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プリーシヴィンの日記 太田正一
2011 . 04 . 30 up
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ライ麦みのり、花さく草原の草ぐさ。巣の雛たちに羽毛はえ、ときに羽ばたく音。照る日の雨に暖気もどり、森の中は温室さながらだ。雨に掴まりエゾマツの根もとでしばしの宿り、かと思えばすぐまたお天道さまのお出ましである。虹の下、きれいさっぱりと洗われた樹々はくっきりと(ミナレットか宮殿か)、じつにすっきりと(回復期に入った患者かはたまた出獄直後の人間か)新鮮な顔をして立っている。春を待つ町の住人は、そんな晴ればれとした顔を一日も早く見たいと願っている。ライ麦の熟れる今の今こそ北の自然の真っ盛り――それでその先からはすべて下り坂となる。
6月21日
ロープシンの『青白き馬』*を思い出した。あれには二重の罪がある。まず芸術に反している――芸術が生活に縛られているのだ。また、生活に反している――生活が芸術に隷属させられているのだ。結果として人間は生活よりも紙に書かれたものを取ることになる。率直に言って、この作家には才能がないし、芸術とはいかなる掛かり合いもない。
*ロープシンは筆名(本名ボリス・ヴィークトロヴィチ・サーヴィンコフ(1879-1925)、革命家・テロリスト。邦題『蒼ざめた馬』(1909)。(十三)の編訳者によるエッセイ(三)の「レーミゾフとプリーシヴィン」にサーヴィンコフのことが少し出てくる。
NB. なぜ自分の作品にはいつも次のようなサイクルが生ずるのか? テーマを設定する段階で、素材自体がだんだん民俗学的な(外面的な)ものと心理学的な(主観的な)ものに分裂したあとは、その主観的なもの、つまり自分を私的生活の「未完の、表現し難いサイクル」に引き込む主観的なものに怖気をふるって、ついエトノグラフィーに逃げようとする。それで結果として、それまで考えていたものとはまったく裏腹の物語をつくってしまうのだ。これについてはじっくり考える必要がある。
人間が苦しんできたのは、世界の臍の緒から剥離し、単なる一部(ЧАСТЬ)になり、全一的存在(ЦЕЛОЕ)*――それを自分は〈神〉と呼ぶのだが――を感ずることができないからだ。
*ドストエーフスキイが短編『おかしな人間の夢』(1877)で、主人公である〈可笑しな男〉に言わせた「宇宙の全一的存在(ЦЕЛОЕ ВСЕЛЕННОЙ)」と同じもの。
本の注文――サバーシニコフ*のところでソフォクレス(廉価本)その他の古典が出ている(イワノフ=ラズームニクに頼むこと)。
*ミハイル・サバーシニコフ(1871-1943)――ロシアの書籍出版者。
6月26日
自由を渇望して生まれたヒトは、晩かれ早かれ、珍奇な蝶と同様、針に貫かれる運命にある。どうもがいても、針が心の臓を貫けば、これまで抱いていた愚かしくも貴い自由へは戻れない。死ぬまで羽をぱたぱたさせるだけである。心の臓を貫かれて羽をぱたぱた――これがわれらが自由についての歌と思想の原点だ。しかしそれはどんな歌だろう、地を覆うヒトの黴(かび)のどんな歌だろう!
