わが家の人びと


ドヴラートフ家年代記

S・ドヴラートフ著/沼野充義訳
四六判上製/224頁/定価(本体2200円+税)

祖父達の逸話に始まり、ドヴラートフ家の多彩な人々の姿を鮮やかに描きながら、アメリカに亡命した作者に息子が生まれるまで、四代にわたる年代記が繰り広げられる。その語りは軽やかで、ユーモアに満ち、どこまで本当か分からないホラ話の呼吸で進んでいく。(1997.10)


訳者解説(抜粋)

世界は不条理で、人びとは可笑しく哀しい
――簡潔なドヴラートフを長々しく称えて

   1

 ドヴラートフの『わが家の人びと』を自分の訳でこうしてやっと世に送りだすことができて、嬉しいなどと一言で言えないような複雑な感慨がある。じつは翻訳を一通り完成させてからほとんど一か月近く、この解説をどう書きはじめようかと悩んでいた。いや、ものを書くことは――どんなにへらへらとした軽薄そうな文章でさえも――いつだって悩みばっかりなのだから、そんなことでうじうじしてはいけない。「そんなのは普通のことさ」と、ドヴラートフなら言うだろうか。だが、少なくともドヴラートフについて書く場合に限って言えば、その「普通さ」が一筋縄ではいかないのではないかと思う。確かにドヴラートフはごく「普通の」いい作家のように見える。鬼面人を驚かすといった前衛性もなければ、深遠な思想で読者に頭痛をもたらすこともない。ドヴラートフを読むことは簡単で楽しい。ところが、どういうわけか、ドヴラートフについて書くことはとても難しいのだ。いや、これも単なる思い過ごしで、ドヴラートフの小説だけに限ったことではなく、この世にたくさんありそうで実際にはさほどたくさんはない本当にまっとうなものは、何でもそうなのかも知れないのだが……。

 いずれにせよ、もう時間がない。モスクワ行きを目の前に控えて、待ったなしの状態にまで追い詰められたいま、ともかく何かを書きはじめてみよう。

 『わが家の人びと』を十年以上前に初めて読んでとても気に入ってしまって以来、ぼくは「ドヴラートフってすごく面白いよ」と言い張りつづけてきたのだが、重厚長大でくそ真面目なものだけがロシア文学だと思い込んでいる頭の固い(失礼!)友人や同業者諸氏には――ごく一部の例外を除いて――見向きもされず、ドヴラートフの名前が日本全国津々浦々に知れ渡ることもなく、いたずらに時が経ってしまった。変なたとえかも知れないが、長年遊び呆けていた放蕩息子か、それとも知られざる恋人を(決して隠していたわけではないのだが)世間様にやっとご披露させていただく時が来た、というような感じだ。でも、その一方では、本当に披露してしまっていいんだろうか、ひょっとしたら自分一人でこっそり楽しんでいたほうがいいんじゃないか、なんて感じもないことはない。

 それにしても、どうしてこのように面白い作家が、今までほとんど紹介されなかったのか。一つには、彼が一見したところつかみどころのないとぼけたユーモアを持ち味としていて、真面目な日本のロシア文学界に相性が悪いということがあったのだろう。その上、痛切な社会的告発から、過激な前衛的実験にいたるまで、目が眩むほど多彩で威勢のいい現代ロシア文学の舞台では、こういった飄々とした作家には居場所がなかなか見つからないということもあった。しかし、最近のロシアでは、その彼も居場所を確保したどころの話ではない。旧ソ連に暮らしていたころには作品をほとんど活字にしてもらえず、アメリカに亡命してからもソ連国内では完全に黙殺されていたドヴラートフだが、ペレストロイカが始まると「解禁」され、ロシア本国でも彼の人気は次第に高まっていった。

