リレーエッセイ

第7回 - 1997.08.01
フィリップ・ロスとブルーノ・シュルツが到着しました

赤塚若樹

目次


幻滅と新たなる期待

 調査のための「インターネット利用法」については、すでにいくつかとてもよい概 説書が出版されていて、それをみれば、情報検索の仕方はおおよそのところがわかる けれども、それを頼りに調べてみても、文学や芸術にかんしては、いまのところ手ご たえのある情報には、なかなか到達できない、という状況があるようだ。だから、イ ンターネットで情報を集めようとしたら、つまらないものしかなくて、といった言い 方をするひともいて、これもまたかなりの部分で正しいのだけれど、すこしちがった 角度からみてみると、それはなにもインターネットだけのことではなくて、ほかの調 査の手段についても、ほぼ同じようにあてはまっていることがわかる。では、どうし てそんな見解を持つのか、という点を考えてみると、どうも、そういうひとは、(1) 無意識のうちにインターネットに過度な期待を抱いているが、それでいて、(2) 「インターネット」、イコール、ブラウザでページを訪問すること、という等式にす べてとはいわないまでも、かなりの部分でとらわれているようにみえる。

 最初の点についていえば、ほかのあらゆる手段や道具とおなじように、インターネッ トもたんにひとつの手段や道具であって、それ以上でもなければそれ以下でもないと 考えればいいだけのことであり、とすれば、問題はそれをどう使うかということだけ しかない。では、どんな使い方があるのか。これがまさに第二の点につながってくる。 サーチエンジンで検索したり、どこかのリンク集を利用したりしてたどり着くページ をブラウザでみることは、ごく一般的に行なわれていることで、それについてはいま さら何か新たにつけくわえていうべきことはない。それだからこそ、その限界(あく までも現状での)にたいして、前述のような不満がでてくるのだろうが、そのような 状況にかんしては、「そういうものだ」と割り切ってしまったほうがいいかもしれな い。もちろんそこで得られる「きっかけ」は貴重で有益だけれども、ページをみると いう行為だけで情報を集めようとしても、残念ながらそれほどの成果があがるわけで はないらしい(もっとも、実際にそこで得られる情報はけっして少なくはないはずだ が)。WWWにはとてつもなく大きな可能性があるとはいえ、それは魔法の箱でも、 ドラえもんのポケットでもないのだから、ほしい情報がすべてみつけられるわけでは ないだろうし、仮にあったとしても、すべてが「ただ」だと考えるのはすこしばかり 虫がよすぎるといわざるをえない。

 それでは、どうすればいいのか? 本当なら自分でホームページを出して、それを 窓口に情報の送受信をするのがよいのかもしれないが、なかなかそこまでは手が回ら ないし、それほど積極的にかかわることもできない、というのであれば、やはり最終 的には電子メール──ここでは電子メールをネットニュースへの投稿もふくむ広い意 味で──をどう活用するかということに行き着くだろう。もちろん使い方によっては マイナスの効果をもたらすこともあるかもしれないとはいえ、手軽でスピーディーな 電子メールが、このうえなく便利な「道具」であることについて異論の余地はないは ずで、これをうまく利用してやると、もとめている情報がわりと確率よく得られるし、 ときには思いがけない幸運を運んできてくれることすらあるようだ。

