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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 04 . 03 up
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5月1日

 すべての過去はこんな一日を創造するためにあったのだ。これ以上望むべくもない一日だ。神は冬麦の緑を、ライ麦の緑を見てまわっている。ツバメは奇跡そのもの。森を、裸の白樺を、針葉樹の森をへめぐる神がいて、夕べにはその暗い樹幹に射し込む真っ赤な空焼け、眠る川――これを奇跡と言わずになんと言おう! やがて神もお休みになった……(神は悩まず)
 おとぎ話一巻、すなわち春、夏、秋、冬の物語。夏は『女の水たまり』、秋は『鳥の墓場』

『女の水たまり』(初出「談話」紙/1912年12月25日)、『鳥の墓』(副題「村のエスキース」初出「ロシア思想」誌/1911年第7号)

5月2日

 ついに来た、〈春〉創造のすべての基となる天国の一日が。わたしは自問した――こんな一日を創造された神はどんな気分でおられるのだろう、それでこの先はどうなるのだ? それから自らに答えた――神はお休みになられた、造物主としての神はもうおられない、神はすでに被造物である、と。とはいえ、神の安息期間はそう長くない。誇らしげな五月晴れ。だが地平線には早くも煤のような霞がかかり始める。そして夕方には日を黒雲が覆った。落ち着きを失くし、いくらか混乱をきたしたようで、地平線上に身を横たえながら神は、自らお造りになった一日をいかにも不満そうに眺めていた。

 リョーヴァが訊く――どうして僕らは、春には冬が嫌いになり冬には秋が嫌いになるんだろうね? ずっと好きでいられるものがないのは、どうしてなの? わたしもやはりほんの子どものころに、 ぜったい壊れない永遠の玩具はないのかと自問したものだが、答えはいつも「そんなものあるわけがない」だった。
 そんな問いを繰り返しながら大きくなっていくのだ。わたしたちは、永遠なる玩具が存在することも、永遠なる一季節がほかならぬ自分らの内部に植え付けられていることも知らない。たださまざまな環境での成長があり、そのさまざまな環境で、われわれは各人各様の成長の姿を見ているということだ。
 人間は幼年から老年に至るまで、生まれたときとさして変わらないが、森の小さいエゾマツは成長とともにさまざまな気層を突き抜けて、どんどん高く高く移動していく。

 針葉樹の森では例によって、松は白樺に取って代わられ、白樺はエゾマツに駆逐されて、エゾマツが生えていた場所にはニワトコやネズやハンノキが繁茂している。そんなふうにしていずれヒトの属(ロード)も死滅するのである。
 商の族(ロード)が死に絶えるのは、そこでは精神(霊)的財貨が育たないからではないのだろうか? その一方で、貴の族(ロード)では良き伝承(プレダーニヤ)が世代から世代へ伝えられていく

出自へのこだわりか劣等意識か。「エレーツ高等中学の先輩(両者とも中途退学)である詩人(イワン・ブーニン)は貴族の出だが、プリーシヴィンの一族はエレーツの仲買人だ」は、イワン・ソコロフ=ミキトーフ(作家)の走り書き。

 親愛なる友よ、よろしいか、わたしはたった今、生の秘鑰(ひやく)を手に入れたのだ。生きるために一人びとりが国家たることを学ぶ必要があるし、ヒトとモノとを自らの市民と呼ぼうという心構えが、そして決して自分とこの市民をごっちゃにしないことが必要なんだ。まあ落ち着いて、心の臓をぎゅっと引き締めて、冷静に自分の周囲を見まわし、その冷静な瞬間(とき)を捉えて、身のまわりのモノを並べ(置き)換えてみる。そしてそのあとに行動を起こすこと――自分がツァーリであるかのように。まわりにあるモノはどれも臣下であり、それらがすべてあなたたちの国家であるかのように。モノを配置し、彼らの声を心ではなく知力(ラーズム)で聞くことだ。そうでなければ、必ずやあなたたちは自分と自分の臣下たちとをごっちゃにして、彼らに敗れ、彼らによって尊厳を踏みにじられてしまうだろう。自分の周囲を見渡して――時代の予言者のうち誰が自分の国家を持たずに生きているかを見よ。たとえばメレシコーフスキイは国家の敵ではないか、彼の私生活を見れば、彼が自分の私的な国家のいかに複雑な網を利用しているかわかるはず。それは怪しい新聞とも関係しているし、それは洗練された〔優雅な〕仲間社会(付き合い)への道や何やになっている。夢見る〔ロマンチックな〕人物はいずれもきっと、自分の私的な国家の網に覆われている。わが国の詩人たちは二つのグループに分けることができるだろう。一つは狡猾漢たちによく見られるように、国家の〔権力〕を認めずに網を利用するタイプ、一つは偽善者がよくするように、〔利益〕のために〔権力〕を認めるタイプ、もう一つ挙げれば皮肉屋のごとく……要するに、一方はこの矛盾の〔不可避性〕を信じないし、もう一方は、信じてはいるが生活のために利用しているだけなのだ

