2011 . 07 . 06 up
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*常勝者ゲオールギイの意。ギリシャ名ゲオルギウスはカッパドキアに生まれ、303年のローマのディオクレティアヌス帝の時代に処刑され、大殉教者として崇拝されるようになる。初めは槍を手にした立像だったが、7~9世紀に龍(ドラコーン)退治の奇跡譚と結びつき、聖ゲオルギウスの象徴となる。モスクワの町を建てたユーリイ・ドルゴルーキイ公の洗礼名がゲオールギイであることから、以来〈聖ゲオールギイの龍退治〉の画像がモスクワ市の紋章に。ポベーダ(勝利)+ノーセツ(もたらす者)。
拍子木だ! ああまた鳴った! あれはどこでだったろう? そうだそうだ、思い出したぞ――わが人生の黎明期に、ふるさとの町の通りで、それが誰だったかは記憶にさだかでないが、ただひどく疲れた顔をした人と出会って、自分の幼いころの話をしたことがあったのだ。そしてそのとき、いま鳴ったと同じ拍子木の音を聞いたのである。それがずいぶん昔のことで、まるであれから1000年も過ぎたような気がした。そして今またあの音が1000年を経てふるさとの通りに戻って来たように思われたのだった。その音には昔とそっくり同じ響きがあった。拍子木の音に誘われて、わたしはふらりと月の光に照らされたおもて通りに出てみた。夜の底の、まったく人気の絶えた通りの、多く影をつくっている池のそばを、ちょうど夜警がひとり過ぎていくところだった。わたしはそこで石に蹴つまずいた。そして1000年前にも同じその石に足をとられたなと思った。体のバランスが崩れかけ、勢い余って鋳鉄製の小さい柱の方へすっ跳んだが、なんとか持ちこたえた。そうだ、たしかちょうどこの辺に、コーリャ・クリヴォロートフ〔幼馴染か旧友か〕が住んでいたのだ……
〔新聞社の〕小さなデスク。夜のぴったり8時に、わたしは市会(ドゥーマ)に着き、記者席に腰を下ろした。ホールの壁にかかっているのは商人たちの肖像画ばかりだ。いずれもこの町の活動家で、とっくの昔に死んだ人たちだった。ぼちぼちみんな集まりますよ、と守衛が言う。10時近くになっても、まだ定員に足りない。11時になればみな帰ってしまうだろう。そうなったら議会は延期である。*クジマー(コジマー)・ミーニン(ザハーリエフ=スホルーキン)は、抗ポーランド解放運動の指導者でロシアの国民的英雄(16世紀末-1616)。ニジニ=ノーヴゴロドで肉屋をやっていたが、動乱時代(スムータ)時代(1604~13)に推されて総代(スターロスタ)となる。1611年、大主教ゲルモゲーンの教書にこたえて義勇軍を起こし、軍司令官にポジャールスキイ公を招く。軍資金を調達し、戦いの末ポーランド軍占領下の首都モスクワを解放。のち貴族となり、元老の列にも加えられるが、まもなく病死。モスクワの赤の広場にミーニンとポジャールスキイを記念する銅像がある。
*1タタールシチナとは元来、タタール支配下の時代=タタールのくびき(1243~1480年のキプチャク汗国によるロシア支配)ないしその習俗、その当時ロシアの諸公が納めた年貢を指す言葉だが、ここではタタールの直接支配下にある土地の意。
*2バツ(抜都)はチンギス汗の孫で、キプチャク汗国の建国者(1208~55)。在位1227~55。1236年、総司令官としてヴォルガ河畔を経略。のちモスクワとキーエフを攻略してロシア地方を支配し、ポーランド、ドイツ、さらにハンガリーに侵攻。サライを都にしてウラル川西方よりヴォルガ流域を支配した。*3〈ウラヂーミルの聖母のイコン〉のこと。伝承によれば、この有名なイコンは、1131年にコンスタンディヌーポリ総主教からキーエフ大公ユーリイ・ドルゴルーキイに贈られ、やがて1155年にウラヂーミルに移されて、ウスペーンスキイ大聖堂に納められた。1395年、中央アジアの覇者チムール(タメルラーン)の軍がモスクワ大公国に迫ったとき、ワシーリイ一世がウラヂーミルからこのイコンを借り受け(8月26日にモスクワに運ばれた――それを記念したのがキリスト迎接祭・旧暦2月2日)るや、早くもその翌日にチムール軍は引き揚げていたという。チムールの陣地はそのとき、エレーツ近郊のブィストラヤ・ソスナー(急流ソスナー川)の河口に近いアルガマーチャにあった。前夜に見た彼の夢――聳え立つ高い山、そこへ天女が、剣を手にした天使たちを従えて現われ、彼に向かって『ロシアの国境を侵すな』と命じたのである。この年、チムールはキプチャク汗国を粉砕している。ウラヂーミルの聖母にまつわる伝説はいろいろあって、1451年と1480年にも、タタールのたち軍からモスクワを守ったとという言い伝えがある。現在はトレチヤコーフ美術館に所蔵されている。
