リレーエッセイ

第14回 - 1998.04.17
森と共に帰ってきたバイコフ

左近毅

     凋落の風景

 我が家には鬼蜘蛛が天井を這いまわり、時おり寝ている布団の上にポトリと落ちたりする。百足もこの陋屋を好んでいて、とりわけ夏には布団に潜り込んできては親愛の情を示す。小さな虫が飛び交う時節を迎えると、守宮(ヤモリ)が夕餉の窓にへばりついて、物欲しそうに台所を覗き込む。庭には蝦蟇(ガマ)蛙が棲んでいるから、それを狙って蝮(マムシ)までが棲みついた。燕はもう3年来我が家を定宿に指定している。夫帰に名前をつけてやった。黒兵衛にお墨のカップルだ、この春は近所の田畑に見かけるが、まだ我が家には到来がない。きっと、途中で観光旅行をしているに違いない、毎年いつも、グズなのだ。とにかく、賑やかで退屈しない。最近、自然の落ち葉や小さな生き物、虫を嫌う人間が増えている。ルソーの言う「自然状態」から隔離された、極度に人為的な都会生活がそうさせるのだ。過度な潔癖症候群が蔓延している。自然に飢えていながら、自然を遠ざけたライフスタイルを日常化する矛盾の網のなかに、人間は捉えられつつある。こうした状況が、他方では、豊かな自然や森林にたいする強烈な心理的飢餓感をもたらして、いまや整序され美しい画面に編集された「仮想体験としての大自然」がテレビのスクリーンにしばしば登場するようになった。視聴者としての我々は視聴覚だけを動員され、全身での皮膚感覚による接触をぬきにしている。したがって相変わらず対象との相互作用から切り離されているわけだから、悲喜劇ではある。ともあれ、森は人類のために帰ってこなければならない。

 ニコライ・アポロノヴィチ・バイコフ(1872−1958)がそれなりのやり方と方法で提起した問題も、まさに人類にとっての不可欠な聖域である森、「森の恵み」の問題であった。人間と自然界との絶対的相互扶助、融和と理解を求めるバイコフの思想は、そのまま人類の共存の問題に敷衍できるかもしれない。まず自然界を深く知り理解するところから出発して、バイコフは共生の生活原理に到達した。五族協和の日本統治時代を体験したバイコフは、そうした国家レベルでの強制された統合理念とは別個に、中国人の英知を尊敬し、日本人に親しんだばかりでなく、人間一般と動物一般の共存にまで想到していたのである。最近のロシアでは、この亡命作家に熱い視線を注ぐ論者が増えつつある。これから暫くバイコフとともに森へ踏み込み、その足取りを追いながら、密林に展開される人間と動物の野外ドラマを鑑賞し、「私たちの友だち」(つまり森に棲む動物たち)がいかに存在して、いかに消えていったかを確かめ、人類自身にも迫りつつある「滅びの予兆」を確認するとしよう。

     満州虎の生活圏

 極東地域に生息してきた伝説的な捕食獣である虎についての文献は、現在でもきわめて少ない。干支では寅が採用され、今年の年賀状ではトラが独壇場のモチーフとなる程、人事や文化にまつわることの多い虎一般である。それでいて元来虎の棲息しない日本では、虎の本格的な研究者はもちろん虎そのものに関連する文献が少ないのは当然かもしれない。だが、ライオンに比較すると、欧米でも虎の研究はけっして多いとはいえない。その理由は、ここでの主題ではないから問わない。バイコフは、『満州評論』に満州虎と題する文章を発表した。1925年のことである。満州虎あるいはシベリア虎とも呼ばれる虎は、その頃どこにどの程度分布していたのだろうか。少なくともバイコフは、アムール地方、ウスリー地方、満州、朝鮮半島に棲息していた虎を総称して満州虎とし、その分布の解明を試みている(図参照)。したがってアムール虎もウスリー虎も、朝鮮虎も、ひっくるめて満州虎というわけである。一般的な分布に関しての特徴を言えば、人跡まれな山奥の茂みに囲まれた岩山をテリトリーとする種類の虎である。虎のために大山脈は、いずれも格好の生活条件を備えていたと言ってよい。東はウスリー地方のシホテ=アリン山に始まり、南は長白山の山脈が朝鮮半島の東岸にまで伸びて連なり、中央部にはハンカ湖とスンガリ河にはさまれて太平嶺、張広才嶺、コワンティアルロン山脈が盤踞する。北はアムール河の両岸に小興安嶺が迫って、支流のクマラ河源流は遠く大興安嶺の懐に抱かれている。満州に限定したばあい、吉林省こそ虎にとっての最適な環境を提供していた。流域一帯に原生林が密生するスンガリ河、濱江、拉林河源流の一帯、牡丹江、ソイフェン河などの流域が、とくに注目される。

     受難の虎

 中国人が樹海(シューハイ)と呼ぶこうした地域には、虎山、虎谷、虎穴など虎にちなんだ地名が散見される。満州虎を絶滅の方向へと追いやる最初の大規模開発こそ、皮肉にもロシアによる東清鉄道の建設であった。軍人バイコフの所属したザアムール守備隊は、東清鉄道の施設とその建設要員の生命を、中国人反対勢力のみならず猛獣の攻撃からも守ることを任務としていた。この鉄道が敷設されるまで、沿線一帯は人間の手が触れたことのない聖域、唯一の王者たる虎が支配するサンクチュアリーとなっていた。森林が切り開かれ、鉄路が延びるにつれ、虎はかつての王国から撤退して棲息地域をなおも山奥へとしだいに移していった。アムール虎ないしは満州虎の棲息する一帯は、シベリア松の樹林帯でもあり、ここはカバーンと呼ばれるイノシシが群生する格好の適地となっていた。虎にしてみれば、これはビフテキに類する願ってもない最高のご馳走であった。さればシベリア松あるところにカバーンあり、カバーンあるところに虎ありという関係が成り立つ。さりとてもちろん、満州虎はカバーン以外の四足獣を捕食しないわけではない。ビフテキ以外を捕食するかしないかは、目前のビフテキの存在と関数関係にある。空腹は美食と贅沢を排除する、の理屈だ。イジューブルと呼ばれる赤鹿も虎にしてみれば良質のご馳走の部類に属するし、ノロ、鹿、羚羊といった草食獣も、満州虎のメニューを豊かにする素材となっている。南アジアの虎にくらべ、北のこの地域に棲息する虎で人喰い虎の話は比較的少ない。しかし、満州地方でも皆無ではない。1997年夏、ウラジオストックの町では人喰い虎の出没が話題となっていた。虎による食人の発生率も、食料事情と相関の関係にある。虎をとりまく様々な生活環境の変化によって発生する飢餓と食料難が、彼をして人家に接近させ、犬などの家畜や人間へと差し向けるのだ。ほかの絶滅種に数えられる珍しい四足獣と同様、アムール虎もご多分に漏れず、開発を目的とした極度の森林伐採とハンターによる毛皮目標の乱獲が原因で、この地上から完全に姿を消そうとしている。17世紀の哲学者トーマス・ホッブスは、「人間にとって人間は狼である」と述べた。20世紀末に至っても、この関係は変わらないが、少なくとも人間と狼との関係は劇的に逆転した。げに、「狼にとって人間は狼」であり、「虎にとって人間は狼である」。

 満州虎について、ここで文字や言葉を逐一駆使し千万言を費やしたところで、一枚の映像の雄弁さには対抗できまい。そこで虎の「勇姿」については、写真を掲載することでこ勘弁願おう。バイコフの作品のうちで最もよく知られる『偉大なる王(ワン)』は、王という漢字を連想させる毛皮模様を額に持った、さながら王者の風格を備えた虎を主人公にしている。中国人の故老によれば、虎は神が地上に遣わした万物の王であるという、またこの模様はロシア文字を知る人間の目には、ジェーというキリル文字を寝かせた形にも映る。

     満州虎のさまざま

 バイコフによれば、満州や極東地方に住む中国人やロシア人猟師の間では、動物学的な分類とは異なった虎の独特の分類が毛皮を基準に行なわれていたという。おおまかには2種類で、毛色が鮮やかで明るく多毛のふさふさした印象を与える種と、いま一つは毛色がやや暗色で短毛の虎である。バイコフの分布図をもとに居住圏で見ると、前者は北東地域に集中しウスリー虎と総称され、後者は朝鮮虎として中央部と南東地域に多く、おのずと棲み分けている。ついでに、王という漢字が額に現れる虎は、多くが後者の朝鮮虎だという。虎の毛皮模様は竹林に虎の掛け軸が象徴しているように、言うまでもなく敵を欺くため環境に適合した擬態ないしはカモフラージュだが、皮肉にもその美しさが仇となって身を滅ぼす運命になった。ただでさえ美しい造化の妙だが、それぞれの毛皮一枚一枚にも、微にいり細にわたって評価が分かれた。微妙な模様の組み合わせと色調の差が価格に反映し、時には高値に高値を呼んで、暴利に目のくらんだ皮を剥ぐ「虎喰い人」の犠牲となる虎が増えた。概してウスリー虎は、朝鮮虎に比べて性格が穏和で争いを好まないとされる、したがって人家を襲うケースも稀であったらしい。ベンガルなど南アジアの虎に比較して、人喰いの出現する率が低いとされる満州虎。そのうちでも、ウスリー虎はさらに人間に敵対する確率が小さい。人それぞれ、虎さまざまである。ロシアのアルセーニェフ原作の物語を、黒沢明監督が映像化した映画『デルス・ウザーラ』に登場したのは、内に神性を秘めたそのウスリー虎(アンバ)であった。

     満州虎の生活と性質

 虎の性質が最もはっきりとつかめるチャンスは、その交尾期にあるという。つまり虎がつがいとなることによって、外部への注意力が低下するからである。満州虎の交尾期は12月末から1月にあたる。この時期がやって来ると、雄は落ち着きを失い雌を求めて山野を彷徨しはじめる。時に、雌を追う行動が雄同士の間で競合し闘争に発展することがある。だが不思議なことに、それが一方の死によって幕を降ろす結末を迎えることはない。弱者は分限をわきまえ、頃合いを見極めて退く本能を備えているのである。言うまでもなく、その後勝ち残った虎がつがいとなる権利を獲得する。山野に時ならぬ咆哮が響きわたるのもこうした交尾期であり、それはファンファーレでもあり退却ラッパでもある。この時期には外敵への備えが疎かになるため、人間が接近するには好機となる。こうしたチャンスを狙って、なかには一度に5頭や6頭の虎をまとめて仕留める命知らずの猟師もいる。こうした虎の弱点をつくのは潔くは思われないが、他の時節では虎はきわめて用心深く警戒心が強いために狩りのもたらすリスクはあまりに大きい。交尾期が過ぎると雌も雄も離ればなれとなり、本来の孤立した生活に戻る。交尾後3カ月半で雌は険しい岩山の洞に巣をさだめて産褥の床につき、2ないしは3頭、時には4頭の仔虎を産み落とす。ただしその近辺には、例のカバーンなどのご馳走が溢れていることが必要条件となる。なにしろ巣穴から餌を求めての長距離出撃は、百獣の王である虎のお母さんといえど辛いからである。さらに母さんの気苦労は絶えない。出産の疲れをいやす間もなく餌探しに出かけて戻る時には、わざわざ迂回して巣穴を発見されないよう気配りを欠かせない。なにしろ酷い雄がいるもので、時々発見した仔虎を格好の餌として食べてしまうからである。仔虎の成長は早く、2カ月もすると母親が巣穴から外へ連れだし半死の獲物を与えて来るべき狩りの訓練をほどこす。母虎の授乳期間は半年で、それを過ぎると小動物の捕獲を教え込んで9月ごろには一人前のハンターへと叩き上げる。そこには父虎の姿はない。そして仔虎のほうも、1年後には虎としての自立した生活に入る。雌虎が出産するのはほぼ隔年であり、成長した仔虎も3年間は自分の生まれた巣穴からあまり離れない場所で生活を続ける。完全に虎が成熟する期間は5年である。

 ところで、年老いた虎のほうはどうか。老虎も人間並みに歯が弱くなり、爪も鋭さを失って、早い話がヨボヨボになる。筋肉もたるんで毛並みは白髪で台無しとくれば、餌の確保もおぼつかない。味は落ちるが、逃げ足の遅い子豚とかイジューブルの仔、山羊、兎程度の小物でいきおい我慢せざるをえない。さらに落ちぶれて狩猟能力を失った虎は、えてして人喰い虎に変貌する。なにしろ、足の遅い人間ならなんとか捕捉できるからである。いずれにしろ満州虎の常食としていた好物はカバーンであり、一撃でのチャンスを逃した獲物は後追いしない。静かにゆっくりと執拗に足跡をたどり、直近にまで接近して飛びかかり、前足で一撃を加えてから頸椎を噛み砕くのが必殺の定法である。その力は非常に強く、牛や馬といえどくわえたまま軽々と持ち運べるから凄い。ある目撃者の話では、虎が馬の首根をくわえて2メートルも飛んだともいう。噛み殺したカバーンを、虎は通常水辺などの静かでひっそりした場所へ運び、まずは股肉のような柔らかい部分から始め、背中と内臓へと料理の段取りを運ぶ。しかも大型獣の虎のことゆえ、満腹になるには一度に30キロから40キロの肉を食べないとダメという。食後には水を茶代わりにがぶ飲みして、やれやれとシベリア松の木陰で横になる。胸がやけるのだろうか、時にふたたび起きあがってたらふくの水を飲み、はては1昼夜以上も睡眠をむさぼる。その寝姿は、おなじみの猫科そのものである。

 竜虎相闘うという言葉があるが、虎は等身大の熊を襲うことも辞さない。風下の背後から音もなく忍び寄った虎の前で、のんきな熊は無力の塊と化す。とにかく、満州のタイガで虎の餌食とならない存在は何一つないのだ。森林の王者の生々しい食卓の模様を詳細に描写するのはこのくらいで控え、次回は音声学と生態学の方面から虎に迫りたい。


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