ゴールドスミスの『ウェイクフィールドの牧師』は、『家庭教育 園之咲分』と題されて、一八八九年(明治二十二年)に植木貞次郎(泰東居士)によって、初めて和訳・刊行された。そして早くも同年(もしくは翌年)十一月の雑誌「日本人」に、荻村段山なる人物が、この翻訳に対する論評を発表している(「ヴァイカー、ヲヴ、ウェーキフィールド翻訳批評」)。
段山は原文に忠実に訳すことが翻訳の絶対条件であることを、次のような表現で主張している。「亦如何に華やかの訳文なればとて原書の意に悖れるをばよき訳文とは言はれまじ。原書の意を落ちなく写しその文の綾を等しく織りたるをこそよき訳文と言ふなんめれ。」(『明治翻訳文学全集13』)
泰東居士の翻訳に対する段山の批判は厳しく辛辣である。誤訳や省訳(本来訳すべき個所を省くこと)が断罪されることは無論であるが、殊更激しく糾弾されるのは、不要な冗句である。「熟読すれば自然に感ずる余情」を読者に理解させるために、泰東居士は不要な冗句を付加しており、それはたとえ親切心からであれ、原文の真価を損なう結果をもたらす、と段山は非難する。「(ゴールドスミス氏の)文は千回読むとも倦むことなし。然るを居士は冗句を挟んで意匠の味を捨てたり。」泰東居士の訳文の所々が俎上に載せられ、批判の刃を浴びる。その挙げ句に段山は、「読者眼を光らせて下の両文を対照せよ」として、泰東居士の訳文と自分の訳文とを対置する。
段山が選んだ訳文はバラード「隠者」であるが、それは本来「エドウィンとアンジェリナ」という名称を持つ独立したバラードであり、ゴールドスミスが後になって『ウェイクフィールドの牧師』に挿入したものである。全体は四十連から成り、各連の押韻は四行弱強格で、脚韻はa b a b ( 4 3 4 3 ) 型で統一されている。この韻文を訳すにあたって、泰東居士は地の散文を訳す時と区別して、一応詩文としての形式を与えてはいるのだが、本格的な詩形を持たせてはいない。それに対して段山の訳は各連が七五調の四行で形成されており、日本語の詩形が厳格に保たれている。
そなたと比翼一心に 浮世の萬慮みな捨てん
命にかはらぬ恋人よ 二世を誓ふて共白髪
今より臥所ともにして 愛想かわらず添ひ途げん
そちの変らぬ胸の息 絶へばわれのも亦絶へん
この部分の泰東居士訳は次のようになっている。
蘇生れるをおもはへや 左れば浮世の憂事は 最早心に留め置くな 汝が切なる心情を 思ひ出しては中々に 此エドウィンが胸の中 張り裂く如き心地ぞする 以来の互ひに相愛の情は千萬年を経るも 比翼の誓ひ変るまじ 比翼の誓ひ換らざれ
最終二連の訳例だけから見て明らかなように、段山の訳は詩形を厳格に守りつつ、しかも日本語として非常に洗練された表現が施されている。形式面からしても、内容の把握の正確さからしても、段山の訳が泰東居士のそれに勝っていることは、衆目の一致するところであろう。段山の筆さばきからは、剣に代えてペンを手にした古武士のような、鋭い切れ味を看取できるのである。
ゴールドスミスによるこのバラードを、ロシアではジュコフスキーが一八一二年に訳している。彼は原詩の形式をそっくり踏襲しつつ、韻律と脚韻をロシア語の詩として完成した姿に置き換えている。自由訳を好んだ初期のジュコフスキーにしては珍しく、逐語訳に近い訳である。小さな一巻本の選集にも収録されており、彼の代表作の一つとみなされている。
さて、このジュコフスキーの訳を、荻村段山が読んだらどう評価したであろうか。おそらく段山は「得たり!」などと口走り、一瞬微笑んで、若きロシア人の訳を攻撃したものと思われる。ジュコフスキーはヒロインの名前をアンジェリナからマリヴィナへと変えてしまっているし、また、「タイン河」と日本語で訳されている川の名前も、完全に無視してしまっている。さらにジュコフスキーの訳には、段山が言うところの不要な「冗句」があちこちに散りばめられている。それだけではない。誤訳ではないか、と推定される個所も、どちらかと言えば、ジュコフスキーの訳に多く見出されるように、私には感じられる。俎上のジュコフスキーは、泰東居士と同様、全身傷だらけにされたかもしれない。段山の訳はそれほど見事なものに思えるのである。
いつもいとしきアンゲェリナ よく見よわれの迷はし手
久しく亡せしエドウィンぞ 恋しき御身へ還り花
最終から三連目のこの訳は、掛詞がぴったり決まっている例だが、この連に見られるように、全編が見事な七五調で統一されていて、しかも定型詩特有の古くささを感じさせない。何か新鮮なのである。原文のニュアンスの把握の仕方においても、段山の訳はジュコフスキーの訳に多くの個所で勝っているように、私には思われる。異なる言語に訳された文章の優劣を競うことにはさほどの意味はなかろうが、童心に還り、遊び心でどちらかを選ぶとすれば、私は段山の方に軍配を上げる。明治期の日本人は、西洋文化の受容において、文字通り粉骨砕身の努力を払っていたのであろう。
日本とロシアは西欧文化の受容に邁進する一時期を各々持ったのであるが、その受容の際にそれぞれの国民性が発揮されたものと思われる。日本では精確で几帳面な性格が、そしてロシアでは荒削りで大らかな性格が。段山とジュコフスキーの翻訳の違いは、このような観点から、ある程度は説明ができるのかもしれない。しかしいずれにしても、生涯を翻訳活動に捧げたジュコフスキーを、この訳文一点をもって敗者と決めつけることは、あまりにも不公平である。ジュコフスキーの訳は晩年になるにつれて自由訳から離れ、正確な訳へ傾いていったとされるが、彼の翻訳活動の全体像に近づき、翻訳観の変遷を調べることは、様々な意味で興味深い。段山から発せられたであろう非難と詰問に、ジュコフスキーはどう対応したのであろうか。答は彼の書物に見出すこととしよう。