そう、精神的あるいは肉体的な弱さはわれわれの蔑視と嫌悪の、また平均的人間の暮らしの俗悪さ加減の源なのだ。強者はそこを素通りして行く。
追善供養(トリーズナ)。11月1日、供養のためフルシチョーヴォへ。6日の金曜日に戻った。
教会。堂内の掃除が行き届いていない。司祭や読経者や聖歌隊の人たちの口から手提げ香炉(カヂーロ)の煙のように白い息が吐き出される。至聖所から叫ぶような声――『われらが同盟軍〔英仏の〕に〔栄えあれ〕!』が聞こえてくる。そうだ、戦争なんだ! だから司祭は栄えある軍隊にも祈りを捧げている。司祭の言葉は人びとのうちに答えを見出そうとしているようだ。それらの言葉とともに人びとは十字を切り、跪(ひざまず)く。そうしてほんの一瞬、これまでずっと人びと自身にも鎖されていた魂が、民衆の意志(ナロードナヤ・ヴォーリャ)が、まさに今この場に立ち会っている――そんな気がした。教育ある者もそうでない者も、老いも若きも、今は誰もが話している。気候に変化が出てきたかのようである。ロシアの11月と言えば、以前なら冬の季節、でも今はまだ秋――冬に深く突っ込んだ、じめじめした、霧に包まれた秋だ。風が吹き荒れて、連日、方向が変わるかと思うと、大気は乾燥してきて、気がつけば、すでに恵みのマロースが始まって、そうして再び何もかもが――天気も体調もほとんど同時に崩れてしまう。早いうちからランプに火が灯り、こんな夜長に木々のざわめきを聞いていると、どこか自然界では、われら人間らしきもののための闘いが行なわれているように思えてならないのである。それは、とても恐ろしく苦しい、暗い戦いだ。ときどき静寂が戻るようなら、暗い空に小さな星がキラリと光るかも。今もしそんな星が現われたら、自分は春が来るのだと思って、生きているのがどんなに嬉しくなることだろう。人びとはしばし息を継いだ――すると、またしても新たな烈しい突風が巻き起こって、胸腔いっぱいに暗い呵責を吹き込むのである。
権力のために創造された特別な人種――狡猾の、才能の、瞞着の、理性(ラーズム)の、いずれの道によっても同じことだが――そういう者たちをヒトは〈賢い人〉と称し、権力を持つことのできない者を〈愚かな人〉と呼んでいる。昔話の世界では、馬鹿が最後にツァーリの権力を手に入れる。これは権力への敬意を示すというよりは、むしろ権力の作り替え方を教えているのである。お百姓たちはどんな愉快な気持ちで、その権力を、交替なしの常任のスタルシナー〔スターロスタに同じ。前記柱のミーニンのような〈総代〉あるいは村長、長老〕に委ねることだろう。また、そういう権力者が見つかってどんなに満足したことだろう*1。昔はそうだったのだ。でも今、このナロードからは、スタルシナーが個々人のうちに権力(組織の)への欲求を目覚めさせること、呼び起こすことが求められている。もともとナロードにそんな欲求はない。わが国では、権力欲は官僚たち(役人)の階級的枠内にしか存在しない。だから、民衆にまじって暮らしていると、たまにこんな奇妙な可笑しな文句に出会ったりするのである――『トレーポフ氏に幸福が微笑んだ*2』。いったい何のこと? どこがお笑いなのか? 生涯一度も交通行政にかかわったことのない人間が突然、交通大臣の地位と権力を手にした不思議さを皮肉っているのだ。*1プリーシヴィン自身、スタルシナーの存在を〈百姓王〉という言い方でたびたび語っている。『森と水と日の照る夜』のマヌーイロの昔語り(「すなどり」)。拙著『森のロシア 野のロシア』第二章「プリーシヴィン――ベレンヂェーイ王の朝」その他。
*2アレクサンドル・トレーポフ(1862-1928)。1915~16年に交通大臣、16年の11月~12月には閣僚会議議長に、しかし18年に亡命。悪名高い実兄のドミートリイ・トレーポフは、革命弾圧のための超反動的な独裁権を与えられて黒百人組にポグロームを唆したペテルブルグ県知事であり、彼らの父であるフョードル・トレーポフは、政治犯に対する残酷な仕打ちで悪名を馳せたペテルブルグ特別市市長。1878年に女性革命家のヴェーラ・ザスーリチに銃撃されている。
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