 そして一九九〇年に惜しくも彼がまだ五十歳にもならない若さで早世すると、その姿は一種の伝説のオーラのようなものに包まれはじめた。一九九三年にサンクト・ペテルブルクで彼の主要な作品を集成した三巻の著作集が十一万部にも及ぶ部数で出版されるにいたって、彼の人気は頂点に達する。いまやロシアではドヴラートフについての回想や批評の類は読みきれないほどになっており、彼について単行本の批評書(イーゴリ・スヒフ著『セルゲイ・ドヴラートフ――時間・場所・運命』サンクト・ペテルブルク、一九九六年)も上梓された。また欧米でも日本でも、ドヴラートフはすでにアカデミックな文学研究の対象にさえなりつつある。例えばカレン・ライアン=ヘイズの『現代ロシアの風刺――ジャンル研究』(ケンブリッジ大学出版局、一九九五)は、全五章からなる本のうちまるまる一章をドヴラートフの『わが家の人びと』の分析にあてている。ただし、この作品が「風刺」だという揺るぎない前提から出発しているせいで、論旨がいくぶんとんちんかんなものになっているけれども。  批評や研究にここでこれ以上立ち入るつもりはない。まず必要なのは、すでに「現代の古典」になりつつあるこの作家の、できるだけ等身大に近い肖像を描くこと。不当な無視も、見当外れの評価も、作家の姿をぼやけさせるだけのことだ。先日ロシアのある雑誌を見ていたら、「過大評価されている作家ベスト10」という記事があり、ドヴラートフが見事上位を占めているので、さもありなんと思った。まあ、それほど人気が過熱してしまったということだろう。こうなってくると、昔から密かにドヴラートフを楽しんできた当方にしてみれば、嬉しいというよりはむしろ迷惑な事態である。「そっとしておいてくれないかな」とでも言いたくなる。そうぼやきながら、自分なりの肖像を描くことに取りかかる。

   2

 セルゲイ・ドナートヴィチ・ドヴラートフは、一九四一年九月三日、第二次大戦中に両親が疎開していたバシキールのウファで生まれた。父親はユダヤ人、母親はアルメニア人だが、彼自身は一貫してロシア語を使う環境で育った(その後、創作に使ったのももちろん、ロシア語だけである。ドヴラートフはアメリカに亡命してからも執筆を英語に切り替えようなどという野心は持たなかった。その意味では彼は徹頭徹尾「ロシア語作家」だった)。ドヴラートフという姓はロシアでは珍しいが、これは両親が離婚した結果、母方のアルメニア系の姓を名乗ったということらしく、アルメニア語では元来「ドヴラチャン」という形だったようである。一方、ユダヤ系の父方の姓は「メーチク」だった。『わが家の人びと』に書かれていることを信じるならば、父親は演劇関係の仕事をし、母親は印刷所で校正係として働いた。もっともこの作品は、自伝的な要素が特に強いとはいえ、ドヴラートフの他のすべての作品の場合と同じように、どこまで本当でどこからが虚構なのかよくわからない書き方になっているので、ここに書いてあることを鵜呑みにするわけにはいかないようだ。

 ドヴラートフは一九四五年以降はレニングラードで暮らすようになり、本人も自分のことを「レニングラードっ子」と考えていた。レニングラード大学に入学した彼は、フィンランド語を学ぶが、二年で中退した。『わが家の人びと』でもちょっと言及されている通り、中退したのは、単なる成績不良のためで、政治的信条などは一切関係なかったという。ドヴラートフが政治活動家でなかったことは確かにその通りだろうが、それにしても、自分を意図的に引き下げるこういうものの言い方じたいが「反体制」のヒーローの姿を捏造したくないという、いかにもドヴラートフ的な独特のスタンスになっている。彼の最晩年の作品の一つ『出張所』(一九九〇)では、学生時代にターシャという「宿命的」な女性と出会い、彼女との恋愛に明け暮れて学業が疎かになり、結局退学になったという経緯が詳しく回想されている。ただし、これもどのくらい伝記的事実に基づいているのかはわからない。