結び目から身をかわして

 自分の研究にチェコの文学や芸術が深くかかわっていることもあって、その国の言 語や歴史など、広い意味での文化的背景について調べることがよくある。チェコとい えば、日本では「マイナー」な国のひとつにすぎず、成文社をはじめとするいくつか の出版社がたいへんすばらしい貢献をしているものの、刊行されている本の絶対数は やはり極端に少ない。だから、チェコ文化についてなにかを調べるときは、どうして も外国語の本を参照しなければならなくなるが、外国語の本といっても、たとえば英 語やフランス語といったチェコ語以外のものは、日本語の文献の場合と同じく(もち ろん、数の点では比較にならないが)必要を満たしてくれるほど多いとはいえない。 したがって、そのような場合は、当然のことながら、チェコ語の文献にあたらなけれ ばならなくなるが、調査の対象が新しければ新しいほど、チェコ語の文献を参照する 必要が増していくのはいうまでもない。そこで、ふだんからチェコの辞書や辞典など の参考図書はできるだけ集めるようにしており、その手の本だけでも本棚ひとつ分く らいあるが、それでも調べきれないものがかなり多いし、また調べていることが(と くに内容が新しいものであれば)かならず本に書いてあるともかぎらない。たとえば そんなときに電子メール(あるいはネットニュース)がとても役に立つ。

 先日ボフミル・フラバルの『Klicky na kapesniku』という、インタビューで構成 された本のタイトルの意味がいまひとつよくわからなかったので(「ハンカチの(う えの)klickaたち」となるが、この“klicky (klicka)”がいまひとつピンとこなかっ た)、さっそくチェコとスロヴァキアの社会・文化を話題にするニュースグループに、 その意味ををたずねる投稿をしてみることにした。するとすぐに、これは「ハンカチ の結び目」という意味だ(じつはそこまでは見当がついていたのだけれど……)とい う返事を、アメリカからふたつ、オーストラリア(オーストリアではなく)からひと つもらい、それと同時に、チェコ人のこんな習慣を教えてもらった。──チェコ人は 何か覚えておかなければならないことがあるとき、ハンカチに結び目をつくっておき、 手を洗ったり汗を拭いたりしたときに、そのハンカチの結び目をみて、それを思い出 すようにする。──うけとった返事のひとつによれば、チェコ人はふつうこの「ハン カチの結び目」には“uzel na kapesniku”という表現をもちいるが、フラバルは少 し変わっているから、「結び目」に“uzel”ではなく、あまり使われない“klicka” という言葉をもちいているという。

 ところが、インタビューを読むと、どうもこの意味だけではないようにみえるので、 どうしたことかと頭をかしげていると、アメリカから「ハンカチの“結び目”」とい う解釈に異議を唱える投稿があった。フラバルがこのフレーズによっていいあらわし ているのは、ハンガリーのチームかコーチが有名にしたサッカーの戦術で、インタ ビューのなかでもそう説明している(たしかにそれらしいところはあるけれど……)。 “klicka”は、この場合、「身をかわす」や「避ける」を意味する“klickovat”に 関係しており(辞書には、たしかにその意味もでているけれど……)、フラバルは、 それによって、話題をかえて質問をはぐらかす自分独自の答え方のことをいっている。 インタビュアーがハンガリー人なので、その点でも、このように理解するのが道理に 適っているという(なるほど……)。意外な(ある意味では、予想通りの)展開にす こしばかりおどろき、どうなることかと、まるで傍観者のようにことの成り行きを見 守っていると、こんどはイギリスから、この見解を補足する内容の投稿があり、それ によると、「ハンカチ」がその「身をかわす」行為をするための「小さなスペース」 をあらわしているという。ひとまずこれで当初の質問にたいしては、ある程度納得の いく解答が得られたことになるが、こんな「あいまいさ」にもフラバル文学の特徴が みてとれるからおもしろい。ともあれ、世界各地から投稿してくれた方へ、感謝の気 持ちをあらわすメッセージを書き送ることにした。

