2011 . 10 . 16 up
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テーマ――
1)地球は丸い。
2)国家の人間化。
レストランの窓からどこを眺めても、見えるのは、家の壁にぴったり体をくっつけている戦争のヒーローたち。ネーフスキイ大通りの電車の停留所のそば、刈り込まれた公園の緑の草の上、そこかしこにヘクトールとアンドロマケーたち*。ときどき若い女(母親?)の腕に、まだちっちゃな赤ん坊――目を開けて休みなくおっぱいを吸っている。彼らはいずれもヒーローだ。でも誰も彼らをヒーローとは呼ばない。英雄ウィルヘルム? サゾーノフ? ゴレムィキン? 皇帝(ツァーリ)? なんでこんなのがヒーローだ? よく見れば、ただのからっぽ(プスタター)じゃないか!
*ヘクトールとアンドロマケーはともにギリシア神話の登場人物。ヘクトールは叙事詩『イーリアス』(ホメーロス)で活躍するトロイア王家のヒーローで、王プリアモスと正妻ヘカベーの子。アンドロマケーはその愛妻――夫ヘクトールに迫る危機を予感している。この若い兵士のイメージをプリーシヴィンはずっとのちに『森のしずく』所収の小品「ヘクトールとアンドロマケー」で使っている。したがってソヴェート時代の読者はこれを同時代の若い軍人と思って読んだわけだが、作家の頭にあったのは、第一次大戦下(帝政ロシア)の若き兵士たちの姿なのである。
アルバムに〔書く〕――どっかで彼女のために幸福を手に入れると約束し、誓う。その幸福とは、祖国の、愛する故郷の、大地の感覚であり、村のペチカの、干草の匂いの感覚だ――そんなものならそこに、その肱かけ椅子の中にあるのに、またこの男は幸福を探しにどっか遠くへ行こうとする。時を逸した女は幸福を取り戻すためにありとあらゆる手段を講ずる。そこに女が――現実の幸福の近づきつつあるそのときに、彼が手にした感覚〔大地の、干草の〕、それに愛でられた第2の女性が現われたのである*。よくあるケース、なんと言うこともない事実だが、〔自分を〕わかってもらうためにはその愛を生涯つらぬく必要がる。そこにあったのは、死体と墓場、涙と花と蒼穹、それから……
*またまた性懲りもないワルワーラの幻影。彼女への憧憬、こだわり、無念の思い。その後の若き地母神フローシャとの出会い。
わたしは訊いた――で、そいつがそこから爆弾を落としたらどうなるか? すると、深く感銘を受けたという表情で、ひとりの男が言った。「落としたら、そりゃわしの家は無くなりますわ」――「家どころか!」――「村全部が焼けてしまうよ」――「そうとも、村ごと焼けてしまう」と、さらに誰かが同じ口調で言う。まるで非人間的な、悪魔の、抗い難い虚偽(うそ)の存在をでも主張するかのような口ぶりである。数日後、わたしはこんなことを耳にした。なんでも飛行機が1機、どこかの菜園に墜落した*という。乗っていた大尉というのが死にぎわに、菜園の弁償はする、でも人間にはしないと言ったらしい。戦争を前にして、単純にして素朴なロシア人は、迫り来る力の存在をそんなふうに理解した。菜園の弁償はしても人間にゃ弁償なんかしねえってよ――要するに、その程度の理解だったのだ。
*このエピソードは1914年の日記(二十五)にすでに記されている。
人びと――燃える森林のごとく。木々が動いた。死の荷馬車。湖、挽歌。定期市と戦争の布告。自分は居場所を失くしてしまった。今はどうでも同じこと。自分は待つ……みんなと、人びと(マス)と、一緒に。
*妻エフロシーニヤ・パーヴロヴナの連れ子(ヤーシャ)をここではヤーコフと呼んでいる。正式にはヤーコフ・フィリーポヴィチ・スモガリョーフ。このころ何があったのか詳らかでない。ただ1917年7月の日記に――「家族の難問。このことはエフロシーニヤ・パーヴロヴナには任せられない。なぜなら彼女と頭のよくないヤーコフを一緒にしては置けないからだ。彼女はお金お金と喚き立てるし、下の子たち(実子のレフとピョートル)はヤーコフの悪い影響を受けてひどいことになるだろう。ヤーコフはみんなの障害」
