2011 . 02 . 27 up
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〈見えざる城市(まち)〉*1――(『ヒト怖じしない鳥たちの国』*2のときも同様だが)への旅でわたしを導いたものは、情熱(ザドール)だった。わたしにはよくわからないある未知の感情――自分はそれを有しており、それを本物のあらゆる学問研究にとって欠くべからざるものと思っている――の力を借り、そのザドールの力に援けられた学問上の発見をするのでは、という思いがしきりにした。そしてじっさい、現地に着いてすぐに確信した。自分はこれまでの分離派(ラスコール)や宗教的セクトの〔学者たち〕専門家たちよりずっと多くのことを知っている(自分はラスコールやセクトの人たちの内部にまで踏み込んだのだ)と。同じことを、もっと大きなスケールで、たとえば、地球を外的対象としてではなく魂の一部に繰り込むために、地理学の分野でそれができないだろうか?
*1スヴェトロヤール湖(キーテジ)への旅のあとで書かれた紀行文『見えざる城市のほとりで』(1909)のこと。詳しくは『巡礼ロシア』(邦題)の「湖底の鐘の音」を。
*2セーヴェル(北部ロシアのヴイグ)探訪の記録である『森と水と日の照る』(邦題)のこと。わが人生のロマン――ドイツとロシアの衝突。わたしはすべてをドイツから得た*のだが、今そちら(ライプツィヒ、チューリンゲン)に向かっている。
*ライプツィヒ大学哲学部(農学科)留学時代(1900-1902)、プリーシヴィンは、自然 科学の教養や職業としての農学だけでなく、カント、ニーチェ、リヒャルト・ワーグナーに夢中になった。その世界観形成の上で最も重要な部分を成しているのがドイツの文化的伝統であることは間違いない。
*1「ロシア通報」の記者となったのは1907年のこと。この新聞社の編集人の一人が母 方の従兄のイリヤー・ニコラーエヴィチ・イグナートフ(1858-1921)だった。二人のことをアレクセイ・レーミゾフが回想している(「イリヤー・イグナートフは報道記事を送るにあたって、とにかく結論をはっきりさせるよううるさく言ったが、プリーシヴィンは〈チェーホフみたいに〉、つまり結論なしに書きたいとしばしば洩らしていた」ナターリヤ・コドリャーンスカヤ著『アレクセイ・レーミゾフ』・パリ・1959)。
*2プリーシヴィンは1903年、モスクワ近郊のクリン市(クリンはチャイコーフスキイが晩年、交響曲第6番ロ短調〈悲壮〉を書き上げたところとして有名。その記念館が現存する)のゼームストヴォで農業技師として働いた。ゼームストヴォは帝政時代の地方自治体。県、郡に設置され、それぞれ議会と役所を持っていた。ゼームストヴォでのプリーシヴィンの仕事は主に農業機構の整備と組織化、土地利用の進歩的方法の普及にあった。ちなみに、『森のしずく』の序章「交響詩ファツェーリヤ」に登場する農業技師は、牧草播種の普及のために旧ヴォロコラーム郡に赴くプリーシヴィン自身の姿である。*31902年に短期間勤めたペテルブルグの農業関係の省のことと思われる。
*4雑誌「遺訓」(発行は1912年から14年まで)。詩人のアレクサンドル・ブロークの日記(1912)に――「この雑誌に掲載される小説のテーマは人間の苦の描写を扱って、多彩である」。これに載せたプリーシヴィンのルポや短編類もそうとう多彩だ。「イワン・オスリャニチク―七人兄弟塚の伝説から」(1912・№2)、「町から村から」(1912・№8)、「父なる法のうちに」(1913・№3)、「スラーヴヌィ・ブーブヌィ―悲喜劇と題して」(1913・№9)、「クマネズミ」(1913・№11)、「アストラーリ―ペテルブルグ市オホータ〔地区〕の聖母の裁判を傍聴して」(1914・№4)。オーフタの聖母については(十五)の注を参照のこと。*1中篇『黒いアラブ人』は1910年に初版が、さらに書き続けられて、1925年に第2版 が、1948年に第3版が出ている。
*2この計画は実現されなかった。『鳥の墓』の最初の題は「村のスケッチ」(1911)。*3書かれていない。
*暦を通してヒトの生の時の時を創造する自然のリズム――最も重要な惑星のリズムを知るという構想は、のちのち『自然の暦』(邦題で『』ロシアの自然誌』)(1935)となって実現する。
わたしは宇宙(コスモス)の一部、わたしは生きる――みんなと一緒に(それへの平衡錘、自己評価における諸々の誤差)生きているが、わが生涯を貫く信念〔あるいは信仰〕は善なるもの(ドブロー)に向けられるはず(ラズームニクもゴーリキイもみなそうである)で、そうでなければ、そんなもの〔信念〕は完膚なきまでに打ち砕かれてしかるべきなのだ。〈あの世〉はまた別の信仰に属する。
ロシア人の暮らしにおける東方(ヴォストーク〉の面立ちは、宿泊先がホテルではなく知り合いの家だということ。「鳥の墓」は四季の書だ。小品集「爺さんたち」*1、「霧の中の小屋」*2その他もまとめて一冊にする。これらの短編は概して喪われた価値を描く物語集――人間臭い一巻だ。
*1この短編集は「スタリチキー(爺さんたち)」というタイトルで「ロシア通報」紙に掲載された(1914・6・22)
*2見つかっていないプリーシヴィンの最初の作品。しばしば日記で言及。*1単行本となった最初の作品、邦題で『森と水と日の照る夜』。
*2『極北地方とノルウェイ』(1908)―邦題で『巡礼ロシア』。その第一部「ソロフキ詣で―魔法の丸パンを追いかけて」のこと。text - 太田正一 //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk