リレーエッセイ

第1回 - 1997.02.01
自然児と野蛮人

太田正一

「あの人の森の知識は、作家のプリーシヴィンにも匹敵するものでした」
アンナ・ラーリナ・ブハーリナ『忘れ得ぬこと』

 自然の中に、たとえば、だだっぴろい野原や昼なお暗い森にひとり身を置いたとき、ただもう不安でいたたまれなくなるヒトもいれば、逆に、ああとうとう還ってきたな、と心からほっとするヒトもいる。ヒトを大雑把にこの二つに分けたら、結構見えてくるものがあるのではないか。

 いきなり深い山中での野宿というのは、たしかにぞっとするかもしれない。孤独の幸せを噛み締めるどころか、内部の魑魅魍魎に喚き立てられて、ついに一睡もできずに夜明けを迎えてしまうことだってあるだろう。生きものの心には、夜の森よりずっと暗い闇がひろがっているものだから。

 では、なぜこんなことを言い出したかというと、ロシアとその大地に生きる人々の暮らしにひときわ強い関心を抱き続けてきたわたしが、あるとき、ふと、スターリンにいちばん似つかわしくないのは、じつはそんな広野や奥深い森、つまり大自然のふところだったのだと気付いたからである。それで、この野蛮人と対極をなすのがニコライ・ブハーリンだった、ということにも。

 ブハーリンというのは、「不自然な」その野蛮人の手で、一九三八年に「人民の敵」として首を締められたコミュニストだ。彼は大変な知識の持ち主だった。それでいて、陽気で、ずるそうで、くりくりとよく動く目をした、純朴なロシアの農民なのだった。

「心は驚くほどこまやかで、はにかみ屋で、なんだか少女みたいでしたね……でも、けっして大衆におもねることも媚びることもしませんでした。根っから清廉の人なのです」(妻のアンナ・ラーリナ)

 そうして何よりも野や森が大好きだった。それゆえ、逮捕の予感のさなかにも、長年の夢だったパミールへ旅立ったのである。自然とひとつになるために……。


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