 そのついでに、話題になったサッカーの用語についてたずねてみると、オーストラ リアから、それはチェコ人が得意な「アイスホッケーのテクニカル・ターム」という 返事があった。すると、それにたいしてすかさず、アメリカから、いや、サッカーに まちがいないと切り返す投稿がきた。このフレーズはフラバルの作品のなかによくで てくる(たしかに、みたことがあるような気がする……)が、いちばんわかりやすい のは『やさしい野蛮人』という作品で、そこには、ハンガリー代表のサッカー・チー ムが“klicky na kapesniku”を実行できたので世界一になれたという件りがあると いう。よろこぶべきことに、これでこのフレーズの解釈は完璧なものになったが、そ の一方で、この作品を読んだことがあるのにもかかわらず、それをまるっきり覚えて いない自分の記憶力にがく然としたのも事実だ。いずれにしても、こういった疑問を 解決するのにニュースグループという場所はとても役に立つし、そこでつながりがで きた人たちからは、ほかのことについても、いろいろと参考になる意見を聞かせても らえるかもしれない(この件で知り合えたオーストラリアからの投稿者とは、いまで もメールのやりとりを続けているが、なんとチェコ出身のインテリであることがあと かわかった。それにしても、このタイトルはどんな日本語に訳すのがいちばんいいの だろう?)。

ダイレクト・メール?

 ニュースグループという全世界に公開された掲示板に書き込まなくても、おもしろ そうなページを公開しているひとに直接メールを送ることによって、意外な情報が得 られたり、思いがけないつながりができたりすることもある。たとえばアメリカの中・ 東欧の研究者にちょっとしたことを問い合わせをし、そのやりとりのなかで、ある作 家の興味深いエピソードを聞かせてもらったり、資料をスネール・メール(=普通の 郵便)で送ってもらったりしたこともある。そういえば、この資料もフラバルに関係 のあるものだったし、フラバルが亡くなったときも、プラハのアメリカ人に電子メー ルで知らせてもらった。また、日本ではほとんど話題にされることのないチェコのシュ ルレアリストとのつながりも、はじめは電子メールからはじまった。

 あるとき、ちょっとした偶然が重なって、チェコのシュルレアリストのサイトのU RLがわかったので、さっそくブラウザで訪問し、文字のコードやフォントについて は若干の問題があったけれども、ひととおりページに眼を通してから、そこにしめさ れたアドレスにメールを送ってみた。それをきっかけにメールの交換がはじまり、あ まり資料のないチェコ・シュルレアリスムの最近の活動などについて興味深い話を聞 かせてもらっているが、あるとき、彼らの作品を入手する方法をたずねたところ、ちょ うどメール・オーダーのシステムをつくる計画があるという返事が来た。こちらがせ かしたのがよかったのか、わりと早めにその計画が実現に向かって動き出し、試験段 階では、わたしがモニタ役をつとめて、いろいろなトラブルのレポートを書き送った りもした。そうこうするうちに、そのシステムもできあがり、いまでは、ヤン・シュ ヴァンクマイエル(シュワンクマイエル)の全作品のビデオをはじめとする、チェコ のシュルレアリストの作品をひととおり集めることができた。そのなかには、おそら くほかの方法では入手できないような画集や写真集、さらには、1969年に刊行された ほとんど「幻の」といってよいような雑誌『アナロゴン』もふくまれている。このあ いだも、シュヴァンクマイエルの作品集──エセーや造形芸術の作品の写真などが収 められている──が届けられたが、本の扉の部分をみると、なんとサインがしてあった。

カルトと偶然

 シュヴァンクマイエルといえば、特異な美的感覚をもつ映画監督であり、ロンドン を拠点に活動をする双子の映像作家ブラザーズ・クエイに決定的な影響をあたえてい ることはよく知られている。ストップ=モーション・アニメーションに大きな関心を もつわたしにとって、ブラザーズ・クエイとシュヴァンクマイエルはとりわけ大切な 映像作家で、このうえなく魅力的なその作品については、日頃から注意して資料を集 めるようにしているが、なかなか思うようにことは運ばない。それもそのはず、まえ にニュースグループの過去の投稿記事を検索してわかったことだが、なんと、両者は おもに「カルト・ムービー」というカテゴリーで話題にされているらしい(カルト !)。もちろん、このニュースグループにも、情報求む! という記事を投稿し、い くつかのありがたい返事を受け取ったこともあるが、そのときは残念ながら、これと いった情報に行き着くことはなかった。

