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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 02 . 27 up
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 リョーヴァ〔長男のレフ〕の2本の前歯は大きくて美しい。わたしのは今、壊疽を起こしているが、やはりかつてはあんなだった。だいたいリョーヴァはわたしをそっくり繰り返しているようだ。他人(ひと)を怒らせるようなことをし、われわれ親から罰を受けたあと、とても腹を立てる――まるで世界正義の根本問題にでも抵触したみたいな怒り方をする。わたしもかつて、おまえが中学を退学になったのは当然だ、まったく手がつけられない奴だったからなあと、ある中学生から言われて驚いたことがある……自分(ヤー〔я〕)を宇宙的なЯ〔大文字〕と思い込むナイーヴなエゴイズムで、要するに、このエゴイズムには根〔土台の感情〕ってものがない。リョーヴァのそれは感情の伴ったエゴイズムで、その道は破断の道――これは土台を理解したエゴイズム、大道だ。わたしがそいつと真っ向からぶつかったのは、パリだった。その結果が、個人的な不幸と文学である。文学に惹きつけられたのは、わたしがわたしたらんとする衝動ではなく、もうひとつ別の〈я〉を創造(これのモメント、すなわち殻とあの手紙――僕は僕と僕の持てる一切とを貴女の裁量に委ねる所存です。敬具うんぬん)しようとする衝動だったのである。  はっきりしているのは、世界理解のために何をなすべきかということ。おのれ(エゴイズム)を断つ必要があるのだ。そうすれば、魂は輝きだす(ポエジーこそ魂の光!)。奴隷たちは常に輝いているが、統率者は厚顔無恥にも人を押しのけ、しゃしゃり出る。鳥や獣のいのちは困窮を絵にしたようなもの。でも、そのおかげで(春の)彼らは素晴らしいのだ。
世界(コスモス)は人間によって形を与えられた(〈自然(プリローダ)というもの〉)。なぜ戦時に自然は消えてなくなるのか? なぜなら、それが新しい人間の事業だから。人間はいまだカオスの中にシンボルを見つけていないが、いずれそれも見つけ出すだろう。

 〈見えざる城市(まち)〉*1――(『ヒト怖じしない鳥たちの国』*2のときも同様だが)への旅でわたしを導いたものは、情熱(ザドール)だった。わたしにはよくわからないある未知の感情――自分はそれを有しており、それを本物のあらゆる学問研究にとって欠くべからざるものと思っている――の力を借り、そのザドールの力に援けられた学問上の発見をするのでは、という思いがしきりにした。そしてじっさい、現地に着いてすぐに確信した。自分はこれまでの分離派(ラスコール)や宗教的セクトの〔学者たち〕専門家たちよりずっと多くのことを知っている(自分はラスコールやセクトの人たちの内部にまで踏み込んだのだ)と。同じことを、もっと大きなスケールで、たとえば、地球を外的対象としてではなく魂の一部に繰り込むために、地理学の分野でそれができないだろうか?

*1スヴェトロヤール湖(キーテジ)への旅のあとで書かれた紀行文『見えざる城市のほとりで』(1909)のこと。詳しくは『巡礼ロシア』(邦題)の「湖底の鐘の音」を。

*2セーヴェル(北部ロシアのヴイグ)探訪の記録である『森と水と日の照る』(邦題)のこと。

 戦争への神の〔プロヴィデンシャルな〕視点。避けられぬ破断を破断すること。国家のナイーヴなエゴイズムと国家的フェティシズムは相互作用(世界の帝国主義化)によって作られるだろう。不滅の個人と世界(コスモス)……それが作られるために引き起こされるのが戦争なのだ。それなしにはあり得ない――これこそドイツの悲劇(土地を持たないアダム)。

わが人生のロマン――ドイツとロシアの衝突。わたしはすべてをドイツから得たのだが、今そちら(ライプツィヒ、チューリンゲン)に向かっている。

ライプツィヒ大学哲学部(農学科)留学時代(1900-1902)、プリーシヴィンは、自然 科学の教養や職業としての農学だけでなく、カント、ニーチェ、リヒャルト・ワーグナーに夢中になった。その世界観形成の上で最も重要な部分を成しているのがドイツの文化的伝統であることは間違いない。

 「ロシア通報」とは離婚した*1。この新聞はわたしにとっていつも(二語判読不能)だった。結婚がそもそも打算だった。わたしは農民たちについて書いた、彼らはそれに対してわたしの庇護者となった。だがそこには、かつて自分が〈惚れ込んで〉参加したような社会的事業など、何ひとつなかった。ゼームストヴォ勤め*2、省での珍奇な仕事*3と、「ロシア通報」への寄稿――間断なき偽善的行為、「ザヴェートィ」*4にいたっては全然、とてもとても自分の仕事とは言えない。最初は青春時代に、二度目は社会的急変(変革)の前夜に、そして三度目は文学において――時に自分とみなに共通した仕事に参加してきたのだが、それらはいぜれもこの上ない緊張を強いた。とても自分はまともな社会活動家にはなれない。

*1「ロシア通報」の記者となったのは1907年のこと。この新聞社の編集人の一人が母   方の従兄のイリヤー・ニコラーエヴィチ・イグナートフ(1858-1921)だった。二人のことをアレクセイ・レーミゾフが回想している(「イリヤー・イグナートフは報道記事を送るにあたって、とにかく結論をはっきりさせるよううるさく言ったが、プリーシヴィンは〈チェーホフみたいに〉、つまり結論なしに書きたいとしばしば洩らしていた」ナターリヤ・コドリャーンスカヤ著『アレクセイ・レーミゾフ』・パリ・1959)。

