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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 02 . 26 up
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6月26日

 チーフヴィンスカヤ。人生は旅だ。それを意識している人間は多くない。自分はいつも旅人だったし、自分が取り組んできたことはどれも自分にとって実験だった――何かを企てるには何かを知る必要がある。ロシアはいつも自分が旅する未知の国であった。家族も――実験。四季を通じてそうだったが、夜、テラスに坐っていると、自分の建てた家がしばしば船であるような気がしたものだ――そうだ、いま自分は船に乗ってさまざまな気候の国へ向かっているのだ、と。

チーフヴィンの聖母のイコンのことか? このイコンは敵国撃退祖国防衛などで多くの奇蹟をなすとして14世紀以来ロシア正教世界で信仰されてきた。チーフヴィンはロシア北部の町。そこで最初に不思議な出来事がつぎつぎ起こったという。

 ロシアは若い野生の馬だ。誰も乗りこなせない。
 今はどんな革命家でも、権力を握ったとたんにメンシェヴィキになってしまう。やさしくなり、おとなしくなる――まるで首輪を嵌められて車をひかされている野生の馬みたいに。

 『これだけ時間を費やしても〔人びとが〕キリスト教を理解できないのに、きみたちは社会主義に何を期待しているのか?』――わたしの重い問いに社会主義者=革命家の男が答える。『わたしはその社会主義をキリスト教の修正だと思ってる。なぜか実現できないんだが。でも社会主義を加味すれば実現は可能なんだ。だが、もしキリスト教が〔キリストの〕再臨まで延期されて社会主義が何世紀かのびのびになったら、いったい人は何によって生きるのか?』。

 1)所有権(財産)の奴隷になっている。母はよく言っていた――『今は一片の土地でも持つというのは何と素晴らしいことでしょう!』と。『どうして「今は」なのです?』―『人間が闘うのは土地のためじゃないの! そうでしょう?』。2)土地の分配としての戦争。3)母の死と家族の分解。4)社会主義者が所有者となり、主(あるじ)顔に振る舞い、恥ずかしげもなく〈見よ、これが革命だ!〉などと言い出す。しかし彼は所有権と決別できない所有者である。こんな奴こそ人民の敵なのだ。

 報告。代表団(ヂェレガート)への要望――二重政権はないこと、それと無党派性。
 二重政権について農民たちに語る。村委員会と代表者ソヴェート。

 エレーツ市には相当数のインテリゲンツィヤがおり、郡の出方に注目している。テーゼ*1(4月18日の、土地は共有、ボリシェヴィキと略奪)がいかにして失われていったか。恐れていたまさにそのことがついに起こってしまった。郷共和国と定価。電話の撤去。ユーヂノの陥落〔不詳〕。外部からの影響。ボリシェヴィキによる地主階級の迫害。最後は土地の分配、平等主義の法。森林は国家のもの。オヴラーグ。管理統治は、たとえばスタホーヴィチの私有森の伐採の監視は非常に理にかなっているが、わが家の草の生えた休耕地などは滑稽だ――どうでもいい感じで後回しにされている。土地委員と郷委員会。共同体の原則が欠けている――生ける魂*2には分配し、出征兵士の女房には耕作をさせない等々。

*1レーニンの四月テーゼ――二月革命ごの4月16日に帰国したボリシェヴィキの指導者レーニンが、よく7日の集会で発表した革命の戦略・戦術を述べたテーゼ。のちにこれは機関紙「プラウダ」に〈現在の革命におけるプロレタリアートの任務について〉と題されて発表された。

*2ゴーゴリの『死せる魂』の魂は農奴の意味でもある。主人公のチチコーフはある村で、戸籍上まだ死んでいない〈死んだ農奴〉を買い集めることによって、自分を農奴所有者=大地主であるかのように信じ込ませて、破天荒に有利な結婚を画策する。生ける魂とは生きている農民のこと。

 オクーリチは自分が〔革命から〕排除された理由がずっとわからないでいた。これまで旧体制打倒のために働いてきたのに排除されているのだ。でも、ボリシェヴィズムの噂が耳に達したとき、オクーリチは彼らを〈裏切り者どもめ!〉とか〈どうせ、あんな腫物、すぐ散るさ!〉とか言っていたのである。

 公報。革命と文化(「ノーヴァヤ・ジーズニ」63号)、レーニンストヴォ〔レーニン主義〕は恐怖の結果〔産物〕。ロシコーフの素晴らしい論文。ボリシェヴィキと農民階級(「ナロードの事業」80号)。ゲールツェン、ロシアの共同体と土地問題について(「ナロードの事業」79号)。

