栄をもたらすことを祈願しています。大阪 1919年1月」
初見の写真3枚も、やはり同じ時に同じ場所で撮影されたものであることは明らかだった【写真4】【写真5】【写真6】。とくに面白いのは、ジャナンとシルクハット姿の正装した小柄な日本人男性が、池を背景にして並んで写っている写真である。構図と背景から判断して、和風の庭園に佇む一行のスナップ写真【写真2】は、この写真【写真4】を撮影している場面を、さらに横から撮影したものらしい。初秋の文書館の人気のない閲覧室で、ぼくは思いがけない発見の連続に、心の高ぶりを抑えることができなかった。
「稲畑」と「大阪」というふたつの固有名詞が手掛かりになって、この一連の写真が、ジャナンとシチェファーニク一行が、関西に滞在した際に撮影されたらしいことがわかった。ジャナンの回想録の11月9−11日の項目に、「上原男爵〔当時の陸軍参謀本部参謀総長上原勇作のこと〕は私〔ジャナン〕に、自分の友人の稲畑氏を紹介してくれた。氏は大阪の商業会議所副会長で、アリアンス・フランセーズ〔1883年に創立されたフランス語普及機関〕の熱心な会員である」という一節があったのを思い出したのである。帰国後にふと思いついて、手元にある『海を越えた日本人名事典』(日外アソシエーツ、1985年)を引いてみると、「稲畑勝太郎」という項目があり、その生涯についての記述から判断して、この人物である可能性が大きい。
同項目の文献リストで、高梨光司編『稻畑勝太郎君傳』(稻畑勝太郎翁喜壽記念傳記編纂會、昭和13年)という本(以下『伝記』と表記)の存在を知り、しかも幸運なことにその本は、ぼくが勤めている早稲田大学の中央図書館に所蔵されていた。さっそく借りだして、その分厚い本を繙いてみると、驚いたことに問題の記念写真が、「ジヤナン將軍招待會(大正七年十一月十日和樂庵に於て)」というキャプションとともに掲載されているではないか【写真7】。同一の写真がほぼ同じ時期に−『写真集』は1936年、『伝記』は昭和13年(1938年)−、世界の西と東で、まったく違ったコンテクストで使われていたことになる。さらに『伝記』には、ブラチスラヴァの文書館で見つけたのと同一の、2人が並んだ写真が、「ジヤナン將軍と稻畑君」というキャプションとともに掲載されていた【写真8】。『伝記』の本文中の記述から、一行の和楽庵訪問をめぐる詳しい経緯も明らかになってきた。
2000年10月中旬、ぼくは「南禅寺の和楽庵」というあいまいな知識をたよりに、京都に調査旅行におもむいた。当てにしていた京都府立総合資料館は、あいにくなことに改装工事中で閉館していたが、代わりに赴いた中京区の京都市中央図書館で、『京都日出新聞』のマイクロフィルムを閲覧することができた。そして大正7年(1918年)11月11日付けの紙面で、上述の『伝記』の記述のもとになったと思われる詳細な記事「ヂヤナン中將、日本の武を激賞す、稻畑邸に於ける歡迎宴」を見つけたのである。この記事の原文は、拙論「ミラン・ラスチスラウ・シチェファーニクの日本滞在−再論」(『異郷に生きる――来日ロシア人の足跡』、成文社、2001年)に引用しておいたので、ここではその現代語訳を試みることにしよう。−
チェコ・スロヴァキア軍団のフランス人司令官ジャナン中将の一行は、〔11月〕10日の午前中、陸軍参謀本部から特別に派遣された接伴官渋谷伊之彦少佐の案内によって、琵琶湖に遠出した。その後午後4時から稲畑勝太郎氏の招待を受けて、南禅寺にある稲畑氏の別邸和楽庵に赴いた。この記事の末尾で述べられている「東屋の前での記念撮影」の結果が、問題の記念写真であることはもう言を待たないだろう。翌12日付けの『京都日出新聞』の記事「藝妓(げいしゃ)は厭(いや)! 乃木式のヂヤナン將軍」には、将軍が「日仏の国旗を交叉した東屋の前庭で、『日仏友好を実現しましょう』と稲畑氏の令嬢が願ったので、彼女の手を握つて記念撮影をした」という一節があるが、上述の記念写真には、たしかに交叉された日仏の国旗が写っている(ジャナンと令嬢が手を握りあった写真については未見)。ホスト役の稲畑氏は、燕尾服にフランスのレジオン・ドヌール勲章やそのほかの勲章を付けた正装の姿で、令嬢とともに出迎えた。背が高く太っていて威風堂々としたジャナン中将は、藍色の軍服を着て、赤に金筋の入った軍帽をかぶり、シチェファーニク少将〔ほんとうは准将〕以下の随員たちとともに、まず屋敷のなかの洋館に案内された。応接室のまわりに陳列してあった徳川時代の武具や、数百年前にスペイン人やポルトガル人などのキリスト教徒が到来した当初の絵巻屏風、そのほかの絵画を鑑賞したあと、ジャナン中将はテーブルの上に備えてあった来賓簿に、稲畑氏の依頼によってペンを走らせ、「稲畑君の友情のこもった招待にたいして、心底から感謝の気持ちを表明する。チェコ軍団司令官ジャナン中将」とフランス語で署名したあと、かたわらの食堂に入った。食堂の壁には、ルイ13世時代の1629年にフランスがオランダを攻略した当時の光景と、同年の英仏戦争の光景を描いた絵画が掲げてあったが、ジャナン中将は「これは珍らしい」としみじみ眺めてから、食堂のテーブルについてグラスで乾杯し、日仏交流の盛んな宴会がはじまった。