ひとはひとたび生を享けると、暴かれることも打ち明けることもない小さな秘密を抱えて生きるのだが、しかしその秘密こそがお互いを区別し合うもととなって、おそらくはそうしたものから、すべての「認識不能な」世界の秘密はつくられるのだろう。もしその秘密を、じつはそれは顔から逃げ出した鼻*――とはいえ鼻の振舞いはとうに暴露されている――である、それこそが人間の生活なのだなどと言ったら、秘密もまあずいぶんと滑稽なものになるにちがいない。
*ニコライ・ゴーゴリの中編小説『鼻』(1836)からの引喩。
知らなかったし今も知らないでいる存在(もの)との、どこか馬鹿げた偶然的な出会いが自分をも針で留めてしまった。こちらがどうもがいても、深夜はそのものの支配下にある。そしてときどきそいつは、驚くほど醜怪な姿でわたしの目の前に現われる。その出現のなごりはどうかと言えば、甘美なる絶望感。何もかも倒錯の極みである。
今夜、彼女〔どうやらワルワーラの幻影らしい〕はパレ・ロワイヤルでわたしと過ごした、それもお嬢さま然とした恰好で。彼女は自分のフェリエトンを本にしたい、つまり最も嫌らしいものを世に問うから文学仲間のところへ連れていってくれとわたしに頼むのである。こっちはそんな空疎なそんなリアルなものに嫌悪を抱いているくせに、それでもそいつに向かって、平然とこんなことを口にする――この出会いこそは自分という人間が幸福のために創造されたことを証明するものだ、これは神の御心〔摂理〕にかなっている、などと。
その意味するところは、自分がすでに針を刺されて羽をばたつかせていて、自分の本性の基本的輪郭、すなわち幸福は生存の唯一欠くべからざる条件であり不幸を無と見なしている――ということだ。事実は如何ともしがたく〈不幸〉なのだが、それでも(羽をぱたぱたさせて)生きている。自由の歓びが、歴然たる不幸の事実の大いさが、夢の中では互いに透過拡大し合う意味を、「甘美なる絶望感」を、たっぷりと味わわせてくれる。
『マルクス主義者たち』*1の発想に注目すべきものあり。生活の基盤である床が抜け落ち、そこから出てきたのが〈未来の女たち〉という必然的なテーマであった。家庭の不幸と暮らし(БЫТ)との過激な決着だ。この現象の特異性は〈顔のない〔無個性の〕ロマンチズム〉。恵まれた容貌のほかには特に優れたところのない女が理想の女に祭り上げられたりするが、概して女性はそんな扱われ方で、そうしたロマンチズムは実際のところ〈性感の抽象化〔曖昧な表現〕〉にすぎないのである。ぜんぜん取るに足らない場合でさえ、こうした心理学はひっついて離れず、理由もわからぬまま、そこらのごく平凡な小娘をすら褒めて褒めて(腹が立つほどだ!)天の高みにまで褒め上げたりする(レーンスキイとオリガ*2)。だが、ひょっとして、絶賛されたこの手の美のほうがむしろ、空論家によくある、「貧弱だけれど本物」の生活の一面であるのかも。
*1詳らかにしないが、実現しなかった中編『世紀の初め』のこと、その構想である。(五十四)の6月6日の注。タイトルがころころ変わった。
*2プーシキンの韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』の登場人物。詩人のレーンスキイはいいなずけであるオリガ(ラーリン家の次女、ヒロインであるタチヤーナの妹)のことでオネーギンに激しく嫉妬し、怒りに駆られて決闘を申し込むが、殺されてしまう。彼は詩人の情熱でオリガを褒めて褒めて褒め上げるのだが、彼女はただの平凡な娘にすぎない。
6月28日
アウグストフの森での経験から。何かにびくついている――なぜかずっと得体の知れない不安に駆られているのだが、しかし恐ろしげな岸と岸の間をこわごわ船を進めているうちに、次第にどうでもよくなってきて、ある無人の小島に上がったときには、もうすっかり恐怖感からは解放されていたのだった。低い空と沼沢地――ちょうどペテルブルグ郊外の秋のよう。ほんとにそっくりだ。そういうどんよりした灰色の気分は以前にもよくあった。無力感にとらわれているときに、まったく異なる二つの潮流が自分の中でぶつかってできる、鈍く重たいあのどんよりした感じ。小さな〈老い〉の島々(の幻影)が現われるのは、決まってそんなときなのだが、〔それは〕すぐに消えてしまう*ので、そこを脱出不能の土地――雄鶏さえ歌をうたわぬ土地――のように感じたことは一度もなかった……
