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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 10 . 30 up
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10月5日

 文学を理解する人の少なさは音楽を理解する人のそれと大して変わらないが、文学の対象はしばしば誰しも関心のある生活――人生である。だから読むのであって、文学について判断を下そうとしながら、じつは生活そのものを判断の対象にしている。

 生き延びさえすりゃ!(この〈~さえすりゃ(абы)〉を近ごろエレーツ人はよく口にする)。未来は完全消滅。そう、現在を映す場も無いほどに。過去は古文書保管所(アルヒーフ)に引き渡されており、そこではすべてが言語化(ことばで表示)されている。生き延びさえすりゃいいのさ。新たに徴兵が布告されると、男たちは一斉に遠い皮革加工工場やいろんなところへ(それがどこかは神のみぞ知る)逃げ出す――新しい干草山にネズミの群れが移動するように。

10月6日

 10月初めの数日間、天候はまるで春かと思うほど暖かかった。道路は干上がらず均(なら)されて、革のように滑らかだった。昨夜、全天を雨雲が覆った。深夜になって秋特有の篠つ突く雨。
 夢の中で起こったこと――われわれ〔ロシア〕のものがことごとく崩壊し、巨大な黒い車輪に巻き込まれて、ぐるぐる回転している。その車輪のうなりには時間も場も無かった。未来は完全に消え失せ、過去はアルヒーフに収まって、クマネズミや野ネズミたちがどんなに必死に潜り込もうとしても、無駄である。取り付く島が無い。
 一晩中、何か真っ黒いものが車輪の中で暴れまわっていたが、朝日が昇ったときには、公園も庭もほとんど見分けがつかなくなっていた。厳寒(マロース)にやられて木の葉は舞い落ち、林檎の裸木が呆然と――角をいっぱい生やしたよぼよぼの牛たちみたいに突っ立っていた。灰色一色だ――ヤマナラシも、トネリコも、楡(ニレ)も、まったくの裸ん坊。なんとも侘しげだった。ただサクランボ畑のかぼそい枝先の、枯死した多くの葉の上には、珍しくまだ最後の紅い葉が残っていて、さながら風に躍る炎の舌である。

 初雪(ザジーモク)。金星がまだ少し光っている。雪を小寒が吹き寄せて、これが最初の橇道。薄闇の中で自然に手が納屋の鍵をまさぐっている。馬に燕麦をと思ったのだが、こちらの足音を聞きつけて、カモたちが身を寄せ合い、ひとかたまりに納屋の方へよちよち。中ではジャガイモを運び出していた。『売値はいくらだね?』――『箱馬車1台で90グリヴナ〔グリヴナは10コペイカ〕で』。ああ、これでやっとジャガイモにありつけるというものだ! 経営の喜びなど一瞬にして吹き飛んでしまう。畜糞の山。家畜が泥にはまっているのに、誰も泥を取り除けようとしない! 馬を飼っても飼ってなくても、道路の掃除はみなでやること。見よ、畑は立派に片付いているではないか! とにかく生き延びさえすりゃあ、かい! 天候不順で鍬を入れられない。計画は頓挫。イワ〔ン〕・ミハー〔イロヴィチ〕は独裁主義の味方――それなりに計画を展開している。だが、肝腎の価格がまとまらない……穀物の搬入ができないでいるのだ……牛たちが菜園でビートの残りをもぐもぐやっている。総動員か独裁か。ジャガイモは砂糖の2分の1フントの同額だ。夜、ペトログラードへ行く仕度をした――腿肉、林檎、棒砂糖。牛が吼えている。動員のおかげで農業経営はめちゃめちゃである。学童の登校風景。小学生の数が減ったのは、靴が高くて買えず、家で大人に代わって働いているからだ……

10月9日

 出発の日。最悪の非難の言葉が口をついて出そうになるが、今は恐怖がそれを抑えている。大土地を所有する怠け者にして世界一非農民的ナロード。これでは生きていけない! 思い出されるのは、わが軍の勝利に陶然としていたころのこと。だがそれはなんだか――碌すっぽ勉強もせずに試験にのぞむ心境だったのだが、なぜか引いた籤は大当たり。5点(最高点)をもらっても、本当は何がどうなったのか自分にもわからない――そんな妙な話ではあった。ただ結論だけを言えば、われわれ〔ロシア人〕は自分の土地を持てないが、彼ら〔ドイツ人〕は持っている。われわれには土地は無い。

