キエフ・ルーシ史をどう見るかについて、これまでロシア(およびソヴィエト)とウクライナの視点がとくに激しく対立していた。十七世紀、とくに十八世紀以来ウクライナを支配下においてきたロシアの歴史家は、キエフ・ルーシの歴史がモスクワ大公国、ついでロシア帝国によって引き継がれたと主張した。ロシア国家はキエフ時代に成立して以来一貫して健在であり(一時モンゴルの支配下におかれはしたが)、ただ政治的中心がキエフからウラジーミル(クリャジマ河畔の)へ、そしてモスクワ、さらにペテルブルクへ(そしてロシア革命後再度、最終的にモスクワへ)と移ったに過ぎないと考えられたのである。近代において東スラヴ人として独立の国家を有したのがモスクワ大公国そしてロシア帝国だけであったという事実がこうした見方を裏づけていると考えられた。 一方、十四世紀からこの地域に支配権を及ぼしたポーランド(ガーリチ/ガリツィアに対し)とリトアニア(ヴォルィニに対し)も、十六世紀には合同国家を創設して(ポーランド共和国)、ウクライナを版図に収めたが、そのポーランドの歴史家も、独自の立場を主張した。かれらはキエフ・ルーシ文化の高い水準を承認する一方で、それをウクライナ人固有のものとはみなさず(ウクライナ人はまだ独自の民族、そして政治単位を形成するに至っていなかったとされたのである)、むしろその後停滞したウクライナに対するポーランドによる文明化の働きかけ(ミッション)を強調し、ウクライナへの自らの権利を主張したのである。その後民族的に覚醒したウクライナ人がこうした見方に激しく反発したことは言うまでもない。その一端はすでに本書序においてみたとおりである。かれらはキエフ・ルーシの時代からウクライナ人が独立の民族(民族体)であり、国家を形成(国家性を獲得)したこと、それはポーランドやロシアの圧力に屈しはしたものの、とくにカザーク(コサック)国家において独自の存在を保持したことを主張した。ウクライナ民族主義の主張のひとつの典型は十九世紀ウクライナの歴史家、作家でもあるM(N・I)・コストマーロフにみられる。かれは個人主義的で連邦制を志向するウクライナ人を、集団主義的で厳格な君主制(専制)を好むロシア人に対峙させる一方、貴族主義的ポーランド人に対しては、民主的で平等性を志向するウクライナ人を対峙させ、ウクライナ民族の自立性と独自性を主張したのである。 ソヴィエト史家の立場にもふれておく必要がある。少なくとも初期のソヴィエト史家は帝政期のロシア史家とは異なる態度を取っていたからである。かれらは、東スラヴ三民族の同質性と一体性を強調しながらロシア帝国によるウクライナ併合を正当化した帝政期の歴史家を批判して、ウクライナ民族の独自性を承認し、ロシア民族と対等の権利を謳ったのである(こうした立場からかれらは「小ロシア」の語の使用を避けるという配慮をした)。しかしソヴィエト史家にとって、西方あるいは南方からの侵略者(ドイツ、オーストリアやポーランド、あるいはトルコ)がウクライナを狙っているという状況下では、これをソヴィエト連邦下に「自治的な存在」として組み込んだ方がよいと考え(いわゆる「より小さな悪」の考え方)、結局は帝国時代と同様の事態の再現、モスクワによるより強力な支配の実現を是認したのであった。 以上のように、キエフ・ルーシの遺産と歴史を引き継いだのはどの民族かについて、とりわけロシア人とウクライナ人の間には厳しい見解の対立があった。J・ペレンスキの表現を借りるならば、両民族間に「キエフの遺産」の継承をめぐり熾烈な「競争」が繰り広げられてきたのである。本書の著者は、こうした論争が激化した背景に、双方の側に残念ながらひとつの大きな誤解があったと考えている。キエフ・ルーシの相続権を今日いずれか特定の国家ないし国民が独占的に要求することができると考えること自体が、おそらく正しくないのである。現在のウクライナ人も、ロシア人も、その多くが、キエフ時代に形作られた、キリスト教を核とする文化を自身の価値観の根本をなすものとみなしている。であるならば、それぞれにそれなりの権利があるというべきであろう。もちろんそのことが政治的主張とまったく別個のものであることは指摘するまでもない。 キエフ・ルーシはその豊かな歴史的遺産をもって、その価値を尊重しようと思う者すべてにとって等しく開かれているのである。 (「結語」より) |
