K・チャペック著/飯島周訳
四六判上製/228頁/定価(本体2233円+税)
飛行機事故のために瀕死の状態で病院に運び込まれた身元不明の患者X。看護婦、超能力者、詩人それぞれがこの男の人生を推理し、様々な展開をもつ物語とする。一人の人間の運命を多角的に捉えようとした作品であり、3部作の第2作。(1996.5)
本書は、カレル・チャペックのいわゆる哲学三部作の第二部『流れ星』の全訳である。
この作品は、一九三三年一月の『ホルドゥバル』(本選集第三巻。一九九五年刊)刊行の約一年後、三四年一月単行本としてプラハのFr・ボロヴィー社から発行された。ただし、実際には三三年七月中旬に「尼僧看護婦の話」の執筆に取りかかり、同月下旬に「千里眼の話」「詩人の話」が相ついで完成、九月中旬から十月上旬にかけてテキストの校正を行い、『リドヴェー・ノヴィニ(人民新聞)』紙に三三年十一月五日から三四年一月十日まで連載された後のことである(なお『平凡な人生』は三四年七月に書き始められた)。
前述の『ホルドゥバル』は現実の新聞記事にヒントを得たもので、殺人事件を中心にして、比較的わかりやすい筋になっている。それに対し『流れ星』は、飛行機事故によって瀕死の重傷を負った正体不明の男を対象にして、さまざまな推理が行われる様子を描き、幻想性と哲学性のからみ合った作品である。もちろん詳細については、直接読者にお読みいただくのが基本であり、その理解も評価もすべて読者におまかせすべきものと考える。しかし、一つの見方として、参考のために簡単な内容紹介をしておく。
ヨーロッパのどこか(おそらくチェコ国内の想定であろう)で、すさまじい強風の日に飛行機の墜落事故があり、パイロットは即死し、重傷のため意識不明になった乗客の男が、最寄りの病院に運び込まれる。身元を証明するものは一切なく、名前もわからぬこの人物は、「患者エックス」として登録され、その肉体を唯一の手がかりとして、外科医と内科医が、かなり客観性のある診断を下す。病院にたまたま居合わせた尼僧看護婦、千里眼の超能力者、詩人の三人も、それぞれの立場、知識、経験から「患者エックス」の過去を推測してそれぞれの物語を作り出す。
まず、敬虔な宗教精神に燃える尼僧看護婦は、自分のみた神秘的な夢を基礎にして「患者エックス」の愛と罪の意識を中心に、愛と生と死の統合を求める人間の努力についてのロマンスを語る。
千里眼の超能力者は、テレパシー的な感応力を持ち、精神を集中して「患者エックス」の実体に迫ろうとし、「患者エックス」と同一の症候と生活の記憶を持つようになって、無意識にスペイン語を口から出したりし、その結果、反抗と孤独が「患者エックス」のロマンチックな放浪の原動力であり、必然的に「まるで流れ星のように」「自分の後に炎を一筋残して」帰還する運命だったと断ずる。
最後に詩人は、自身の創作の秘密をも打ち明けるような形で、物語を作るのは建築よりも狩猟に似ていると主張し、純粋な想像と直感に従って書き、「患者エックス」の肉体と偶然性・必然性のからまりをデータとして、愛と波瀾に満ちた冒険物語を構成する。
医者たちの科学的な診察とは異なるが、三人の物語に共通なのは、「患者エックス」が富裕な家庭に生まれたこと、早くに母を失ったこと、父親に反抗し不幸な少年時代を送ったこと、ヨーロッパを去って各地を放浪し最終的にはカリブ海の島々、西インド諸島で生活していたこと、何かの理由で狂気のように帰国を急いでいたこと、などである。そして、この作品全体は伝統的な長編小説の形式に属するが、各所での論議は、人間の本性とその行動の動機、人間そのものと人生の価値についての認識論に発展する。チャペックの作品のもつ哲学性が、この作品の中では正体不明の人物をめぐって展開され、かなり高い水準に達していると言えるだろう。
強風の吹き荒れる病院の庭を観察しながら、頭の中でエピソードを描いている詩人の姿で幕を開け、患者エックスの死と二人の医師の対話で終わるこの作品は、敵対意識を持つ詩人と千里眼とのやりとり、文字通り慈悲心に満ちた尼僧看護婦の献身的看護、一見素っ気ない外科医と経験豊富で指導力を発揮したがる内科の権威との微妙な会話などを一種の背景とし、エキゾチックな南海の島々での多彩なエピソードが盛り込まれている。特に作者の明確な分身である詩人の物語の中には、植民地での具体的情況、植民地的搾取、白人と有色人の差別が描かれ、作者の人間に対する基本的態度を示す。尼僧看護婦のやや夢幻的な想像、千里眼の皮肉っぽい分析に比して、詩人の物語は、キューバ人やその娘などの登場人物や細部についての信頼性と説得性が高いように思われる。詩人の直感を重視するのは作者の特徴でもある。
この作品の全体的理解を深めるには、もちろん哲学三部作の内部的関係が重要な参考事項になる。チャペックの作品の中での哲学三部作の位置づけはほぼ定着しており、「真実とは何か」という問いかけに基づく「個人の運命と内面生活の問題」の追求を主なテーマとした作品群に属する、とされる。ただし、この問題については、拙論「人間の魂の価値――カレル・チャペックの哲学三部作」(『ユリイカ』一九九五年十一月号)、および本選集第五巻『平凡な人生』(一九九七年刊行予定)の巻末に訳出予定の原作者による三部作の「あとがき」を参照していただきたい。
この作品の文体は全体的にかなり複雑である。地の文と作中人物の心の動きや発言などがはっきり区別されぬ部分もあり、引用符の使用も込み入っている。さらに医学中心の専門用語、古典からの引用、スペイン語を主とする外国語の混在など、翻訳に工夫を要する点も多い。それらの中で注意すべきものの一つは、第二八章にあるA・ランボーの詩の修正引用であろう(ついでながら、チャペックの翻訳詩集は、当時のチェコ詩にかなりな影響を与えた)。原詩とはかなり異なっているが、イメージとしては共通性があり、『流れ星』の作者は「 見 者 」としてのランボーに共感を抱いていた可能性がある。「見者」は「千里眼」と通ずる存在であるから。この作者には比較的少ない官能的な描写が、この作品には豊富であることも注目に価いする。ついでながら、チャペックはスペイン文化にかなり興味を持っていた。実際に一九二九年の十月にはスペインを旅行し、翌三〇年にはその旅行記を発表している。イギリスのプリマスでの自身の経験も本書の中で生かされているが、それはチャペックの『イギリスだより』(一九二四)を参照すれば明らかである。
なお、底本は『ホルドゥバル』と同一のチェコスロヴァキア作家同盟版『カレル・チャペック作品集』第八巻(一九八四)である。
偶然地上に落ちた謎の隕石の由来を探るようなこの作品は、結局は人生の謎ときに通ずる要素を持ち、興味は尽きない。前述の、作者自身の「あとがき」中の表現を借りれば、「空から落ちて来た男はさらに新しい、新しい物語を経験するだろう」。この感想は、相対主義者チャペックの、文学的キュビズムの手法によるこの作品にふさわしい。