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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 12 . 25 up
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3月15日

 ゴーリキイには〈参謀部〉がある。こんな噂が聞こえて〔飛んで〕くる――『おん大将〔ゴーリキイ〕はまだ少尉補に昇進してねえんかい?』。さるご夫人は自分の知合いを飛行士〔噂を運ぶ人〕にしようと躍起になっている。マクシム〔ゴーリキイ〕は素晴らしい。なんといっても人びとが喜びを感じて、自分の個人的関係(交友)を変えられるよう、また何か新奇にものが書けるようにと〔その喜びを〕説いているからである。彼が言うには、百姓たちは穀物をいっぱい運んでくるし、義勇兵たちは前線へ発った(らしい)。大いに魅力的な人物〔ゴーリキイ〕は今、栄光のただ中にある。
 一杯喰わされた者たち――地下室から出てきた人のよう。レーミゾフ。レーミゾフにゴーリキイについての自分の意見を述べたら、とたんに顔は青ざめ、汗が噴き出した。そしてわたしに向かって――『あなたはゴーリキイの召使だよ!』とか、まあいろいろ言われた。いったい何がそんなことを言わせたのか。その理由こそが、彼の不幸、外光への道を民衆の喜びへの道を遮ってしまったレーミゾフの不幸そのものなのだ。彼ら〔レーミゾフを含めた若い革命の流刑者については編訳者によるエッセイ(三)を参照のこと〕は革命を待ち、そのために人生を浪費したというのに、革命が到来すれば、為すこともなく(仕事もなく)ただ腕を拱いているのだ。オクーリチだって同じこと。25年も革命のために働いてきたのに、革命が起こってみたら、無数の書類(文字どおりのお役所仕事)が間をおかず傍らを通り抜けるばかりで、新人類は彼のことを知らないし、彼が革命家だったことを知っているのは、彼と戦った相手と監獄に入っている連中だけなのである。どうして苛立たないわけがあろう! どんどん書類が傍らを流れていく。さしたる仕事はない。仕事がなくては生きていけない。これではカノコソウ〔神経鎮静剤〕でも服用(の)みながら〔現状への〕拒絶を示すしかないではないか(とはいえ、年金のことは忘れていない)。ああ、年金が貰えなかったらどうしよう――シベリアにでも引っ込んで製粉所でも建てるか。

 住民に喜びは見られない。なぜなら恐怖から解放されたわけではないからである。家の戸に印しをつけて回る者(もちろん正体不明の)がいるという。それで家中大騒ぎ。

3月17日

 自分もオクーリチも自分のフートル(田舎の)には行きたくない。向こうにいるのはコソ泥や詐欺師ばかりだから。ルーシ中がそんなありさまだ。『自分はスイス人より立派なチーズを作れるが、そんなとこへ行ってどうしようというのだ? ドイツならいいかもしれないが、コソ泥と詐欺師ばかりじゃなあ。そんなところで嬉しい顔など、どうしてできるって?』。

3月18日

 ゴーリキイ。彼が誰かとあれこれ問題を論じている――それを聞いていると、プガチョーフのことが頭から離れなくなる。知ってか知らずか、彼には二つの意見がない。あるのは何か嘘っぽい〔すっきりしない〕観点(半田付けしたような)で、その上で実際のゴーリキイが変人(エクセントリック)のように踊っている。確かにわかりやすい構図ではある。彼の力(マテリアルな意味で)は労働者とつながっているし、その絆こそ力〔権力〕なのだから。

