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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 12 . 11 up
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2月28日(続き)

 省の食堂の女将(フィン女)は、これまで役人たち相手に商売していたのだが、今ではお客は「兵隊さんたち」である。

チュホーンカ(чухонка)は確かにフィン人の女性のことだが、革命前、ペテルブルグの近郊に住んでいたエストニア人やカレロ・フィン人をいっしょくたにチュホーニェツ(男)・チュホンーカ(女)と呼んでいた。家政婦や女中として19世紀のペテルブルグもの(小説)によく顔を出す。

 その女将(おかみ)がわれわれに向かって宣った――
 「どうしてあんたたちを食べさせなくちゃなんないの?」
 だが、いずれまた役人たちは戻ってくるよと言い返さると、女将はちょっと考え込んだ。そして、仕方ないかという顔をして、しぶしぶわれわれにも食事を出す。
 トゥチコーフ5条通りのランチ店の女将は――『食事は出すわ、こんな時だからこそ自分のことだけ考えてちゃいけないのよね』。なんとも嬉しいお言葉ではないか。活動への熱と本気と。警察との闘争。どうやらあすは、労働者は職場に復帰し電車も動きだすようだ。電話ももう大丈夫。女が二人、先っぽに鉛の玉をつけた火掻き棒を手に歩いている――警察分署長をやっつけに行くらしい。保安課(オフラーンカ)の火事(保管記録で焚火をした?)。フレデリークス宮殿ほかでも失火。ツァーリが「連帯」に同意したとか――一日中そんなひそひそ話。今はすべてがツァーリひとりに掛かっているかのようである。

3月1日

 ツァーリに掛かっているのは革命を鎮めることなのだが、どうも完全に忘れられているようだ。学生がひとりやって来て、市会で開かれたミーティングの話をする――そこでは(一語判読不能)が最初の犠牲者たちを優先するよう要求したということだ。
 学生はいささか興奮気味に『社会民主主義は国民の声を代弁しない』と。大学の集会では、ロヂャーンコの布令を掲載した社会民主党(エスデー)のマニフェストで大騒ぎ。まるで二つの政府(エスデーと国会内臨時政府)があるようだ。

 議論はこんなふうにして始まった。敗北主義者の学生が〈同志〉である兵士(あばた面の)と話を交わしたとき、その兵士に向かって――ドイツでもこっちとまったく同じことが始まるんだぞ、そうなんだ、二つの国は提携するんだ……すると、また別のところでは、首にショールを巻いた、赤毛の、ぶくぶく太った学生が、頬を紅潮させて、アルザス・ロレーヌについて一席ぶっている。か思えばすぐに、コンスタンチノープルをどうするかなどとぶち始める。……そのとき、ぼろを着た乞食のような男がすすっと前に進み出て、これまた合同だ連帯だを熱く呼びかけた。それに赤毛の学生が口を出す。そしてエスデーの綱領は差し置いて、労働者代表の言い分である「政治と民主共和国」を前面に押し出そうとはかる。敗北主義者が裏切り者呼ばわりされる段ではなくて、(1)905年を駄目にした張本人は誰かいうところまで行ってしまう。
 労働者と眼鏡をかけた赤毛の政治好きの学生がやり合っている。赤毛が言う――
 「フランスで起こったと同じことがあっちこっちで起こった、イギリスでも起こった……どこでも起こっているのだ」
 それに対して労働者は考え深げに――
 「しかし、ロシアでは起こらなかったね」
 赤毛は一瞬、当惑したように――
 「確かに、ロシアでは起こらなかった」と呟いたが、すぐに気を取り直して――「だからそれがどうしたって?」そう言って、また一方的にまくし立てる。気がつくとまたしてもアルザスロレーヌの話に戻っている。