似たような記述がずっとあと(「革命」後)にも。『ロシアの自然誌』(1925)の 春の章には――「(村ソヴェート)議長には――」と、製粉所の青年。「タイプが三つありましてね、まず一番目は、こと村に関しちゃ身を挺してとことん頑張る奴、みんなのためなら何でも(そうとう汚いことでも平気で)やるというタイプ。次が、ソヴェート権力を認め、誰の害にもならず、ただひたすら出世街道を驀進するたタイプ。最後が、社会をダシにしてもっぱら私腹を肥やすタイプ。ここの議長は二番目の――ソヴェート権力を認め、社会に対して害をなさず、ひたすらキャリアを積むってタイプですね」

 われわれにとっては他民族によって国家を破壊されるほうが、むしろ善いのかもしれない。だが、まずいのは、彼らの破壊が、外部のものにとどまらず、われわれの心や人格にまで及ぶこと。じつにそのために自分はドイツ人の敵なのだ。わたしは敵である、なんとなれば、わたしの個性・人格は、いずれにせよ国家そのものと結びついているし、私的な国家に基礎を置いているからである。そのうえ、わたしが自分の国家と内的につながっていれば理論的にも、私的利益でつながっていれば実際的にも敵である。つまり、われわれはみな敵対的勢力であるということだ。
 戦争をそうした角度から研究するのも一興ではないだろうか。かつて登場人物はみなそれぞれが私的国家のツァーリであった。では、そうした私的国家のツァーリたちがなぜ互いに手を結び、強大なロシア国家となって、戦争に突き進んだのか?
 概して社会主義者たちは、肥え太ってから国家の一員となった。それで戦争に加わった。
 あるいはこうも言える――祝福さるべきもの(благословенные вещи)が傷つけられた、それで自分は敵に向うのだ、と。モノ・国家・臣下への完全拒否は反戦に一票を投ずるものだが、しかしそれはすでに死〔死票]と称されている。

 妻――初恋の永久(とわ)の記憶*1。どういう妻でもかまわない、初恋の相手であってもそうでなくても同じこと。過ぎし日はどの日もあの初めての日とは違うだろう。過ぎし日があの日でないこと――そのことがその日とその女性の記憶を永遠に呼び起こすのだ。このテーマを創出するのは夢である。まさに大いなる民衆出の奇蹟劇(ミステリヤ)。なぜか、深い皺を刻んだ、全身黒づくめの老婆が登場する。そばに寄るほどに、老婆はどんどん若返っていく。奇蹟が起こる。老婆は、若々しいふっくらしたロシア女に、いや厚く白粉を塗ったオーフタの聖母*2そっくりのロシア女に、変身する。そんな夢心地のうちに始まるのが〈謎解き〉である。老婆は自分が結婚した(くなかった)女教師*3で、若い聖母はフローシャ〔妻のエフロシーニヤ・パーヴロヴナ〕だ。それでそのあとひょいと浮かんだのだのが、今ある唯一の結婚と偶然の結婚という考えなのだった。

*1ヴェーチナヤ・パーミャチ(вечная память)とは、葬式の結びの歌あるいは弔辞・祈禱の決まり文句。「永久に追慕されんことを!」の意。

*2オーフタの聖母と呼ばれた、ペテルブルグはオーフタ地区の宗教セクトの創始者、ダーリヤ・スミルノーワ。裁判にかけられシベリア送りになった。(十五)の注を参照のこと。

