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プリーシヴィンの日記 太田正一
2011 . 11 . 27 up
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乞食たち。駅には出動だのイギリスだのを話題にする人間はひとりもいない。ここにいるのは、ただいうつらうつらしながら汽車を待っている者たちばかりだ。なかでも多いのが、兵士になった身内に会うために取るものも取り敢えず、ほとんど無我夢中で首都に駆けつけた女たちである。朝、日の出前に民兵が到着すると、すぐに女たちは彼らに逃亡の仕方を教えてまわった。プラットフォームに坐っていた小さな娘が兵士たちを見て泣いている。わたしはしばらく、どうして泣いているのか訳を訊こうした。ようやく返ってきた答え――お父ちゃんがみんなに逃げろと言われた、それで泣いているのだと。そして娘は、ほかの兵士や民兵と一緒に銃を手に路床を駈けてゆく男を指さした。周囲の誰にとっても――汽車を待っている一般の民衆にも、走り回っている兵士たちにも、泣いている女の子にも、イギリスのことなどどうでもいいのだった。わたしはでも、そのことだけを考えていた。その点で自分は裕福(ボガット)であるようにさえ思われた。すべてはイギリスの出方次第だと〔自分は〕わかっていたが、誰もそんなことは考えてもいなかった。突然、鐘が鳴る。汽車が入ってきた。プラットフォームは一瞬にしてごった返し、みなが一斉にデッキに飛び乗った。
「満杯だ、乗るな乗るな!」車掌は怒鳴るが、誰も聞いていない。なんとか割り込もうと突撃を繰り返す。車掌も車掌で急いで買いものだ……自分のことで頭がいっぱいなのである。世界がどうなろうと関係ない。こっちは乞食みたいにそんなカオスの中でただまごついている。
みな必死で3等車の屋根によじ登った。わたしは2等車の車室(クペー)にやっと立つだけのスペースを見つける。そこには、2人の子ども、乳母、小間使いを連れた美しい奥さん(ダーマ)が乗っていた。車室は荷物で溢れていたが、工夫すれば夫人のとなりに坐れそうである。でもあいにく牡猫が邪魔をしてくれた。灰色のでっかいやつで、しっかりと紐をかけた網籠に入れられている。奥さんは新聞を読んでいて、気づかない。わたしは彼女がこちらに気づいて(坐る場所を少し譲って)くれることを期待しながら、じっとその頭部を注視していた。が、いっこうにその気配もない。大丈夫、自分はずっと立っていられる。彼女のほうもきっとこのまま気づかずにいることだろう。
「奥さん、申し訳ありませんが、そこに坐らせていただけますか? 猫を膝の上に置いてもかまいませんか?」
「どうぞお坐りください」奥さんは顔も上げずに言う。わたしは腰を下ろした。そして、彼女が手にしている新聞に、大文字の「イギリス」が躍っているのに気がついた。しかしイギリスがどうしたかまではわからない。『本当にイギリスは宣戦布告をしたのだろうか?』。あれこれ思いめぐらしたあとで、そうだ訊いてみればいいんだと思い直して、奥さんに――『どうなのでしょう、イギリスは……』と声をかける。『どうですか、イギリスは本当に……』
奥さんはわたしをちらと見て何か言おうとしたが、急に振り向くと、窓の外に目をやった。プラットフォームを軍人が走っていた。奥さんは窓を下ろして、その軍人に声をかけた。『キラシール連隊*はもう発ちましたの?』。将校は鍔に手をやった。詳しいことはわからないが、彼自身はまだ発ってないと思っているようだ。『まだ出てなければいいのですが!』――『きっとまだですよ』将校は安心させるように言った。
