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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 05 . 08 up
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 田舎暮らしと子どもたちの養育とを余儀なくされた未亡人である母は、概して義務なるものを好まぬながらも、それを受け入れた。徐々に家屋敷(ウサーヂバ)の周囲もやもめ暮らしのそれらしくなってくるが、柵の向こうには、いかにも自由そうに見える美しい生活が広がっているのだった。柵の向こうの人間たちには、日々の暮らしの、こせこせした、つまらぬ煩いごとなど少しもないように思われた。そんな〈世界〉を想像しただけで、自由な草原の風に吹かれているような気になった。そしてただもうたまらなく嬉しかった。まるで人間が変わってしまうのだった。どんな好奇心をもって自分の周囲を眺めたことだろう。どんなつまらぬ小さなことにも目を輝かせた。そんなことがどれも自分なりの意味を持ち運命を持っていたのである。なのにそれは、あちらもこちらも大した違いはなかった。それは、彼女の心に消えることなく灯り続けていたものが、ときどきぱっと光っただけのことだった。

 才能豊かな作家というものは、なにかしら独特なアトモスフェアの層に――要するに、魅惑に満ちた嘘に、取り囲まれている。そこで思い浮かぶのが、その嘘を憎む〈正直で誠実な〉人間、たとえばイワン・イグナートフだ。彼は本質的なは芸術の敵なわけだが、多くのそうした誠実な批評家たちの批評家になった。ゴーリキイ、チュコーフスキイ、レーミゾフ、ローザノフ、ソログープ――これらの面々はきわめて魅力的かつ相当に〈嘘をつく〉人たち(裁判にかけるとか弾劾されるというのではなく、まあいわば才能)である。したがって、真実(プラウダ)は無能で、嘘はいつでも才能豊かということだ。
 今わたしの心を占めているのはゴーリキイの〈嘘〉である。たとえばローザノフ、こちらはその嘘の必要性を承知しているから、当然、嘘が足場になっている。世間は彼を皮肉屋(キニク)と呼んでいる。アレクセイ・ゴーリキイ〔本名はアレクセイ・マクシーモヴィチ・ペーシコフ、筆名はマクシム・ゴーリキイ〕は意識せずに自分の嘘を信じ、聖者と認められている。まあ詩人みたいな聖なる存在も、やはり嘘をつく人、やはり欺瞞によって行動している。それら欺瞞の総和が宗教とされ芸術と称されているのだ。その無能のプラウダの総和がナウカ〔科学ないし学問一般〕である。しかしそれでも、知は嘘ではないやはり有能なもの、知は有能な嘘(神秘主義)と無能なプラウダ(理性論)の戦いの、永遠の記念碑なのだ。2×2=4を維持するために多くの天与の才能が必要だろうが、人びとに2×2=5を示すのにどれほどの天賦の才が要るだろう。2×2=4のタイプとは、ゴロヴァーノフ*1、「ロシア通報」のイグナートフ、ヴェーンゲロフ*2その他。(橋梁、ドイツの軍事作戦、教科書、〈世論〉。2×2=5のタイプとは――クカーリン*3、ローザノフ。

*1ゴロヴァーノフはセクタント。1909年にノーヴゴロドの居酒屋《カペルナウム》で開かれた宗教集会で知り合ったセクタント。「子どもは社会的存在。人中で生まれ育つ(信仰は……思惟の不明瞭性。しかしすべてを為すところのもの)。」――ゴロヴァーノフの意見の要約と思われる箇所(プリーシヴィンの初期の日記から)。

*2セミョーン・ヴェーンゲロフ(1855-1920)は文芸学者。

*3クカーリンともノーヴゴロドの宗教集会で知り合った。民間の宗教家でセクタント。「クカーリンは個我の人。魂はきびきびとたえず動いている。どうしても捉えられない」(プリーシヴィンの初期の日記から)。

 死んだらわかるだろう。

 小さな野ウサギの死。赤い獣、霧、痙攣その他の最期の兆候――死にぎわを描くさいのストーリーテリングの力、それに続く変容の一瞬(モメント)。野ウサギも赤い獣と大して変わらない姿形――目も、耳も、生きものに備わっているようなものはみな有しているのだが、それだけでない何かがある。そのため〔土壇場の野ウサギに〕赤い獣はひどく怯えるのである(ここで言う赤い獣とはキツネのこと)。