これはこのころプリーシヴィンがしばしば顔を出していた「ノーヴァヤ・ジーズニ」紙の編集室でのやりとり。

3月23日

 革命の犠牲者の葬儀。
 ルーシでは前代未聞のこと。じつに自発的、独断的やり方だ。赤い棺、赤い聖幡(せいばん)、教会の沈黙。鐘を撞くのはカトリックの教会だけ。あるいはそれは〔正教会が〕窮乏に瀕しているからかも。馴染みの場所――宮殿前広場と1905年1月9日〔血の日曜日事件の現場〕。当時コーザチカはせいぜい6歳ぐらい。憶えているのは「水道が止まった」ことくらい。〈永遠(とわ)の記憶を!〉、葬送行進曲、それと〈ラ・マルセイエーズ〉が波濤のごとく。非合法の学生パーテイのようだ。サドーワヤ(峡谷)通りの静寂。〈ラ・マルセイエーズ〉に合わせてみなが走り出す。赤い円柱――荒涼――素朴――大地――教会葬の秘儀が、民衆、運動、押し合い圧(へ)し合いその他を前にした不安のかたまり(マス)と化しつつある。葬儀のあとはいつものように玄関番が『いやあ、立派な葬儀でしたな!』などと言うのだが、今回もそうだった(彼は相変わらず有頂天である)。そこにあるのは自分の口碑、自分の歴史なのである。

 通りでの撃ち合いが静まりかけると、家々から人びとがどっとネーフスキイ大通りに繰り出してくる。ちょうど新聞売りの声が聞こえだすころ、ひとりの商売人が緑色の表紙を掛けた本を(それも)大量に運んでくる。そしてあっと言う間に大群衆に取り囲まれる。自分も列に並ぶが、時すでに遅し。一冊も手にすることができなかった。その本というのは『フランス革命史』。このころ、これを読まなかった人間がいただろうか! 読み終わると、ある者たちは動乱時代の歴史ものに取りかかった。それはフランス革命にも負けないほどの関心をもって読まれた。もちろん足下に革命の土壌があるので、祖国についてもっと知ろうという欲求が生じ目覚めたのである。何年かすれば誰もが歴史を認識するだろう。なぜなら、歴史というものが何にもまして必要不可欠なものになったから――教育が行き届いて、畑を耕す人に犂が必要なように、新しい生の創出のために欠かすことのできないものになったからである。それにその教育は、最近広まり始めた単なる「出世のための教育」などではない。

1598年、フョードル帝の死後、1613年にミハイル・ロマーノフがロマーノフ王朝初代のツァーリに就くまでのロシアの混乱期。ポーランドやスウェーデンによる干渉やボロートニコフの農民戦争などがあった。「日記」の1916年3月10日の注を参照こと。

 ピョートル大帝の革命家としての姿(ロシアを解放したペトログラード*1)が日ごとに大きくなってくる。そして海軍幼年学校での労働者代表ソヴェートの会議の折りの漠然とした不安――労働者たちは間違いなく皇帝革命家〔ピョートル大帝〕の像を打ち倒すだろうというこちらの不安がいよいよはっきりしてくる。こうした不安に根拠があるわけではなく、自身の「デカダン的」精神状態から生まれたにすぎない。だが、確かに不安は存在した。わたしは大ホールに入っていった。そして見た。人間の頭がびっしりと隙間もないほどだった。自分も並んで腰かけ、耳をそばだてた。誰かが話している――機関銃、お祈り、真実(プラウダ)。
 ルポ『大地と都市から』に自らの道標(ヴェーヒ)を打ち立てる必要がある*2。うち1本のテーマは、かつて自分が知っていた人たちはその後どうなったか(その身に何が起こったか)?

*1ペトログラードのペトロは聖使徒のペテロ(ピョートル一世の守護聖人で洗礼名)、グラードはロシア語の城市・まちの意。対独戦中に都市名をペテルブルグをペトログラードと変えたが、ペトログラードという言い方も古くからなされている。プーシキンの『青銅の騎士』のでも第一部の冒頭に「陰鬱なペトログラードの上に……」。いずれにせよペテロ=ペトロ=ピョートルの都である。

*2『大地と都市から』の表題は、のちに『花と十字架』にまとめられた(2004年)。1917~18年にプリーシヴィンは「ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)」、「ヂェーロ・ナローダ(人民の仕事)」、「ヴォーリャ・ナローダ(人民の意志)」、「ヴォーリャ・ヴォーリナヤ(自由の意志)」、「ヴォーリャ・ストラヌィ(国の意志)」、「ラーンニェエ・ウートロ(早朝)」その他に寄稿していて、そのほとんどが17年の日記にそのまま出てくる。