 兵役が義務づけられているソ連では、学籍を失えば、当然、徴兵を免れることはできない。ドヴラートフは徴兵されて一九六二年から六五年にかけて兵役を勤め、コミ自治共和国の矯正労働収容所の警備兵として働いた。この時の体験をもとにした作品が、後にアメリカで出版される『ゾーン』(一九八二)という中編(あるいは、実質的には連作短編集)である(「ゾーン」とはロシア語の口語で「収容所」ないしは「刑務所」のこと)。自分の体験に基づいて収容所の実態を描いた文学作品は、二十世紀ロシアでは決して珍しくなく、ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』や『収容所群島』、シャラーモフの連作短編『コルイマー物語』、そしてエヴゲニヤ・ギンズブルグの回想『明るい夜 暗い昼』など、枚挙に暇がないほどだ。しかし、当然と言えば当然のことだが、こういった「収容所文学」の大部分は、収容された囚人の視点から書かれたものである。ところが、ドヴラートフは『ゾーン』で、「収容された側」からだけでなく、「収容する側」、つまり囚人を閉じ込め、管理する立場にある人の視点からも収容所の生活を描きだし、人間としては囚人も看守も驚くほど似通っているということを示した。これは文学的には画期的なことだったが、同時に、多くの読者に当惑をもたらすことになった。ドヴラートフが刑務所の警備をしていたとき、囚人の一人だったソルジェニーツィンを殴ったことがある、といった根も葉もない噂が、後に流れることがあったが(ドヴラートフが警備兵をしていたのは、もちろん、ソルジェニーツィンが収容所に入れられていたときよりはるかに後のことである)、その遠因の一つには、『ゾーン』における革命的な視点の転換に馴染めない読者の当惑があったのではないかと思う。

 一九六五年にドヴラートフは除隊してレニングラードにもどり、ジャーナリストの仕事をするかたわら、都会を舞台にした短編小説を書くようになる。レニングラードは、現代文学の世界にあっても、首都モスクワとはかなり異なった、よりソフィスティケイトされた文学的伝統を誇っている。この町で育った現代ロシアの作家としては、アンドレイ・ビートフ、ウラジーミル・マラムジン、ワレリー・ポポフなどがおり、ドヴラートフと同世代の友人、ノーベル文学賞受賞詩人ヨシフ・ブロツキーもまたレニングラードが生んだ詩人である。ドヴラートフはマラムジン、エフィーモフ、ヴァフチン(女性作家ヴェーラ・パノーヴァの息子)などとともにレニングラードの「都会人」という文学グループに属していた。ドヴラートフの残した自伝的作品や文壇アネクドートの多くは、こういった文学的環境の雰囲気を濃厚に反映したものになっている。

 ドヴラートフの作品はレニングラードの一部の文学関係者の間では高く評価されたが、公式には認められず、ほとんど出版することはできなかった。例外的に一九七〇年代にソ連の文芸誌に掲載された作品がいくつかあるが、いずれも掲載されることを目的に書いた迎合的ないいかげんな作品だと本人が自認するもので、彼は後々まで「決まりの悪さ」を感じると語っていたし、これらの作品はその後一度も再版されていない。当時、レニングラードで彼の才能を認めた作家の一人に、ヴェーラ・パノーヴァがいる。パノーヴァは一時、ドヴラートフを「秘書」として雇うことによって、彼を「徒食」の罪から救ったという(ブロツキーが逮捕され、有罪判決を受けたのも、まさにこの「徒食」の罪ゆえだった)。こうして、公式に自作を出版することができなかったドヴラートフは、一九六〇年代末頃には自分の作品をサムイスダート(地下出版)で流布させるようになった。

 そして作家として将来の見込みの立たないレニングラードでの生活にドヴラートフはいったん見切りをつけ、一九七四年にエストニア共和国に移り、タリンで新聞社に勤めてジャーナリストとして働き始めた。タリンに行った動機の一つは、エストニアのような地方共和国のほうが、検閲や出版物に関する規制が緩やかだということである。実際、文化的により自由な雰囲気のあったタリンでは、一九七五年に最初の短編集出版の契約にこぎつけたが、折悪しく、彼の知り合いが反体制活動家の取締りにひっかかったため、KGBの圧力が出版社にかかり、結局、校正刷りまでできていた彼の短編集は出版を差し止められてしまった。ただし、繰り返しになるが、ドヴラートフ自身が政治的な意味の反体制活動家であったわけでは決してない。この間の事情については、後に自伝的ドキュメンタリー小説『見えない本』(一九七八)に、具体的な文書とともに詳しく記録されている。また、エストニアでジャーナリストとして働いているときにせざるを得なかった職業上の「妥協」の数々を題材にした中編(連作短編集)が『妥協』(一九八一)である。