*3母が薦めた結婚相手。

亡き母への手紙

 故郷フルシチョーヴォに腰をすえて家族を安心させなさい――そう言われるだろうことはわかっています。はじめ自分もそうしようと思ったのですが、自分にはある疑い――あなたがわたし〔の分として〕遺してくれた土地を兄弟たちがちゃんと公平に分けてくれるだろうか――そんな不信感があったのです。そういうわけで自分はまた別のプランを考えました。それは、グリーシャの提案を受けて、ペテルブルグ近郊に土地を買って彼の隣に移り住むことでした。どちらを選択するかは兄弟たち次第なのです。近いうちにフルシチョーヴォへ行こうと思っています。そうすればだいたいのことがわかります。一家してペテルブルグに住むのは不可能です。小説で月300ルーブリ稼ぐなんてとても無理。秋までに片がつかなければ、冬はピーチェルにどっか小部屋を借りて暮らすことになるでしょう。わが国が直面している事件〔第一次大戦〕は大事(おおごと)で、それは個々人の運命に直結しています。現にセリョージャ〔弟〕は戦場です。そのためなかなか話が先に進まないのです。時どき森の中であなたのことを思い出します。風が鳴ると、それがみなあなたたち〔今は亡き人たち〕が一緒に暮らしている――そんな気がするのです。あなたは今、みんなと一緒にそこに、森や風や水の中にいるのですね。人間の十字架を負うとは、なんと奇妙ななんと苦しいなんと厄介なことでしょう。自分はこれまで、まだ死と和解していません、自分は死を乗り越えられるだろうと思っているのです。それが生の欺瞞であることは知っています。でもその欺瞞を最後まで心に留め置いて、それがより多くの真実(プラウダ)を生むようにすればどうなのでしょう? あなたがわたしにどんな忠告をするだろうかとずっと考えています。そしてわたしがあなたにいちど小部屋の洗面台のそばで熱弁をふるったことなどを思い出します。こんなことでした――そんなこと(外面的な生活の確立)はつまらない、そんなつまらぬことは踏み越えて、創造の、普遍的生活の広大な空間に向かって邁進すべきなんだ……何かそんなようなのことを弁じたのでした。するといきなりあなたはわたしを――生活の資はこつこつ働いて得るという自分のいつもの信念を忘れて――熱烈に支持してくれたのです。そうです、あなたはそんな平凡な暮らしを憎悪していたのです。あなたはちょっとした旅に出るときでも、別人のようになり、心が大きくなったものです。そんなにも喜ばしくそんなにも広いなたの雅量にわたしは最後まで自分を支えてくれるという期待を見出していたのでした。
 最近、夢見や家庭内のいざこざから、あることを――あなたが自分をある女教師と結婚させかねまじき行動を起こし、こちらはそれを断固ことわって自分の道(突飛な道)を突き進んだことを、思い出しました。現在の自分の暮らしを見れば、そっちの結婚のほうがはるかに有益だったことがわかります。子どもたちの教育、世間との付き合いその他のことは言うに及ばず、自分の個人的成長さえ望めたでしょう。なにしろそんなひとと所帯を持てば個人所得だって10倍も増えるのですからね。でもその女性は夢の中に老婆の姿をして出てきたのです。自分は常日頃から彼女に何かしら老婆じみたものを感じていました。ああ自分にはわからなかったのです――あなたの選択がわたしの二つの極端の中間にあったことが……しかし息子のためにその暮らしを支える中間の道を望まぬ母親などいるはずがありません……自分は後悔していない、でも、よく気が滅入ります。そんなトスカが、ふさぎの虫が、自分を文学に、夢想に追いやっているのです。夢を書くことで自分は、熟練した人間ならまあまあ中ぐらいの生活ができる程度のお金を得ています。何か馬鹿々々しいようなもの――中ぐらいの財産への憧れ、それとそういうものへの根深い軽蔑――も得ています。とはいえ、余計な自負や自惚れと戦えというあなたの遺戒は今でもずっと心にとどめています。

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