席上、稲畑氏は、「同盟国の中将閣下をお迎えすることができて、一家の光栄です。わが国は貴国フランスとともに人道と正義と権利のために戦いました。この間貴国は多くの犠牲者を出し、国民ともどもご苦労を味わわれましたが、いまや流された血は一滴といえども無駄にならず、敵国ドイツが降伏する時が迫っているのは、まことに喜ばしいことです」という意味の歓迎の言葉をフランス語で述べてから、グラスを挙げてジャナン中将一行の健康を祝した。
すると中将は立ち上がって、「人道のために、長期にわたって悲惨な戦争が続きましたが、いまようやく究極の目的を達成する時期が近づきつつあります。そうした事態になったのは、日本のような有力な国家が、連合国の一員として参戦したからにほかなりません。私がフランスから極東に渡航するにあたって、地中海では多少の危険を感じましたが〔拙論でも指摘しておいたが、使節団一行の乗船地は大西洋沿岸のブレストなので、地中海は航行していないはずである。なにかの勘違いであろうが、納得が行かない話である〕、地中海以東〔以西の誤記か〕は、大西洋と太平洋を横切って航海しましたが、ごくわずかの不安も感じることはありませんでした。これは有力な日本海軍のおかげにほかならず、この一事をもっても、日本がいかに世界平和に貢献しているかを、あますところなく証明しています。ことに稻畑家は、多くのフランス人が知っているもっとも親しい友人として、ここにわれわれを歓迎してくださったのは、日本各地においてさまざまな厚遇を受けたなかでも、もっとも愉快なことです」と感謝の答辞を述べ、一同は打ち解けて、談笑しながら時を過ごした。
それから一行は稲畑氏の案内によって、折からの紅葉でいっそう風情を増した庭園に降り立ち、園内を散策して庭園と池の美しさを観賞した。庭園の一隅にある東屋の前で記念撮影をしたあと、日本風の大広間で質素な日本料理の晩餐にあずかり、一同で歓談したあと、ジャナン中将一行は午後9時頃に辞去した・・・
ちなみにこの記事には、写りは不鮮明だけれども、ジャナンと稲畑が並んだ写真が、「和樂庵に於けるジヤナン將軍(傍に立てるは稻畑勝太郎氏)」というキャプションとともに掲載されている【写真9】。これまで知られている同種の写真(【写真4】と【写真8】)とはじゃっかんポーズが違うが、この撮影場面を撮った【写真2】をよく見てみると、左端の松の幹の向こうに3台の写真機が写っている。おそらく新聞社のカメラマンと稲畑家に雇われた写真屋が、ポーズをとる2人をべつべつに撮ったものなのだろう。
さらに京都市中央図書館の書架で見つけた『京都大事典』(淡交社、昭和59年)の記述から、「和楽庵」が現在では「何有荘」と名前を変えていることを突きとめ、詳しい住居表示地図で位置を確認してから、翌日に南禅寺近くの同荘に足を運んだ。何有荘は、三条通の蹴上から南禅寺に通じる閑静な脇道に面していて、一般公開はされておらず、門は閉ざされていた。事前の連絡もせず紹介状も持っていなかったのだが、いくつかの幸運な偶然が重なって、現在同荘を管理しておられる大山進氏と面識を得ることができた。
そして日を改めて11月19日、ぼくはふたたび上洛して何有荘を訪れ、荘内を拝見させていただくことができた。20年来写真を通して見知っていた庭園と建物が、80数年前とさほど変わらない姿を現したときには、目眩に似た感覚を味わった。折よく紅葉の時期に重なり、ジャナンとシチェファーニク一行がここを訪問した11月10日よりすこし遅れたとはいえ、彼らが愛でたであろう見事な紅葉とともに、その現状を写真に収めることができた【写真10】。同荘の庭園は、明治28年(1895年)に有名な造園家小川治兵衛(植治)の手によって造られた由緒あるもので、晩秋の午後の静寂のなかに、ゆったりと時を刻んでいた。
さらに庭園のめだたない片隅に、問題の記念写真が撮影された東屋を見つけた時の感慨は、ひとしお大きいものだった。大山氏のお話によると、この東屋は平成3年(1991年)に補修されているとのことだったが、ぼくの目には、当時の面影をほぼそのまま残しているように見えた【写真11】。とくに戸口の上に掲げられた扁額の文字の一致が、80数年前に記念写真が撮られた場所が、まちがいなくここであったことを証言している【写真12】。