 わが君主政体は――いま忘れられつつある――つい最近になって、嫌悪すべき憎しみの対象となった。君主国がわれわれを敵に売り渡したというのが主な理由だが、歴史の流れを見ると、その君主政体というのはいま思い浮かべているものとはまったく似ても似つかないものなのである。たとえ社会主義者がそれほど頑張らなくても、君主国が再生すると考える根拠など何ひとつないのだ。だが、〔民族〕自立の重圧が貧しい人びとの肩にのしかかっていて、すでにパンの行列からは不満のぼやきが聞こえてきている。

3月25日

 武器も持たず見るも哀れなほどのボロをまとって通りを行く兵士――パンをくれ、戦地から戻ってきたところなんだ、と訴えている。革命前にはそんな兵士が200万はいた。今はどのくらいいるのか?
 組織的な仕事はもうどこでも為されていない。四方八方から新たなカタストロフィーの可能性が予告されている。労働者・兵士代表ソヴェートへの苛立ちが強まっている。

3月26日

 国会(ドゥーマ)で何が話し合われているのか、同じころに通りでは何が起こっているか(あっちでは今にも逮捕が始まろうとしている)――こっちでは歓呼の声(帝国の紋章が燃やされている)と団結だ。何かが人びとのすぐ近くで起こっているのは明らかだ(連隊が鎮圧に向かい武装を解除する)。大戦の行方は誰も知らない。知っているのは社会民主主義者だけ――明らかにそこに彼らの強みがある。こうした不安の中でもしかし、なぜ学生や女子専門学校生たちがほかとは違うやり方で郡全体を維持しているのか、なぜ労働者代表ソヴェートのいちばん馬鹿な奴らが〈指導者たち〉と呼ばれているのか?

 わが国の農業問題で、統計や農業科学一般に拘ることなくズバリ解決できることは何か――それは第一に土地が、土地所有者階級の政治的権力の足台にならず、第二に土地が投機の対象にならぬようにすることである。第一のものは君主を打ち倒した革命の事実によって一掃され、第二のものは憲法制定会議に解決を委ねるしかない。土地を私有者から取り上げることは不可能だが、国家以外に土地を売却することを禁ずることはできる。それに、小規模・中規模の土地所有には税を軽くし、大規模所有の場合には国家に売却しなければやっていけないほどの税金を課すこともできる。

 労働者代表が兵士(農民)と分かれようとしている――そんな噂が耳に入ってくる。

3月27日

 革命を前にして歯痛がする。詰め物をするので、通行できなくなるまで医者通い――ネーフスキイを迂回してゴローホヤ通りへ。

 「レーチ」か「ノーヴァヤ・ジーズニ」か? 理論的にはソヴェート〔繰り返すが、労働者と兵士代表ソヴェートのこと、ボリシェヴィキのソヴェート社会主義ではない〕の立場が正しいが、実際的には自分が彼らを支持することは不可能だ。彼らのセクト主義と大方の祖国を救済したいという気持を疎外する〔路上に投げ出された彼らの〕丸太ん棒を、自分はとても踏み越えられない。

「レーチ」(1907-1917)はカデットの日刊紙。「ノーヴァヤ・ジーズニ」(1917-1918)は、雑誌「年代記」に集まったメンシェヴィキ国際派のイニシャチヴで発行された。「ノーヴァヤ・ジーズニ」紙の共同編集者はマクシム・ゴーリキイ。

 今すぐやれ! 女子専門学校生たちは〔専科教員による〕科目別教育システムの採用を求めている。当局も真摯にそれを受け止めて実行したいと思っている、のかと思えばそうではない。
 「なにをぐずぐずしているのよ、今すぐやりなさい!」
 「それができないんだ。われわれはやるつもりだが、もう少し時間をくれ」
 「なんという請け合い(ガラーンチヤ)でしょう! いったい何をするというの? さあ、すぐに実行して!」
 社会主義者は農民のために土地を要求している。
 「わかった、土地はすべて農民のものになる。検討しましょう」
 「だめよ、すぐに実行しなさい。軍隊はパンと弾を要求してるのよ」
 「ちょっと待って、ちょっと待って! いまにベルリンで革命が起こります。そうなったら、たぶん、弾はそんなに必要じゃなくなるでしょう」
 が、女子専門学校生は反駁する――
 「そうなったら、敵は攻めてきますよ、いいですか。きのうは町がひとつ完全に破壊されたんです。〔こんなことは〕ずいぶん前から続いています。さあ、早く弾とパンを!」