*キラーサ(кираса)は胴を防護するためのよろい(胸甲)。「キラシール連隊」とはそれを着した帝国陸軍の胸甲騎兵連隊のこと。
奥さんは席に戻ると、新聞の上に腰を下ろした。大文字の「イギリス」がうまい具合にこっちを向いてくれた。奥さんはわたしのことなど忘れている(まるでこっちが初めから存在していないように)ので、その新聞、読ませてくれませんかとはもう頼めない……新聞は彼女の尻の下なのである。小間使いの娘と乳母に向かって、奥さんが言った――『キラシールはまだ発ってないようね』。『おお、どうか主よ!』と乳母。『おお、どうか主よ!』と小間使いも同じ言葉を繰り返す。『どうかまだお発ちになっておられませんように!』
奥さんはすっかり安心したようで、新聞を手に取ると、またイギリスについて読み始めた。もういちど訊いてみようか。
12月8日
敗北主義者と祖国防衛主義者。こんなことが言われている――戦争が自分の利益になる奴は戦っている、労働者階級は戦っても益がないので拒否するだろう。スローガン――初めは平和を、だがその後は社会改革だ。しかし戦争が行くところまで行かなければ、平和条約は支配階級に有利なかたちで締結されて、社会改革など行なわれないだろう。祖国防衛主義者の弱点は、とことん防衛に徹しようとするので、結局ひとりも生き残らないところまで行ってしまうかもしれないことだ。
12月11日
フェリエトン〔時事戯評〕のテーマ。わがルーシはどこへ出かけようがどこに泊まろうが、そこには必ず自分より先に〈将軍〉がいるという奇妙な国である。海に出かければ、ポモールたちが将軍の話をしてくるし*、誰かの領地を訪ねたときにも、自分の前に将軍がやって来ていた。ホテルに部屋を取って、自分の前にこの部屋を借りたのは誰かねと問うと、即座に「将軍です」という返事。あるとき、人里離れた修道院でお茶に招ばれようと修道院長の部屋へ行った。すると修道院長は――『聖名〔お名前〕はなんとおっしゃられますかな?』と訊いてきた。『ミハイルです』――『ご尊父による名〔父称〕はなんと?』――『ミハールィチです』――『ほう、ミハイル・ミハールィチと。これはまた結構ですな』――『それはどういうことでしょう? 何か特別な意味でもあるのでしょうか』――『いやいや、あなたの前にここにおいでだった将軍もミハイル・ミハールィチだったものですから……』
*このエピソードは、アルハーンゲリスク、白海、ソロフキ島への旅の記録『巡礼ロシア』に出てくる。ポモールは白海やバレンツ海沿岸に住むロシア人原住民〔モールはモーレ(海)のこと〕。旅人のプリーシヴィンは至るところで首都から来た将軍や偉い役人に間違われる。
先日はもっと奇妙なことがあった。地方から出てきて役所に勤めだした。地位があまりに低すぎて、玄関番がドアを開けてくれないほどである。だが、ある日、なぜかドアが大きく開いて、玄関番がぴょこりと馬鹿丁寧なお辞儀をし――『閣下、お手紙が届いております』。差し出された手紙を見れば、それが公用の封書で、おもてに〈ミハイル・ミハーイロヴィチ・フルシチョーフスキイ閣下〉と認められている。開封する。三等官の何某の『ミハイル・ミハーイロヴィチ閣下へ全幅の敬意を表しつつ云々……』だ。翌日にはまた似たような封書が今度は下宿先に届いた。女将はびっくり仰天、女中はうろたえて、下宿中が大騒ぎになった――なんとここには将軍閣下が住んでおられるのだ、官から封書が届いたそうだ。