クマ、オオカミ、キツネ、テン、ヘラジカなどの、猟師が最も珍重する獣をこう呼ぶ。

 ゴーリキイを噛み砕く〔とことん理解しようとする試み〕のは、とても面白い。六翼天使セラフィームの陰にちっぽけな敗れざる自尊心が隠れているとしたら、どうだろう? 天使の最高位(セラフィームストヴォ)は自己欺瞞なのだ。作家としての彼はレヴィートフ並みであるのに、崇拝者たちが彼をトルストイのレヴェルまで持ち上げている。本人はそれを知っているのだろうか? 『幼年時代』はたしかに見事な書かれ方をしてはいる。でもモノトーンだ。そこには地上の描写ばかりで天上は何ひとつも描かれていない。トルストイの『幼年時代』と比べてみよ。風車の羽は青々とした大地と青空をとらえてぐるぐる大きく回っている――しかし、これはトルストイの風車。一方、ゴーリキイのそれは風車というよりは脱穀機、羽が天を引っかくこともない。描写こそ見事なものだが、最後までなかなか読み通せない。せいぜい60ページどまりか。これじゃ読者だってたまらない。

アレクサンドル・レヴィートフ(1835-1877)は作家。貧困にあえぐ農民や鉱山労働者たちの悲劇的運命を多く描いた。『懲罰』、『村の裁判』、『宿無し』など。

7月20日

 イリヤーの日。去年と同様、この時季は小暗い枝を透して、熟れた穂と畑と幼子(おさなご)のごとく清らかな亜麻が、荒地の砂のように明るく光って見える。キリギリスの鳴き声と最後の雷雨のゴロゴロ。近づく秋に思いをひそめて、しきりに刺すのは棘ある北の光だ。

予言者エリアの祭りは、旧暦7月20日(新暦8月2日)、暑い盛りの祭日である。  イリヤー(古形)は慈雨をもたらす農業の庇護者とされ、この日で草刈りは終了、このあと麦刈りが始まる。

 母は家にいない。誰か階段を駆け上がってくる。そして大声で――
 「皇帝陛下が殺されたぁ!*1
 乳母が号泣している*2
 「いまに斧を手に百姓たちがやってくるよぉ!」

*11881年3月1日、ナロードニキの〈人民の意志派(ナロドヴォーリツィ)〉による皇帝アレクサンドル二世の暗殺事件。当時8歳のプリーシヴィンはのちのちこの大事件を自身の意識的生活のまた個性発現の始まりと見なしていたようだ。

*2プリーシヴィンの回想の中にも、幼子におとぎ話を聞かせロシアの古い民謡をうたって聞かせたニャーニャ――ロシア文学の伝統とも言うべき〈乳母〉のエウドキーヤ・アンドリアーノヴナが出てくる。
 政府と社会の和解の問題、社会による国家的義務のまた政府による社会的事業の承認の問題が持ち上がっている。戦争や革命〔1905〕以前の自分というものを考えると、どうもあれはこの自分ではなく、可哀そうな幼児が五里霧中の状態にあったとしか思えない。それがどんなに奇妙に思われても、今まさに、これら大事件〔戦争〕のさなかに、最も価値あるインチームな承認の時が到来したのである。歴史的諸事件が今日的方法で、すなわち機械的自動的に記録されるに及んで、事件に直接かかわるかその周辺を眺めやるかしていただけのこれまでの年代記作者は、仕事から解放されて、今後はまったく個人的な運命にその大いなる興味と関心とを示すことになるかもしれない。すれば、その個人的な運命は人間共通の運命とどうかち合うことになるのか? 必ずやひとつに結びつくはずである。それが証拠に――ちょうどインクが足りなくなったので、1コペイカ(そのころは1コペイカで間に合った)とインク壜を持たせて店にやったところ、意外やからっぽのまま戻ってきた。
「5コペイカでなきゃ売らないって」
「どうしてだろう?」
「戦争のせいだわ! 何もかも値上がりしたもの……」
「そりゃあ嘘だ! インクについては嘘に決まってるが、ああ、でもそれだとこっちはお手上げだ――自分なりの承認(社会と政府についての)をそんな高価なインクで書かなきゃならないのなら」