 ニュースグループと似たようなかたちの情報交換の場にメーリングリストと呼ばれ るものがあり、シュヴァンクマイエルとブラザーズ・クエイについていえば、このメー リングリストが資料を集めるのにとても役立った。あるとき、偶然みつけたアニメー ションのリストに、ニュースグループと同じの内容のメールを送ってみたところ、 ニュースグループのときと同様にいくつかの返事がきたが、そのなかには、カナダの 大学でアニメーションについて講義をし、みずから映画監督でもあるという女性が、 資料を送ってあげるからスネール・メールの住所を教えるように、と申し出てくれて いるものもあった。さっそく、それに返事を出したところ、しばらくして、雑誌の記 事やストップ=モーション・アニメの上映会のパンフレットのコピーなどを収めた、 大判の封筒がカナダから届いた。うれしいことに、そこにはピーター・グリーナウェ イがブラザーズ・クエイの『ストリート・オブ・クロコダイル』について書いたエセー もふくまれていた。これはまえから手に入れたいと思っていた資料だった。

 グリーナウェイが自分の映画にブラザーズ・クエイを登場させたこともあると知っ てから、わたしは両者のつながりがずっと気になっていたので、同じころ(そろそろ 『Pillow Book(枕草子)』が話題になりはじめたころ)、このイギリスの映画監督 を話題にするメーリングリストに、そのことをたずねるメールを送っていた。そこに グリーナウェイのエセーが送られてきたのだから、その偶然におどろいたが、このあ とでさらに度肝を抜かれるようなことがあった。それはすべて、アニメーションとグ リーナウェイのリストに入っているアメリカ人が、(当然のことながら)わたしがそ れぞれのリストに送った、ブラザーズ・クエイにかんするメールをみていたことから はじまった。べつのリストに同じひとが参加していることくらいなら、いくらでもあ りそうなことだが、じつはこのアメリカ人、ブラザーズ・クエイの友人で、しかもちょ うどそのとき、ロンドンにあるこの双子のスタジオを訪れており、あろうことか、わ たしのメールをスティーヴン・クエイとティモシー・クエイにみせたのだ!

 彼らはまだ積極的にインターネットにはかかわっていないらしく、直接返事をもら うことはなかったが、そのかわりそのアメリカ人をとおして、グリーナウェイと自分 たちの関係について、ごく簡単なものながら不思議なコメントを寄せてくれた。この アメリカ人にあとから聞いた話では、彼自身は最初、わたしのふたつのメールが同一 人物からのものとは知らずにいたらしく、スティーヴンがわたしの署名をみて、それ に気付いたという。さて、このアメリカ人、ブラザーズ・クエイのコメントを書き留 めると、それぞれのメーリングリストに同時にそれを送るし、そのうえ、わたしのメー ルを、リストを入れ違えて引用していたりもしたから、さあたいへん。びっくりする し、混乱するしで、わたしは、しばらく自分のまわりで何が起こっているのか理解で きなかった。

 そのことをメールに書いて、このアメリカ人に直接送ると、まもなく、とてもてい ねいに事情を説明する返事が届けられ、それがきっかけとなって、彼とはその後も情 報や資料の交換をつづけていくことになった。その事件があってからしばらくして、 このアメリカ人はまず自分がこれまでに集めたブラザーズ・クエイとシュヴァンクマ イエルの資料を送ってくれたが、それを整理してみると全部でファイル2冊分くらい あった。そのなかには入手困難なものが多かったし、また、あとになってからめずら しい映像の資料が送られてきたこともある。このアメリカ人には、どこかしらコレク ターめいたところがあって、ブラザーズ・クエイが昨年来日したときに買い求めたと いう、武満徹の映画音楽集CD全6巻をそろえたい、あるいは、グリーナウェイの映 画音楽などを手がけてきたマイケル・ナイマンの日本でのみ発売されているCDが欲 しいというので、こちらもお返しにそういったものをアメリカに向けて送ったりした こともある。

