2011 . 09 . 25 up
(七十六)写真はクリックで拡大されます
*カデット(立憲民主党)のパーヴェル・ミリュコーフと「ミリュコーフ覚書」については(六十)の注を、写真は(六十一)を。
母に泣きごとを言って、何もかもぶちまけたい(監獄の囚人みたいに)。でも、なぜその人にではなく、母に向かって、なのか?
その人を受け容れるためには、その人と同じくらい苦しまなくてはならない。そうだ、そこですべてがはっきりしてくる――自分を思うほどに他の人を思わなくてはならないのだ。
だが、必ず先に戦争が――そうなる前に戦争が、起きてしまう。
今夜のことは、決して忘れるべきではないし、忘れられないだろう。
マーシャ(なんと思いがけない喜びが! そうのだ、〔自分らは〕マーシャによってキリストにたどり着いたのだ)*。
*今は戦時下にあるが、プリーシヴィン家も戦いの真っ最中であるらしい。もめごとの種ははっきりしないが、穏当でない言葉も――戦争、今夜のこと、打ち明けることは(白状)…、嵐、不純な関係などなど。マーシャ(Маша〕はマリア(Мария)の愛称。母のマリア・イワーノヴナ、イエスの母のマリア。
経営(Хозяйство)とは民衆(ナロード)への憎悪と軽蔑の試練(学校)だ。
人間関係がいよいよまずくなってきた。あっちではどっかの森に住んでいた、こっちでは家族の鎖に繋がれている。あっちにいたのは善良な森の女(バーバ)、こっちにいるのは怒りっぽくて獰猛な女だ。あっちは自由で、縛られず、とにかく誰もこっちに目を向けない。ここでは根を張ること〔家〕が必要で、何もかもが視界内にある。それで生そのものがどん詰まりになる。家を建ててる最中だが、そこに住んで彼女〔妻〕のために農業をやっていくか、まだわからないし、彼女が一家の主婦に納まるのか、それもわからない。自分の巣なのに、なぜか硬いトゲトゲの藪にでも突っ込んでいくような気がしてならない。棘に引っかかれたりすると、ああなぜまたこんなところへ潜り込もうとしたのだろう――そう思ってしまう。彼女との暮らしがこんなでも、自分には慰めがある――それは何かと言えば、自由、だから。そもそもの初めから(これはレオーンチイ〔未詳〕に話して聞かせたことだが、自分は家というものを受け容れていない、ただ体験しているのだ)そう自分は感じていたし、それなりに結構ちゃんと暮らしてもきた。なぜかと言えば、自分を自由な人間と見なしてきたから。今は何もかもが自分の本性(プリローダ)*に逆らっている。腰を落ち着けてここで暮らしていこう、しっかり家族を養っていこう、でも自分は……(ここではないところで暮らすだろう)*プリローダ(природа nature)は自然の意。自然界、自然の力、造化、人間本来の本質、本性、天性、素性、血統。プリポーダに分け入ったプリーシヴィン自身のプリローダの真骨頂。
嵐が過ぎると、たいてい自分が謝っている。決裂まで行ってしまうと、ああもうお仕舞いだと思ってしまう。なぜそう思うのか? おそらくそれは、この人生で唯一の……不純な関係〔情交とも訳せる〕の恐れ。ことさら恐れるのは、これはもう病気の証拠だ。
わたしは自分の研究や観察のために益となるような総数〔全体数〕を何ひとつ知らない。たとえば、戦前にあった工業の弛まぬ大発展だが、現在自分が住んでいる地域の住人の上にはそれは何ら反映されていない。現在の協同組合(コオペラチーフ)の発展もまったくこれと同じ。わが消費組合店などは辛うじてその存在を引きずっている。啓蒙教育の希求で言うなら、わが村での新聞の定期購読者はゼロである。現代における工業の一大発展、すなわちコオペラチーフの今日的発展と啓蒙教育の希求の事実はどうか? われわれのような比較的中心地域にいる者も例外ではない。自らの源流の総数がまったく意味を失ってしまうほどロシアは広いし大きすぎるのだ。総数自体が独り歩きしている――個数が独り歩きしているように。直接的観察から総数へのアプローチも同じく可能である。ただし、わが国の大多数の時事解説者がやるように、ひとつひとつ検証していくしかないけれど。直接的観察では総数には到達しない……これは当たっている、間違いない! それ〔直接的観察〕は、総数のわきをすり抜けて、まっすぐどこかへ、絶対(アブソリュート)へ、神の国へ行ってしまう。「人間がまっすぐの道を歩むとき、人間に十字架は要らない。だが、道を逸れてふらふら迷走し始めるそのときに、人間をまっすぐの道へ押し戻すさまざまなこと〔事態〕が起こってくる。こうした押し戻し(タルチキ)こそ人間のための十字架となっている」(アムヴローシイ*)