アルザス・ロレーヌ地方はフランス北東部ライン川西岸の肥沃な土地。同地争奪の紛争が独仏間でたびたび起こっている。フランスはこの地の奪還だけでなくザール炭田地域の併合も視野に入れており、さらにライン左岸のドイツ領(ラインラント)をドイツから切り離して自国への併合、あるいはフランス管轄下の緩衝国にしたいと思っている。これについては戦時中にフランスとロシアのあいだで密約が交わされていた。

 監獄で亡くなった学生のスミレーンスキイに捧げた花環にこんな添え書き――

  〈永久(とわ)の記憶を! 彼は自由のために戦った。
   友らへ永久の記憶を、
   永久の記憶を……
   永久の記憶と敵どもへの復讐を〉

 誰がどこから撃ってくるのかわからない――軍人があっちにいて、こっちには恐怖に駆られて逃げまどう群衆がいる。自分は建物の陰に立った。そして弾が飛んでくる方向を見定めてから、ビルからビルへ身を隠すようにしてボリショイ大通りへ、それから一気に自分の住んでいる通り(条)に折れた。至るところで本格的な、前線さながらの銃撃戦が始まっていた。電話はまだ使えた。わたしは画家〔ペトロフ=ヴォートキン〕に、そっちまで行けなかったと電話した。そして彼も――それはフィンランド連隊が18条から撤収しているからだと言った。そのあと電話は通じなくなった。一晩中、壁の向こうで戦闘が続いていた。時計も相変わらず、あの役所の書類の書き出しみたいなドイツの歌を奏でている。
 急いでメモを取る――自己証明と死後の財産の処分等々を認めるとそれを封筒に入れ、封印して脇のポケットに収めた。玄関番の女がいかにも嬉しそうな顔でわたしを出迎え、ありとあらゆるニュース(とは言ってもこちらがすでに知っているものばかり)を話してくれる。開口一番は国会のこと――『連帯ですよ連帯ですよ!』ほんとに嬉しくて堪らないのだ。『だからね、あなた、もうツァーリはいなくなるんですよ』。
 彼女を見ていて、ふと、アンドレイ・ベールィが頭蓋の外へ飛び出た霊の状態がどうのと話していたのを思い出した。わたしは考える、いや考えるのはそのことではないが、でも知っている――玄関番の女が頭蓋の向こうにいるということについて。そして通りでもやはりそうなのだ。射撃の音はどこでもこれだけ聞こえているのに、人びとの顔はじつに嬉しそうに、まるで復活祭(パスハ)みたいに晴ばれとしていて、みんなみんな玄関番の女のようである。

ここで言及されているのは、霊体の肉体からの離脱に関する人知学的モチーフの一つ。これについてはベールィにさまざまな論文(1910~30年代)がある。代表的なものに『革命と文化』(1917)。1908年にプリーシヴィンとベールィは初めてメレシコーフスキイの家で顔を合わせた。(十五)の注を参照。

 大学の集会へ向かう道々、朝食のために省に立ち寄った。フィン人の女将は出すのを拒んだ。これからは役人には食事を出さない、なぜ出さなきゃならないの、うちはもう兵隊さんにしか出さないよ、と言う。年配の役人がそんな女将に――『状況がどう変わるか誰にもわからんよ、だから兵士には食事は出しといたほうがいい、でも、われわれにもちょっとはサーヴィスしてくれてもいいんじゃないかね』。女将はとたんに考え込んだ。そして少しばかり子牛の肉を恵んでくれた。『そうこなくっちゃ!』と老官吏。わたしは好奇心から省の建物に沿って歩いてみる。がらんとして人っ子ひとりいない。そのかわり大学構内は1905年のころのようである。ただし今、そこには兵士たちもいて、学生たちは彼らを〈同志〉と呼んでいる。次第に高まる胸騒ぎ、不安、動揺……お祭り騒ぎでないことは確かだが、でもやはりここは銃後であって、はしゃいだような雰囲気がある(戦場ではない。どこか違う)。それに群衆はそれほど浮かれた顔をしていない。
 玄関番の女がドアを開けてくれる。わたしは自分の不快感を彼女の嬉々とした顔にあやかって一気に追い払いたいと思った。それで〈みんな連帯だ〉といういつもの彼女の言葉を口にしてみたところ、意外にも相手は思いきり陰鬱な声で――『あんなことして世の中がもっと良くなるなんて、誰にわかるっていうの?』。驚いてしまう。彼女に何が起こったのか? どうしたのか? 訊けば、このアパートに住んでいた警察分署長が姿をくらました、で、ついさっき、銃を持った兵士が逮捕にやって来て、彼女に分署長を出せと嚇したのだという。玄関番の女は朝の彼女とはまったく別人である。『あんなことやっていいと思ってるんでしょうかね?』とそればっかり繰り返している。

