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プリーシヴィンの日記 太田正一
2012 . 03 . 04 up
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(1917年7月3日の続き)
エレーツ市のポグローム。7月4日、地元の守備隊のばらばらの武装した連隊とボリシェヴィキを名乗る者たちに唆(そその)された群衆が、軍の司令官や食糧管理局長、多くの大商人たちを半殺しの目に遭わせたあと、個人財産を略す目的で軒並み家宅捜索を始めた。
さんざんな目に遭わされた者たちは過剰に食料品を溜め込んだとして詰め腹を切らされたのだが、しかしそれらは、ほとんどの場合、食糧管理局に登録されていたものであることがわかった。暴動の真の原因は――1)食糧不足から管理局が白パンの不平等な配給を行なった。2)野良仕事を免除されていた兵役免除者(ベロビレートニキ)に兵役義務を課そうとした。3)胃袋と心の欲求を人質に取って黒い勢力〔黒百人組その他の極右団体〕を煽動した。
ブラックリストに載っていた面々に対する懲罰は、まさにアジア的残酷さそのものだった。靴も履かせず市中を引き回し、横から殴りつけ後ろから蹴り上げて、口笛を吹き野卑な歌をうたって踊りはしゃぎまわった。そんな虐めに市街区の女たちも加わって(その数や恐るべし!)、狂ったとしか思えないような金切り声を発していた。
幾人かを除いて執行委員たちも警察も姿を見せなかった。おそらく出だしで大きく躓き、予想外の暴乱に恐れをなして決断力を失ったのだろう。とはいえ、ポグローム当日には公共団体の代表者から成る臨時の治安委員会が組織されており、執行責任者〔であるコメンダント〕は徴発隊と査問委員会を設置していたのである。7月4日の夜までに捜査はずっとまともな性格のものになり、5日以降、略奪行為は完全になくなった。
現在、権威を失墜した者たちが徐々に復帰しつつある。ロシア人民連盟の前の議長のルゥードネフは逮捕されたものの、今ではボリシェヴィキとして活動を再開している。
騒動は仮面をかぶった反革命だ。以前はだんまりを決め込んでいた右〔翼勢力〕が今では〈おとなしくなった活動家たち〉に、口を揃えてこう言うのだった――『ああ、これがおまえさんたちの革命なんだ』。
注目に値するのは、官僚も食糧を隠匿していた商人と同罪であると理解した農村がこうした野蛮なアジア的懲罰を当然の報復と見なしていたことである。
エレーツの事件から一夜明けても、わたしが知り得た情報はごく限られたものだった。
事件当日、村にいたわたしのところへ一人の農夫がやって来て、〔自分が町で見たり聞いたりしたことを〕いろいろ話してくれたのである。
財産関係――ダーチャと庭と19デシャチーナの畑とが自分の監獄になった。貸しには出せない――禁じられているから。労働者を雇うこともできない――労働者がいないから。土地委員会に渡すこともできない――委員会がフートルを村委員会に管理を委ねれば、近隣の農民がクローヴァーを掘り返し、土地を分配して、めちゃくちゃにしてしまうだろう。公園の木は切り倒され、庭園は荒らされ、家そのものも解体されてしまう。
家族関係――エフロシーニヤ・パーヴロヴナに仕事は任せられない。なぜなら、彼女も頭の足りないヤーコフも放って置けないから。彼女はお金のことで喚き立てるだろうし、ほかの子たちもヤーコフに駄目にされてしまう。これではすべてお仕舞いだ。ヤーコフがすべての障害……
農作業関係――日照りで野良仕事に支障が出ている。雨が降り出した。さあ、土を均(なら)し、耕さなくては。干草が濡れてしまった。どうして乾そうか? 何で運び出す? 馬か? ああ駄目だ、使えない。ライ麦が熟れている。
一日どっかへ出かければ、それですべて調子が狂ってしまう。足がないので、たとえ書けたとしても送れない。書けないのは事件の経過がよく掴めてないからだが――ともかく今はそんなふうだ。
すべての背景にインターナショナルなものとナショナルなものがある。世界平和のスローガンが掲げられたが、その鼻っ先でウクライナとフィンランドが大きく伸びている。ドイツと戦う気がなくなった。でもまだ殴り合っている。社会主義者たちは国民を実現不可能な〈統一〉でもって惹きつけている。
