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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 08 . 14 up
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1916年1月11日

 田舎〔故郷フルシチョーヴォ〕で、ささやかな仕事〔農事〕を始めたとたんに、自分は姓を無くなってしまった。本名は人びとがわたしの父や祖父を思い出して出自を見届ける〔はっきりさせる〕ためにだけ呼ばれるのである。わたしはもっぱら名前と父称あるいは父称だけで呼ばれ、そのうちに父称から勝手に姓が作られてしまったりした――ミハイル・ミハーイロフといった具合に。そのミハイル・ミハーイロフは頭のてっぺんから足の爪先まで睨(ね)め回され、性格が調べられ、財産(カピタル)についてしつこく訊かれ……そんなふうにしてミハイル・ミハーイロフはこの地の住人となった……

 遠く離ればなれになればなるほど、戦争は意味と一緒にどんどんわれわれから去っていった。今やわれわれは、自分の生存のためばかりか、より高度な何かのために戦っている。どこかで答えを探す必要があるが、それはここではない。ここにあるものは、作り直されて、そのさらに高度なものに調整されなくてはならない。

 ドイツ人は、正しいというのではないが、その企図にはほとんど揺るぎない(神聖な)ところがある。だが、彼らが無意識的で自然なものを意識的に獲得するために、そうしたものがことごとく〔裏と表が〕ひっくり返ってしまうのである。

 意識を持つこと〔自覚〕。
 意図性なるものの出どころはドイツでありドイツ人なのだ。彼らにこそわれらがインテリゲンツィヤの流れの源がある。

 もうすぐ新年というころに、わたしたちは、新年や戦争について何かいい話を聞くためにザウサーイロフ〔後述〕の教会に出かけたのだったが、老神父が語ったのは……卑猥な言葉についての説教だった。年端もいかぬ子どもまでが腐った〔堕落した〕言葉を吐く、などと。

これはまだ1918年まで用いられた旧暦(ユリウス暦)による新年。二十世紀に入ってから旧暦は新暦(グレゴリウス暦)より13日おくれ。

 エレーツ市の洒落た教会。
 モダニズム様式の、商人ザウサーイロフが建てた――だが、神父は年老いていて、この恐ろしい時代に、それももうすぐ新年だというのに、何を説教するかと思えば、『年端もいかぬ…』などと言いだした、まったく。
 エレーツの冬。
 自前の大型荷橇に屈んだ恰好で乗っている全身これ霜に覆われたスキタイ人たち*1が、凄まじい勢いで飛び出してくる――これまた凄まじいばかりの罵言で雪道を開けさせながら。スケートを履いた男の子たちは市中を横断する歩道を滑りまくって川べりまで。魚を売る店が軒を連ねる横丁では、番頭たちが牛の尻尾で独楽(こま)を回して*2暖を取っている。肉屋街を轅(ながえ)を引きずったまま馬が暴走。

*1スキタイ人は紀元前7~3世紀にかけて黒海北岸のステップにいた半農半牧のイラン系の騎馬族。ヘロドトスが詳しい記事を残している。

*2伝統遊技のひとつで〈クバーリ〉という。廻っている独楽を牛の尾のひもで叩いて回転させながら、相手の陣地に入れて得点を競うゲーム。

 イギリス人に宛てた手紙から〔未詳〕――『わがロシアの主要な特徴は、人間が善悪の覚えもなく生きているということ、全社会体制が教父母的関係〔親しい人の登用・贔屓・情実〕の上に成り立っていること』。

 戦争はいつ終わるのか?
 どんな馬を購入すべきか? 老馬それとも若駒? 

 町の商人(А.М.ロストーフツェフ)〔前出。(三十六)の12月29日の時点では、この隣人は今にも死にそうだったが……〕。町に住む、気狂いじみた園芸家が手前勝手な生活をして、田舎の安いバターと卵を笑い、民衆愛(ナロドリュービエ)を嘲っている。

 巷の政治――
 「なにィ穀粉だァ、穀粉だと! そんなもの知るか!」
 「なにィ燕麦だァ、燕麦だと! まったくひでえもんだぜ!」

 1月12日

 来年のためにやっておくべきこと。
 1)著作の整理。2)地理の勉強(子どもたちと一緒に)を系統的に。3)〈軍事上の観察〉をきちんと整理する。4)フートルの整備。

 主顕節のこと。
 フルシチョーヴォはもうすぐ主顕節。自分を育ててくれた乳母(ニャーニャ)のこと、明かりを手に、白墨で門、戸口、柱に次つぎと十字のしるしをつけて回る彼女の習慣など、いろんなことが思い出された。人びとはまるで大昔の話でもするように、もうわしらの〔民衆の〕宗教はまったく消えてしまったと悲哀を込めて話す。主顕節の朝には、村人たちは何のためだか馬小屋に行ったものだ。そこには小さな十字のしるしが、牛小屋にも召使の部屋にも、とにかく至るところに遠い昔とそっくり同じしるしがつけられた。小さいころによく見かけたのと同じ十字のしるし。あっちにもこっちにも。そして今また、大きな荷橇の鼻っ先にその小さな十字のしるしがつけられている。