ニコライ・アレクサードロヴィチ(1868-1927)は歴史家。16-17世紀ロシアの国家機関の農業と資本主義の発達の歴史に関する著作。

 農民の窃盗行為――コミュニズムと所有の感覚(裕福な百姓、地主)。

6月27日

 住民の攻勢に関して国会から問い合わせがあり、それに対して自分が送った電文――『住民大衆は攻勢を支持――村々で自由公債の応募が始まった。パンを含む市の食料品の価格調整が急がれる。目下エレーツ市での値段――大鎌5ルーブリ、長靴70ルーブリ、鉄器30ルーブリ。プリーシヴィン記』。

自由公債――第一次大戦中に募集した戦時公債。

 農耕文化に対してわが無血革命は1905年の血と炎の革命より無限に大きな害悪をもたらした。
 わが観察の対象である地方(中部黒土地帯)で起こったことは、親しく農業にかかわる人間なら誰もが恐怖を覚える出来事である。農民たちが少数の経営農家の土地を勝手に生ける魂に分配してしまったのだ。
 いくつか例を挙げる。わたしのフートルに隣接するスタホーヴィチ家の領地で、農民たちが1年目のクローヴァー畑(90デシャチーナ)を踏み荒らし細分化したうえに鋤き返してしまった。わが国に本格的な牧場〔の用地〕がないことから、農業の行き詰まりを打開する唯一の方法と考えられてきたのがクローヴァーの播種であった。それが農民の達し難い理想でもあったことは周知の事実である。それでなくても今夏は日照り続き(熱暑)で、燕麦は息も絶えだえだ。問われているのは、なぜ農民はスタホーヴィチの領地を接収できる土地委員会に前もって相談しなかったのか、委員会なら経営計画を立てて農民たちに干草と賃金も提供できたかもしれないのに、なぜそうしなかったのか?
 それができなかったのは、その当時まだ土地委員会というものが存在しなかったから〔埒もない話である〕。

エッセイ『森のしずく』(1940)の第一部の「交響詩ファツェーリヤ」の冒頭に――「わたしたち二人の農業技師は牧草播種の仕事で、旧ヴォロコラーム郡へ行くところだった」。留学から帰ったプリーシヴィンはクローヴァー播種の普及運動を積極的に推進した。

 こんな例もある。この地方では農民たちが地主から土地を借りて耕作することが非常に多かった。借りていたのは、ふつう考えられるような零細農家ではなく、ずっと規模も財力もある経営農家だった。彼らには通常、1~2デシャチーナの私有地と1~2デシャチーナの分与地のほかに、5~10人の経営農家から成る協同組合という形で地主から借り受けた土地(2~3デシャチーナ)もあったのである。土地の広さに応じて彼らは家畜、プラウ、穀物刈取り機も手に入れている。〈ストルィピンの百姓〉と言われているのが彼らで、その数は非常に多い。
 休耕地を耕す時期がやって来ると、農民たちは借地人たちを追い立てて勝手に土地を分配し始めた。それはたんに農業上の不幸だったが、それに更なる追い討ちをかけたのが社会的な不幸だった。借地農家の数が多いというのは、それだけ不満を募らせた人間が多いということである。大喧嘩しながらの分配は1週間さらに1週間と続いた。その間、休耕地に犂は入らず、ペトロ祭〔旧6月29日、新暦7月12日。この日から草刈りが許された〕まで放置された。分配が終わってみると、畑の土が固くて、犂がまったく使えなかった。今では、雨に期待する者、作男に雇ってくれそうな家々を探して歩く者(これは馬なし百姓の場合)、また密かに自分のオシミーンニク〔4分の1デシャチーナ〕で一儲けしよう〔投機〕とする者も出てきた。そうこうしているうちにライ麦の収穫時期が近づいて来た。いちど訊いてみたいが、なぜまた土地委員会は、貸借契約が3月1日以前になされていることを農民に説明しなかったのか?

6月28日

 ブルジョア革命は、ひょっとして、とっくの昔にその文化に社会主義的な要素を組み込んでいたのではないか? わが国の社会主義者たちは単にロシアのサラファンを復興しようとしているだけではないのだろうか? 