10月12日

 きのうペトログラードに着いた。どこでも話題は物価高。今や全土がこの問題に関わっている。首都も地方とどっこいどっこいだ。首都ならではの話というのはすでになくなって、今では地方のために、つまり地方人がもっと知恵をつけるために、都会の生活ぶりを語らなければならないのである。闇屋に対する非難。例の『戦争は誰にとっても唐突に終わる〔アレクセーエフ将軍と同じ文句〕』を、ある少尉補も口にした。夜、ホテルに帰った。わが懐かしき都、故郷フルシチョーヴォほどにも懐かしきわがペテルブルグよ。

10月14日

 イォーシフ〔未詳〕がプロトポーポフ1の話をする。すべて真実、だが辛い真実。聴いているのがとてもとてもやるせない。なぜ「ノーヴォエ・ヴレーミャ*2」が存在するのかよくわかる。

*1アレクセイ・ドミートリエヴィチ(1866-1917/1918)は政治家。シムビールスク県の大地主。保守的なオクチャブリスト(十月党員のリーダー。第3次・第4次国会議員。第一次大戦中(1916)、ラスプーチンと皇后の推薦で内相となり、革命を予防するためにドイツ政府との単独講和を画策。右翼的な軍需産業資本の利害と結びつき、自由主義に対決する政治家として登場したが、この秋(1916)、革命的危機はむしろ成熟する。革命後に銃殺。

*2首都ペテルブルグで発行(1869年から日刊)されていた帝国ロシア最大の新聞の一つ(1869-1917)。当初はリベラルだったが、社主がスヴォーリンに代わると(1876)保守的傾向を示し、1905年以後、極右的色彩が濃厚になった。

10月18日

 日曜日に、国会議員のヴィークトル・イワーノヴィチ・スチェンコーフスキイ(ザドンスク選出)と。きのうは〈宗教・哲学会〉。生活がこれだけ変化したのに、話題はまったく同じ。ベルヂャーエフが著作のことで呪逐(アナーフェマ)された。

ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ベルヂャーエフ(1874-1948)は哲学者、20世紀最大のキリスト教哲学者と言われ、実存主義の立場からマルクス主義を批判した。問題の著作は最初の主著『創造の意味』(1916)である。「人間は創造においてこそ自由たり得、自由は神が人間に課した召命である」。こうした主張に、ローザノフ、メレシコーフスキイ、カルタショーフらは厳しい批判を、シェストーフ、ゼンコーフスキイらは絶賛した。人間の主体性を強調する彼の哲学は、当然のように正教会からは異端視された。アナーフェマとは正教会からの破門を意味する。

10月19日

 人びとが散る――四方八方へ。逃亡者100万人以上と。国会議員のスチェンコーフスキイと議論する――インテリゲンツィヤに高揚はあった。彼らがナロードをドイツ〔との戦争〕に駆り立てた、と。それは当然だ。いまや重要なのは問題提起そのもの――そう、書き手が読者を欺いたのだ。フランスについて書かれたものを読むと、ロシアのために心が痛む。ロシアは英雄的行為(偉業)を待望していたのに何も起こらず、かわりに怪物が姿を現わした。

 滅亡に瀕した世界のそのマテリアルな部分から、今まさに、吐き気を催すような奴らが、〔なぜか〕生気ハツラツとした新しい存在が、出現しつつある……

 問題はアクト、行動(世界戦争への)により近い立場に身を置こうとすること。では、それをいかにして? 戦闘行為によってではなく精神(ドウシャー)で。直接参戦せずともハートでもって慈悲(ミロセールヂエ)の仕事は果たせる。ハートでもって治療にあたることは、行動により近い立場に身を置くことは、できる。戦争と看護婦。

ミロセールツェは慈悲、憐れみの心の意。セールツェは、心、情、heart。看護婦とはロシア語で文字どおり慈悲の人(сестра милосердия)。

 最も愚かしい思いつきの一つは、多くの現代作家が戦争のテーマを探し回ること。本物の作家なら――わたしに言わせれば、戦場ではなく雌羊(オヴェーチカ)か、何かそういうものを描いて戦争の世界的事実を体験するだろう。それだけではるかに力強い行動を起こすことができるはず。

 国家間の戦争は領土獲得が目的である。家族における戦争もやはり土地……

10月21日

 この重苦しい社会の気分――何かの前触れか? 噂自体が怪物じみていて、しかも免れ難いもののように感じられる。平和の予感がしだした。だが、ロシア、この広大無辺の国はひどく小さくなってしまった。1700万人が姿を消した。誰もいない。活動家たちも年を取って、もう数えるほどしかいない。