29日の「ノーヴァヤ・ジーズニ」紙に入社した。ここではかつての「レーチ」よりさらに〈白いカラス〉のように感じている。

 食堂でランチをとっていた。元老院の役人、夫人連れ、航海課の書記、2人の交通省の役人と学識ありげな奥さん(ダーマ)が物価の高騰について話している。平均的な普通人は生活に窮して満足な服も着れないなどと喋っている。そのとき、擦り切れたジャケットや立て襟のルバシカを着た男たちが10人ばかり入ってきて、食堂の女将をいたく驚かした。彼女は彼らが徴発隊(革命の)だと直感したのだ。男たちは食べるものをくれと言った。
 「ランチは2ルーブリですよ!」と、女将。
 「いいよ、わかってる!」
 彼らは素早く食事を済ますと、金を払って出ていった。こちらは2皿目を終えると、互いに見交わした。
 「彼らは10ルーブリ貰ってるんだよ!」と元老院の男が言った。
 「いや、18ルーブリだ!」と、別の役人。
 「彼らには服なんて必要ないさ!」もうひとりが言った。
 そしてわれわれは全員、自分たちの給料やアパートや褒美という点でそうとう貧しく、身なりこそまだ立派だが、実質的には腐ったような、頼りない(無力な)、自分の上司に対して、たとえば〈閣下!〉などという言葉を差し挟むこともできない存在であると感じている。今では、いつの間にか、〈同志閣下〉だの〈プロレタリア市民殿〉だのという言い方が貧民街のようなところから出てきて、単なる〈閣下〉の居場所を完全占領してしまった。われわれはプロレタリアを憐れんではいたが、今では誰を可哀そうだと思ったらいいのだろう? われわれは自分たちを哀れだと思い始めている。唯一自分を憐れまない奴が狂人のように)青銅の騎士に向かって吼える――『ああ、今に見てろ、同志閣下(высокотоварищество)よ! おまえはやって来た。それでおれも、おまえの影(幽霊)であるこのおれも、ともども、おまえのあとからついて行くのだ』

プーシキンの『青銅の騎士』(1833)第2編からの自由な引喩。哀れなエヴゲーニイと青銅の騎士を通して、個人と権力の対立のモチーフをプリーシヴィンはしばしばブィトとブィチエーの分裂の悲劇として描いている。

3月30日

  スピリードヴィチを読み続ける*1。セマーシコ*2は社会民主党員。マースロフ*3は賢いが、傷ついている。マースロフはついてない。個人的な不幸と苦しみ――これはロシアの革命家の心理学の基礎であり、そこからの出口。ナロードの野における不幸の因の投影。そうして緑の野もだんだん暗くなっていく。

*1アレクサンドル・イワーノヴィチ(1873-1952)は憲兵少将。ケーミの士族の生まれで、モスクワとキーエフのオフラーナで活躍。エスエル戦闘団の有名なテロリスト(ゲルシューニ)を逮捕するなど多くの手柄を立て、皇帝ニコライの寵を得て、皇室一家の警護や大本営(モギリョーフ)でも特別警護に当たった。二月革命下、臨時政府に捕縛されてペトロ・パーヴロフスク監獄で厳しい尋問を受けたが、17年10月に保釈金を積んで出所、フランに亡命。現役当時から文筆活動を盛んに行ない、「憲兵の手記」やガポーン運動に関するものなどを数多く執筆した。このころプリーシヴィンが読んでいたのは、たぶん「憲兵の手記」のフラグメントか?