 嘘まみれの世界と縁を切って逃げるのではなく、世界を180度回転させたい誘惑につい駆られてしまう。国家も今のようなものとはまったく違うものになるだろう。〈未来の国家〉だ。未来の国家の背後には〈未来の女性〉が隠れているから。そうではないか? それは大いにあり得る。意志と思惟とにもうひとつ最後の努力が為されれば、自分は彼ら〔彼女ら〕とともにある――いやЯ(ヤー〉〔わたし〕はもはやЯではなくМы(ムィ)〔われわれ〕だ。それでそのあと世界的なカタストロフィーが起こって、国家はМыになるのだ。
 しかし、どこかふだんは日も差さない心の隅に疑念が湧いてきて、いきなり、艦隊(フロート)が姿を現わす――どうするのか、艦隊は必要だろう、艦隊は国家にとって必要不可欠なものではないのか――そんな唐突この上ない問いが発せられる。友だちはみな笑っている――『どこの国家だい? 古臭いブルジョアジーの国家かね?』。するとまたいきなり、それも驚くほどの明瞭さと視感度でもって、艦隊の無用無益論が飛び出した……なにひとたび世界的カタストロフィーが生じれば、どんな艦隊も役には立たない、そんな国家に艦隊なんか不要だ。
 目の中にちらちら火のようなものが。遠い昔に聞いたある老婆の声――『ほらな、地面が燃えとるぞ……』
 暗い窓の外に目をやる。ああほんとだ、地面が燃えてる、燃えてる……世界の破滅、みんなも自分も!
 だが、カタストロフィーでなく、すぐにこの世と縁を切るのでないのなら、国家防衛への手段を拒むいったいどんな演説があるというのか。現在の国家を享有しながら生きているなら、どうして国家を拒否できようか……

7月25日

 へえ、それで真実(プラウダ)の大半がわかったってわけかい……そりゃ結構なことだ。

 真実は嘘を打破する――まったく何度聞かされたことだろう。揺籠にゆられていたころから誰でも知っていたが、そういう言葉に何か意味があるのなら、やはり何か今日的プラスアルファーが必要なのではないか。今ようやく自分たちは片田舎で、〔7月〕1日の〔国会(ドゥーマ)の〕代表者たちの演説を読んだばかりだ。印象は驚くべきものだ。ヴェリーキイ・ポスト〔大斎、復活祭前の7週間〕が終わって、ピローグが食卓の上に――さあどうぞ召し上がれ! で、どうなんだい?
  いま農民たちは畑で目いっぱい働いている。彼らのところに新聞が届くのはずっとあと、だから自分がまずドゥーマの話をしてやることになる。自分からそうしたいと思ってやっている。ドゥーマの真実が庶民にいかなる印象を与えるか、真実のあとにどうなるか、知りたいからだ。
 複雑怪奇で苦しみの多い現代とはほど遠い若かりし日々、われわれは、農民百姓(ムジーク)を一般国民(ナロード)と思って、そのことばに尋常ならざる意味を背負わせていたのだった。ナロードへのそうした〈接近方〉は、個人がムジーク階級の陰に消えていった農奴時代の遺物にすぎないのであって、今ではまったく意義を失っている。そしてそういうアプローチの欺瞞を誰も信じていない。草場や畑にいる10人か20人のお百姓の中に自分の演説でもってムジーク階級の幻想を撃破できる人間が1人もいないなんてことは、とてもわたしには想像できないのである。1人でもいるところには2人いるし、ぐるりと見まわせば、そこにはじっさいさまざまな人間がいるのだ。いや、ナロードとムジークは一緒にならない。だがそれでも自分はムジークたちのいる方へ出かけていく――なんといってもここには新聞が届かないからだし、自分が持ち帰る印象がムジークからのではない、まさしく処女地の土壌がもたらす生(なま)の印象だからである。
 荷馬車の日陰に腰を下ろしている草刈りたちは、朝飯の最中だ。
「おいしく召し上がれ(フリェープ・ダ・ソーリ)!」
「さあ、どうぞどうぞ(ミーラスチ・プローシム)」
 どこでも同じ人間の暮らし。悩みは思ったほど表情(かお)には出ていない。新たな特徴は〈友誼的なロシア〉といったところか――銃後も前線も同じだ。以前は両者の間に深い溝があった。ある村人は〔わたしに向かって〕19日に息子が〔兵隊に〕取られた、またある村人は、またある村人は……労働と知のあいだのバランス。それに必要なだけの汗を支払ってこそ両者のバランスは獲得されるのだ。

 欲求と行動だけでは足りない、何がしたいのかをさらに見究める必要がある。見究められなければ、幻影を追い求めるだろう(ドン・キホーテもように)。
 物質的財貨は精神的財貨よりずっとわかり易いが、それとても正確に見究めることを学ばなくてはならない。

 生の濃密な一瞬。そのとき、たいてい人間は観念的世界にびっくりし度肝を抜かれて、咄嗟に何かの切れっぱしに掴まって漂いだす。やがてそれに慣れてくると、「そう、もともと人生とはこんなもの、これから先もそうにちがいない」などと考える。
 大多数の人間は、なにやら生〔生命ないし生活〕の唯一の観念のごときものをぼんやり意識しているが、それを獲得するおのれの力量不足をも十分すぎるほど感じながら、何かに、いやまったく別のものにしがみついている。そして、いかにも驚いたという顔で生きている。 

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