どうしてそんなことが起こったのか、わたしはわかっている。役所のあの大きな建物。お嬢さん――狐の毛皮。お嬢さんは階段を上っていく。タイピストである……彼ら官吏はどこからやって来てどこへ行くのだろう――誰も知らない。自動車――書類――当直室。回状には印章が押されていて、宛名は無く、ただ「閣下」とだけ。本物の将軍なんかどこにもいやしない。灰色の上着を着た平凡な人間。永遠の眠りについている将軍の霊。
ルーシの奥深いところから流れ出たものがその中心へ向かっている。中心には知られざる財宝を守る死の番人たちがいて、みなそこになだれ込むのだが、ついに四等(文)官〔将官に相当〕にはなれずに消えてゆく。彼らはじつに多種多様であり、しかもいずれも明るく元気な生命力に溢れた人たちである。
12月22日
罪。何もかも盗まれてしまうと下宿の女将の悩み・心配・興奮は尽きることがない。また窓から薪の置場に目をやった。すると急いでグレープが宥めにかかる――『大丈夫、まだ盗られてませんよ。誰も一本も持ってかないし、おれも盗らないし』――『ほんとに罪はないとでも?』女将が言う。『そりゃ、あります』とグレープが答える――『よくあります。けど、それはふとした気の迷いからなんでね。ま、たしかに罪です。でも安心してください。大丈夫です、誰も盗みやしませんから』
継子。継子〔ヤーシャ〕が起こす家庭の悲劇。不良少年。自由放任の母親から引き離すべきなのだ。このままだと、ほかの子(リョーヴァとペーチャ)を駄目にしてしまう。本人もどうしていいかわからず、ひとに相談しようとする。はたしてどんな回答どんな助言がもらえるやら。少年の唯一の味方は〈伯爵(未詳)〉なのだが。
ワルワーラ・アレクサーンドロヴナ・リムスキイ=コールサコワ。長らく夫と暮らしていながら、夫を愛さず、それを彼にも世間にも隠している。自己欺瞞をやってきたのだ。あれほど夫を苦しめて、他人(ひと)にはたえず夫の美点を並べ立て、夫を褒める人を友と、馬鹿にする人を敵と見なしていたくらいだ。彼女には何かれっきとした称号でも贈らなくてはならない。亭主にも贈るとしたら、まあ、商人(あきんど)ではなく大商人の称号か。秘密の手文庫には「その彼に」宛てた手紙がいっぱい入っているとか……
ラドゥーイジェンスキイ家の連中も普通でない、かなり常軌を逸している。リュボーフィ・アレクサーンドロヴナ〔ラドゥーイジェンスキイ家の出、前出〕は、自分の園芸気狂いの亭主〔ロストーフツェフ家はフルシチョーヴォのプリーシヴィン家の隣人、前出〕を正教に改宗させようとしている。マーシャとターニャを養女にして教育している。ヴェーラ・アレクサーンドロヴナは娘を通して例の修道院に入り込んでいる。姉たちよりずっと幸せで、子どももいっぱいいる。ナヂェージダ・アレクサーンドロヴナは放蕩息子で躓いてしまった。それらはどれもアムヴローシイ師が蒔いた種である。
気狂いじみた園芸家。子どもみたいに文句を垂れたりぎゃあぎゃあ泣き喚いたり。思いついて組み立てるが、出来上がると見向きもしなくなって、やがて忘れてしまう。が、妻のほうはすべてを憶えている。彼女は無理やり夫を正教徒にした。しかし、「無理やり」とはどういう意味だろう。夫は自分では気づかずに彼女の欲するすべてを実行するようになった。影響力と強制力。影響力は絶対に必要で自由と見なされ、いっぽう強制力は絶対悪! これもアムヴローシイ師の蒔いた種だ。