 もう発砲はないだろうと誰もが確信している。だが、そうではなかった。突然また始まった。しかも〈活動の心臓部〉たる国会(ドゥーマ)で。
 あばた面の兵士は、学生のスミレーンスキイは間違いなく喜んで死んでいったと思っている(それで自分たちも行動を起こしたのだと)。ハバーロフ〔ペトログラードの軍司令官〕が逮捕されると、すぐ冬宮への一斉射撃と年少者たちへの武器の配給があり、ラインワインの酒蔵〔ライン地方産のワインを商っている店〕での略奪が始まった。問い:ツァーリはどこにいるのか? 噂ははなはだ力のないもので――ツァーリは降伏した、である。冬宮への一斉射撃。プロトポーポフは冬宮のどこかに隠れているとか。彼に対して降伏勧告がなされた。というのも、彼を捕らえるために冬宮をぶち壊そうとしているのだから。それでプロトポーポフは降伏し、気を失った。担架でドゥーマに移送された。

 ぞっとするような問い:では、その残りの(それ以外の)ロシアではいったい何が起こっているのか――誰も知らない。誰かがこんなことを言った――『でも嬉しいね、なんだか復活祭(パスハ)がまたやって来たようで、ほんとに嬉しい』。

 長官(上司)の家に行った。シャホフスコーイ公爵の話をしてくれた。公爵とはモスクワで会ったのだという。公爵はかなり落ち込んでいた。虚脱状態だった。兵士を甘やかしたハバーロフに責任がある――兵士たちが電車の中で煙草を吸ったり、そんなことが3日も続けば、あとは10人まとめて逮捕しまとめて吊るし始めるのは目に見えている。それじゃ前とちっとも変わらんじゃないか――そう公爵は言った。

ドミートリイ・イワーノヴィチは立憲民主党(カデット)の主要な活動家の一人。

 モスクワも連帯、ノーヴゴロドでも連帯だ(と電話で知る)。
 二人の兄弟―ラズームニクとオクーリチ。電話でラズームニクに――これじゃ(ソヴェートとドゥーマの)内乱になってしまうぞと言うと――『いいや、そんなのは2、3日で終わる』。それでそのあとオクーリチに〈敗北主義〉について説明してやったら、いきなり声を張り上げて――『そりゃ裏切りだ!』。〔オクーリチ〕やラズームニク組はどうやら労働者の間でもかなりの少数派らしい。
 オクーリチはグチコーフ〔十月党員(オクチャブリスト)=ブルジョア地主党のリーダー、前出〕に手紙を書いた――『仕事も無くただ坐っていることはできない、仕事をさせてくれ』、つまり自分は「連帯だ」ということを書いてやったのだ。

 これも電話で知った――〈大佐〉がマーラヤ・ヴイシェラで足止めを喰らっていると。〈大佐〉のもとへロヂャーンコ〔国会議長〕とグチコーフが出向いた(責任内閣への?〔の親筆〕の署名を受け取りに)。『なんとしても鎮圧せよ』というツァーリの電報は握りつぶされた――そんな噂まで聞こえてくる。大佐夫人も検束。王手をかけられたのである。

