カレル・チャペック年譜

『受難像――チャペック小説選集1巻』より抜粋 - 1998.04.09

1890年(0歳)  1月9日、東ボヘミアのクルコノシェ山脈の麓の村マレー・スヴァトニョヴィツェで、鉱山・温泉場関係の医師であった父アントニーンと母ボジェナの間に、姉ヘレナ(1886〜1961)、兄ヨゼフ(1887〜1945)に次ぎ、末子として生まれる(洗礼名カレル・アントニーン)。

 6月には、開業医となった父の都合で、同じクルコノシェ山脈の麓の村ウーピツェに転居する(チャペックは幼少期をこの美しい地方で過ごし、その影響が諸作品に見られる)。

1895年(5歳)

〜1900年

 ウーピツェの小学校に通う。
1900年(10歳)  祖父が死去し、母方の祖母ヘレナ・ノヴォトナーとの同居が始まる(この祖母は、チャペックのチェコ語を豊かにしたと言われる)。また、兄ヨゼフが学業のために家族と離れて暮らすようになる。

 9月、市民学校に入学。

1901年(11歳)  6月、市民学校1年終了。

 9月、フラデツ・クラーロヴェーのギムナジウムに通い始める。

 秋、秘密学生討論クラブの委員の1人となる。

1904年(14歳)  4月23日、ブルノの週刊誌『ネヂェレ』に最初の詩『簡単なモチーフ』を寄稿。
1905年(15歳)  3月、アンナ・ネペジェナーへの恋(『アニエルカへの手紙』1978年刊参照)。

 7月、秘密学生討論クラブ参加のため、退学の勧告を受ける。

 9月、姉の婚家のあるブルノに転居し、チェコ語ギムナジウムの5年生に転校。

 11月3日、ブルノの週刊誌『モラフスキー・クライ』に、最初の評論「学生達から学生達について」(匿名)が掲載される。

1907年(17歳)  7月、1家はウーピツェからプラハへ転居し、兄ヨゼフおよび祖母ヘレナと再び同居。

 9月、プラハのアカデミツケー・ギムナジウムの7年生に編入。

 11月、兄ヨゼフと共著の最初の評論「プラハにおけるマーネス造形芸術家連盟の第23回展覧会」発表。

1908年(18歳)  1月18日、ヨゼフと共著で散文を『リドヴェー ・ノヴィニ(人民新聞)』紙に発表。以後、各種雑誌に寄稿。
1909年(19歳)  7月、ギムナジウムを優等で卒業。

 10月4日、プラハのカレル大学哲学部に入学。

1910年(20歳)  8月14日、詩人S・K・ノイマンとの文通が始まる。

 10月27日、ベルリンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学哲学部に留学。

1911年(21歳)  3月7日、ベルリンの大学を修了した後、兄のいるパリへ移り、ソルボンヌのパリ大学文学部に留学。

 4月、ヨゼフと合作で喜劇『盗賊』を書き始める。

 6月、パリの大学を修了。

 7月、兄とマルセイユに行くが、悪気候や病気に悩まされ、スペイン周遊を断念し、単独帰国。同月末、造形芸術家連盟に参加する。

 10月、カレル大学に復学。

 11月、単独での初めての散文『2度のキスの間に』を発表(当時、チャペックは、ほとんどの著作を兄のヨゼフと共同で執筆していた)。

1912年(22歳)  3月18日、祖母ヘレナ・ノヴォトナー死去。

 12月、近代フランス詩の翻訳アンソロジーを企てる。

1913年(23歳)  5月、詩『若き人生の時に』を書き、『アルマナフ1914年』に発表(S・K・ノイマンを中心とするこの発行グループは、チェコ文学史上、「1914年世代」または「チャペック世代」もしくは「プラグマティズム・グループ」と呼ばれ、後の世代に影響を与えている)。

 10月〜11月、著名な文芸批評家F・X・シャルダと論争。

1914年(24歳)  この年に第1次世界大戦が勃発したが、12月7日に徴兵を免除される(鼻骨の損傷のためという)。

 なお、『アルマナフ1915年』の発行が企画されたが、戦争のため挫折。

1915年(25歳)  10月、カレル大学に卒業論文『造形芸術を考慮した美学における客観的方法』を提出。論文は高い評価を受け、博士号取得試験を受けるように勧められる。

