リレーエッセイ

第51回 - 2003.10.03

拙著『日露戦争100年』の刊行に寄せて


――祖父の日露戦争実戦談――

松村 正義

 この度、成文社から小著『日露戦争100年――新しい発見を求めて――』を上梓することになったが、その「あとがき」の中で、祖父の内田石太郎が旅順要塞の攻略に参加した日露戦争について少々言及した。ただ、紙数の都合もあって多くを触れるわけにいかなかったので、ここに若干の補足をしたい。

第九師団の諸隊が攻撃占領した二竜山堡塁記念碑の前に立つ筆者(左)
 すでに逝ってもう四十数年にもなる母方の祖父・内田石太郎(明治11年〜昭和32年)がまだ存命だった頃に、筆者がその祖父から時折り聞いた日露戦争の実戦談を今でも断片的に憶えている。祖父は、乃木希典将軍麾下の第三軍を構成した第九師団の工兵隊員として旅順要塞の攻略戦に参加したのである。ある時、ロ助(ロシア兵を祖父はこう呼んだ)から分捕ったものだと言って、20センチほどの深さのある円形の革製カバンを筆者にくれた。戦場でロ助がそのような形の革カバンを何のためにどう使ったのかは知らないが、幼少の筆者は、その革カバンの中に将棋のコマを入れて遊んでいたのを思い出す。また祖父は、満洲事変や上海事変に続いて支那事変が開始され、いわゆる日中戦争が本格化してくると、叔父を始めとした何人もの出征兵士を田舎(福井県三国町)の駅で見送る度に、日露戦争時のあの紫色の(工兵であることを示した)襟章が付いた黒地の軍服に金鵄勲章を付けて、日の丸の旗を振っていた。そして帰宅すると、その軍服の金色のボタンを丁寧に磨いていた姿が思い浮かぶ。

 その祖父から聞いた話として、敵が撃ってくる弾丸を避けるために、塹壕を「く」の字のように何度も屈折させて掘り進み、ロ助の堡塁にかなり接近したところで、掘り進んだ塹壕の先頭に爆薬を仕掛け爆発させることによって、それらの堡塁を爆破しつつ前進したと言っていた。しかし夜ともなると、その掘り進んだ塹壕の先頭で、長い竿の先に日本酒を括り付けて敵の方へ静々と差し出すと、ロ助の方も心得たもので、その竿の先端に見返りとしてウオッカを括り付けて返してきたとも、祖父は笑いながら話していた。日露戦争では、両軍間に憎悪のたぎる激しい阿鼻叫喚の戦闘が繰り広げられた反面で、そのような何とも微笑ましい人道的な戦闘小休止の場面や時間もあったようである。

 実際にも、筆者は、それから100年近く経った1997年の3月下旬に初めてその旅順攻防の旧戦場を訪れた。その折り、203高地の東側に位置して、「明治三十七年十月以来第九師団ノ諸隊之ヲ攻撃シ同年十二月二十九日占領ス 陸軍少将山田良次 碑名ヲ書ス 大正五年十月 満洲戦蹟保存会」と刻印された、背たけ6〜7メートルはありそうな高い記念碑の立つ二竜山堡塁跡の頂上に立った。そして晴れ上がった碧空の下、その頂上から、「く」の字のように折れ曲がって掘られた塹壕の痕跡を微かに見出しながら、遥か遠く原野と丘陵の続く北の方へ眺め渡した時、生前の祖父を思い出し、万感の思いが去来するまま暫し佇まざるを得なかった。あれより100年近くを経た今日、ハイテクを駆使する現代の戦争と比べて、戦争というものの有り様に隔世の感を強くするが、一方でまた、それが筆者の祖父たちによって戦われた国家の存亡を賭ける大戦争であったことに、非常な感慨を抱かざるを得ないものがあった。

 今や、中国のしたたかな意図もあってか、それら旅順の観光化された旧戦場跡が、極東ロシアはウラジオストクの巨大な旧要塞跡も含めて、一般に公開されるに至ったため日本人にも見学できるようになった。時代が変わったといえばそれまでながら、そのような新しい息吹きを感じる現代への変遷変容を顧みる時、日本にとってもロシアにとっても、韓国や中国にとっても、否、さらに広く世界にとっても、過ぎし日露戦争とはいったい何だったのか。同戦争の勃発からまさに100年になろうとする現在、人類史上に改めて問われるべき重要な命題に他ならない。図らずも2年前に、微力ながら日露戦争研究会の会長に推された筆者にとって、この『日露戦争100年――新しい発見を求めて――』と題したささやかな小著が、そのように重要な歴史的課題の究明へ向かう大きな動きの狼煙ともなってくれれば、望外の至りである。




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