*ミクラシェーフスキイ(筆名ニェヴェードムスキイ)は作家・社会政治批評家(1866-1943)。
全権委任のロパーチン〔プリーシヴィン家の隣家の地主、前出〕が固定価格の要求のためにピーテルへ向かった。村ではずっと値上がりが続いている。今年は豊作で穀物が山積みなのに何も買えない。1プード3ルーブリでは誰にも買えない。大工のオーシプのとこにはパンが無い。大工の仕事はパンを焼くことではない。売ってくれと村中を歩きまわったが、『価格がさっぱりわからんから、売りたくたって売れねえんだよ!』と言われる。
レンズ豆を刈っている。いよいよキビの番だ。刈り終わった畑を鋤き返すこと。
オーストリア人(捕虜)と農民たち。両者の関係。どうやら、農民たちはある種感動を覚えているが、また反対に侮辱も感じているようだ。外国人に対する態度。オーストリア人が旦那なら、キール〔隣人〕は百姓。百姓たちがオーストリア人のおかげでどんなに豊かになったか〔儲けたか〕――そんな噂を耳にする。地主の態度は相も変わらぬポローチ*だ。
*ポローチ(пороть)はправить(支配・統治・管理する、鞭打つ)からの派生語。否定的ニュアンスの言葉。あまり用例がない。
リアルなロシア(モスクワ・ルーシ)とファンタスティックな――北(セーヴェル)の〔ルーシ〕。
農業労働者たち。パーヴェルは旦那(バーリン)の、つまり地主貴族的経営の遺物である。新しいタイプはキール。隣人たちは驚いている――なんでキールのような男がわたしのところにやって来たのだろうかと。必要なのは自分のものを何ひとつ持たないような労働者だ。作男〔日雇い農夫〕、家の夢。彼らは盗みを働くが、盗んでもちっとも裕福にはならない。でも、主の家はなんとかやっている――家畜は疥癬だらけだけれど。庭園は丸坊主。エレピローフカ(貧弱な林檎)、いぼだらけの林檎――これはいちばん固い。褐色のは落果(こればかりはどうしようもない)。
ここ数日――9月2日のこと。いかにも9月らしい朝。明らむ東の空は蒼い帯が掛かったままだが、空はどこまでも澄み渡っている。光る金星、まだ月も明るい。太陽の姿は見えないが、輝いているのは確かである。朝の星はたったのひとつ。しかし、陽はついに昇った。しじまの中に日の光とカエデやトネリコが自ら発する明るさがひとつに溶け合て、おおこの森の輝きのなんという美しさ! なんと美しく、なんと静かな、なんという心やさしさか! 露に濡れたその灰白色の、汚れない、手つかずの草々は、わたしの心に囁きかける――『聖母マリアよ、歓べ!』と。蜂たちはもうブンブン羽音を立てている。冬麦の根が枝を分け始める。キツツキが木をつついている。日常生活者にしてただもっぱら私人であること。
山が禿げだした。
日の出に森で焚火をする。火が燃える、赤々と。真っ赤に灼けた本物の天体が昇ってくる。どうやら太陽は、深夜にこっちが警告を発したこと(こっちも勝手におまえさんにそっくりの火を焚くぞ!)にちょっぴり驚いたらしい。襲いかかる朝寒(あさざむ)に焚火の火は四方八方に飛び散って、掴まってしまった捕虜みたいにどっかに姿を消した。でも、炭火は風に揺られてまだ燻っている。そんな揺れる熱した空気の小さな流れを通して見えてくるのは、びっくりするような森である。樹冠のエメラルドグリーンの花弁がどれも震えていて、おとぎ話のように美しい森全体がかすかに揺れているのだ。太陽はこっちを見て、初めのうちこそ驚いたふうだったが、すぐに気を取り直した。そしてぐんぐん昇ってきた。燃え残った炭火などもはや眼中にない。わたしたちは火を踏み消すことも忘れて、逃げるように、その場をあとにした。(愛――天から盗まれた火)
愛の山は禿げかかっていて、森の下の方から裸の石の骸骨が見えてくる。
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