*2ニコライ・アレクサ-ドロヴィチ(1874-1949)は医師、社会民主党の活動家。1905年の革命と1917年の十月革命に参加、1918年からは保険人民委員(つまり保健相)を務めた。〈ロシア・マルクス主義の父〉=ゲオールギイ・プレハーノフの甥に当たる。プリーシヴィンの高等中学時代の友人でもある。

*3セミョーン・レオーンチエヴィチ(1873-1938)は著名なエスエルの活動家。

 エスエル〔社会革命党員〕の意識は低い。行動が感情に隷属している。それが善も悪もないスチヒーヤに彼らを近づける。
 エスデー〔社会民主党員〕はもともとドイツ起源だ。ドイツ人から頭脳(ウーム)と計算(ラスチョート)とをもって行動することを学んだのだ。思想においては情け容赦ないが、実際に殺すことはあまりしない(進化)。柔和で感じやすいエスエルは、手段としてテロルを、熟慮の末の殺人を決行する。
 社会革命党のイデオロギー(エセールストヴォ)は社会民主党のイデオロギー(エスデーチェストヴォ)に比べると、より多くツァリーズムに向けられている。どちらもわが国ではツァリーズムの後のもの――もし資本主義の全世界的破産(クラフ)がなければ、色は褪せ毛も脱け変わってヨーロッパ的社会主義とエコノミズムに変貌するにちがいない。

 わが国の革命の歴史はツァーリの罪障(グレーフ)の歴史である。生きとし生けるもの上に影が落ちると、それらはみな闇の中から光へ向かって『進め!進め!』と声を掛けかけ暗くなっていくのだ。

 ツァーリはとうに姿を消してしまった。その側近たちもツァーリをキャラメルのようにしゃぶり尽くして、ナロードには包み紙しか残さなかった。しかし国家そのものはあたかもツァーリがまだどこかにいるかのごとくに動いていた。ツァーリへの忠誠を呼びかけていたような者たちでさえ信じなかった。それはほとんど神話のようなものだった。もう時の速さと時の力をしか考えることができなくなった省の馬跳び(チェハルダー)〔めまぐるしい変化・交代のこと、頻繁な閣僚の更迭〕が、凄まじい物価の高騰に直面し、中央省庁で働いていた者が誰もツァーリを信じなくなっていたころ、しばしば脳裡をかすめたのが――しかしそれにしても、どうしてこんなになってもロシアは維持(も)っているのか、ということだった。ツァーリは幽霊、大臣たちもみな幽霊になってしまったが、なんのなんのロシアはまだ生きていた。
 そんな静寂の中でひっそりと革命は起こった。各人が国家の煩わしさから逃れようとして、個人的な興味や関心だけで生きていた。能ある者は略奪した。それが町や軍に食糧品の不足をもたらしたのである。

 ペテルブルグはパリみたいになった――暮らしの変化。軍服を着たごろつきが女から林檎を奪い、銃剣で嚇す。黒塗りの乗用車。居酒屋で2人の〈リトアニア人〉が客に『武器を捨てろ!』と言う。すると相手は『いや、済まん済まん、同志!』と、こうである。

ラトヴィア(レット)人という言い方と同様の「革命家」のニュアンス。

 どっかで見覚えのある男。ネーフスキイ大通りでばったり(お互い這いずり出てきたのだ)。
 「ご機嫌いかがですか、閣下?」
 「失業中だよ」
 「ええっ、あなたが失業中ですか?」もちろんこれは『あなたが失業中だなんて。じゃあいったい誰が国家の舵を取るというのですか?』という意味である。
 「おたくはどうなの?」
 「そりゃ、わたしも失業中ですよ」
 口髭をくるくる捻りながら、二人は大通りを歩いていく――ドイツの奴らがストホードで発砲したとか、どこも泥道ばっかしだとか。突撃が延期になったと聞けば、ほかの人間なら喜んだにちがいないが、彼らは嘆いている――パンをどうやって手に入れたらいいかのわからないから。それにしても二重権力は大問題だね云々。

ストホードはウクライナはヴォルイニ州を流れる川、プリーピャチの支流(右岸)。


 われわれは(ヨーロッパでも同じだが)ツァリーズムの崩壊とともに何が起こったか(まるで目が覚めてないかのように)、まだわかっていない。戦いの原因となったものがほとんどすべて消失してしまったというのに、話題は依然として戦争であり勝利なのである。

3月31日

 ロシアはこれまで(よく言われたように)スフィンクスの顔をした人びとの神秘の国だった。
 今はただの未知の国になってしまった。『おお陸だ、陸だ!』船乗りたちはそう叫び、やがてその新しい島に接岸する。