さて最後に残されたのは、この記念写真に写っている人物を特定する作業であろう。すでに述べたように、前列左から3人目がシチェファーニク、1人おいてフランス軍事使節団長ジャナン中将、そして右端の人物が、シチェファーニクの副官ピーセツキーであることは、以前からわかっていた。さらに京都への調査旅行で得られた資料から、前列左から2人目の軍帽を膝に置いた日本の軍人が、陸軍参謀本部から特別に派遣された接伴官渋谷伊之彦少佐、左から6人目のシルクハットを手にした正装の人物が、ホスト役の稲畑勝太郎であることが確認された。
しかしほかの3人の日本人(中央に座っている女性と、後列で立っている洋服姿と和服姿の2人の男性)の正体がわからない。女性については、稲畑夫人のトミ(登美子)ではないかと推測していたが、先に引用した新聞記事のなかに、2カ所にわたって「令嬢」という言葉が出てくることが訝しく思われた。
そこで思い立って、インターネットを使って「稲畑」をキーワードにして情報を検索したところ、稲畑産業株式会社(稲畑勝太郎が創立した会社の現在の名称)のホームページに行き着いた。思い切って事情を説明するEメールを差し上げたところ、幸運にも折り返しご返事をいただき、今年2月8日に大阪の長堀橋にある本社にお邪魔することになった。担当者の方々(片岡忠克氏、児島東亜輝氏、嶋仲潤氏)は、ぼくの勝手なお願いに快く耳を傾けて、稲畑勝太郎に関するさまざまな資料を見せてくださり、記念写真の人物の特定には、会社の貴重な写真資料を使って協力してくださった。
その結果、座っている女性が稲畑勝太郎の長女きくであること(これは新聞の記述とも符丁があう)、その上の和服姿の男性は、きくの夫(勝太郎の娘婿)の稲畑二郎であることが判明し、もう1人の洋服姿の男性は、おそらく勝太郎の次女鞠子の夫である松本虎吉らしいということになった。つまり彼らはみな、稲畑勝太郎の親族であったのである。ちなみに稲畑きくは長寿を全うされ、1990年までご存命だったとのこと、もうすこし早くこうした事情が判明していれば、写真をお見せしながらシチェファーニクの印象などを直接に伺うことができたかもしれなかった。心残りなことである。
さらに驚いたことに担当者の方々は、稲畑家所蔵の古い『芳名録』のなかから、ジャナンとシチェファーニク一行が記帳したページを捜し出してくださった【写真13】。そこには、「稲畑氏の親切な持てなしに、心底から感動しました。1918年11月10日 M・ジャナン将軍 チェコ スロヴァキア軍司令官」という意味のフランス語の寄せ書きが、鮮明に読み取れるが、これは『京都日出新聞』の記事中の、「稲畑君の友情のこもった招待にたいして、心底から感謝の気持ちを表明する。チェコ軍団司令官ジャナン中将」という記述にほぼ重なっている。
その下には「M・R・シチェファーニク将軍」「〔おそらく〕Fer・ピーセツキー大佐」「G・フルニエ少佐」「Fr・ファビアン中尉」「ダニエル・レヴィ少尉」という順に、名前だけのサインも読み取れる。大阪でシチェファーニクの直筆のサインを目にする機会があるとは思っていなかったぼくは、彼の特徴ある肉太の筆跡を見たとき、心の高ぶりを抑えることができなかった(ちなみに「右 一九一八年十一月十日 ジヤナン将軍ステファニ(ママ)将軍」と書かれた日本語の付箋は、かなり昔のもののようだ。こうなると、これも資料の一部と見なすべきなのだろう)。
この連名のサインから、記念写真に写された人物のなかで、最後まであいまいだったフランス軍事使節団の3人の随員の名前も、確定することができた。軍服から判断すると、前列左端の人物はおそらくフルニエ少佐、後列の2人がファビアン中尉とレヴィ少尉であろう。
これまでの探索の結果をまとめて、【写真1】にたいする正確なコメントを作成すると、次のようになる。−「京都−1918年11月10日−関西の有力財界人稲畑勝太郎の別邸和楽庵を訪問するフランス軍事使節団一行−前列左から、おそらく使節団随員G・フルニエ少佐、接伴官渋谷伊之彦少佐、M・R・シチェファーニク准将、稲畑きく(勝太郎の長女)、使節団長M・ジャナン中将、稲畑勝太郎(株式会社稲畑商店社長)、副官F・ピーセツキー、後列左から、使節団随員のFr・ファビアン中尉かD・レヴィ少尉、おそらく松本虎吉(勝太郎の娘婿、次女鞠子の夫)、ファビアン中尉かレヴィ少尉、稲畑二郎(勝太郎の娘婿、きくの夫)」
まだいくつか残っている不明な点を、今後の課題として保留しておくことにすれば、M・R・シチェファーニクの記念写真の謎を発端に、20年前にブラチスラヴァではじまった探索の輪は、巡りめぐって京都と大阪で、いちおう閉じられたと言っていいと思う。