〈大佐〉とは皇帝ニコライ二世のこと。夫人は当然、皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ。2月23、24日(新暦3月8、9日)にペトログラードで食糧を求めて暴動が起こった。2月25日にモギリョーフの大本営にいた皇帝は、すぐに軍の出動を命じた。翌日、いくつかの部隊が士官の命令に従って発砲、その時点で反乱を起こした部隊も出てくる。2月27日には暴動が拡大、政府も首都をコントロールできなくなった。ニコライ二世は、前線の部隊を首都へ戻して秩序の回復にあたらせよと命じ、自分もツァールスコエ・セローをめざしたが、3月1日、列車がマーラヤ・ヴイシェラに到着したが、首都へ向かう路線はすべて閉鎖されており、やむなく進路をプスコーフに変更せざるを得なかった。

 これも電話で知ったこと――シャホフスコーイ公爵も逮捕された。プロトポーポフの死(モラルにおける)。商業相はニコライ・ロストーフツェフ、シンガリョーフは農業相、ケーレンスキイは法相エトセトラ。しかし、巡査たちはまだ発砲している。その頑張りようはドイツの巡査とまったく同じ。巡査たちを指揮するチェブィキンとかいう秘密の司令官がいるという。屋根裏に籠もったひとりの巡査の姿がイメージされる。そいつは蜂起した群衆を狙い撃ちしている。

臨時政府の閣僚は以下のとおり――グチコーフについでミリュコーフが辞任すると、外相の後任にはチェレーシチェンコ、陸海軍相の後任にはケーレンスキイが横滑りし、リヴォーフ首相とネクラーソフ、コノヴァーロフは留任。それにツェレチェーリ郵政・チェルノーフ農業・スコーベレフ労働とペトグラード―=ソヴェートの3副議長が入閣した。

 ヂェメニーとワシーリエフ〔未詳〕がやり合っている(穀粉がある、ないで)。ヂェメニーはわかっていない。ワシーリエフは強情だが、何かを理解し始めていて「連帯しようとしている」。

3月2日

 朝のドゥーマへ歩兵の行軍。完全な静寂。射撃音はまったくなし。まるで奥深い銃後から前線へ向かっていくようだ。リチェィヌイ通り、地方裁判所――赤い服をまとった水兵たち。が、概して被占領都市という感じ。旧政府の布告でさえ、なにやらリヴォーフ市の旧政府の布告といった感じである。
 マスローフスキイ〔作家で革命運動に熱心だったムスチスラーフスキイのこと。前出〕のアパートが司令部として使われている。
 歴史のために記しておくのだが、最初の銃声が轟いたのは皇帝ニコライ〔一世〕軍事大学の中庭で、そのとき撃たれて死んだのがヴォルィンスキイ連隊の司令官であること。
 ドゥーマは噴火口の中。〔大学の〕教壇の下に大鍋が据えられて、そこで兵士たちがものを食っている。エカチェリーナ広間では兵士たちのミーティング。社会民主党員(エスデック)の独裁にいよいよ募るジャーナリストたちの怒り。
 「ヂェーニ」紙の編集室。ヴォドヴォーゾフ*1が言う――『汚らわしい人間に何ができると言うのか。わたしは生涯ただひとつのことを――憲法制定会議*2のことを考えてきたのですぞ』。

*1ワシ-リイ・ワシーリエヴィチ(1864(65)-1933)は社会批評家。

*2憲法制定会議――専制政治と戦うスローガンの第一。普通選挙に基づいて選出される国民代表機関による憲法制定がまず主張された。これは自由主義者から社会主義者に至るまで幅広い支持を得ていた。二月革命後、リヴォーフを首班とする臨時政府は憲法制定会議召集のための特別審議会を設けるも、閣内の対立から当初9月に予定された選挙は11月に延期となった。