序 本書のねらい
第一章 キエフ・ルーシという国
第二章 初期ロシア史に関する史料と「ルーシ」
1『ロシア原初年代記』あるいは『過ぎし年月の物語』について
2 ヨーロッパ史料における「ルーシ」
補論1 ルーシ諸公の称号「カガン」と「クニャージ(公)」について
補論2「ヴァリャーギ招致伝説(物語)」について
第三章「ルーシの洗礼」以前のキリスト教(1)
1 聖アンデレ伝説および初期の諸情報
2 キュリロス─メトーディオスとルーシ
第四章「ドイツからハザールへの道」上のルーシ
1 ルーシと西方諸地域──『原初年代記』における「チェヒ」、「リャヒ」
2 「ドイツからハザールへの道」
第五章 オリガの洗礼──「ルーシの洗礼」以前のキリスト教(2)
1 摂政オリガ
2 オリガの洗礼
3 オリガとスヴャトスラフ
第六章 ヤロポルク・スヴャトスラヴィチ公(九七二─九七八年)
第七章 ウラジーミル・スヴャトスラヴィチ公と「ルーシの洗礼」
1 キエフへの道
2 治世初期のルーシと国際環境(九七〇年代末─九八〇年代)
3 「ルーシの洗礼」
第八章「呪われた」スヴャトポルクとヤロスラフ「賢公」──大公位継承争いと「ボリス・グレープ」崇拝の成立
1 ウラジーミル没後の状況
補遺 『エイムンド・サガ』──要約とイリインの解釈
2 ボリス・グレープ崇拝の成立
第九章「賢公」ヤロスラフ・ウラジーミロヴィチ
1 ヤロスラフによる単独支配の樹立
2 ヤロスラフ「賢公」
補論1 ビザンツ・ルーシ関係をどうみるか──ルーシ「従属国家」論について、またロシアに対するビザンツの影響の問題をめぐって
補論2 初期ルーシにおける記述文化の普及をめぐる問題
第十章 ルーシと西方諸国
1 ルーシとスカンディナヴィア
2 ヤロスラフと西方諸国──ヤロスラフの「婚姻政策」と外交
3 ヤロスラフ後の事例──ドイツ皇帝ハインリヒ四世とキエフ大公フセヴォロド・ヤロスラヴィチの娘エウプラクシヤとの結婚
補遺 キエフ・ルーシ諸公家の外国諸家門との姻戚関係(表と解説)
第十一章 ヤロスラフ後のルーシ
1 ヤロスラフの「遺言」と子らの世代
2 ヤロスラフの孫の世代──リューベチ諸公会議(一〇九七年)とその後
3 ウラジーミル・モノマフの時代
補論 ヤロスラフの「遺言」の歴史的意義──「共同領有制」および「年長制」の問題をめぐって
第十二章 一〇五四年と一二〇四年──離間するルーシと西方世界
1 東西両教会の分立とルーシ
2 十字軍とルーシ
3 ルーシからの「聖地」巡礼とその終焉
結語
付録
(1)地図 (2)系図
あとがき
文献一覧
索引
栗生沢 猛夫(くりうざわ たけお)
1944年岩手県生まれ。北海道大学名誉教授。
著書:『ボリス・ゴドノフと偽のドミトリー──「動乱」時代のロシア』(山川出版社、1997年)、『タタールのくびき──ロシア史におけるモンゴル支配の研究』(東京大学出版会、2007年)、『図説 ロシアの歴史』(河出書房新社、2010年)、『イヴァン雷帝の『絵入り年代記集成』──モスクワ国家の公式的大図解年代記研究序説』(成文社、2019年)、『『絵入り年代記集成』が描くアレクサンドル・ネフスキーとその時代』(成文社、2022年)、『世界の歴史(11)ビザンツとスラヴ』(共著:井上浩一、中央公論社、1998年/中公文庫、2009年)
訳書:А・Я・グレーヴィチ『歴史学の革新──「アナール」学派との対話』(吉田俊則と共訳、平凡社、1990年)、R・G・スクルィンニコフ『イヴァン雷帝』(成文社、1994年)、モーリーン・ペリー『スターリンとイヴァン雷帝──スターリン時代のロシアにおけるイヴァン雷帝崇拝』(成文社、2009年)