*アムヴローシイ(オープチナ僧院のアムヴローシイ)。俗名アレクサンドル・ミハーイロヴィチ・グレンコフ(1812-91)、オープチナの有名なスヒマ修道司祭、長老。彼には書簡体形式の著述が多い。これもその一つ。オープチナ修道院(男子)はカルーガ県コゼーリスク市から2キロの地にある。言い伝えによれば、大盗賊のオープタ(還俗してマカーリイ)によって創設されたという。1821年、修道院の近くに僧院(プーストゥイニ)がつくられた。作家のゴーゴリはマケイ師を、ドストエーフスキイやトルストイはアムヴローシイ師の話を聴きにいっている。この僧院にはプリーシヴィンの母のマリア・イワーノヴナも何度か訪れていて、幼いころ母からよくこの長老のことを聞かされている。
朝、クローヴァーで失敗したが、嬉しい結果に終わった。欲しかった大工たちがようやく雇ってくれとやって来たから。もちろん働いてもらうのだが、それでもちょっと心配なので――
「兵隊には?」
「84項だよ!」ひとりが答える。
そして条項〔兵役免除〕の説明を始める――
「出っ腸〔脱腸〕なんだ!」
もうひとりは62項で、瘰癧(るいれき)。3人目は頭が弱く、4人目はびっこで、5人目は年寄りだ。みなしてわたしを宥(なだ)めにかかる。
「わしらは役立たずさ、み~んな役立たずだよ!」
6人目の男には片腕がなかった。カルパチヤの戦闘で右腕を失った。でも、庭園の番をさせてくれと言う。
「おめえ、腕もねえのに、林檎に添え木なんか当てられるもんかい?」
「なんでもねえよ! それがどうしたい?」
「左手一本でか?」
「そうだよ、左手でな。戦争が終わったら添え木〔義手〕でもこさえてもらうさ」
経営(農事)をめぐって
未明に窓を叩く音。
「マロースのご到来だよ!」
「そりゃあ有難い!」
マロースにしてはずいぶん弱々しいものだったが、でも有難かった。12度目の朝寒(あさざむ)である。いつもなら種を蒔く場所がわかるように畑のあちこちに藁を積んで置くのだが、やってなかった。穀物小屋から藁を担いで畑に向かっていると、大きな大きな太陽が昇って、急にマロースが和らいでしまった。犂(す)き路をちょろちょろ水が流れだし、足が冬麦畑にずぼっと埋まるようになった。これでは種が蒔けない。その失敗で調子が狂った。失敗したときはいつもそうなのだが、まずいことが次つぎ起きてくる。斜面の犂き路をちょろちょろ流れていた水が次第に大きくなって窪地へ、さらに大きな涸れ谷へざあざあ落ちていって、ついには大河に合流だ。
もうこれは純然たる犯罪的怠慢ではないか! 怠け癖がついて、ただぼんやりしてる人間たちの目の前で、この上なしに豊かな土壌が洗い流されてしまったのだ。肥沃な土地が裂けて深い窪地を、粘土質の赤い谷間をつくってしまったのである。それも村から町までずうっとだ! 畑と村が分離してしまった。畑と窪地が野蛮な悪意、嫌なしかめっつらで応じて、春の夢は台なしだ。
すべては無(ニチェヴォー)から。ここ、ロシアの中央部に位置する地方はたえず旱魃に苦しんでいる。湿り気が足りないのだ。いま音を立てて流れているものは、畑を洗いこそすれ、本物の水ではなく、砂漠の蜃気楼のごときもの(幻のオアシス)。鉄砲水が畑を洗い流す。われわれはすぐまた干からびる。
だが、農業なんか打っちゃって、そう、何もかも放って旅に出るなら、そりゃあこの世は素晴らしい。素晴らしいに決まってる。春の河川の氾濫のころ、遠くから聞こえてくるあの、地平線の果てまで響き渡る鐘の音より素晴らしいは、どこにもないのだ――ただし、農耕なんか始めなければ、ではあるが。
もうすることがない。仕方なくクローヴァーの種を持って家に帰ると、大工たちが旧い建物を新しい建物に造り直している。大工たちに何かまずいことが起きている。近づかないほうが身のためだ。彼らが何か言ってきたら――たとえば、新聞のニュースについて訊かれたら、答えないわけにはいかないし、こっちも何か伝えずにはいられなくなる。毎回、一刻も早くこの場を離れたいと願う。でも所詮、無理な話! 5人の大工はいずれも不良品の役立たず。仕方がない、雇ってしまったのだ。
人間のほうも人間だが〈生きている財産〔家畜〕〉もご同類。わが家では今、老馬かもしくは非常に若い馬を購入しようとしている。5年目までの馬は周知のとおり動員(徴収)の対象だ。そこで要熟考。夏のあいだに戦争が終わることを期待している人間は4歳馬を買うが、もっと慎重な人間は3歳馬を、しかしいちばん確かなのは年を取った痩せ馬を買うことだ――痩せ馬は値が張る*が。
*諺に「痩せ馬はみすぼらしいが足は速い」――見かけは貧弱だが仕事はできる、と。
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