 憲法制定会議。騒然たる夜である――いっそ何もかもが一瞬のうちに吹っ飛んでしまえばいい――そんな期待。

3月3日

 時の時。事件が起こった正確な時間を言える人間などめったにいない。たいてい事件はどうということもない時に生じて、あっという間に消えてしまう。革命の本当の始まり、その始まりの瞬間はすでに歴史研究の対象である。その始まり(わたしが目撃したものとして)はこうであった。クズネツォーフの件を報告しに行ったさいに、上司がこんなことを言った――『今はどうでもいいんだ……砲兵連隊の本部が占拠されてしまったのでね……(あれは3時ころだったかな?)などなど。
 よく眠れない。疲れて目蓋の開け立てもままならない。それでも暗がりに目をやると、雪をかぶった壮麗な建築群がくっきりと浮かび上がってきた。市街全体はただもう見事と言うほかないくらい完璧で、継ぎ目のない(つまりまだ誰にも踏まれていない)純白の処女雪なのである。
 朝、郵便物が届いた。工場の煙突からかすかに煙が立ち上っている。労働者たちはほんとに職場に向かうのだろうか?
 家族を連れ出すか、それとも今しばらく待つべきか?
 人びとは通りに出て、二つの委員会の合意や新閣僚の新しい布告のことなどを訊ね合っている。素晴らしき日よ、ひかり匂い満ちたるマロースの3月よ! いや増す歓喜の顔、顔、顔! 賑わうネーフスキイ大通りの車馬のこの行き交い! 電飾を施された皇室の紋章が取り外され、それが山のように積み上げられている。ショーウインドーには皇帝退位の掲示。労働者・兵士の行進。掲げられた旗には「社会主義共和国」、それと「起て、立ちあがれ!」(〈おお主よ、ツァーリを!〉はもうない)。

 ラズームニクとシチェグローフ〔未詳〕と自分は編集室を出てドゥーマへ向かう。雑報欄担当の記者が、次の通りを入ったところにぐるぐる巻きになった針金の山があると教えてくれた。確かにあったが、見てもよくわからない。機関銃の部品のようだが。あれは何かねと兵士の一人に訊いたら、兵士は――『ほれあそこ、焼かれたんだよ。山になってるのはマットレスのスプリングさ。ピアノも燃えちまった……』
 雑報記者のスヴァーチコフが市の助役に任命された。В(ヴェ).В(ヴェ).〔ヴォドヴォーゾフ〕が電話で文書の閲覧を申請するとき、スヴァーチコフに「閣下」と呼んでいるのには驚いてしまった。まったく偉くなったものだ。じっさい、スヴァーチコフのような奴らが掃いて捨てるほど現われた。大半はろくに読み書きもできないジャーナリストである。ドゥーマへの入場証を申請すると、そんなのが将官クラスの人間をまる1時間も待たせるのだ。そこでみなして額を寄せ合って――『どうしようか、奴に1行5コペイカ割増し〔の賄賂〕を進呈すべきかな』。そんなスヴァーチコフ輩のひとり(スチェクローフ)は、5紙の発行を許可するという執行委員会からの通達を受け取ると、集まったわれわれジャーナリストたちに向かって、自分らの「イズヴェスチヤ」紙に載ったもの以外は記事にしてはいけないなどと厳命したのである。まったく、開いた口が塞がらない。
 われらがマクシーム〔ゴーリキイ〕は目下、「年代記(レートピシ)」を校正中である。彼はわたしを労働者代表ソヴェートに連れて行く。こちらは疲労困憊で、足には肉刺(まめ)ができていた。深夜の2時に電話が鳴った。ペトロフ=ヴォートキンからだ。あす8時に芸術省の協会へ来てくれという。そこから、ものを考える人間の心臓に新たな不安が――これまで誰も経験したことのない恐慌が生じた。わが兄弟たちの奴隷状態をまるごと踏み台にして心の平安を贖わなくてはならないのだ。