エレーツのポグロームは轟く雷鳴――アジアからの。新しい組織という組織がガラスのように飛び散った。ガラスを割るにはあんな遠落で十分なのだ。
殴る蹴るのあんな乱暴狼藉は革命の埋葬ではないか。
ペトログラードの革命の日々が、なんだか今では、若かりし日の(欺かれた)幸福のファースト・キスのようである。
あれから十何年も経っているのに、まだ夢に出てくる〔ワルワーラのこと〕。丸太で出来た部屋のソファーみたいなものに横になっている――明るい甘美なただ一つの思い出だ。思い出はそれでお仕舞い。それっきり。だが今度は、その部屋の真中のあるモノから、いきなり想念(ムィスリ)が湧いて出て、壁の中からもクマネズミ――大き過ぎて壁の穴もやっと通れるほど――が出てくる。それを自分は捕まえたくなり、指をいっぱいに(恐ろしいほど)広げて向かっていく。で、なぜかそのあと、祈りの言葉が口をついて出る――『ああ、お願いです、戦争をやめさせてください!』。
新たなこの動乱(スムータ)の時代に――一人二人どころか何千人もの僭称者のドミートリイが民衆を欺き、怪しい外国語で彼らを訳のわからないところへ引っぱっていこうとしている。
町が破壊されていく。町ばかりでない、田舎も、混乱し崩れかかっている。自然が無分別な者(狂人)たちによって遺棄されたまま。
庭園、森、畑〔野〕はどこでも樹木と草と麦穂が和気藹々(あいあい)とやっているのに、人間たちは兄弟同士がぶつかり合っている。
女地主〔長姉のリーヂヤ〕は旧い家の奥に閉じこもって考えている――悪の根源は百姓たちだ、百姓たちが謀議して自分の財産を掠め取ろうとしている、と。だが、その〈彼ら〉は存在しない、共同謀議もなかった。彼らはもっと苛烈に自分たち同士で奪い合っているのだ。さらに驚いてしまうのは、互いの略奪の凄まじさと比べたら、女地主の被害などいくらでもないという事実。
お昼にしようと畑にプラウを置いたまま家に戻れば、もう無くなっている。ライ麦畑から牛を追い出すために木に手綱をかけても駄目。忽ち持っていかれてしまう。とにかく何でも無くなってしまう。
ペーチ〔竃また暖炉。ペーチカはその指小形〕職人は仕事が無くてぶらぶらしている。煉瓦が高騰して誰もペーチを造る決心がつかない。ペーチ職人は煉瓦を焼いていない。誰も高価な煉瓦を買わないので。
生活の簡素化。砂糖の配給は月に2分の1フント、それもはっきりと決まっているわけではない。お茶はやめにしてミルクを飲んでいる。町の市場ではタバコを売らない。それでタバコもやめた。肉も無い。カーシャとミルクと黒パンだけ。そんなことはなんでもない――目的意識さえあれば、むしろ喜んで実行できる。肉〔欲〕を抑えても魂は豊かにならない――苦行者(アスケット)がそうであるように。
所有権の杭に引っかけられている(あるいは白い雄牛のおとぎ話〔1916年2月14日を参照のこと〕)。二つの時代――若いときはマルクス主義者で獄に繋がれ(子牛がいきなり冬の小屋から見たこともない野原へ追い立てられ、ただもうどんどん駆けて駆けて、とうとうぶっ倒れてしまった)、今は所有権の牢獄に繋がれている。
川漁師のワシーリイ・ゲラーシモヴィチはイギリス製の釣竿を持っている。銃もイギリス製で、それで野ウサギを撃つ。そしてずっと革命家だったのだが、ポグロームが起こったとき、銃は取り上げられ、釣竿はほかのものとごちゃごちゃにされてしまった。これはどういうことかと、頼りなげに訊いてみた。すると返ってきた答えは――『おまえさんは革命をやってたろう? みんながやったが、おまえもやったじゃないか』―『いや、自分はいたっておとなしい人間なんだが』と、ヒマワリの種を齧りながら言う。おお、そうだ、このテーマでポグロームのエピソードが描けるかも。
遥かなるわれらが歴史の道は死せる(所有者たち)の蘇生の旅程だ。これはとても避けられない。なぜなら、われわれの意識の中にも他の道(共通の)は無いから。社会主義者たちの破滅は避けられない。
7月8日
リーヂヤがわたしとは財産を(馬具から箱の類まで)とことん二分しようと言い張っている。とにかく自分たちの間の〈マテリアルなもの〉が落ち着くところに落ち着いたら良い関係でいられるから――そう期待してのことなのである。だが、まったく互いに頼ることをやめた時点で、会って話をすることもなくなってしまった。