クレシチェーニエは洗礼の意。神現祭とも洗礼祭とも。旧暦1月6日(新暦1月19日。イエスがヨルダン川でヨハネのバプテスマを受け、神の子として公に現われたことを記念する日。厳寒期。

 毎朝、夜明けに、陽気な歌とともに窓の下を兵隊が通っていく。それを見て村の女たちはふさぎ込む。歌をうたう兵士たち、泣く女たち。ふと目をやると、若い娘が着物の裾でそっと顔を拭った。

 エレーツの冬。
 大きな荷橇をめちゃくちゃに吹っ飛ばす髭だらけの農夫たち。なんともかんともえらいスピードである。卑猥な言葉をまき散らして、まるでスキタイ人……

 ツァーリが投機をやめるよう命じた。フヴォストーフがこの命令を知事たちに、つまり首長たちに伝えた。首長は有名な投機家たちを全員集めると、投機をどうやめればいいかを彼らに問うた。

アレクセイ・フヴォストーフは(1872-1918)は内務大臣(在職1915~16)。

 エレーツではなぜちゃんとした市長を選ぶことができないのか? 大都市なら首長は大臣しだい、小都市は県知事しだい、県知事は秘書しだい(秘書は〈碌でなしのフョードロフ〉)なのだ。こうした権力者のかたまりを図解すれば、悪魔(チョールト)の秘書(個人主義者、ペテン師)のザウサーイロフ――フョードロフ――ペトローフ(常任委員)――イヴァーニュシキン――ヴェトチーニンという繋がりになる……

 地方人は何で生きているか? もちろん政治である! それがわかる人間ははなはだ少ないが、よくわかっている人もいることはいるのである。あるとき、ほとんど名もない人物がわれわれのところにやって来て、運輸事務所というのを開いて(非党派の団体職員を装っていたが……)政治活動(勤労者は知事公攻落の鍵)を始めた。このスキームでわが商人階級はすべて描けるというものだ。

 ニキーフォル。
 凍えた池のカモたちは動けない状態でいるが、誰にも捕まえられない――あらゆる手を使ったのだが。夜、窓から見ていると、誰やら、長い棒のようなものを突き出しながら氷の上を這っていく。それがニキーフォル。やっと思いついたわけである。すんでのところで止めが入った。そうでもしなければ、その阿呆な奴隷根性(スメルヂャコーフ)のために、間違いなく死んでいただろう。

 修道士。
 国会議員であるコーリャ〔前出のニコライ・ロストーフツェフ〕はワローヂャ・キレーエフスキイ〔プリーシヴィンの中学時代の友人〕がアトス山からペテルブルグにやって来たと知って、会いにいった。それで修道士(モナーフ)と社会活動家という、ロシア生活における正反対の二つの原理が顔を合わせたのである。

ギリシア北部、テッサロニキ南東にある東方正教会の聖地。963年ころにギリシアの皇帝の援助によって創設された大修道院(ラーヴラ)と20の共住修道院があり、約500人の修道士が厳しい戒律の下に修行している。ギリシアを宗主国としながらも修道院の代表によって自治が行なわれている。1060年から女人禁制。1988年に世界遺産に登録された。

 教育。
 教育に〔目覚めた〕農民たちは今や、必死でそれを追い求めている。わが古典中学はおかげで農民や町人の子弟たちで溢れ返っている。教育を受けた子の大半はインテリゲントになってしまい、父なる懐(ローノ)には戻らない。
 疲弊。
 わが大地(ゼムリャー)は役人(チノーヴニキ)を産むだけで、肥料も貰えずに疲弊してゆく。〈施肥〉とはナロードの啓蒙教化、つまり文化(民度)の高さの謂いであるのだ。

 いっさいを食い尽くす農民大衆は、貴族をも、スグリに魅せられた商人たちをも呑み込んでしまった……

チェーホフの名品『スグリ』の登場人物ニコライ・イワーヌィチは商人の出ではなく、長らく税務監督局に勤めた役人だが、どのみち同じこと。

 窓の下には花壇をと思っていたが、結局はタマネギになってしまった。
 どんな馬を買うか相談する。すごく年を取った奴か、ぜんぜん若い奴か? 若いとしたら、2歳か3歳か? 戦争はいつ終わるのか?
 愚弄する貴族〔アレクセイ・ロストーフツェフのこと〕、こいつは町に住んで、安いバターと卵と民衆愛(ナロドリュービエ)を嘲っている。
 民は昔の民ならず。召使を見ればわかるだろう。地主のナロドリュービエはもうあり得ないし、もし誰かが百姓たちのために土地を手放すことがあったとしても、それは〔手元の土地ではなく〕遠くの離れた土地になることだろう。
 ブロンズ色の庭園――地主と涸れた窪地(オヴラーク)-―お百姓。
 お百姓(ムジキー)とはもはや耕す人ではない、富農民(ムジーク=クラーク)だ。
 アファナーシイは今やアフトナースである。

