成文社 / バックナンバー

プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 05 . 29 up
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 どんな鳥であれどんな生きものであれ、それはすべて自然環境の完成〔成就〕であるということ。〈自然についての物語〉はそこから書き出されなくては。ヨーロッパシギはわれわれに谷地坊主(やちぼうず)〔低湿地の小丘〕の草地について、クイナは丈高いスゲの生えた冠水牧草地について語らなくてはいけない。クイナの鼠走りとはどんなものか、一季節、一日の時のめぐり方、ヒトへの接近や敬遠についても。(ブレームとメーンズビル、それとアクサーコフと買うこと

アルフレッド・エドムント・ブレーム(1829-1884)はドイツの動物学者。ミハイル・アレクサーンドロヴィチ・メーンズビル(1855-1935)はロシアの動物学者。セルゲイ・アクサーコフについては(十九)の注を。

 社会的信頼内閣もしくは責任ある内閣は、現在、国民の間では単に〈責任(アトヴェーツトヴェンノスチ)〉と称されている。わが国の失敗の原因とわれらが未来についての話をするなら、最後は必ず「要するに責任が必要なのだ」となる。結論はそれしかない。
 国会審議を経てようやく成立をみた概念であるこの〈責任〉は、国民の良心に訴えかけることまことに大であった

モスクワを中心とする自由主義的資本家たちは、従来ツァーリ政府と結びつきの深い重工業資本に対抗し、全工業動員を主張して、中央地方に戦時工業委員会を設置することを政府に認めさせた。政府は、陸相その他の更迭を断行、7月に再開された国会には、新陸相ポリヴァーノフが国会や戦時工業委員会・自治体連合の代表も加えた国防特別審議会設置法案を提出、可決された。それに気をよくした自由主義者たちが政府改造を要求し始め、8月には国の信任を得る人びとから成る内閣を求める〈進歩ブロック〉が、国会議員422人中325人を集めて結成された(岩間徹編・ロシア史(山川出版社)から適宜引用)。

 わたしは、たまたま出会ったさまざまな人(農民)たちに、この〈責任〉をどう理解しているか訊いてみた――誰が誰に対して責任を負わなくてはならないのか、と。
 誰に対してかははっきりしている――国民に対してだ。しかし、誰が責任を取るかいうことになると意見はまちまちだ。肉食獣のごとき商人か、権力を手にした人間か、はたまたずばり名指しされた大悪人、それゆえ首を切り落とされても文句の言えないような人物か?
 最後の審判が始まっている。民衆の心は今や、森の低地のごとく満々と水を湛えて、あらゆるものを映し出す……

一神教たるキリスト教(正教)の強い影響下にあるロシア庶民の心を占有    している(と思われる)一種の強迫観念。この心理的抑圧はときに烈しく噴き出す。「わたしのノート」太田正一訳(『プリーシヴィンの森の手帖』の「ひかりの春」所収・成文社)、「最後の審判」灰谷慶三訳(『現代ロシア幻想小説』所収・白水社)、『森のロシア 野のロシア』(第一章「無神論の箱舟」・群像社)など。

 よくよく観察していると、トンボならぬ人間たちが蜻蛉を切っている。あれあれ、これはどうしたことだ! 車輪だ車輪だ、車輪が回る目が回る――足は上に手が下に、足が下に手は上に。いやはや、ほらまた人間、ぐるっぐるっぐるっと大車輪! 突然、うち一人が回転を止める。足で立つ。それから、おいちにおいちに歩きだした。自分の足で、どんどん前へ、前へ、前へ。

 昔、二人の兄弟がいたとさ。一人は汗水流して働き、もう一人は出世を狙ったんだと。

 たまに嬉しいことに出くわして、こんなことを口にする――「わしらにはまあこんなもんかな」。だが、その程度のことはざらにある、この世のどこにだってあることだ。
 自分のもの、たとえば自分の仕事、自分の考え、自分の主張、自分の権利、自分の習慣にこだわる歓びは大地(ゼムリャー)の感覚、どこでも誰でもそうだという歓びは大洋(オケアーン)の感覚。

 森の馴染みの場所、とりたててどうということもない小さな空間だが、それでもそこへさんざん迷ったあとで、ようやくたどり着く。そして、ああここだとわかったときの奇妙な感覚、嬉しい違和感。それは、習慣が破られて、いつもとは違う未知の方角からその場所を眺めることに成功した、ということだ。われわれも、生きながら自らを廃れさせ不用にして、どうも状況がよくない環境が悪いなどとぼやいているようだ。旧きを愛し時機を逸せず旧きを捨てること、永遠に捨て去って新しいものに移ってゆく技量を身につけなくてはならない

1940年あたりまで、プリーシヴィンにとって〈旅〉は、その独特の空間=時間的性格(遠方と通過)に相応しい〈世界〉の芸術的習得〔把握〕の主要な方法だったが、第二次大戦以降、そうした芸術的探求の性格に変化が起きた。自然へのまなざし(ヴニマーニエ)が無限の多様性を有する自然から、ヒトと釣り合ったずっと身近な自然の方にシフトしていき、それに応じて芸術感覚のプリンシプルも、遠方ではなく身近なもの、通過ではなく永遠なものが、ヴニマーニエの(つまり目の、注意の、関心の)対象になった(この注は「日記」の編者ヤーナ・グリーシナの見解)。