6月29日

 〈われらのすべて〉という国家的感情は初めこそ目につくすべてに拡大し(見えるものだけを選ぶ)、そのあと村の周囲で目につくものを個人的に自分のものにして利用するようになった。各自勝手に森から木を運び出し、よそより遅れてはならじと頑張り、そうした横領略奪を嘆いていたはずの委員長までもが、自分のために木を掠(かす)め始めた。
 土地が空気のようにみんなのものになったときの人類の〈黎明(ザリャー)〉とは、かくの如し。土地は生まれた子に与えられ、その子を異教の祭司〔キリスト教受洗以前の〕がみんなの赤子として迎え入れた。だが今はそれとは別の〈ザリャー〉だ。生まれた赤子の第一声は――『土地をくれ! おぎゃあ、土地をくれ!』。
 土地分配の取決めにより――
 ロシアは誰に住みよいか? 誰にも。誰も土地とは何の関係もない。

詩人のニコライ・ネクラーソフの長編叙事詩『ロシアは誰に住みよいか?』(1863)――ロシアを遍歴する7人の農民たちの目を通して、現実世界の種々層が――商人、僧侶、農民、職人、地主、百姓女、役人、貴族、ツァーリの暮らしぶりが如実に浮かび上がる仕組みなっている。世に〈農民生活のエンサイクロペディア〉と呼ばれる所以である。土地問題を最重要課題のひとつに掲げた二月革命、その結果に疑いを抱くプリーシヴィンに改めて問題の根深さを知らしめた。

7月1日

 Т(テー)〔未詳〕から電報。記事を送れ。嬉しいが、できない。まず第一に、フートルから労働者が撤収されたので、毎日自分が畑に出ることになり、机に向かう暇がない。第二に、正直言って「ノーヴァヤ・ジーズニ」紙に記事を書く気がしない。「ノーヴァヤ・ジーズニ」は自分の立場と綱領を持つ知的な人びとのための新聞で、けっしてわれわれみたいに落ち着かない者や浮浪者のための新聞ではない。しかし自分はその知性にもぴんと来ないものを感じている。わがロシアではその知性をすらも庶民の社会主義的事業が(完全に)ぶち壊しにかかっているのだ。そうした社会民主党的かつ社会革命党的知性の推進力となったのが、芸術ではなく単純素朴な善き事業、つまり実践(プラークチカ)と知恵(ムードロスチ)――その事業内容が見えてくるようになると、芸術を仕事にしたい気持ちなどはどっかへ消えてしまうのである。  戦争は民衆の牢獄。そこから解放される方法は二つ。看守を騙して鉄格子を鋸(のこ)で切るか、もしくは牢獄を無として(精神の不自由とは何ら共通するところの無いものとして受け入れて)、たとえば獄中でものを書いたり祈ったりする……若かりしころマルクス主義者だった自分は、獄屋で鋸を挽き、そのあとものを書くことで救われた。いま解放の時が事件となってやって来ているが、まわりでは「ノーヴァヤ・ジーズニ」を筆頭に、みなが小型の鋸を手に必死の脱獄を試みている。歯軋りしながら鋸を挽いている。名誉ある、しかし自分には経験済みの作業である。

7月2日

 「人民の事業」紙でリンシェヴィチ某がクリューコフのペシミズムを非難しているが、本人は暮らしに見出すべき明るさや喜びには何ひとつ言及しない。明るいものなど何もない。しかしペシミスティックな結論は言うに及ばず、概していかなる総括もすべきではない。

フョードル・ドミートリエヴィチ(1870-1920)はロシアの作家。

 自分が書くものには自分がよく知る農民たちが出てくる。あらゆる角度から彼らを見、この革命の間に彼らの物質的精神的生活に変化があったかを検証しなくてはならない。わが観察の対象たる地方の農民たちに地主の土地の分配から各人にヴォシミーンニク〔ロシアの古い地積で4分の1デシャチーナ。オシミーンニクに同じ〕の加算が生じたが、おかげでヴォシミーンニクを喜ばないほどの喧嘩や遺恨も生じた。要するに、目立って善より悪が多くなったのだ。
 わたしは子どものころから農民のことをよく知っていた。それで〈黒い再分割〉には何も期待しなかった。革命に関しても、したがって結論めいたことは少しも思いつかない。わたしには社会主義の党活動家たちへの失望や悔しさがある。彼らが夢中になっているのは政治(ポリーチカ)だけだし、しばしば自分たちが言ったこと約束したことの意味がまるでわかっていないのである。  わたしが鬱屈した状態にあるのは、大衆(マス)の無知無学無作法が活発になるにつれていよいよ自分の居場所がわからなくなってきたためである。以前は百姓(ムジーク)が可哀そうになったが、今はこっちが気の毒がられている始末だ。しかしむこうはそんなこと何も思ってはいない。ところで、そんな心理状態に合流したのが仕事からの重圧感だった。ひとつ、まる一日を郷委員会のあの蒸し暑さと息苦しさの中で過ごしてみるといい。そしてそのあと家路をたどりながら、今ごろペトログラードでは何とかいう活動家が何時間かかけてロシア帝国全土への決議を採択したというのに、自分は一日かけて1ミリしか前進できず、しかもそのことに少しも確信が持てないでいる……
 最近、農民のために地方紙に記事を書くことを思いつき、このソロヴィヨーフスカヤ共和国で自分でも思ってもみないほどの成功を収めた。ペシミズムに陥ることから救ってくれたのは、自分のフートルで人を雇うことなく必要から始めた家畜小屋や野良での汚れ仕事だった。二つの手段――執筆(とにかくより率直に淡々と)と汚れ仕事だが、ぜひともこれをペシミストの諸君に――トルストイ主義ふうにではなく、健康のために、お勧めしたい。
 土地分割の時期にわたしをしてソロヴィヨーフスカヤ共和国の市民のために書かしめたものは何か?
 土地があるだけでは喜びとはならない。人びとの賛同和合協調(ソグラーシエ)があってはじめてそれは喜びとなるのだ。