 遭難するときの精神状態にも似た不安と恐怖が去って、ああなんとか生き延びられたとほっとし、あたりを見まわすと、なんと、そばにいた仲間たちは誰もがもう、今いまのパン(日々の糧)を心配してパン屋の前に(どこが最後尾かと思うような)長いながい列をつくっているではないか! パンだけではない、砂糖、バター、肉も手に入れようと必死の形相だ。まことに海難である。難破のすぐあと、無人島を見つけ、そして早くも思い巡らしたのが、この新天地での食糧確保というわけだ。
 かつてわれわれはびくともしない不動の国に住んでいた。
 たいそう不安な革命の日々に、われわれはしばしば自問したものだ――それで、ロシアとは何? ルーシでは何が起こっているか? 答えはなかった。その後、地方から出てきた人たちがいろんなことを喋りだした。しかし地方の新聞には大して読むべきものもなかった。革命から一月以上経っても、暮らしに関する記事はほとんど無きに等しかった。

 省が局に分けられ、ロシアは県に分けられた。ロシアのトップは皇帝(ツァーリ)、省のトップは大臣、局長は県知事に相当した。すべてが最初から最後までこのやり方に従っている。したがって、局から別の局への異動のときには、自分たちにはある県から別の県に移るということを容易に思い描くことができるのである。機械(マシーン)がひとつになって動いた。すべてが変わった。大臣は何もできなくなった。大臣はわれわれにもそれほど必要でなくなった。閣僚会議(ソヴェート)が開かれれば、われわれは全員そのために噛みタバコその他を用意した。大臣はいま何でも自分でやっている。彼の頭はどうでもいいことで一杯だ。わざわざ大臣室まで行かなくてもよくなった。局長や県知事が出勤し会議に出るだけである。ロシア中どこでもそういうふうになった。われわれには何もわからない――まるで何もしていないかのように。

 シベリア人会議。

 やり過ぎ(エクスツェッスイ)だ。議長のヂュビーンスキイ〔未詳〕。
 「同志諸君、今わたしは臨時政府に挨拶を述べるためにシベリア人委員会(コミッシヤ)を開くことを提案します」
 「労働者ソヴェートに、ということでしょうか?」聴衆から声が上がる。
 「あなたはあまりに急いでおられますね、同志! わたしが提案したのは臨時政府と労働者・兵士代表ソヴェートへの挨拶です」
 「ウラー! ウラー!」
 「ロシアの頭上に真実(プラウダ)の太陽が昇ったのです、自由の闘士にウラーを叫ぼうと言っているのです」
 「ウラー!」
 「わたしの前の報告者は自由の闘士たちに挨拶を送りました。わたしはわたしたちの間には自由のために闘わないような人間はひとりもいないと言わなくてはなりません」
 「ウラー!」

 7日にフルシチョーヴォへ発つ〔予定〕。一カ月後(借りていた部屋を返すために)ここへ戻るかどうするか決めなくてはならない。

 ロシアと省との(県と庁との)、また大臣役人と課との、地主と領地との比較対照。

 革命の噂がシベリアを駆け巡って、上司上官たちがパニックに陥るや、農民たちの指導者たちまで混乱を来たした――彼らなしではどうにもならない(まったくお手上げな)のに。郷委員会と農民大会。
 革命が始まったばかりのころ、ユダヤ人のクーゲリと君主共和国について議論したことがあったが、そのとき彼が口にした言葉が今も忘れられない。
 「あなたはロシアの農民を知らない。彼らはね、ツァーリがいたって結構(ラードナ)だし、いなくたって結構(ラードナ)なんだよ」
 聞いててとても腹が立ったが、そのとおりだ。ツァリーズムはとうに崩壊して、ただ人工的に保(も)っていたのだ。

アレクサンドル・ラファイーロヴィチ(1864-1928)は文学と演劇の批評家、劇作家、映画監督。1897年から1918年まで「演劇と芸術」誌を編集した。また劇場「歪んだ鏡」の創設者(1908)で指導者でもだった。