革命の急進派は、国民周知の皇帝ニコライ二世の無能を利用して、その事実でもって右派の連中を黙らせたのだ。
〔報告の準備〕。4月7日にわたしはルーシを見ようとペトログラードをあとにした。ロシア人がこれからどう出てどう振舞うか――これまで自分が見てきたものがどれも新しい名で呼ばれることをわたしは期待しているのだ。
7月10日
静かだ。春のごとき冬と嵐が過ぎ去り、再び庭は緑に色づく。額に班のあるわが家の子牛が杭のまわりを歩きながら、もぐもぐやっている。わたしはテラスに坐って、手すりに肘を突いている。なんだか船にでも乗っているようである。船は時間の中を疾走する。
7月11日
よくわからない――よく乗り均した馬車の轍(わだち)が光っているのか、それとも野を越えてきた鳥の鳴き声? それとも日を隠した雲のせいか――不意に秋の気配。新たな欠乏と困窮と心労をもたらす秋ではなく、わが祖国(ローヂナ)の秋だ。肉親やプーシキンやグレーチ*1やネクラーソフを、叔母たちや村の農夫の男たち女たちを、タールを、荷馬車を、野ウサギたちを、定期市(ヤールマルカ)を、庭の林檎の木を、春をも冬をも、そしていまだ解き明かされない、愛ではち切れんばかりの心にありったけの期待と希望と夢とを引き連れてやって来るあの秋の気配が、ふと漂った。なのにそのあと、それは唐突に滅びにかかったのだ。すでに以前から自分はぼんやりとだが、ロシアの民の新たな苦悩を、新たな十字架を感じていた。だから、どうして行かなくては、贖わなくてはならないのだ*2――でも、どこへ? 何を? 何を贖うのか?
*1ニコライ・イワーノヴィチ(1787-1867)はロシアの文学者でジャーナリスト、言語・文学研究家。ペテルブルグ・アカデミー会員。1812~39年(1825年からはファヂェイ・ブルガーリンと)雑誌「祖国の息子」を、1831~59年までブルガーリンと日刊紙「北方の蜜蜂」を発行。1825年以降にリベラリズムから保守主義へ転換、ニコライ一世の反動体制を支えた。メモワール『わが人生の手記』(1866)など。
*2プリーシヴィンはキリスト教的伝統というコンテキストから生ずる〈罪の贖い〉を理解しようとする。詩人ブロークとの隠された対話(自伝的叙事詩『報復』(1910-21))と、その解を求める新たな問い。革命後の最初の数年の日記には、この罪のモチーフがしばしば顔を出す――「ロシアのナロードはおのれの花を滅ぼし、おのれの十字架を捨てて、闇の王に宣誓した」、「花も十字架も踏みにじられた。至るところで木が切り倒された――あたかも新しい十字架のための木を殺したがっているかのように」、「きっと自分は誰よりも十字架上の死を知り、感じているのだ。だが、十字架はわたしの秘密、わたしの夜だ。他人の目から見れば、わたしが昼のように花のように見えているだろうけれど」(1918~19年の日記および評論集『花と十字架』から)
生活のあらゆる絆のほどけ方。まず経営から始まった。干草が蒸れ、山が崩れて、手がつけられない。ロシアも世界戦争もこれと似た状態だ――干草みたいに括り縄がはずれかかっている。
閣僚たちが逃げ出した。軍隊は敗走だ。国家の部隊が逃げる、逃げる、てんでんばらばらに。小さな村も大きな村も、隣人も家族も、分離し、すべてがなにか張り詰めた重苦しさと敵意の中にある。ロシアは滅びようとしている。ああ、もう無いのかも――すべてを赦すキリスト教の寛い心と、おとぎの国のような広い国土と、測り知れない富とを有するその国は、もうこの世には存在しないのかも*。本当にこれがロシアなのか――祭日に赤い葡萄酒が手に入らず聖体儀礼をとりやめてしまったという。これがロシアなのか? ロシアはすでに無い。死んだのだ。
*二つの革命に挟まれたこの時期、プリーシヴィンは、つい昨日まで生きていたロシアの神話の――日常性に霊感を与え、それに文化のステータスを加味しながら、地上の現実と天上の現実とを結びつけていた神話の、衰弱と消尽を指摘する(1916年9月22日の日記)。