痛み。そのとき彼〔創作上の人物についてのメモか〕には、人間はすべて何らかの病気に罹っていて(疾患があり)秘密めかした嘆息(ため息)や神経質な話し方から、それが何の病気かどこが悪いか感知できるように思えた。誰もがその痛みを恐れて身を隠そうとする――病人同士は決して病気の話をしなかったし、無理して明るい顔をしていた。健康人たちには黙して語らず(そのためには努力を惜しまない)、明るく陽気に振舞った。あるいはそうすることで、却って患部が刺激されるようにも思われた。宗教は民衆(ナロード)から賃借したものだが、同時にナロード自身には不要なものとなってしまった。社会の上層部がナロードの宗教に目を向け、ナロードが喜んで格安でそれを賃貸する時代なのだ。もっとも、賃貸宗教とそれを借りて自分の人生の事業としたリュボーフィ・アレクサーンドロヴナのそれとはまったく別ものなのだが。彼女のまわりの人間はすでに祈るのをやめていた。彼女は自分独りで寺院を建てようとした。
12月25日
大きな大きな祭日。憂悶(スクーカ)が胸焼けするところにまで達している。弱さを悪の根源のように考えている。力と弱さとは等しく悪の根源になり得る。弱さゆえの(一語判読不能)――侮辱、孤独、地下室の道(方法)。苦悩による浄化は活動的な叡知であること。悪の力の道がいきなり善に転化すること。
12月26日
ヴォルーイスキイ〔未詳、前出のエレーツ市長のヴォルーイスキイとは別人のようだ〕が15ヵ月の捕虜生活を終えて帰って来た。彼の話――われわれが捕まったとき、自分はジュネーヴ協定*からして軍事捕虜とは見なされないなと思った。でも、われわれがそのことを口にしたら、将校が拳銃を取り出して、こう言った――『さあいいか、これがジュネーヴ協定だ』。われわれは大いに憤慨した。それで文句を言いたそうにすると、またそいつが――『静かにしろ、こいつには弾なぞ入っちゃおらん』。それがわかってたら、もちろん自分は投降する前に、自分の弾は撃ち尽していただろう。奴らの捕虜になる――そいつは自分にとって死ぬよりひどいことだから。
*ジュネーヴ条約とも。戦時国際法としての傷病者および捕虜の待遇改善のための国際条約。ここでは、1864年に、赤十字国際委員会(ICRC)がスイスのジュネーヴで締結した「傷病者の状態改善に関する第1回赤十字条約」と、1906年の「第2回赤十字条約」のことを指す。
種痘。いくらでもそれ専用の器具はあるだろうに、医師の奴は捕虜の腕を軍刀の刃で切開して痘苗を植え付けたもんだから、傷口が開いていつまでも痛みがとれなかった。収容所に発疹チフスが出た。そこでわれわれは言った――『この疫病のことはよく知っている。これを引き起こすのは、飢餓と寒さと落胆、それと虱(しらみ)だよ』。そんなわかったようなことを言われて、医師はカチンときたのだろう。『チフスとどう戦うか、教えてやる』そう言って、われわれを(氷点下10~12度だというのに)バラックの前に整列させ、上着を脱がせると、『おまえたちのうす汚い体にこのきれいな下着をつけろ、そうすればチフスなんかすぐ治る!』。そんなめちゃくちゃなやり方だったから、自分はたちまち発疹チフスに罹ってしまった。その医師は一般人をフン族とかチュートン人とか残酷なうえにも残酷な奴らと呼んでいた。そこでわれわれは彼に、あんたはその一般人である庶民の慈悲の心というものを知っているかと問うと、『捕虜どもに慈悲だの憐れみだの白パンのかけらだのくれたりするから、どいつもこいつも刑務所にぶち込まれるんだ。慈悲の心だと! なんでそんなもの、わしが知らんといかんだ?』。刑務所はたしかに恐ろしい。にもかかわらず、自分は、ひとりの女があたりの様子を窺いながらパンを捕虜の手に突っ込むのを見たことがある。われわれは本も工具も給料も没収されて、かわりに偽の受取証を渡された。奴らはこう言った――『まあせいぜい頑張って講和に漕ぎつけることだな、そうすりゃ、おまえらを残らず返してやろう』――『ほんとに早く平和になればいいのに!』そう言ったのは女子中学生(ギムナジーストカ)である。『ああ、お嬢ちゃん……』と、医師が応じる。『あのね、条約を認めない連中がいるときに、講和なんてできないよ』――『でも、勝てないのなら?』――『むこう〔ロシア〕が表向き勝利したところで、わしらは内部的にはだね、戦う必要があるんだ。いいかね、お嬢ちゃん、勝利への道というのはときどきぜんぜん予期しない場所であったりするんだよ』
