成文社 / バックナンバー

プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 07 . 17 up
(六十六)写真はクリックで拡大されます

 大量の輜重(しちょう)が次々と運ばれていった。そして今、蓄音機を積んだ最後の荷馬車が通過した。蓄音機のラッパ。見えなくなったかと思ったら、また〔頷くみたいに頭を振っている〕。ミーシャはふと思った――なんて馬鹿な、自覚のない兵隊だ。(それから叔母のナターシャ・イワーノヴナのことが思い出された。それと来世――いやそんなものは存在しない。森ではあんな喜ばしい生活が可能なのだ。死とはどんよりした空……生活……しかし意識的に〔口に出してみる〕――自分はニンゲンだ。ニンゲン、ふむ、確かにこれには誇らかな響きがある1。そうだ、思い出したぞ。苦もて苦を……そうだ、思い出した――『死もて死を正せ』*2だ……

1ゴーリキイの戯曲『どん底』(1902)の引喩。「じっさい、ゴーリキイがあっちでもこっちでもやたら感嘆しまくって使う、例の大文字で始まるニンゲン(Человек)というのは、何なのだ?」。同様のアルージョン(当てこすり)は1926~27年の日記にもたびたび見られる。

*2トロパリの一節。(四十二)15年2月8日の日記。

 負傷兵たちはもちろん、将校に取り入ろうとする。

 「ただいま回線を撤収中」――命令を受けた電信手たち。それで一方からはドイツ人たちが入ってきて、もう一方からは電信手たちが出て行くところ。
 爆破専門の師団の大尉はこの土地の出だ。

 この森林地帯の至るところにドイツ軍が潜んでいる。しかし4名の兵士はそれでも、軍団〔数個師団ないしは旅団から成る〕が全滅したことを知らずに捕虜(数百名)を引き連れていた。100露里を超えたところで通信が途絶。だが行軍続行。まことに通信手こそいのちの回線だ

 その電信手が焚火のそばで何やら思案中である。この自分に臆病風に吹かれるどんな権利があるというのか。苦もて苦を、だ。簡単な話じゃないか。彼は、薬局や包帯所を回っているあいだに輸送の隊列の通過をことごとく見過ごしてしまったのである。

 薬局ではみなが服も脱がずに眠っていた。
 輜重輸送の車馬の列。連隊、歩兵部隊による突破。自動車に腹を立てる大尉、ラッパ頭を振る蓄音機。破壊された橋梁はどこもめちゃくちゃになっている。

 公爵。陽気な楽天家、喜色満面である。彼はカザーク兵が好きだ。ウィルヘルム〔ドイツ〕軍下の森で鹿を7頭撃った、と。
 戦場でのさまざまなポーズ――両手を挙げている者(重傷者も似たような恰好だ)、銃剣が突き刺さったままの者、腕に包帯を巻こうとしている兵士。森の中の敵軍の塹壕にはロシア兵が、自軍の塹壕にはドイツ兵がいて……穏やかな顔もあれば、怒った子どもみたいな表情もある。

 住民への態度。鳩の喉はみな掻き切ってやらねば。

 ピョートル・ロマーノヴィチ・マーリツェフはサラートフ野戦病院の主任医師。
 チフス患者用の列車に乗っていたのは2羽の看護婦鳥(秘密の目的は騎兵隊への入隊だという)。ひとり(妊娠腹のデブ)は直立不動の姿勢をとって言う――『前進、前進、自分に何ができるかわかりませんが、ただ前進あるのみです!』。もうひとり、ずっと大人しいコキジバトは妊娠腹の影響下にある。敵が盛んに撃ってくる。緑色の兜が見える。兜の男が手を伸ばして何か言い、それから双眼鏡をちょっと前にずらした。禿げ頭が、不快なブロンドの禿げ男が立っている――ただ禿げてるだけの男。      予備役の夢

 「榴散弾で負傷した夢を見たよ」
 「おれは捕虜になった夢を見た」
 「おれなんかずっと退却ばっかりしている」
 「あたしは捕虜たちの食事の世話をしてたみたい」
 兵士は、捕虜になったドイツ軍の将校を連れている。将校は靴が脱げそうになる。それが恥ずかしくて仕方がない。
 「Meine Stiefel!(靴が!)」と将校。
 「いいから歩け!」兵士がこたえる。
 兵士は勝利者なので微笑さえ浮かべているが、こんな場合、そういう態度はどんなものか――靴がずり落ちて脱げそうになっているというのに。兵士は将校が気の毒になった。巻きタバコをやろうとしたが、落としてしまう。将校はそれを拾うのが恥ずかしかった。兵士が拾い、改めて差し出す。気まずさを避けようと、わたしは何か食いものをやろうとする。と、誰かの囁く声――
 「ぺテルブルグでも朝飯を要求したぜ、あいつら〔捕虜〕」
 ユダヤ人――土壌を失くした人たち。根がむき出しの水耕栽培の植物のような人びとである。彼らの美しくない根っこがそっくり見える。ほかの人間の根は見えないのに、彼らのそれはむき出しだ

1915年3月22日の日記にもこれと同じ書き込み。

 サラートフ野戦病院長のグリプコーフ(スチェパン・アレクセーエヴィチ)。

 グロドノの赤十字特別全権委任のクラーキン公爵と全権委任のクロポートキン公爵――一方は相手の欠点を、一方は相手の美点ばかりを見ている。
 サラートフ野戦病院の下級医師モイセイ・ラーザレヴィチ・エプシテイン。