不面目なことだが、でも訳がわからないのは、その奇妙な鈍(のろ)臭さだ。どうだろう、祖国(ローヂナ)が死にかけているというのに、自分は――その息子である自分は、まだそこにいて、ただじっと見ていばかりで、信じているのが滅亡なのか復活なのかもわからないのである。冷ややかに、お役所ふうに『ロシアが滅びることはないでしょう』などと言うけれど、『なぜ滅びないのです?』と問い返されても、どうそれを証明するのかわからないのだ。
わたしは村に行って話をした――「大臣たちは逃げたよ、兵士も逃げてる、ドイツの軍隊がやって来るんだよ」
「それがどうしたい」と鍛冶屋。「ま、終わったってことさ。そうぼんやりしとってはおれんだろう。何かの下で生きていかなくちゃ。誰かに服従するか、税金を払うか、なんかそんなことをしなくちゃならんだろうな。ドイツ兵などどうでもいいが……でも、何かが終わっちまったんだ」
エフロシーニヤ・パーヴロヴナ(概して女)は生まれつきのアナーキストでプロレタリア(〈あらゆる法の上を行く〉)だが、運命的には最も残酷な所有権者(欲張り)だ。二重の存在(ブィチエー)。鳥のように、空を飛ぶし、卵を抱いたら梃子でも動かない。
「同志諸君、われわれはもう十分飛んだし十分うるさくもしました。さあ、鳥たちを見ようではありませんか。彼らは空を飛ぶが、ときどき卵を抱くのです。われわれももうそろそろ卵を抱いてもいいころじゃありませんか?」
夕方、牛たちが戻ってくるころ、村に行ってみた。誰か町へ出かける人はいないか、もしいたら頼んでみよう――ついでに町から郵便物を持って帰ってくれと。ニキーフォルがやって来る。何を言い出すかと思えば――
「草刈りまでに生肉を届けるよ。子豚をばらすんだ、1フント9グリヴナ(約410グラムで90コペイカ)じゃどうかね」
「いいだろう、オーケイだ。ところで、きみはあす町に出かけないか? 心配なんだ、どうもまずいらしい。聞いたかね?」
「ああ聞いた聞いた。逃げ出したって? 泡食って逃げ出したんだって? そりゃあ逃げねぇわけがねえさ。塹壕ン中に3年だよ――泥水と湿気ン中でよ」
「それはドイツ兵も同じだよ」
「それがどうしたい?」
「いやなに、今にそのドイツ人にロシアは取られてしまうってことさ」
「でも、それがどうしたい? なぁんも起こらんよ。奴らはどっか適当なとこに線を引いてくだけで、それ以上はなぁんも起こらんよ。まあでも、どのみち生きてかにゃならん……ところで子豚をばらすんだが、脂身(サーロ)は自分のために取っとくんだが、おたくには生肉をやる、9グリヴナだがね、いいかい?」
ほかに何が期待できるだろう? それでも、それぞれの活動――戦争のような危険を伴う活動にもやはり一兵卒(普通人)は心を奮い立たすにちがいない。何かとてもはっきりしたもの見てわかるものが彼の意識の中になくてはならない、そのためにこそやる気になるのだから。そこで奮い立った、いや立ちかけたのだが、それではあれは、地主たちに立ち向かったのは、何のためか? そりゃあやっぱり土地のためだ。土地を奪い、分配し、1人当て1ヴォシミーンニク〔4分の1デシャチーナ〕手に入れた。もうそれ以上土地はないのである。たとえあっても同じこと。どうなるものでない。手に入れた土地は耕さなくてならないのだが、それができる者もできない者もいる。受け取ったものの、多くが耕せずにほったらかしにしている。そのヴォシミーンニクにはだから悪意がこもっていて、どれだけ動乱(スムータ)が生じたことだろう。畑を作るようになっても、国家のほうはうまくいかず、どうにも仕方がない。こちらは確かに何かが終わったが、あちら〔ドイツ人か誰かも〕一つの終わりに向かっている。
とどのつまり人間はさんざん走り回ってへとへとになり、もうどうでもよくなると(そんな状態でヒトは捕虜になる)、運命のままに国際主義者(インターナショナリスト)になるのである。
人間が戦場に向かうためには、まず何かはっきりと目に見えるもの見知ったものが必要だ。そして火の手が上がったところで、ようやくその火事明かりの中を自分の足で突き進むのである――あとはめくら滅法、どこまでもどこまでも。