*のちの『自然の暦』(邦題『ロシアの自然誌』)の春の章「積雲の出現」に、これと似た表現が――「春のおとずれとともに、天にも地にも至るところに、あのわたしの侵しがたい幻像が出没しはじめる。今では落ち着いたもので、あまり不安がらずに迎え入れるし、見送るにしても、結構あっさりしたものだ。つまり、あれは春のゆききのようなもので、いずれにせよ、こっちが生きてるあいだは必ず戻ってくるのである。なんで哀しむことがあろう? もうわたしは子どもじゃない。わたしはあれらいっさいの幻影の父であり主なのだ」
「幸福が微笑んで」致命的な危機は過ぎ去ったとしても、それが何だろう? 過ぎし日の思い出からいかにして逃れるか、いずれにせよ、これからの生活に徐々に小さな島々は姿を見せてくるだろう。だが問題は、それとどう和解するかだ――いよいよ深くいよいよ濃くどんよりした灰色の空を持つあのきわなき大地と、ついにはひとつになってしまうのか。
どこからか音楽が聞こえてくる。言いようもなく美しく、かつ素朴で飾り気のない明るいもの出口のようなものが、ぱっと開いた感じがした。そのときふと頭に浮かんだのが、凍えて今にも死にそうな医師や看護婦たちの姿だった。彼らは全員、負傷兵たちの護送に付き添い、しっかりと落ち着いた足どりで、飛び交う弾丸の下を進んでいた。善行(ドブロー)なるものがあまりにシンプルであること、シンプルなあたりまえの仕事(――重要なのはそれが仕事であることだ)を片付けるようにドブローも為せる*というのは、まったく自明のことのように思われた。
*従軍記者として戦地にいたとき、ある大尉に作家の能天気ぶりを嗤われて、「じゃあ、わたしは何をすればいいんだね?」と言い返すと、「ぐずぐずせんと、ほれ、あそこにいる連中にはっぱをかけて、校舎からベンチを運び出すよう言うんだよ。そして負傷者を拾って、それにのっける……」。わたしはみなに声をかけると(中略)それに負傷者たちをのっけて運んだ。わたしは夢中で立ち働いた。自分が従軍の記者であることなど、まったく忘れていた。そしてふと、自分がまともな人間であるように感じたのだった。嬉しくなった。ただ、ものを書く人間としてだけでなく、今ここに、戦場にいるということが、何とも言えず嬉しかったのである。(短編『水色のトンボ』から)
その楽の音は、波のように高まってはまた静かに引いていった。どこかで誰かがオルガンを弾いているのだ。彼〔プリーシヴィン自身〕はそっちへ歩いていく。カトリックの教会だった。堂内へ足を踏み入れる。オルガンの音はシンプルそのもの、永遠そのものを響かせていた。彼はじっと、最後の信者が立ち去るまで耳を傾けていた。司祭がこっちへやってくる。
「素晴らしい音ですね。じつにシンプルだ」
「そうです、大いなるものはすべてシンプル、『死もて死を正せ』……
7月18日
戦時下にある今、僧院はおのれの顔を閉じ、またその声も十字架の労苦を味わい尽くさぬままに傍らを過ぎる万人のために黙(もだ)し、静まっている。黄ばんだ茎と薄青の小さな花にひかる濡れた亜麻(あま)は今のところ、ここでのこの地上でのありふれた幸福の可能性について、ふつうに昔どおりの暮らしをしている人びとの心に語りかけることはない。なんぴとをも欺かぬゆえに。
こんなやりとり――
「ウィルヘルム〔二世〕だよ。やつはもう駄目だね」
「なにが駄目なもんか、勝利に継ぐ勝利じゃないか。やつは絶好調だろ」
「それがどうしたい……連戦連勝か? まあ勝利にもいろいろあるからな。やつが駄目なのはその勝利のせいさ」
「要するに、友好〔関係〕を裏切ったんだ」
ドイツ的メカニズムと救いようのないロシア的野蛮〔向こう見ず〕がもろに出ている。それらを打破するには、とにかく根本的な変化が必要だ。そこらの丸太を引っこ抜いて向かっていくようでは話にならない。とても駄目。もうちょっと熱を下げ、もうちょっとまともにならなくては。
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