*2プリーシヴィンは1903年、モスクワ近郊のクリン市(クリンはチャイコーフスキイが晩年、交響曲第6番ロ短調〈悲壮〉を書き上げたところとして有名。その記念館が現存する)のゼームストヴォで農業技師として働いた。ゼームストヴォは帝政時代の地方自治体。県、郡に設置され、それぞれ議会と役所を持っていた。ゼームストヴォでのプリーシヴィンの仕事は主に農業機構の整備と組織化、土地利用の進歩的方法の普及にあった。ちなみに、『森のしずく』の序章「交響詩ファツェーリヤ」に登場する農業技師は、牧草播種の普及のために旧ヴォロコラーム郡に赴くプリーシヴィン自身の姿である。

*31902年に短期間勤めたペテルブルグの農業関係の省のことと思われる。

*4雑誌「遺訓」(発行は1912年から14年まで)。詩人のアレクサンドル・ブロークの日記(1912)に――「この雑誌に掲載される小説のテーマは人間の苦の描写を扱って、多彩である」。これに載せたプリーシヴィンのルポや短編類もそうとう多彩だ。「イワン・オスリャニチク―七人兄弟塚の伝説から」(1912・№2)、「町から村から」(1912・№8)、「父なる法のうちに」(1913・№3)、「スラーヴヌィ・ブーブヌィ―悲喜劇と題して」(1913・№9)、「クマネズミ」(1913・№11)、「アストラーリ―ペテルブルグ市オホータ〔地区〕の聖母の裁判を傍聴して」(1914・№4)。オーフタの聖母については(十五)の注を参照のこと。

4月6日

 思いついたのだが、『黒いアラブ人』*1を「エキゾティックな」一巻本にし、『鳥の墓』をロシア民話の土に降ろし*2、『見えざる城市』を宗教探求の書に、『戦争の書』*3その他を……

*1中篇『黒いアラブ人』は1910年に初版が、さらに書き続けられて、1925年に第2版   が、1948年に第3版が出ている。

*2この計画は実現されなかった。『鳥の墓』の最初の題は「村のスケッチ」(1911)。

*3書かれていない。

 『鳥の墓』を四季の本に改編すること。

暦を通してヒトの生の時の時を創造する自然のリズム――最も重要な惑星のリズムを知るという構想は、のちのち『自然の暦』(邦題で『』ロシアの自然誌』)(1935)となって実現する。

 キリスト教の不幸は――その教え〔たとえば隣人愛〕を引き合いに出すこと自体が、弱さと愚かさから敵対勢力〔キリスト教団〕とまともに対峙できない狡猾な猛獣=略奪者たちの強力な武器になってしまうことにある。

 わたしは宇宙(コスモス)の一部、わたしは生きる――みんなと一緒に(それへの平衡錘、自己評価における諸々の誤差)生きているが、わが生涯を貫く信念〔あるいは信仰〕は善なるもの(ドブロー)に向けられるはず(ラズームニクもゴーリキイもみなそうである)で、そうでなければ、そんなもの〔信念〕は完膚なきまでに打ち砕かれてしかるべきなのだ。〈あの世〉はまた別の信仰に属する。

 ロシア人の暮らしにおける東方(ヴォストーク〉の面立ちは、宿泊先がホテルではなく知り合いの家だということ。

4月9日

 針葉樹の林の向こうの風もない日向に、一本の白樺が立っている。そこを裸足の女の子が駈け抜け、小枝を折った。折られた白樺の傷から樹液が滴った。
 女の子は走り去り、一本の白樺が残された。そして、去年の黄色くなった葉の上に絶え間なく樹液が落ち、やがて日が中天に達するころには、もう枯葉の上はきらきらと匂い立つような白樺の血溜まりになっていた。
 白樺はその血溜まりのことで、音ひとつ呻き声ひとつ立てなかった。自分をこの世に送り出したものの意思にあまりに従順だったから、痛みさえ感じなかったのである。この世はすべてそうなのだ――そもそも自然がのしかかるくびきの十字架に耐えている。
 そして人間もまた自然であり、その一部、つまり奴隷であるので、救いは、自然のそれと同様、沈黙のうちにある。だがヒトはことばを話す……音がことばに転じた〔発話の権利を得た〕聖なる一瞬、その境を越え、さらに沈黙の、すなわち苦悩の限界を越えて発せられたことばこそは、厳しい冬のあとの楓の葉そのものである。苦悩と発話の権利の限界を明知(ラーズム)よっていかに見出しいかに定着させるか? ヒトの権利の表明のその一瞬は奈辺にありや? 
 あるいは、声はカオスの苦痛の継続、その喜びの〔表現〕であるのかも。しかしそれは自然の声であって、そのときヒトなどなにものでもない〔無〕。
 ヒトは自由意志と迅さ〔性急〕の生きもの。さらなる迅さを求めれば、それは自然に反して、求め欲し在ること自体が不可能、さらなる加速はさらに不可能だ。

 「鳥の墓」は四季の書だ。小品集「爺さんたち」*1、「霧の中の小屋」*2その他もまとめて一冊にする。これらの短編は概して喪われた価値を描く物語集――人間臭い一巻だ。

*1この短編集は「スタリチキー(爺さんたち)」というタイトルで「ロシア通報」紙に掲載された(1914・6・22)

*2見つかっていないプリーシヴィンの最初の作品。しばしば日記で言及。

 1)鳥の墓  2)黒いアラブ人  3)ヒト怖じしない鳥たちの国*1  4)丸パン*2  5)見えざる城市  6)戦争の書。

*1単行本となった最初の作品、邦題で『森と水と日の照る夜』。

*2『極北地方とノルウェイ』(1908)―邦題で『巡礼ロシア』。その第一部「ソロフキ詣で―魔法の丸パンを追いかけて」のこと。

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