 グロドノ駅にすべての軍人が集結。中にひとりの小さなユダヤ人の子。この子がまたなんだか赤い火花を放つ黒ダイヤのようなのである。きらっと光って、ときどきぼっと小さな炎を上げたりするが、それでも自分〔の立場〕というものを忘れているわけではない。

 男だけ! すべて男性的なものばかり。女性的なものは心理的に除かれていて、今も、なかなか恰好のいい兵士がわたしに敬意を表するので、こちらもそれに応える。するとまた敬礼をし返す。あれは何なのか? わたしたちは輜重隊に追いつく。するとさっきの兵士がまた敬礼だ。それが何度も何度も、にこにこしながら。あれはどういうことか?

     戦略本部

 攻撃はいい――すべてが見えてくる。だが退却はあっと言う間。3日して、気がついたら元の場所にいた。
 シーヴェルスの第二軍(アーミヤ)。東部方面突破のためにの配置換え。その代わりがニルトケーヴィチ。第二軍団(コールプス)はフルーグ将軍。

軍(армия)は戦時に編成される作戦の最大単位。その下に軍団(корпус)、師団(дивизия)がある。ファヂェイ・シーヴェルス(1853-1916)、エウゲーニイ・ニルトケーヴィチ(ラトケーヴィチ)、ワシーリイ・フルーグ(1860-1955)はいずれもロシア軍の司令官。

 「わしらのとこでは戦闘が起こらないことを、なぜあんたは知ってるんだ?」
 閉じられたドア。遠くにいれば、いよいよ強くいよいよ深く、好きな人の顔?ゆえに苦しむことになる。
 何もかも見渡せる。列車が走っている。将校用の車輌の車室での話題は戦闘だ。ネマンの対岸の、海抜113メートルの丘の上(そこが参謀本部)ではパニヒーダ(死者のための追悼供養)が行なわれていた。
 現地の幕僚たち。地元住民も追悼式に出ている。
 おおよそこれは攻撃のほんの足がかり、梯子の毀れた段のひとつにすぎないが、あまりに小さくてふだん誰も気づかない――そんなふうに思われた。それは単に示威的な、これ見よがしの戦闘だった。
 ドイツ軍は、湖畔の隘路に集結した。退却は避けられなかった。あらゆる兆候から、彼らの撤退にはかなりの時間がかかるように思われる。指揮官たちは是が非でも有利な拠点(市街、アパートその他)を確保したかった。
 槍騎兵は第一側翼(フラング)の保持に向かう。タバコが支給される。4時までに攻撃態勢に入ることに。
 第一軍団は持ちこたえているが、七三師団と五六師団はともに降伏だ……
 偵察兵〔斥候〕――素早い、思い切った行動に出る。

 将校たちの車輌では――
 「〔ここの住人たちが〕可哀そうでならんよ。何かを期待しているんだからね。でも、どうにもなるまい」
 「どうしてそう思う? 税金を下げてやればいいじゃないか」
 「しかしそれは……」
 「たぶん、下げるだろう」
 「お言葉ですがね、僕が欲しいのは平和なんです。真っ平だよ。もうこれ以上戦うのは嫌なんだ。女房がいま死にかけてるんだ……」
 プリシケーヴィチの部隊の義勇兵(民兵)は、こと輜重、経理部の仕事、商い、エタップに関してはじつに多くを知る黒百人組〔極右反動集団〕の組員で、特別無賃乗車証の(一語判読不能)、あらゆることに対応できる男である。〔プリシケーヴィチについては(二十八)を〕

    人びと

 ミハ〔イル〕・ミハ〔イーロヴィチ〕・ゲラーシモフ――(二語判読不能)駅、河谷(ドリーナ)――一点に集中して、まるで全世界がゲラーシモフにしがみついているといった感じ。
 黄金の軽騎兵の曰く――
 「スラヴ人はふにゃふにゃしてる〔柔らかで激しいところがない、という表現が少し前に出てくる〕が、奴ら〔ドイツ人〕にはプリンシプル〔前出では、システムでやってくる〕がある」
 ドイツ人論が白熱。
 砲兵――書斎型人間とモノの配置の思想……
 シベリア歩兵連隊の赤鼻大尉――『われわれは歩兵なり』と、こればっかり。
 偵察隊たち――槍騎兵は〈遅滞なく行動している〉と。(一語判読不能)、死。
 工兵大佐。
 瀕死の重傷を負った将校。
 修道院長ネーストル〔ノーヴゴロドの院長〕。
 ブゥトゥールリン将軍とその秘書官。出征軍ではごく普通の人。
 ユダヤ人の秘書。
 兵隊――『はい、そうであります』
 伝令ゲラーシムの埋葬。
 ふたりの偵察兵――肉付きのいいゲオールギイ十字勲章所持者とその上官。ひとりは黄金のサーベルを受け取り、もうひとりは敵の動きから目を離さない。
 輜重隊の抜け目ない大尉。
 ふたりの公爵――他人(ひと)の欠点を見逃さない男とひとの美点を見つけ出す男。
 破傷風の患者――地獄の声。
 苦もて苦を。登攀――この山をいかにして登るか。
 婚約者である医師。

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


成文社 / バックナンバー