砂丘。ぐるりと鉄条網がめぐらされ、捕虜たちはそこへ追い立てられた。見張りがつけられた。碗が一個づつ配られ、そいつで砂に穴を掘らされた。なんということはない、そこが自分たちのねぐらだった。朝、捕虜たちは霧の中から墓場の死人みたいに姿を現わすと、その碗を使って煮炊きを始める。そのうち土小屋とバラックが完成して、ようやくラーゲリらしくなった。
交戦中の世界の地球儀の上に、わたしはすべてが交差し合う一点(トーチカ)を見つけようとしている。12月27日の時間と空間のライン。わたしの独立農家(フートル)はエレーツ郡ソロヴィヨーフスカヤ郷フルシチョーヴォであり、そこには自分――ミハイル・ミハーイロヴィチ・プリーシヴィン(アルパートフ)がいる。自分はある世界の一点であり、別のもうひとつの世界と向き合っている。われわれアルパートフ家の者たちがフルシチョーヴォに住み始めたのは農民〔農奴〕解放〔1861年〕以降のことで、その当時……
フートルで。スキタイ人たち*はこちらの行動を注意深く観察しながら、その独特の遊牧の民を、つまりわたしというひとりのスキタイ人を捏ね上げたのだ。
*紀元前7~3世紀にかけ、黒海北岸にいたイラン語遊牧民族。期限は明らかでないが、前8世紀ごろに半農半牧から遊牧に転向し、ついにスキタイという騎馬民族として出現したらしい。西南アジア、小アジアを荒らしまわり、6世紀にはクバンの草原地帯、北方の林草地帯、そしてついに南ロシアの草原に強力な支配体制を築き上げた。はじめペルシア文化の影響を受けたが、前4世紀ごろからはヘレニズムの影響を強く受ける。その風俗・習慣についてはヘロドトスの『歴史』に詳しい。スキタイの美術品には動的で簡潔な動物意匠の浮彫(貴金属)が多く、いずれもみごとな出来栄えである。カザフ、ウラル、アルタイなどで出土する。プリーシヴィン言うところの〈スキタイ人〉とは、ロシア民族の粗野で原始的な力を意味するのだろう。この2年後に発表される象徴派の詩人アレクサンドル・ブロークはその頌詩『スキタイ人』で、「もしヨーロッパが革命の国(ロシア)との協力を拒むなら、それぞれ膨大な人口を擁するスラヴ人とアジア人のあいだに同盟が成立するだろうと述べて、強くヨーロッパを威嚇」(マーク・スローニム(『ソビエト文学史』)している。しかしそのころには、革命と詩をめぐってプリーシヴィンとブロークは烈しく対立することになる。
プリーシヴィン略年譜(第2前半期―1915~1920)
1915~16年――
ペトログラード、エレーツ、フルシチョーヴォをたびたび行き来する。看 護兵・従軍記者として前線へ。現地から首都の新聞各社に記事を送る。そのうちの一つがルポ「アウグストフの森」(株式通報)。アウグストフは白ロシアに近いポーランドの町。その近郊の広大な森林地帯が激戦地となる。短編『水色のトンボ』。帰還後、母の遺産として分与された故郷フルシチョーヴォ村に家を建てる。
1916~17年――
ペトログラード、エレーツ、フルシチョーヴォを往還。ペトログラードで商工業省の書記官に。ホテルとアパート住まい。
1917年――