「年代記(レートピシ)」は1915~17年にペトログラードで発行された月刊誌。リーダーはゴーリキイ。主に文学・学術・政治を論じて、帝国主義戦争、ナショナリズム、狂信的排外主義(ショヴィニズム)に対抗した。政治的には多くの点で「前進主義者(フペレドーフツィ)」とメンシェヴィキたちの路線を走って、伝統的なリアリズムとインターナショナリズムの思想を堅持した。

 夜、ラズームニクのところに集まったのは、自分(閣下)と大佐マスローフスキイと兵卒ペトロフ=ヴォートキン、それと公爵令嬢ゲドローイツ。互いに詩を読み合う。文集「スキタイ人」について語り、画家〔ペトロフ・ヴォートキン〕に題材を提供した。スキタイ人は計算ができないので、勘定するのはすべてヨーロッパ人である。われわれが何を考え、毎日何をするかを正しく書くことができたら――つまりレーミゾフがいかにして病を得たか、Г(ゲー)〔ゲドローイツ〕がどういうふうに自分で自分の癌を切除したか、П(ペ).В(ヴェ).〔ペトロフ=ヴォートキン〕が敬礼の仕方を習いにどう副官のところへ出かけていったか、それでそのとき、彼らが何を思って何を感じたかを正しく率直に書くことができたら――ふとそんなことが頭に浮かんだのだった。戦争、軍事検閲、同様のさまざまな圧力〔大岩〕の下に、個性(リーチノスチ)が押し潰されていて、もはや呻き声すら聞こえない。それらの人びとはこれまで世界救済に向けてひとつになることができないでいる。それのみか、未来の先触れ〔洗礼者ヨハネの意でもある〕の声さえ聞こえてこないありさまだ。われわれにドイツ人が告げた平和など、彼ら〔ドイツ人〕によってもイギリス人によっても、いや国家なるもの民族なるものによっても告げられることはないだろう。平和は、磔にされた苦悩する神のリーチノスチによって国家や民族に告知されるのだ。でもいまだにその(、、)〔神の〕先触れは姿を見せない。

文集「スキタイ人」――さまざまな流派・傾向の作家と芸術家たちによって、1917~18年に出版された同名の二冊の文集。リーダーはイワノフ=ラズームニク。左派エスエルの路線に近く、十月革命の初期にはソヴェート権力と共同歩調を取った。このグループに名を連ねたのは、ベールィ、レーミゾフ、ザミャーチン、フォルシ、チャプィギン、プリーシヴィン、クリューエフ、エセーニン、オレーシンその他。。十月革命を受け入れて、この文集は民族的な〈東方的〉スチヒーヤとも言うべき農民社会主義、すなわち社会革命が真の〈スキタイ的〉革命への、精神の新たなる高揚への第一歩となることを願った。プリーシヴィンの短編「最後の審判」は第一文集に掲載された。第三文集ではブロークの叙事詩「スキタイ人」が巻頭を飾る予定だったが、実現しなかった。

 ラズームニクとジャーボロンコフ〔エレーツの商人〕。前者のマテリアルは歴史であり、後者のそれは知識人の日常レヴェルの歴史、すなわちエレーツの粉挽き屋の倅と同じレヴェルの歴史である。ペテルブルグでのわが生活とエレーツでのわが生活。ラッパが鳴りだすとインテリたちも鳴りだしたが、うちの一人は「受け入れようとはしなかった」(分別ゆえに)。国民はみな布令に従い、そうしなくてはならないのに、むろんイワン・ミトロファーノヴィチ〔ジャーヴォロンコフの息子〕などは志願兵にならずに、もっぱら親爺が貯め込んだ財産の上に胡坐をかいていたわけだが、いっぽうミハイル・ミハーイロヴィチ〔自分のこと〕は見たところ戦士ではあったが、戦争が充電され過ぎ〔戦争で頭がいっぱい〕たせいか、何ひとつ憶えていない始末である。絶望の自慰、プリンシプル(のようなもの)――この手で人を殺(あや)めてとことんいく。

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