7月3日

 赤毛の輔祭、教師(80デシャチーナの土地所有者)――その管理下にある労働者たち。
 議長、その脇に赤毛。石盤の後ろにいるのは、表決権はないが発言権のある男。
 百姓たちは子ども用のベンチに坐っている。
 委員会とソヴェート。
 朝の10時と決まっていたのに、集まりだすのは12時だ。固まって坐っている者、横になっている者、立っている者。政治家連は立っている。その中にイワン・イワーノヴィチ。彼は刑事犯で、みなに取り囲まれ、ぐいぐい壁まで押されて、いま釈明に躍起である。
 「わたしは(われわれがやったように)ウィルヘルムは打ち倒されると予想してたんだが、それが駄目なら攻勢をかけるほうがいいと思うんだ。ただし、やっぱり併合と賠償金なしに、〔民族〕自決のためにね」
 選挙委員会(コミッシヤ)の選挙――委員会(コミチェート)と会議(ソヴェート)。コミチェートには足が向くが、ソヴェートへはそれほどでない。なぜかと言えば、コミチェートのほうが経済的経営的でわかりやすくはっきりしているからである。

これまでずっとどちらも委員会としか訳してないが、選挙委員会の委員会(コミッシヤ)と委員会(コミチェート)。前者はラテン語のcommissio(委任、委託)を受けて設けられるもの。選挙委員会、審議委員会、資格審査委員会など。後者はフランス語のcomite、ラテン語のcommittere(やはり委託するの意)から、国家・社会活動のあれこれの分野を指導するための常設的合議機関。たとえば、執行委員会、党委員会、ストライキ委員会、オリンピック組織委員会など。