アファナーシイ(Афанасий)というのはまったく庶民的な名で、俗にアファナースとかアパナースとか呼ばれているのだが、今ではそれがアフトナース(アフト=auto=自身の、独自の、自己)というちゃんと自己を確立した人の名に変わったとの意。

 地主の家。貴族のブロンズ色の庭園――領地経営が無理なので……(二人兄弟。地主屋敷(ウサーヂバ)の破綻)
 領地全体が石の壁で囲われている。別荘(ダーチャ)だけを残して、それ以外は売却。食い潰されてしまったのだ。
 主(あるじ)の春はクリスマスのあと間もなく始まる。労働者を雇い、馬を買い、乳牛(これは買えない)。冬の農地経営。自己消費、窓の下にはタマネギを。

1月20日

 雪解け陽気(オーチェぺリ)が続いてうっすら春の気配が感じられだすころ、田舎の通りの中央部分がなにやら人間の赤茶けた太鼓腹みたいに膨れてくる。馬鹿でかい荷橇が凄まじい勢いで飛び交うので、歩行者は大いに危険にさらされる。それでもやはり雪融け道のど真ん中を歩くほうがずっと楽なのである。
 二人の男がそんなところを歩いていて、遠くからにっこり笑って挨拶をしている――まるでごく親しい人間のように見える――挨拶の仕方はモスクワ仕込みというのか、どこかうそ臭い感じ(商人の言うことなんか信じるな!)。目と目が合って、(そうでもないのに)いかにも嬉しそうなその顔、その仕ぐさ。一人が口走ったのをよく聞けば、それは『わからんなぁ、さっぱり!』、するともう一方も『いやまったく、どうなってんだか!』。
 「薪だよ、問題は薪!」
 「わからんなぁ、さっぱり!」
 「麦粉だよ、問題は麦粉!」
 「いやまったく、どうなってんだか!」
 そしてたちまち政治談義が始まる――新たなる使命がどうのと、いいやとんでもない――賄賂とコネの話だ。
 「わからんなぁ、さっぱり!」
 「いやまったく、どうなってんだか!」
 地方では政治談義なしには一歩も先に進めない。夜も日も明けない。でも、こんな政治(ポリーチカ)は無責任かつ無益で、まあ刺激としてはゼロ……。一方が「わからんなぁ、さっぱり!」なら他方も「いやまったく、どうなってんだか!」である。その二人の商人は政府を批判しつつも今では大したお金持ちになってるし、概して彼らのポリーチカなどは、陽気で楽天的で平穏無事な、要するに単なる政治的動物の生活環境であるにすぎない。
 ところで赤茶色の通りには、エゾマツの枝が撒き散らされていて、空には物悲しげに教会の鐘の音が鳴り響いている。で、そのとき、どこからともなく現われたのが葬列だった。
 「いやまったく、どうなってんだか!」
 「わからんね、さっぱり!」

 雪解け陽気(オーチェぺリ)
 通りの真ん中は赤茶けた太鼓腹である。ぜんぜんブレーキをかけない大型荷橇がやたらと通行人の足にぶつかってくる。

 馬を買うのだが、どんなのがいいのか?

 主顕節のあと。オーチェぺリか春の到来か? 村人たちにとって、主顕節が過ぎたら、もう春が来たも同然。主顕節が過ぎたら、そうノホホンとしてはいられない。わが家は今、馬をどうするかで本気で悩んでいる。

 臓物。
 ヒトは屠殺した動物の臓物を、初めは必要に迫られて食するのだが、商人階級の暮らしというのはだいたいこの屠殺獣の上に成り立っている。やがて彼らは小金を貯めて少しずつ裕福になるのだが、豊かになるにつれて次第に、臓物はあまり口にしなくなる。お金持ちの家で依然として臓物が食べ続けられているとすれば、それはもともと臓物好きであるか、何か思い出のようなものがあるかのどちらかである。

 クセーニヤ。
お金――生活の数学(マチェマーチカ)とその記憶。そしてクセーニヤ〔クセーニヤ・ニコラーエヴナはプリーシヴィン家の遠縁に当たる女性。前出〕――臓物とお金――生活の数学。その哲学の要諦は必要性と正確さ。