10月25日

 兵役を逃れようとする者たちは、昔も今も大天使アルハーンゲルのラッパに乗せられて、最後は国防施設へ入っていく。所属部隊の決定。〈兵役義務を逃れられなかった者たちの集まり〉など呼ばれて。それは、さまざまな時代(世紀)が記憶に刻むところの、みなに共通する一部、自身の一部分。それだけ目立ちそれだけ非凡に生きていれば、きっと、それは間違いない自分の〈私〉、自分のその〈私〉がみなと一緒に歩いている――そんなふうに見えるだろう

最後の審判のときに鳴らされるという大天使のラッパの音。

 前線から遠く隔たった個人的銃後で。ゴーリキイが言った――いったいそれが文学とどんな関係があるか、と。〔9月22日(八十)のメモにゴーリキイの言葉――『あなたがフートルにいるのは文学とどう関係があるのですか?』〕
 この国、このロシアという国は、その総力を結集してことに当たらせたら大した国なのだ。それは前線での兵士たちを見ればわかる。しかし〔状況が一変すれば〕、忽ち『とんでもねえよ、もう真っ平だ!』となってしまう。どう打っちゃって逃げようか、どっかの隅っこにでも隠れてようか、と。

10月26日

 考察。国家にとって兵士より〈技術設備(チェーフニカ)〉が有益――なんという下らなさ。コノヴァーロフのなんと尊大な面(つら)よ。とても国を自由にする器ではない。毎度お馴染みのしゃっ面ども。開戦のころは誰もがまっすぐ戦場へ向かったのだが、今は銃後で陣取り合戦だ。あんなに勇ましく打って出たのに、次には退却退却、また退却。

アレクサンドル・イワーノヴィチ・コノヴァーロフ(1875-1948)――紡績工場社主、大資本家。第4次国会では進歩党および〈進歩ブロック〉のリーダー。1917年2月の臨時政府の閣僚(商工大臣)。革命後に亡命した。

 この秋、元専売人のアレクセイ・イワーノヴィチと野ウサギ狩りをした。かつてトゥルゲーネフが猟をした場所である。犬が長いことヤブノウサギを追っていたが、どうもうまくいかなかった。しかし、わたしは、小さな丘を出てきた兎が道沿いにアレクセイ・イワーノヴィチのいる方へ駆けていくのを目にした。藪の陰に隠れて、彼は兎を見ていた。たしかに狙ってもいた。トゥルゲーネフ時代の猟とはずいぶん違うが、猟人のハートは同じ――発射の瞬間を待つ心臓が〔ドッドッドッと早鐘打って〕今にも爆発しそうになるのである。ところが、アレクセイ・イワーノヴィチは引き金を引かない。兎はまた逃げた。犬たちが死に物狂いで追いかける。わたしはシャリャーピンのように怒り狂って〔(五十二)を参照〕アレクセイ・イワーノヴィチに突っかかり、最大級の罵詈雑言を浴びせた――それこそ弾丸雨あられと。彼はしばらく黙って聞いていた。少しも反駁しない。自身ひどく落ち込んでいるようだった。すべてはアレクセイ・イワーノヴィチの信じ難いほどの吝嗇(けち)が因なのである。弾は1発30コペイカ。だから射程距離が10歩を超えたら、とても撃つ決心がつかないのだ。
 兎はどこかへ行ってしまった。舌をだらりと垂れて犬たちが戻ってくる。夜のとばりが降りた。わたしはアレクセイ・イワーノヴィチのフートルに泊まることにした。フートルは街道沿いの、以前彼が専売していた場所だった。彼はそこで15年も官の酒類を販売していたのである。そこの家屋敷(10デシャチーナの土地)を買い取って、今は独立農家の主(フトリャーニン)だ。そこには商店もあり、やはり彼が商っている。わが家でもそこで、マッチ、砂糖、精進油その他を買っていた。アレクセイ・イワーノヴィチは自分の経営ぶりをいかにも得意げに披露するのだが、そこに並べてあるものがどれも、その下に隠れている彼の哲学(どんな哲学だろう?)ほどには売れていないことが、わたしにはすぐにわかったのである。新鮮な骨付屠体(トゥーシャ)というのを出してきたが、それはどうしようものない代物だった。歩きながら、ついでにといった調子で、クレーシ〔豚の脂身と脱穀したキビで作る薄粥、雑炊〕の作り方まで伝授しようとする。『よろしいですか、塩は赤ん坊の握りこぶしくらい、それで十分。人間1人なら豚1頭でまず2年はオーケイですな』。まあこんなところが彼の〔経済〕哲学である。
 「脱穀済みのキビも自分用のが取ってあるし、エンドウ豆も何デシャチーナかあれば2年は大丈夫、それ以上何が必要でしょう? ジャガイモだって自分の畑で作ってる。乳牛が2頭、鶏はよく卵を産むし、仔牛も2頭、羊も、それから去年刈った羊毛がまだ残ってるから、そうだ、固めてワーレンキ〔フェルトの長靴〕を作らせようかな。そうだそうだ、毛皮外套(トゥループ)もうちの羊毛で作らせよう、それから薪だね、ええと、それから……」
 こんな話を2時間も聞かされては、もう我慢も限界。わたしは30コペイカをけちって逃がしてしまった兎のことでまだ彼を許せずにいた。怒りは収まるどころか、いよいよ募るばかり。だが彼のほうはまるで、自分の計算をこれでもかこれでもかと並べ立てて、それでもって自前の哲学の根本を教示しようと躍起なのである……
 「ほら、どうですか、この小さな庭! 林檎の木が20本、ということは、それからどれだけ実が穫れるかということです。落ちたやつは鶏の餌に――なんと1プード7ルーブリで売りましたぞ。林檎はじつによく食べましたな。1樽は水漬けにしました。それでまる1年分の貯えができたというわけで」
 どんなものにも1年分の備蓄があった。怪物ひとりでひと村まるごと貪り食っている感じ。わたしは訊いた――「ところで、あんたには召集はかからないの?」。彼は口を大きく開けて見せる。「20本も歯が抜けてるからね」――「しかし昨今は歯無しぐらいじゃ兵役免除にはならないよ」――「たしかに。じゃあ、供出穀物の集積所でも始めるかな」そんなことを言って、首をぼりぼり掻いている。「これからじゃ間に合わないかも」――「いや、なんとかやってみますよ」
 そんな自信がどこから来るのだろう。わからない。しかし、どうもこれはただの自己満足ではないぞ、何か裏がある。
 フートルのまわりは貧弱な家ばかり。大鎌でなぎ倒された民草(ナロード)と、それらを怪物が貪り食ったという感じである。