 コミチェートのコミッシヤ。「同志諸君、テーブルを議長の方に向けてください」。議長の後ろの石盤の近くにいるのが〔イワン・イワーノヴィチ〕メシコーフ。もみ上げがひっついて、額が火のしみたいにつるりとしている。目はきょときょとして少しも落ち着かない。この男は何者なりや? 見てのとおりの男だ。犂もまぐわも、土地もない。ソロヴィヨーフスカヤ郷の住人たちはこの男のことで、ここずっとタネーエフスキクエ〔同じ郷下の村〕の住人たちとやりあっている。郷委員会で選任されかけたが、巧くいかなかった。それで彼は〔諦め切れずに〕ひとりの戦友に声をかけた。するとその戦友はコミサールを追い出して(軍隊で言うと〈掃討して〉)しまったのである。また新たな戦いの炎が上がった。いま集会では誰もが自説を主張して譲らず、大声を張り上げている。(怒鳴り屋(グロット)のアルチョームはずっと口を噤んでいた。もっとも、馬鹿みたいに高揚しなければ何ひとつ喋れない男なのだが、それが突然、顔を真っ赤にして演説をぶち始めた!) 天性の怒鳴り屋の本領を発揮。『問題は真実(プラウダ)だ、いいか、おれは真実を言うぞ!』。言うというよりと吠え出した――『おれの〔真実〕は、いいか、もっと強力でもっとずっと強大なんだ!』。何を言い出すことやら。あくまで冷静かつ慎重なのは赤毛の輔祭だ。彼は大樹の蔭に寄るのも巧いし、空気を読んで〔生きることが〕大好きだから、言葉たくみに鎮めにかかる――
 「イワン・イワーノヴィチの罪は、みなさん、明らかです! でも、その明らかな罪は隠された罪よりさらに人間を苦しめるものです。われわれはみな罪びとなのですよ!」
 そう言ってから、メシコーフ本人に弁明〔の発言〕をさせた。
 「同志のみなさん、わたしは確かに9年前に裁かれました。でも、今では政治によって罪を償ってる。新しい法律ではすべてが赦されるんだ」
 「そのとおりだ!」誰かが言った。そしてまた誰かが落ち着いた声で――
 「わしらがメシコーフを選らばなんだら、いったい誰を選ぶんだ? メシコーフはこのとおりの人間だよ。ズボンもシャツも履き古したこの長靴も――どれもありのままのこの男を語っている! 要するに演説家であり雄弁家なんだ。メシコーフは馬も牛も持ってない。犂もまぐわもない。お情けで伯父貴の穀物小屋の裏に住まわせてもらってる。女房は物貰いをやっているが、しかしだからといってエライ奴を選んでは駄目なんだよ。いっぱい家畜がいて、土地もあれば経営も巧いなんて奴には暇がないはずだ――なんせブルジョアだからな。ちっぽけな奴を選ぶべきだ、わしらのメシコーフはなんてったて一番ちいせえ、ちっぽけな男だ」
 「ありがとう、みなさん」メシコーフがこたえる。「さてと、それで、ここにあるのが投票箱であります! 投票は非常に周到かつ丁寧、しかも厳格な監視の下に実行されなくてはなりません!」そんなことを言いながら、巧みに投票を呼びかけた。
 「さあ選んでください、しかし社会主義者=革命家に限りますよ。もし人民の自由の党の人間、つまりブルジョアを選んだら、すべてご破算にしますから、よろしいですか?」
 候補者が8人挙がった。呼び上げられたのはソロヴィヨーフスカヤの(当然、腹を合わせた連中の)名だけ、郷の他の地区では聞いたこともない名前ばかりだ。
 「ここに来てねえ奴を選んじゃいかんのかな?」誰かが問う。
 「それはどんな人ですか?」
 「それとも、わしらの中からだけということかな?」
 「ここに来ている者といない者とから選ぶんです!」と、教師。
 「ここにおらん者でもいいってことかね。そんじゃハリトーンでもいいな、うちのミコライでもいいんだな!」
 そしてさらに10人ほど候補に挙がった。ようやく投票だ。結局、朝から深夜までかかってしまう。輔祭が選挙人名簿を読み上げ、あとの半分をわたしが読み上げた。教師が投票玉を手渡した。選挙の仕事はわれわれインテリに任された恰好だ。10回もイワノフの名を呼んだが、10回とも『〔あいつは〕どっかでお茶呑んでるよ!』。肝腎なときに投票所にいないのである。だんだん腹が立ってくる。わたしは自分の票玉を気づかれないように左の方に置いた。腹を合わせた連中に知った人間は一人もいなし、どうせインチキをやるのが目に見えていたからである。

投票玉というのは18~19世紀の投票のやり方。紙の票ではなくバールィ(またはシャルィ)と呼ばれる玉を投票箱に投げ入れる。白玉が賛成票、黒玉が反対票。地方では20世紀になってもまだこれが続いていたのだろう。

 警備員が輔祭となにやら〔ひそひそ話〕。わたしは一息つきたい。と、そのとき、半コートを着た男がすうっとわたしの方に近づいていた。
 「土地所有者の集会の通知は受け取れましたか?」
 「いや、聞いてないけど。どうしてわたしが? わたしが持っている〔土地のこと〕のはほんのちょっとなんだが……」
 「いずれにせよ所有者です。主張されますか?」
 「いや、しません。別荘(ダーチャ)なら喜んで進呈しましょう。あれのせいでわたしはひどい目に遭ったから。でも渡せないな――どうせめちゃくちゃにされてしまうから。ところで、おたくが守ろうとしているのは何なの?」
 「旧体制です」
 「ツァーリを?」
 「もちろんツァーリを」
 委員会が開かれているあいだ、ずっとツァーリ派の声が聞こえていた。陰謀家たちは何度も繰り返していた――『自分の土地を〔ツァーリは〕あらゆる手を使って最後まで守ってくださるはずだ』と。
 「プロレタリアがどうしたい? あいつらだって旧体制を擁護してるんだ。でも、わしらはみな相当な土地を握っている。農民なんかに何が要るって? 連中は土地さえ手に入れば満足なんだ」
 わたしはそのあとパシーニンのこと、彼がどこであんな土地を手に入れたかを訊いてみた。
 「雪解けの増水でどっかの事務所がまるごとあいつの家の近くに流されてきた。いきなり大金が流れてきたんだよ。それで土地を買ったってわけさ」

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