虎食い人と人喰い虎
話がややバイコフを離れるが、お許し願いたい。先月9日のことである。フジテレビは「強力!木スペ120分、世界の超豪華・珍品料理パート15」なる番組を放映した。内容は、いわゆるタレントなる人種が世界各地でこれでもか!!!とばかりに珍しい豪華な料理を食べて見せる趣向。もちろん、筆者はこんな番組を見ているほど暇ではない。あとの騒ぎで、事後的にその番組について知ったに過ぎない。ことの次第はこうである。三人の出演者が、中国でベンガル虎の「広東風肉炒め」に舌つづみを打ったというのである。この場面に関連して、視聴者からたくさんの疑問や抗議の電話がかかったらしい。そして、虎保護キャンペーンを行なっているWWF(世界自然保護基金)日本委員会も当然ながら抗議した(ご参考までホームページを。http://wwfjapan.aaapc.co.jp/tora/tora0300.htm)。「以後気をつけます」と云いながら、抗議電話に対する同テレビ局広報局長の弁解が、また突拍子もない。いわく「食べるために殺したわけではない。中国では昔、不老長寿の薬としてトラを食べたといわれ、その風習を再現した。ギリギリ許される範囲ではないかと思う」というのだ。中国の昔の風習を再現する名目で、虎を食べさせる。では、各人各国がそれぞれの名目と理屈をもうけ、ギリギリ許される範囲と勝手に判断して虎を次々と殺害したらどうなるか。5000頭しか残っていない虎は、明日にでも絶滅することは目に見えている。しかも、この番組は民俗学や人類学、歴史学のまじめな番組とは、わけが違う。バラエティー番組なのだ。その番組の中では、「超豪華・珍品料理」の対象として虎が位置づけられている。めったに食べられない珍しい虎料理、という触れ込みである。こういうのを、昔から先人は「盗人の論理」としてきた。ここで幅を利かせているのが、最近「幽霊のように世界を一人歩きしている」(マルクスの『共産党宣言』の有名な冒頭の書き出し)市場の論理である。やや意味が狭くなるが、昔の風習を再現して、「資本の論理」とも表現できる。もっと分かり易いスローガンに置き換えると、儲けがすべてあとは野となれ山となれというわけだ。モラルハザード、つまりカネ儲けのためには道学者なんかくそ喰らえ!の本音が見え透いている。それにしても「ヤラセ」に悪のりして、食べるほうも食べるほうであろう。知性も品性も欠きながら暇とカネだけはある醜い一部の日本人たちが、カネに任せて世界をのし歩くさまは顰蹙(ひんしゅく)ものである。 話をもっと複雑かつ怪奇にしているのは、その同じフジ・関西テレビがなんと6月28日に、「シベリアタイガー・厳寒の森に生きる」と銘打って、絶滅の危機にあるトラを撮影した番組を放映していることである。それも、関西テレビ開局40周年記念番組として企画され、大々的な宣伝のもとに行われたのだから念が入っている。その直後の「広東風トラ肉炒め」! 同じテレビ局における、企画の矛盾と食い違いは、腑に落ちない。これぞ「弱肉強食」、まさしく「人を食った話」というべきか。
窮虎ヒトを噛む
いささか横道が過ぎた。前回予告した本来の話題、つまり虎が人間を食べる話題に戻ろう。すでにこれまでに書いてきたように、虎が人間を襲うケースが増える背景には、捕食機会(食糧事情)の悪化が横たわっている。そして虎の好む野生動物の減少(食糧難)は、人間による森林の伐採と関係がある。そうでない例も、もちろんある。国際政治がらみ、スパイ小説もどきのエピソードが残っている。
古い資料だが『満蒙時報』という雑誌の昭和10年5月号に、こんな記事がある。時は日露戦争前夜のこと、そして場所は大連。当時極東総督の任にあったのは皇族のアレクセーエフ将軍で、その総督官邸に秘匿されていた極秘軍事地図が紛失した。厳重な詮議がなされ、嫌疑は総督が妾にしていた安藤テルなる日本人女性にかかった。結局、彼女はスパイとして処刑されることになったが、処刑方法に虎が使われたというのだ。その頃の大連にダーリニー(大連のロシア呼び)公園というのがあって、一隅に檻に入れた虎が飼われていた。その檻に安藤テルを投げ込んで食べさせたというのだ。