 11月29日、同大学の哲学博士号を取得。

1916年(26歳)  5月、フランス詩の翻訳に精力的に取り組む。また、『輝く深淵とその他の散文』を出版し、チャペック兄弟としてデビュー。

 6月、徴兵を再び免除(背椎リューマチのため)。

 8月、再び、フランス詩を精力的に翻訳。同月中旬、トレチャンスケー・テプリツェに移住した両親を訪問(以後、夏期はしばしば同地で温泉療養)。

1917年(27歳)  3月、週刊誌『ナーロト』の編集委員になる。ラジャンスキー伯爵の子息プロコプの家庭教師となる(同年9月まで)。

 10月、単独の初めての作品集『受難像』を出版。チェコ王立博物館図書館にボランティアで勤めるが、22日『ナーロドニー・リスティ(国民新聞)』紙の復刊に協力を要請され、編集に加わる。

1918年(28歳)  3月、『プラグマティズム、あるいは実際生活の哲学』出版。

 6月、『クラコノシュの庭』(ヨゼフとの合作、1908〜1912年に創作した短篇集)出版。

 12月16日、チェコ・アカデミーは、『受難像』に6つの年間賞のうちの1つを授与。

1919年(29歳)  4月、アポリネールの詩『ゾーン』の翻訳を出版。

 6月、S・K・ノイマンとナショナリズムについて論争。

1920年(30歳)  3月、戯曲『盗賊』出版、同月2日、国民劇場で初演。

 春、戯曲『ロボット(RUR)』を完成。

 4月、フランス近代詩の翻訳アンソロジー『近代フランス詩』出版。

 夏、同僚の娘である女優オルガ・シャインプフルゴヴァー(1902年12月3日生まれ)と知り合い、文通を始める(『オルガへの手紙』1971年刊参照)。

 10月、コラム集『言葉の批評』出版。

 11月、戯曲『ロボット』出版。『ナーロドニー・リスティ』紙の反マサリク路線に反対する社内抗議に署名。

 12月19日、ヴィエラ・フルーゾヴァーと知り合い、文通を始める(『引き出しの中からの手紙』1980年刊参照)。年末には、社内抗議の処分として停職を言い渡された兄と連帯して、『ナーロドニー・リスティ』紙を退職する。

1921年(31歳)  1月2日、戯曲『ロボット』が、フラデツ・クラーロヴェーで素人劇団により初演。同25日、国民劇場で上演。

 2月8〜10日、『盗賊』に客演するオルガと共にブルノへ旅行。

 2〜3月、映画『ルサルカ』のシナリオを書く。

 3月、短篇集『苦悩に満ちた物語』出版。戯曲『盗賊』が芸術家協会スヴァトボルのナープルステック賞を受賞。

 4月1日、兄ヨゼフと共に『リドヴェー・ノヴィニ』紙に入社、以後1938年の死に至るまで勤務。

 10月、ヴィノフラディ劇場の演劇顧問および演出家に就任。

 11月、戯曲『虫の生活より』(ヨゼフと合作)出版。ユリウス・ゼイエルの『古い歴史』を初めて演出。

1922年(32歳)  1月14日、モリエールの戯曲『スガナレル』を演出。

 2月、戯曲『ロボット』がナープルステック賞を受賞。戯曲『虫の生活より』が、ブルノの国民劇場で初演。4月8日には、プラハの国民劇場で初演。

 3月22日、ヴィノフラディ劇場でT・G・マサリクと初めて個人的に面識を得る。

 4月、小説『絶対子工場』と戯曲『運命的な愛のいたずら』(ヨゼフと合作)が出版される。

 5月、戯曲『マクロプロス事件』を書く。チャペック脚本の映画『金の鍵』が試写。

 6月、スロヴァキアの高タトラ地方に3週間の休暇旅行。

 10月、小説『クラカチット』の執筆を始める。

 11月、戯曲『マクロプロス事件』出版。21日に、自分の演出で初演。

1923年(33歳)  1月19日、T・G・マサリク大統領をプラハ城に初めて訪問。

 2月10〜17日、『虫の生活より』のベルリン初演にあたり、ドイツを旅行。

 3月、精神的危機が頂点に達し、健康状態も悪化。医者の勧めで、イタリア行きを決心する。同7日、『虫の生活より』が国家賞を受賞。

 4月10日、ヴィノフラディ劇場の演劇顧問の職を辞任。17日、イタリア旅行出発(〜6月8日まで)。

 6月後半、半年間中断した『クラカチット』の執筆を再開。

 7月初め、ヴィエラ・フルーゾヴァーの婚約にショックを受ける。

 9月、旅行記『イタリアからの手紙』出版。

 10月、母の健康不良のため、両親がプラハに転居。

1924年(34歳)  4月13日、母ボジェナ死去。

 5月、小説『クラカチット』出版。

 5月27日、ペンクラブのロンドン大会に招待され、大英博覧会取材を兼ねて英国旅行(〜7月27日)。J・ゴールズワージ、G・B・ショー、R ・W・シートン=ワトソン等と親交を深める。