メシコーフはモスクワにいる兄弟から〈直接本人に〉〔親展〕という表書きのある手紙を受け取った。中にはこう書かれてあった。『前に話したことに関して、事態が激変している。攻勢が始まった。おまえはそれを支持してくれ。ただ、先走って余計なことはするな、ブルジョアの誰かが自由公債に応募したり攻勢のことを口にしたりするときは、こう言ってくれ――〈同志のみなさん、われわれは攻勢を支持している、ただしそれは併合と賠償金なしで、あくまで自立のためなのです〉と』。
親愛なる友よ、あなたに手紙を書こうとするとき、わたしには、あのインターナショナリストたちですら極端なくらいナショナリストであるように思えてしまうのです。それがあなたの問いへのわたしの答えです。ところで、なぜあなたにあまり便りをしないかということですが、それにはなかなか難しいこと、わたしの側に戸惑いがあることをお汲み取りください。あなたは、わがフートルを地球儀の上の一点のように想像しながら、フートルでのわたしの日常生活を伝えよとのご所望ですね。
かつてわたしは、セミパラーチンスク州*の広大無辺なステップを旅することになり、そこで土地不足を嘆く声をよく耳にしました。ルーシの至るところでそんな声を聞きます。これは一種の仮病です、ノイローゼみたいなものです。しかし、黒土の中心地帯ではそれは現実の病なのです。わたしが住んでいる県は土地不足が最もひどく、その中でも最悪の郡、その郡の下にわがソロヴィヨーフスカヤ郷共和国があり、そこがまたこれ以上ないほどの土地不足に悩まされている地区であるので、そういうわけで、わが家の近くの村が郷中最最貧の村と言われています。
*1909年の奥イルトゥイシのステップへの旅のこと。中篇『黒いアラブ人』(1910)はこの旅の成果。
民族と民族が烈しく地球の分割分配をやっているこんなときにこそ、わたしはソロヴィヨーフスカヤ共和国のベスプートノエ村*の住人たちがやっている土地分配についてのお話をしようと思います。つまり、地球儀上に一点を置いて話を始めます。
*ベスプートノエとは無分別・だらしなさ・淫乱・不身持の意。
わたしの隣人のニコライ・ミハーイロヴィチ〔次兄〕は、他人に貸している100デシャチーナの土地所有者で、概して新しいもの、社会主義をも認めるような人物ですが、ただ自分の土地の正当にして無償の〔略奪〕は断じて認めないのです。
ドイツがキーエフに近づいているという噂。
カザンの聖母のイコンの祭*の前夜に神父が言ったらしい――葡萄酒が手に入らないので、あすの聖体儀礼は中止である、と。
「まそれは……」と冗談半分に神父は言った。「つまり、この世の終わりということです」
*1579年にカザンに、1612年にはモスクワに義勇軍を引き連れて出現したとされる聖母のイコン。モスクワのポーランド軍からの解放を祈念する意味合いがあった。1710年からペテルブルグで(1811年からは造営されたカザン寺院で)10月22日に催されるお祭り。
歩いていた警官のアルヒープを掴まえて訊く――『何か新聞で読んだかね?』
「キーエフに近づいているんだ!」と、アルヒープ。「やばいよ!」
こちらもそれを信じたものかどうなのか?
農夫に訊いた――ロシアは誰に住みよいか? 返ってきた答えは――誰にも。土地とは何の関係もねえからね。兵士に訊いた――誰にも。戦争なんかくそ喰らえだ! 商人もいたってあっさりと『商いどころの騒ぎじゃないね』。だいたいにおいて今いまのことには関心がないようだ。未来に関心がある人間には住みよいということだろうか? しかし未来など、今は誰にもわからない。ということは、党のアジテーターのような信じる人間には、猪突猛進型の人間には、住みよいのだ。放浪者にはいいが、定住者には住みよくないのだ。
ここ2週間、雨が降り続いている。クローヴァーが蒸れている(汗をかいている)。ライ麦は熟れ過ぎて倒れかかっているので、大鎌が振りにくい。鋤き返した休耕地は化粧直しでもしたように草が生えだした。こんな時期、仕事もなく新聞もないのは「生きてもいない」ということだ。
中庭に何かが足りない。何だろう? そうだ、思い出した。今年は燕がいないのだ。飛びながら彼らが鶏たちを嚇かすのを見るのは、なんとも愉快である。彼らが姿を見せないので、猫たちはその巣を壊してしまった。
コーリャが言う――「われわれは尊敬されてないんだ」。
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