この逸話の真偽のほどは定かではないが、公園の存在と虎が飼われていたことだけは確からしい。その虎は死語剥製となって、大連のさる日本人尋常小学校に標本として飾られていたとも伝えられる。スパイ処刑事件が契機かどうかは不明だが、ロシア人たちはこの公園を虎公園とも呼んでいたそうな。日露戦争後日本軍が取得した大連は、町名も変えられ、ダーリニー公園も西公園と改称された。「西公園なら知っている」という向きもあるだろうし、日本人で近所に住んでいた方もおいでかも知れない。松原一枝著『大連ダンスホールの夜』冒頭の地図には地名が見えないが、原体験を持たない筆者にもおおよその見当はつく。またもや脱線した。
ここで漸く、バイコフにたどり着いた。彼が、紹介している例を挙げよう。一度人間を殺傷した虎は、それに味をしめてふたたび人間を襲う、とはよく云われることでもある。バイコフが赴任した当時、北清鉄道の租借地にヤブロニという深い森があった。1912年のある時、三日前に中国人の木こりを襲った虎が、こんどは伐採した木材を運び出している中国人作業員たちの群れを白昼襲い、3名に重傷を負わせた。斧で武装したロシア人作業員が駆けつけなければ、死傷者はもっと増えていたろう。とにかく、雌虎はその後悠然と森へ没したという。雌虎はとりわけ子連れの際には、母性本能から凶暴になりがちである。一発で仕留められず、ハンターの弾が万一外れたばあい、ハンターの命はないものと考えたほうがよいという。攻撃も、藪から棒の音なしの電撃によることが多く、とても身構える暇がない。周到さも、人間をしのぐことがままある。相手を一撃で襲えないと判断した時は、密かに移動する人間を追い、二度三度にわたり好機を待ちかまえる。狙われた猟師は、瞬時たりとも油断できない。隙を見せたが最後、彼は虎口に入る運命となる。こう書いてくると、「虎はやっぱり怖い」と云われそうだ。 (右の写真は、虎に襲われたロシア人ハンターの遺体:1912年11月満州ヤブロニ駅付近にて発見されたもの)
虎と人間はかつて友だちだった?
しかし猛虎といえど、人間との関係には共生的な面のあることを忘れてはいけない。つまり、人間と虎は食物連鎖の関係に立つ。畑や作物を食いあさる動物がやたらと繁殖すれば、対抗策が必要になる。農作物を荒らされて困る農民からすると、カバーンや野豚の類を退治してくれる虎は格好の味方であり、有り難い存在でもある。大量に存在した時期のベンガル虎も、猪や鹿が増えすぎた時には狩猟を一時禁止し政府が法で保護したものである。そんなところから、満州でカバーンをうまい具合に料理してくれるアムール虎も、中国人農民の敬意を集める存在となった。それがひいては守護神と化して、時に虎を祀った祠や社が峠や辻に建てられ、人々の祈願の対象となった時代もあった。やがて虎と人間は不幸にして敵対の時代に突入したが、元来虎には人間を除けば天敵におぼしい強敵は存在しない。しいて敵を挙げれば、むしろダニや蚊、体内に巣くう寄生虫ぐらいなものである。
虎にみる食生活
喫食者の立場から虎を観察すると、これがまたなかなか気難しいパルナッシアンである。肉は新鮮このうえない生き肉しか口にしない。よほどの飢えに苛まれない限り、腐肉や屍肉に手を出さない。ちょっとした嗜好品として、またはビタミンC摂取のためか、時々シベリア松の実を殻ごとそっくり囓る。また夏場にはネコ科の四足獣のつねとして草をはむが、これも消化促進のために欠かせない。味覚の秋ともなると、なんとフルーツにも手を出して、食卓を豊かにしているのだ。われらが主人公虎が深山の清流で水浴びをすることはすでに述べたが、それだけではない。魚捕りもクマ公にひけをとらない。実際に目撃したバイコフによれば、前足で水面をたたき獲物をすくい上げるように陸地へ運びあげるテクニックは、驚嘆にあたいするという。スンガリ河では、スッポンの生き血を吸う人間も顔負け、亀とても虎口を免れることができない。呼吸のために水面に現れる亀に狙いさだめて、さっとすくい上げる要領は卓越している。口のおごったタレント諸君、動物界最後のエリートである虎クンと一度食卓をかこんで、生きた亀をまるごと食べることを試みてはいかが? これぞ、究極のゴージャスな食卓ではある!