 何かの始まり。1905年の諸事件を経験し、今また戦争を生き延びようとしているわれわれは、みな老いたる祖父たち同様、1905年以前の自分の暮らしとかかわっていて、ただその祖父たちには孫がなく、孫が祖父自身であるために、つまりはそのために、遠い過去の叙事詩(エーポス)のような物語は語られることがないのである。

あまりに多くのことがあった年――まず1月3日にプチーロフ工場がストを開始、9日、〈血の日曜日〉事件、全国的な抗議ストへ。2月26日、奉天会戦で日本軍の勝利、5月14~15日にバルト海艦隊が対馬沖で壊滅。同15日、イワノヴォ=ヴォズネセーンスクに最初の〈ソヴェート〉が創設され、農民運動が高揚。6月9日、頻発するゼネストから武装蜂起へと発展する。6月25日~7月11日、戦艦ポチョムキンの水兵が反乱。7月31日~8月1日、全ロシア農民同盟第1回大会。同月6日、国会設置法・国会選挙規定発布(ブルイギン国会)。同月23日、ポーツマス条約調印。10月6日、モスクワ=カザン鉄道がストを開始。同月12日、 カデット党(立憲民主党)創立大会。同月13日、ぺテルブルグ労働者ソヴェート成立。同月14日、モスクワ全市スト。同月17日、国家秩序改善について皇帝宣言(十月宣言)。同月18日、ヴィッテ、首相に就任。同月26~27日、クロンシタットで水兵が反乱。11月3日、買い戻し金支払い廃止宣言。同月6~12日、全ロシア農民同盟大回大会。同月10日、十月党(オクチャブリスト)結成宣言。同月11~15日、セヴァストーポリの反乱。同月22日、モスクワ労働者ソヴェート成立。12月2日、ペテルブルグ=ソヴェート「財政宣言」公表。同月10~17日、モスクワの武装蜂起。12月29~1906年1月4日、エスエル党(社会革命党員)第1回大会、綱領を採択。ざっと挙げてもこれだけ重大事件が起こっている。

9月3日

 未来の人びとは世界観においてはマテリアリスト〔唯物論者ないし実利主義者〕、個人的にはイデアリスト〔観念論者ないし唯心論者ないし夢想家〕である。過去の人びとはイデアリスト、個人的にはマテリアリスト。

 数日前まで8月だったものがもう、いかにも9月の佇(たたず)まいである。飛んでいるのは――しきりに散っているのは白樺の葉。

 星屑を撒いた秋の空、深い無窮の安息――ここ、この村は殊に、就寝時刻が日ごとに早くなる。
 野に人影なく、しだいに日は短くなり、眠りばかりが早くやってくるけれど、かわりに夜空の星はいよいよ輝きを増してくる。階段口(クルィリツォー)に出てみた。なんという静けさだろう! おお、なんと流れ星! 天を二つに切り裂き、宇宙を疾駆するメテオール。大気に触れた一瞬、われわれにその姿を開示した。途方もないその運動によって、今この小さな村は深深(じんじん)たる安息の底に沈んでいく。

 自分の昔からの夢は、何かしら特別な自分のやり方で地理学――概してそれは博物学だが――を究めて、無理やり一つの因果律に押し込まれて窮屈な思いをしている学問〔科学〕に新たな霊感を注入することだった。

9月5日

 きのう、「国会解散を宣する政府の決定」が載った9月3日付の新聞を入手。が、解散の具体的な報道はまだない。それについてはワシーリイ(仔牛の魂〔あだ名〕)のほうが詳しい。

ニコライ二世の命令による「国会休会」。敗戦の責任をニコライ大公にとらせて自ら最高総司令官に就任した(8月23日)。これを8人の大臣が諌めたが、ニコライ二世は聞き入れない。大臣たちはさらに食い下がって進歩ブロック(自由主義者たち)との話し合いを主張。それに対抗するようにツァーリが国会の休会を宣言したため、対決姿勢はいよいよ強まった。これ以後、ツァーリは、皇后アレクサンドラと血友病の皇太子(アレクセイ)の治療を通じて皇后の心を掴んだラスプーチンの強い影響下へ入っていく。大臣の人事も次第にこのシベリアの農民出身の奇怪な宗教家の意志に沿って行なわれるようになる。

 「どういうことかね? たしかに真実(プラウダ)を口にしたが、そのプラウダを解散してしまった。プラウダなんか必要ないというわけか!」
 ついに〈内なるドイツ人〉がわれらが内なるフロントに迫ったのである。今や誰の目にも明らなのは、ドイツ的なわれらが内なる魂を示すのが彼らのビザンチンふうの衣装、ただそれだけだということ。とはいえ、憤懣は元のままである安息への期待から生じている――曰くそれでもなんとかなるだろう、なんとか徐々に徐々にね。この期待が粉々に打ち砕かれれば――もっとも、ここからは地平線は望めないが――未来の事業のほうはずっと見通せるようになる。