1月22日

 シュチュールメルの任命。銀行にベフチェーエフ〔オリョール県の地主〕が来て、冗談みたいに、こう言った――『なんであいつ〔シュチュールメル〕はエラーギン宮殿の家具を盗まなかったのかな?』。だが、グルシコーフ〔エレーツの商人〕のほうはそれを真面目に受け取って十字を切ったものだ。『おお神よ、なんということでしょう!』。肝腎なことは、〔シュチュールメルという姓は〕明らかにドイツ系だが、間違いなく正教徒であるということ、(たとえドイツ式のものではあっても)正真正銘の正教徒であることはできるので、いやひょっとすると、真の正教精神(プラヴォスラーヴィエ)護持のためにあえてドイツ人を受け容れているのかも。

ボリス・シュチュールメル(1848-1917)は政治家。1904年から国会議員。ラスプーチンと皇后アレクサンドロヴナの支持を得て、1916年1月20日から11月まで国会議長。同時に内務大臣(3月から7月まで)、外務大臣(7月から11月まで)を務める。二月革命のあと逮捕されペトロ=パーヴロフスク要塞監獄で死亡。

 雪の原、でこぼこ道、均された道、吹雪。道は森林なき地帯の方へ続いている。夜のとばりが降りる。と急に物凄い音。橇を曳く馬たちの足音だ。野の夢魔か? みなして言い合いになる――『あれは森かな、そうでないか?』。近づいてよくよく見ると、なにが森なものか?! 立っていたのは1本の木と道標で、木のほうはちょっと触っただけで倒れてしまった。吹雪に野ウサギ? そう、それは一匹の野ウサギだった――そのあまりのでかさに猟師も肝を冷やして逃げ出したのである。月夜の晩、村の集まり〔ここでは猟師仲間の〕に出かけようかと外に出たところ、急に月が隠れて、周囲が一変。輪郭がぼやけて何もかもが曖昧になってしまった……

『ロシアの自然誌』は日記のこの記述から10年以上もあとに書かれているが、その冬の章の「冬の心臓」に、以下のような文章が――「吹雪のときは、あらゆるものが異様に大きく見えてくるものだ。今わたしの眼前に、ちっぽけな藪が鬱然たる原生林の壁のごとく立ちはだかっていた。それで、いきなりその壁の中から、獣が一頭、飛び出した。身の丈は森の半分、耳でさえ1アルシンもある。そいつがまともにわたしめがけて飛びかかってきたのだ――思わず手斧を振りまわす。だが、よく見れば、小さなただの野ウサギ。かえって向こうが肝を冷やしたようで、あっと言う間に姿をくらました。続いて現われたのが真っ白い高い塔。たぶん、こいつのせいでウサギは飛び出したのだ。そしてなんと、中からのっそりミヘイ爺さんが出てきたではないか。いつもと少しも変わらぬ声で、ウサギがどうのと言っている……」

 伯母〔前出のクセーニヤ〕は臓物料理が得意で、よく食べさせてくれた。エレーツでは臓物は、最初、必要に迫られて食したのだが、そのあとはまず金持ちになった商人がそれを食べるのをやめた。しかし最も裕福な家庭では、それは手の込んだ贅沢な、懐かしい思い出の料理として食卓に上(のぼ)ったのである。

 月夜の集まり(ザシートキ)。
 月夜の晩に猟師たちの集まりに出ようと外に出たら、急に月が雲隠れして、上からも雪が吹き寄せられて、原っぱ全体が一変――自分がどこにいるのかわからなくなった。橇が先を行くので、こちらは恐ろしいスピードでどんどん後ろへ引き戻されるような感じがした。言い合いになった。向こうに見えるのはあれは森だろうか、それとも何だろう? 近づいてよく見れば、自分らの村の森。いいや、立ってたのは3本の道標がと1本の木だけである。しかも木のほうはちょっと手をかけただけで倒れてしまった――それもドタリと音まで立てて。とんでもない。森? そんなのはどこにもない。ところがそこへ巨大な獣が姿を現わしたのだ。そいつがこっちへ向かって走ってくる! たちまちわれわれは追いつかれた。『なんだ、こりゃ! ただの野ウサギじゃねいかよ!』と誰かが言った。野ウサギは勢い余って危うくわれわれにぶつかりそうになる。『なんだ、こりゃ?!』と、また誰かが言った。野ウサギは怪物みたいにでっかくなり、吹雪に巻かれたほかの猟師たちをも嚇かしながら、慌てまくって向こうへ逃げていった。

 徒歩旅行者。
 自由になった霊が遺棄した肉体をソロヴェーツキイ島の夜半の太陽の領分に引きずり込もうとしている……

『巡礼ロシア』の第一部「ソロフキ詣で――魔法の丸パンを追っかけて」(1908)の白夜の幻想(幻覚)が甦ったのだろうか。徒歩旅行者=巡礼はむろん魂の原郷=セーヴェルを旅するプリーシヴィン自身である。

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


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