虎のスカトロジー
限りなくワイセツ化してゆく人類は、生殖器官にかかわる排泄行為にも異常な関心を示し、まだ幼いころからオチンチンをいじってみたり、自分のウンチを食べたりする。食事の次ぎに必然的にやって来る行為が、排泄である。そこで、こんどは崇高な虎のウンチの話。虎の存在と行動をつかむ手がかりは、もちろんその足跡が筆頭である。さりながら、ウンチも大きな決め手となる。なぜなら、虎の排泄物はプロなら一目で判別できるくらい独特だからだ。身体が大きいのだから当然ウンコ君の山も偉大であるのは容易に想像がつく。しかしそれだけではない、大事なのはトイレに選ぶ場所なのだ。獲物を数日間にわたって賞味し、たらふく食べた後、ちょっと離れた箇所にトイレを設営するのだ。つまり、食べては出し、また食べては出しの連続行為を完結させるためには、食卓とトイレの接近が要件となる。人間だって、風呂場とトイレをなぜかワンセットにするではないか。嘘か真か、居間の食卓の下をトイレに早変わりさせる気の利いた民族もあるとか。そして色合いはブラックにブラウンが混じったもので、いうなれば人間のタール便に酷似する。自分のウンチをまじまじと観察した経験をお持ちの方は、多いだろう。いや真面目な話、これは健康管理に欠かせない日課とすべきである。ウンチの顔色は、健康度判定のバロメーターであることは医学の常識となっている。朝の洗面所はおろか、電車のなかでも道を歩いていても、しょっちゅう手鏡を覗きこんで、自分の容貌の修正に躍起となっている学校生徒の皆さん、毛づくろいばかりでなく、時々は自分の大切きわまりないウンチの化粧なおしも忘れないで下さい。司法解剖では胃の内容物を検査するのが当然となっているように、虎のメニューはそっくり彼または彼女の糞便に反映する。つまり消化しきれなかった獣毛とか、毛髪、爪、歯などがウンチの小山の一部を構成しているのが特徴である。そして次ぎは、糞の香り。これがネコ科一般の動物の例に洩れず、とてつもなく強烈に臭いという。とりわけ活きのいい若いカバーンを腹いっぱいにたいらげた後の逸物は、腐乱死体の匂いそのものという。猟犬にとっては、うってつけの臭跡を残してくれるわけだ。バイコフの証言によれば、糞のみならず飽食した後の虎は口の周囲にもこの悪臭を漂わせているという。
すこぶる行儀のよいしつけの行き届いた、あるいは自己の排泄物から一刻も早く解放されたいと願う潔癖症候群に冒された飼い猫やペットは、自分のウンチに砂や泥をかけて隠す。虎は無頓着で、そんな小細工は縁がない。これが、野生の証しでもある。ことほど左様に用心ぶかいはずの自然界の王者も、天敵を持たぬせいか、排泄の形跡をくらます行動が観察されない。ただし、自分の巣穴のそばではけっして排泄しないのは、子孫保全と母性本能として説明できるかも知れない。なに、巣穴のそばでカバーンを捕まえた時はどうするかですって? ごもっともな質問です。その際は獲物を遠方の人目(あるいはほかの虎の目)につかぬ場所まで運び、なるべく身を隠すようにして食べるのです。結句、虎は用心ぶかいという性質が当てはまる。それに、潔癖症候群に冒されていないにしても虎とて不潔好きではない。ちゃんと女学生並みに毛づくろいはするし(傷跡をなめる、体表の害虫を除去する行為をもふくむ)、それに食事のあとは谷川で湯浴みするのもたんなる慰安だけではない。谷川では、食後のコーヒーよろしく水をガブ飲みすると同時に、それなりに洗面と歯磨きの行為も含まれているのだ。質問好きのあなたに、あらかじめお答えしておきます。冬に谷川の水が凍結した時は、これぞ天の配剤、ちゃんと雪が代わりを勤めてくれる。雪を舐め、雪で顔を洗い口をすすぐ。