 秋頃、自宅に多方面の知識人を招いて討論会を始める。当初は木曜日であったが、後に金曜日になり、「金曜会」と呼ばれるようになる。

 10月、旅行記『イギリスだより』出版。『クラカチット』が国家賞受賞。

1925年(35歳)  1月、ペンクラブのプラハ支部設立準備委員になる。翌月には、会長に選ばれる。

 4月6日、ジーチニー通りから、ヴィノフラディのウースカー通り(後にチャペック兄弟通りと呼ばれる)に転居。父、および兄の家族と同居する。

 5月19日、チェコ科学芸術アカデミーの文学セクションの会員に選ばれるが、後に重要な作家が加えられていないという理由から辞退。同月末、兄ヨゼフと合作で戯曲『創造者アダム』の執筆に取りかかる。

 9月、既存政党への不満と政治活動の健全化への希望から、新設の国民労働党に兄と共に入党(同党は選挙民の支持を得られず、数年後に自然消滅)。

 12月、コラム集『最も身近なものについて』、『芝居はどのようにしてできるか、および楽屋案内』(後に『何がどのように作られるか』に収録)出版。

1926年(36歳)  3月19日、チャペックの「金曜会」にマサリク大統領が初めて参加。22日、『創造者アダム』完成。

 5月22〜24日、プラハでの国際ペンクラブ会議に出席。

 9月下旬、マサリク大統領の回想録を作るため、トポリチヤンキの大統領邸に滞在。

 12月18日、『マクロプロス事件』を基にしたヤナーチェクのオペラをブルノで初演。31日、「金曜会」の代わりに大晦日の会を催し、大統領も出席(この会の余興が原因でジャーナリズムに論議が起こったが、後に解決)。