 ここずっとわが町の生活に入り込んできた避難民は、自分の目には、何か植物の根に、あっちこっちに根を張った根菜みたいに映っている。

 幾世代にもわたるわが国のインテリゲンツィヤの養育は、ナロードの、それも少しも要求がましくない慎ましやかにして不幸せなムジークを、神の従順なる僕(しもべ)たるムジークを踏みつけにしてなされてきたのである。

  汝のすべてを、われを生みし国よ、
  奴隷に身をやつして、天帝は、祈り、
  祝福を与えつつ、あまねく経巡った

フョードル・チュッチェフの詩「これら貧しき村々は……」(1885)から。

 人びとの苦しみに手を差し延べようとする者なら誰しもそう感ずるはずである。そこへ避難民の群れが殺到して、そんな従順さには似ても似つかぬおのれの権利を主張する。(一語判読不能)働こうとは思ってないのだ。ついこのあいだ、わたしは停車場で、さる貴族団長の話を聞いた。彼はわたしに、(以下の理由によって)しっかりした権力の確立が急務であることを証明しようとした。すなわち、難民の流れはどうしても止められないが、ただし彼らを有象無象のかたまり(類型化して)として扱うなら、一定の方向性を与えることができる云々……ちょうどそのとき、かなりきちんとした身なりの避難民がひとり近づいてきて、貴族団長に向かって――
 「どうかお願いです、ブリャーンスクに居住する許可をいただけないでしょうか?」
 「おたくの指定地は?」
 「ぺーンザです……でも、ペーンザに知り合いはいないのです。ブリャーンスクには兄弟がおります」
 貴族団長は当惑し、挙句に放った言葉がこうだった。
 「おたくはみなと〔仲間と〕一緒に動くべきです、指定どおりに……」
 「しかし、そこには血を分けた兄弟がいるのです。わたしをペーンザに送るのは、そりゃもう不合理というものです……」
 「合理的ですよ」貴族団長はにべもない。

 ペトログラードとペテルブルグ。部屋の中が寒い。大家たちは薪のことで裁判を受けている。リヴォーフで経験したような寒さだ。隣人たちが白パンはないかとやってきた。
 「黒パンは持ってないの?」
 「黒パンならあるんだ、あげましょうか。砂糖はどう? 要らない?」
 「1フント〔約410グラム〕ばかり貸してください……」
 通りの、茶を売る店の前に大行列。お祭り前のヴォトカ専売店の人だかりのようである。田舎からやってきた商人も、歯を見せて笑っているところを見ると、ヴォトカの店が開いたと思ったにちがいない。話題は「どこへいつ発つか」、それと飢餓の噂だ。夜になって、お手伝いが話をしていく――飛行機が爆弾を投下、それが風呂小屋(バーニャ)を直撃し、2級民兵400人を殺傷したと。馬鹿なと思ったが、誰もが真剣な顔で(一語判読不能)を見つめ、熱心に耳を傾けている。通りに見えるのは、以前の、恰好のよい軍隊ではない、2級の民兵ばかりだ。どっかのガキどもが何か喚いている。
 「あれは何を騒いでるのだろう?」――話をしているのは、わたしとセルゲイ・ペトローヴィチだ。
 「ところで、もうそろそろかな――おたくらはネヴァ〔川〕へ丸太を拾いに、わたしも鋸を調達して来なきゃね。そのうちどっかよその土地では新しい人たちが新しい生活のために新しい町づくりを始めることだろう」
 小銭の不足もリヴォーフとよく似ている。記事を書いてもどこへ送ったらいいのか。ペトログラードから旧ペテルブルグの故人たちにでも送るしかないか。秋の厳寒(マロース)のあと、ほんの短い間に、ほんとに黄葉のようにたくさんの人が散り落ちたのだ。『ああ、今は亡き人びとよ、われわれあなたたちの後を継ぐ世代は、心の奥で、あなたたちの安息を生きています。わたしたちの平和への、勝利への、ちゃんとした政府への願いは、安息を夢見る人びとの願いです。でも、それはもういい。若者が新しい町を建設するであろうぎりぎりまで、もっともっと徹底的にぶち壊してくれて結構です……』
 避難民のこと。『彼らをどこへ収容するつもりか? 彼らも同胞ではないか』。輔祭がやってきた。家族を失った。学校がまるごと疎開してきた。生徒の半分が犠牲になった……
 避難民と前線兵士の思いは違う……正反対だと言っていい。前線では敵愾心が銃後の国民に向けて煙幕のようなものを張っているが、こっちでは煙幕が敵対する民族のフロントに対して張られていて、彼らの利害が国家の利害と対立しているのはあまりに明らかである。避難民には社会事業が、前線には国家事業が――。平和な難民が増えれば増えるほど、戦争が深みにはまればはまるほど、平和はどんどん近づいてくるのだ。

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