なにしろあの厚い毛皮のコートを着ているのだから、さぞ夏場の照りつける満州は虎にとって暑かろう。夏は1000メートルを越えるさらなる高地へ移動し、涼気が戻るころに定住する巣穴に帰ってくる。あの分厚い防寒コートでは、冬の対策は不要である。着たきりのまま、吹雪も山嵐もなんのその、越冬する。あまつさえ犬同様、雪相手にスキーのまねごとやゴロゴロ遊びまでやってのける茶目なな側面もある。それも満月の深更にこれをたしなむというから、なんと粋な動物ではないか。それにネコ科一般について知られていることだが、冬は体表の脂肪が増大し、時に皮下脂肪は5センチの厚さに達するという。寒がりのあなたに、お勧めしたい妙案ではないか。
先程テレビ広報局長の弁解を引用したが、彼は虎をめぐる漢方の歴史を一知半解にしか知らない。なぜなら、中国人の英知は虎の肉にとどまらず、その排泄物までを有効に活用している事実があるからだ。つまり虎のウンチを拾い集め、これを乾燥させてほぐし、人間の健胃薬としても用いているからだ。トラ糞の採集は、これこそ自然保護の観点からは「ぎりぎり許される範囲」である。
国民白痴化に荷担する一部のテレビディレクターならびにタレント諸君! どうです、究極中の究極の珍味「トラ糞の新鮮サラダ」を一度味わってみませんか。
虎と化した人間の恐ろしさ
閑話休題。前回のリレーエッセイで、ベラルーシのルカシェンコ大統領が「アムール虎の皮をせしめた話」をしたが、その同じ大統領がこんどは自国の子どもたちを人質に取る前代未聞の政策を打ち出した。欧州諸国の被災児童援助には、ベラルーシの反体制派を助けているものが多い……として、児童への援助を拒否するというのだ。こういうのを、一事が万事と云う。なおここでは虎と直接関係はないが、罪のないかわいそうな子どもたちへのせめてもの気持ちに、「チェルノブイリ子ども基金」のホームページを紹介しておこう(http://kaleido.smn.co.jp/cherno/index.html)。
滅びゆく王者の美学
彼我の関係が逆転してしまった虎と人間の歴史的運命に思いを馳せる時、なによりも気がかりになるのは、虎の逗命が人類そのものの未来の運命を写す鏡となっていることである。「明日はわが身」の、累卵の危うき運命に人類があること。その恐怖を全員で忘却し、誰もが考えないようにしている。それでいて、全員が滅ぴの行為に無意識に荷担し、誰もが責任を意識的に曖昧にすることで安心感を求めている。ここで神とか予定調和を持ち出すのは簡単だ。しかし一度破れた、あるいは人類が破壊してきた自然の均衡とバランスを回復できるのも、人類だけである。ところが、その回復が至難のわざで、一層倍難しい。虎の保護は、虎の絶減と滅亡への代償行為に壕小化してはいけない。自然にたいして謙虚であること、共生にたいして自覚的になること、その心構えのなかにこそ本来の自然保護の精神が生まれる。美しいのは虎の毛皮ではなく、虎の毛皮だげでなく、虎をふくめた崇高な自然の中のすべての生命だ。その生命の全体を慈しむ精神こそ、美しい。
虎をも対象にした密猟と乱獲が、いまでも続いている。人間の利益過求と欲望充足の行為は、これほど時代の考え方が変化してもいっこうに無くならない。虎狩りが、かつてスポーツとして位置づげられた時代もあった。今は根本的に価値観が変化したのだ。だから虎狩りやハンティングを奨励するなど、諭外である。だがそれにしても、今は不可能となった過去の虎を対象にした狩猟がどのように行われていたかを、自然史・傳物史の観点からシミュレーションしてみるのは許されよう。そこで、次回は害獣として位置づげられていた時代の、アムール虎のハンティングが話題となる。