春、国会(ドゥーマ)の臨時政府代表としてフルシチョーヴォへ。農民と同等の土地分与。農民たちと衝突する。個人で耕作。秋、首都に戻って、右派エスエル党の機関紙「人民の意志(Воля народа)」の文学部門の編集にかかわる。
1918年――
1月、「人民の意志」紙の編集室で逮捕される。12人の〈ソロモン〉とともに2週間の拘留(ゴローホワや通り2番地)。「トラックに乗せられたが、中継監獄がどこなのかわからない。護送のラット人〔ラトヴィア人〕の話だと、レーニンの暗殺の企てがあった由、『ケーレンスキイが今も権力を握ってたら、おれたちは土の中だったろうが、奴はもういねえ。だから、同志よ、あんたらを監獄にしょっぴいてくのさ』。青二才のコミッサール。憲法制定会議のこと。チェルノーフのこと。「急に時間が短くなった感じ。誰かがわたしを角砂糖みたいに茶碗に放り込んで、スプーンで掻き回してぐいと飲み干した……どうもそんな感じだ」。詩人ブロークとの烈しい書簡のやりとり。「見世物小屋のボリシェヴィク」――これはブロークの詩劇を論じたもの。「革命のロマンチズムは認めない――『十二』に関して」「スチヒーヤに音楽を聞かない」。「貴兄は本物のボリシェヴィクではない、懺悔する旦那(バーリン)の声だ」。短編『水色の旗』(「早朝」紙)。春、最終的に故郷のフルシチョーヴォへ。夏、ソフィア・コノプリャーンツェワ〔友人アレクサンドルの妻〕とのロマン。秋。暴動農民たちによって家宅を追われる。妻と下の息子はスモレンスク県へ。「レーニンの犯罪は、国民を、単純なロシアの民衆を甘言で釣り、たぶらかしたことにある」(9月8日の日記)。「責められるべきはレーニンだ」、しかしこの男が悪の化身の最後の環ではないけれど……」。アヴァドン
*、闇の公、ゴリラ、殺人鬼たち、赤いしゃっ面〔赤衛兵〕、スモーリヌィ宮〔革命本部〕、酩酊鴉……
*アヴァドンまたアバドン(ヘブル語)。《底なきところの使い》の意。教会に敵対する多くの災いのうちの一つ。滅び、または死の力。悪魔的な滅亡の働きを担うと解されている(黙示録第9章11節)。
1919年――
コノプリャーンツェフ一家と〈共同(コムーナ)〉生活。図書館司書、考古学の専門家、地誌学の主催者として活動。エレーツ中学(退学を喰らった母校)で「地理」を教える――思えば少年プリーシヴィンはこの学校の地理学教師ローザノフによって退学させられたのである)。夏、コンスタンチン・マーモントフの襲撃に遭う。マーモントフは陸軍中将、国内戦で白軍騎兵隊を指揮し、南部戦線でしばしば赤軍後方部隊を急襲した。9月1日にエレーツ市を占拠している。短編「わたしのノート」(『プリーシヴィンの森の手帖』所収・成文社)を参照。白軍につくことを拒否。これらのことは戯曲『悪魔の碾臼』(1935~39年の著作集に収められた)。
1920年――
ソフィア・コンプリャーンツェワと別れる。6月18日、スモレンスク県(スレドヴォ村)の妻のもとへ。ドロゴブーシ地区アレクシノ村の中等学校(新設された7年制の学校)で教師(シクラプ)と校長を兼務。バルィシニコフ旧廷の〈旧屋敷(ウサーヂバ)暮らしの博物館〉を主催し、ドロゴブーシしでの博物館の組織活動に参加、またエンゲリガルト実験場の仕事にもかかわった。ちなみに、エンゲリガルト(1832-93)は農業技師で批評家。1860年代の雑階級人たちの秘密の革命組織〈土地と自由〉の一員でペテルブルグの農業研究所の教授だった人。スモレンスクは配流の地。このころがプリーシヴィンの〈文学活動の沈黙〉時代である。
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