 その後、自作をソ連国内で出版することを諦めたドヴラートフは、『コンチネント』『時代とわれら』などの、国外の亡命ロシア系雑誌に自作を発表するようになった。そして初めての単行本である『見えない本』が、ロシア文学を専門とするアメリカ合衆国のアーディス社から出版された。こういった国外での出版活動のため、当局からの圧力は強まる一方で、『わが家の人びと』の中でも説明されている通り、一九七八年にはソ連を出て西側に移住することを余儀なくされる。厳密に言えば、法的にはこれは「移住」だが、実態としては「亡命」と言ってもいいだろう。こうして、最初にまずテクストが、次に人間が西側に渡るという、「停滞」の時代のソ連につきもののパターンを、ドヴラートフもまた繰り返すことになったのである。

 ユダヤ系の移住者として出国を許されたドヴラートフはウイーンを経由して、一九七八年の秋にはニューヨークに居を定め、以後は主にニューヨークで文筆活動を続けた。ニューヨークは、一九七〇年代以降ソ連から出国することを許されたユダヤ系ロシア人(いわゆる亡命ロシア「第三の波」)が大量に住み着いた街である。ここで亡命ロシア人たちの群に身を投じたドヴラートフは、一九八〇年に『新アメリカ人』というロシア語の週刊新聞を友人たちとともに創刊し、編集長として腕をふるうことになった(このときの編集部の同僚だったのが、いま批評家として華々しく活躍しているピョートル・ワイリとアレクサンドル・ゲニスである。この二人の仕事については、彼らの共著『亡命ロシア料理』〔沼野充義・北川和美・守屋愛共訳、未知谷、一九九六年刊〕の解説で紹介しておいたので、ご興味のある向きは参照していただきたい)。しかし、実務的なマネージメントのまずさや、ニューヨークで今世紀の初めから出ている日刊ロシア語新聞『新しいロシアの言葉』の側からの嫌がらせといった悪条件が重なり、最後にはオーナーと対立して、ドヴラートフは約二年で編集長のポストから解任されてしまう。この時期の活動については自伝的ドキュメンタリー小説『手仕事』(一九八五)の第二部「見えない新聞」や、『孤独な人びとの行進』(一九八三)に詳しい。

 もともとソ連で名のあった作家ではないドヴラートフの場合、亡命後の生活は楽ではなかったが、多作ではなくとも着実に作品の出版を重ね、次第に西側で作家として認められていった。『新アメリカ人』の編集長を解任されたことはドヴラートフにとっては大きなショックだったようだが、他方、この頃から亡命地アメリカでの作家生活が軌道に乗りはじめ、作品が英訳されアメリカの読者にも知られるようになったのである。彼の作品のいくつかは『ニューヨーカー』にも掲載されたが、ソフィスティケイトされたこの雑誌の紙面を亡命ロシア人の作品が飾るのは――亡命ロシア人作家は当時アメリカに数えきれないほどひしめいていたのに――めったにない快挙だった。彼以前にこの雑誌に登場した亡命ロシア人作家としては、ウラジーミル・ナボコフくらいしか見当たらない。そして、アメリカでは玄人筋の受けもよかった。ドヴラートフに賛辞を惜しみなく送ったアメリカの作家や批評家たちの中には、カート・ヴォネガット・ジュニア、ジョゼフ・ヘラー、イェジ・コジンスキー、アーヴィング・ハウといった錚々たる顔ぶれがいる。  そして、最初にも書いたように、一九八五年にソ連でペレストロイカが始まり、文芸出版の自由化が進められるにつれて、ドヴラートフの作品はロシアでも次々に出版されるようになった。しかし、こういった再評価の機運が出てきた矢先、一九九〇年八月二十四日に彼はニューヨークで突然病没した。享年四十八歳。四十九歳の誕生日を目前にしての、あまりにも早すぎる死だった。

 ドヴラートフの急死を知ったときのことは、いまでもよく覚えている。九月初めのある日、外出を急いでいたぼくは、パリから航空便で送られてきた亡命ロシア人の新聞『ロシア思想』の最新号をかばんに突っ込み、家を飛び出した。そして、京浜東北線の電車の中で新聞を何気なく開くと、彼の訃報がいきなり目の中に飛び込んできたのだ。あまりに思いがけないことで、愕然とした。涙が出てきた。おれはこの作家が好きだったんだな。そう思った。


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