 ヒンデンブルクは非常に正確に自分の希望を定義した――労働者は平和に、農民は地主の土地に取り組むだろう。労働者がいなければ前線に弾はなくなり、農民がいなければ食糧はたちまちち底を尽くだろう。
 「同志よ、ほら見たまえ、こっちへヒンデンブルクの旅行かばんが飛んでくる! そいつを開けたら、ニコライが跳び出すぞ!」
 「兵士を労働者に嗾(けいか)けるのはたくさんだ」
 電車に乗っていた労働者が言う――『もうたくさん、〔おまえさんたちは〕じゅうぶん戦ったんだ。平和の話をしたほうがいい!』だが、兵士たちは陰気な顔して口を噤んでいる。

ヒンデンブルク(1847-1934)はドイツの軍人、政治家。第一次大戦では参謀総長として、参謀次長ルーデンドルフとともに戦争を指導。国家奉仕法によって戦争経済へ導いた。ロシア革命後、ソヴェート政府の和平提案に対しブレスト‐リトフスクで過酷な講和条約を強制(1918)。ヴェルサイユ条約締結後(1919)に退役したが、右翼帝政派に支持されて大統領に。最晩年にヒトラーを首相に任命した。

 2つのスローガン――
 その1、「併合と賠償金なしの和平」に小さなしっぽ「付帯条項」。しかし彼らが欲しなければ戦うまでである!
 その2、秘密のしっぽ付きの完全勝利まで戦争を続行――(そのときわれわれは知ることだろう!)
 国内では大半が2の公式を支持している。第1の公式は現権力〔政権=労働者・兵士代表ソヴェート〕の公式的スローガンである。
 すべては、あらゆるところで信頼を得るためにソヴェートが、どれだけ、いかにしておのれを打ち立てられるかにかかっている。
 「嗾け」は第一に、兵士と労働者が革命事業の優位を競った結果として自然に発生した。第二に、ソヴェートが出足のもたつきから二重権力の構造を生んだこと。第三は、兵士と労働者の論争が基で、反革命やドイツ人への幻想がつくられて、たぶんこれにはちょっと臨時政府に責任がある(「レーチ」に載ったストホードでの敗北の解釈)。

 ソヴェートの和平への呼びかけはほとんどの人に理解できない。この和平(『土地を!』という農民のスローガンそっくりだ――解明が必要)の意味するところは弱さ、であるが、実際は強い、『戦争だ!』よりずっと強力なスローガンだ。世界の平和は『世界に平和を!』という祈りの中でしか使われない(教会での祈禱文にのみ出てくる)もの――それは労働者たちが認めている。
 「併合と賠償金なしの和平を」という国民向けの呼びかけには一つだけ欠陥がある。それは、annexation(併合)とcontribution(賠償金)という言葉が抽象的過ぎて庶民には何のことやらわからないのに、ところが和平のアピールのほうは、子どものころに教会で巻き毛の頭を振りふり輔祭が朗誦していた『世界の平和を主に祈りましょう!』とまったく同じなのだ。

エクテニヤと呼ばれる正教会の「死者のために連禱」。

 自分は代表ソヴェートで隣の人にそのことを言った。それに対して返ってきた答えは――
 「そうです、そのとおりですよ。ただし今は、われわれを神に近づけるのはお祈りではなくプラウダと実行なんです!」
 ソヴェートはデモクラートのための学校だ。われわれに非常に多くの(悪)害をもたらしたのはフランス革命史だった。それはしばしばわれわれを脅かしたが、状況はまったく違っていた。大半はごく普通の農民である。フランス革命に参加したのがどんな農民たちだったかを思い出せばいい(テーヌ)。

イッポリート・アドルフ・テーヌ(1828-1893)はフランスの哲学者、評論家、歴史家。『近代フランスの起源』(全12巻)、『イギリス文学史』(4巻)、『芸術哲学』など。

 オクーリチ。彼は旧秩序の人間で、革命の境界を越えることなど想像すらできない。
 農業問題の解決などとんでもない、考えることすらできない。かつて在ったものから出ようとするなら、かつて無かったものから出る必要がある。しかし、これにはすべて、今すぐパンと弾丸を供給するという条件が付いている。

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