10月28日

 この目で彼の秘密を知ることになった。家庭人である彼は首都ではホテル住まいをし、午前中はロマンチックな小説を書き、日中いっぱい閣下たちのところを回って歩く、つまり召集猶予のためにお百度を踏んでいるのである。
 こうした運動は、この手のものでは最悪のケース――家庭人で世間的には立派な人物で通っている男がこっそり外で商売女を買おうとして(なんにせよ紳士には似つかわしくない行為である)大恥掻いて、すごすごと家路をたどるのにも似たケースだが、いやそれより格段に落ちる行為のようではある。
 では、どんな脱出口があるのか? 〔兵役の〕拒否――これは動機と遵奉精神の不足、何のための服従義務かがわかってないのだ。いっぽう中間の道(女を買う)には日ごとに嫌悪感が募ってくる。イワーヌシカ〔イワンの愛称・ロシア民話の主人公。うすのろ、イワンの馬鹿〕には逃げ道がない。中間の道が不快なのは、右も左も欲しくて、何より大事な〈精神(ドゥシャー)〉が欠けてるためである。それはまあよくある話だが……

 敗北主義者たちはそう呼ばれることを良しとしない。だが、スハーノフの顔は本物の敗北主義者だ。態度、物腰、何もかもが気色悪い。回虫みたいだ。これは比類なき敗北主義者。

ニコライ・ニコラーエヴィチ(本名はギンメル)――父はロシアに帰化したドイツ人。経済学者にして社会批評家(1882-1940)。1913年から社会革命党(エスエル〕、1917年からメンシェヴィキ派。

 路面電車で労働者たちが喋っている――「おれたち労働者は、当然、登録済みだがよ、ブルジョア連中も今じゃ登録名簿に載り始めてるらしいぞ……」

 タクシーに乗ろうとする紳士に向かって、辻馬車の御者がぼやいている――「ちぇ、穀潰しはどいつもこいつもタクサ〔公定料金〕で乗りやがる……」

10月29日

 わが職探しも、立派な家庭人である男が女(マダム)を求めて通りに出て行くのと大差ないようだ……〔訳者の注。このころプリーシヴィンは公的機関で働くことを考え始めている〕

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