1927年(37歳)  4月12日、戯曲『創造者アダム』(ヨゼフと合作)がプラハの国民劇場で初演。翌月、出版。

 5月30日〜6月12日、チェコスロヴァキア新聞記者団の1員としてパリ訪問。

 8月、高タトラ地方に滞在。

 9月6日〜10月16日、トポリチヤンキの大統領邸に滞在。『マサリクとの対話』執筆の意向を固める。

 10月、小説『ヨゼフ・ホロウシェクのスキャンダル事件』出版。28日には、『創造者アダム』が演劇芸術国家賞を受賞。

 10月21日、イギリス国営放送BBCがチャペックのイギリスについての講演を放送。

1928年(38歳)  7月、短篇集『ひとつのポケットから出た話』および『もうひとつのポケットから出た話』に収められる大部分の作品が書かれる。

 8月5日〜月末、高タトラ地方を旅行。

 9月、トポリチヤンキの大統領邸に丸1月滞在し、『マサリクとの対話』第1部を仕上げる。

 12月、『マサリクとの対話』第1部を出版。

1929年(39歳)  1月、『ひとつのポケットから出た話』および『園芸家12ヵ月』出版。

 7月4日、父アントニーン死去。

 9月2日から、大統領邸に滞在し、数週間にわたって『マサリクとの対話』第2部を準備。

 10月、スペイン旅行。

 12月、『もうひとつのポケットから出た話』出版。

1930年(40歳)  4月、旅行記『スペイン旅行』出版。

 6月、文部省によりプラハ国立劇場問題の顧問に指名される。

 8月、9月、スロヴァキア旅行。

 9月末、大統領邸に滞在し、『マサリクとの対話』第2部を完成。

 10月28日、『ひとつのポケットから出た話』が国家賞を受賞。

1931年(41歳)  1月、国際連盟の国際精神協力委員会により、文学・芸術部門の常任委員に指名。

 2月、『マサリクとの対話』第2部出版。

 6月末、国際ペンクラブのハーグ大会に参加。オランダ旅行。

 7月8日、ジュネーヴの国際精神協力委員会に参加。

 12月、評論集『マルシアス、あるいは文学の周辺』および童話集『9つのお話と、もう1つおまけのヨゼフ・チャペックのお話』(奥付の発行年は1932年)を出版。

1932年(42歳)  2月、旅行記『オランダからの絵日記』出版。

 3月14日、プラハのペンクラブの講演でトーマス・マンに会う。

 8月3日、小説『ホルドゥバル』の第1部を書き上げる。17日よりカルロヴィ・ヴァリで温泉療養。

 同年、『外典』(後に再編される)、『1般的な事柄について、あるいはゾーオン・ポリティコン』出版。

1933年(43歳)  1月、『ホルドゥバル』出版。

 3月、チェコスロヴァキア・ペンクラブ会長辞任。

 4月、F・X・シャルダの提唱によるドイツ亡命者救援委員会に設立から係わり、常任幹部に選出される。

 6月後半、カルロヴィ・ヴァリにマサリク大統領を訪問。

 7月、小説『流れ星』を執筆(〜9月)。

 8月後半、カルロヴィ・ヴァリで療養。

 9月末〜10月初め、大統領邸に滞在し、『マサリクとの対話』第3部を準備。

 同年、『ダーシェンカ、または小犬の生活』出版。

1934年(44歳)  1月、『流れ星』出版。同月21日、チャペック自身の提唱による「経済危機に苦しむ子供の援助」のための作家、芸術家、科学者の呼びかけに署名。同月26日、社会援助組織「子供のための民主主義」の代表として共和国大統領に認可される。

 2月18日、チャペックの「英国人の民族的性格は外国人にどのように見えるか?」がロンドンで放送される。

 7月、小説『平凡な人生』執筆。8月13日完成。 9月2〜7日、第8回国際哲学会プラハ大会に参加。「民主主義の危機」部会で議長を務める。

 10月28日、『流れ星』が国家賞受賞。

 11月、『平凡な人生』出版。同月3日、プラハのラジオが連続講演「チェコスロヴァキアよ、どこへ行く?」を放送。

1935年(45歳)  3月8日、プラハのラジオが講演「マサリクとの対話はどのようにして生まれたか」を放送。

 6月、国際ペンクラブのバルセロナ大会で、ペンクラブ世界連盟会長H・G・ウェルズが後任にチャペックを推薦するが、辞退。同月21〜25日、パリにおける文化擁護のための作家組織の国際会議に参加。

 7月、オルガ・シャインプフルゴヴァーと南アルプスを車で旅行し、彼女に求婚する。

 8月20日、ヴィノフラディの区役所でオルガ・シャインプフルゴヴァーと結婚。義兄からプラハ郊外のストルシュの家を譲り受ける(以後、それを改築して別宅とし、そこで大部分の作品を執筆するようになる)。

 9月27日、カルロヴィ・ヴァリで、『山椒魚戦争』を完成。

 同年、『マサリクとの対話』の第3部および『マサリクとの沈黙』出版。

1936年(46歳)  2月、小説『山椒魚戦争』出版。 6月、ブダペストにおける国際連盟付属の文学芸術のための常任委員会主催のシンポジウム「現代世界における人文科学の役割」に参加。

 7月、妻オルガと共にデンマーク、スウェーデン、ノルウェーを旅行。オスロのペンクラブ夕食会で講演。

 11月、ノルウェーの新聞雑誌に、ノーベル賞をチャペックにという提案が掲載される。

 12月、旅行記『北方への旅』出版。

1937年(47歳)  1月、戯曲『白疫病』出版。29日には、プラハとブルノで初演。

 6月20〜24日、国際ペンクラブのパリ大会に招待され、妻オルガと共に参加。

 9月、マサリクの葬儀に際し、『9時間の道程』を執筆。

 10月、小説『第1救援隊』出版。28日、戯曲『白疫病』が国家賞受賞。

 同年、『新聞はどのように作られるか』出版。

1938年(48歳)  2月、戯曲『母』出版。12日、スタヴォフスケー劇場で初演。

 3月、エッセイ集『何がどのように作られるか』出版。

 6月22日、ドイツ人聴取者へのチャペックのスピーチをラジオが放送。

 6月27〜30日、国際ペンクラブのプラハ大会に参加、各国の作家と交流。

 8月、『マサリクとの対話』の若者向け版作成開始。

 9月21日、国境問題でドイツに譲歩することを強いる英・仏政府の最後通告をチェコ政府は受諾する意向を固め、チャペックはこれを国民に知らせる宣言文の推敲をする。同月30日、ミュンヘン会談の日に、チェコスロヴァキア作家同盟の呼びかけ「世界の良心へ」に署名。

 秋、ルイ・アラゴンの提唱のもと、フランスの11人の作家が、チャペックにノーベル文学賞を与えようと、他の作家たちにも呼びかける。

 11月〜12月、右翼系新聞雑誌がチャペックを中傷するキャンペーンを行う。

 12月中旬、流行性感冒にかかる。1時回復するが、19日に再び床に臥し、腎炎を併発。23日には、両肺に炎症を併発。

 12月25日、18時45分、死去。『リドヴェー・ノヴィニ』紙は、彼の最後のコラム「あいさつ」を掲載。小説『作曲家フォルティーンの生涯と作品』の草稿が未完で残る。29日、ヴィシェフラト墓地に埋葬される。

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