 そんなメールのやりとりのなかで、あるとき『ストリート・オブ・クロコダイル』 の映画の原作を書いたブルーノ・シュルツが話題になった。わたしが、その英訳はは じめペンギン・ブックの中・東欧の叢書の一冊として刊行されたはずで、フィリップ・ ロスがその編集主幹は務めていたという内容のメールを送ると、それがきっかけとなっ て、このアメリカ人がじつは編集者で、彼の勤める出版社からロスの最新作が刊行さ れるということがわかった。こちらから、ロスは大好きな小説家のひとりだというメー ルを送ると、むこうから、きみが日本で最初にその本を読むことになるでしょう、と いう返事が来た。本を送ってくれるということか。やがて、そんなやりとりがあった ことすら忘れかけたころ、ふたたびブラザーズ・クエイのこの映画のことに話が及び、 今度は主人公の人形が話題の中心となった。そのアメリカ人がいうには、シュルツの 自画像が人形のモデルになっているという。ブルーノ・シュルツは画家でもあって、 その絵をときどきみては、この人形が、そこにでてくる人びとと同じような暗さをも ち、そのせいか面影もどことなく似ていると思っていたが、まさかシュルツの自画像 がモデルだったとは想像もしていなかった。本当なのかどうかシュルツの画集をみて 確認したいが、以前書店に注文したのにまだ届いていない、といったことを書き送る と、この話はブラザーズ・クエイから直接聞いたものだという返事が来た。そういわ れてしまえば、異論を唱えることのできない恐るべき情報源。このアメリカ人とはこ のような情報交換がいまでもつづいている。

 ところで、先日ふとしたことから、フィリップ・ロスの最新作のことを思い出した。 それが話題になってから、かれこれひと月くらい経っていただろうか、何気なくその ことをメールのなかでほのめかすと、今日中に“a small surprise”といっしょに投 函する、というメールがすぐに送られてきた。楽しみに待っていると、1週間ほどし て、アメリカからわりと大きな書籍用の封筒が届いた。「ちょっとした思いがけない 贈り物」が何かできるだけ早く知りたかったので、いそいで封を開けると、なかには ハードカバーの本が2冊とカセットテープが1本、それにイラストの入った厚紙が1 枚でてきた。1冊はもちろんロスの最新作(『アメリカン・パストラル』)。カセッ トはそのプロモーション用につくられたもので、そこに収められているのは、ロス自 身によるその小説の朗読だった。写真でみたことのある人物の声を実際に聞くと、そ の意外さに違和感を覚えることがあるが、ロスの場合も事情は同じで、こちらが勝手 に想像していた声とはまったくちがっていた(思っていたよりもずっといい声だった。 失礼!)。もう1冊と1枚はどちらもあのポーランドの作家にかかわっていた。前者 はそのフィクションをまとめた本で、彼の絵も数点添えられていた。後者はその作家 のペーパーバックの表紙で、そこにはブルーノ・シュルツの自画像が描かれており、 『ストリート・オブ・クロコダイル』の主人公に本当によく似ていた。たしかにこれ らは「思いがけない贈り物」にちがいなかった。こうした事実の確認と新たな発見を したあとで、わたしはすぐに、いま書いているエセーのタイトルをサブジェクトにお 礼のメールを送ることにした。「フィリップ・ロスとブルーノ・シュルツが到着しま した」。

 インターネットもどうやら従来の「道具」とそれほど事情がことなるわけでもない らしく、結局そこで結ばれるひととの関係をどう活かしていくかによるところが大き いようだ。残念ながら? それとも、幸福なことに?

(以上はインターネットをどう利用しているかという成文社からあた えられたテーマにもとづいて執筆された。)


HOME既刊書新刊・近刊書書評・紹介チャペック