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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 01 . 02 up
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1915年2月7日

 ヴェレビーツイ 
 戦地特派の決定。

〔編訳者注――「ヴェレビーツイ――ノーヴゴロド県下の村か? 「ロシア報知」紙による戦地への特派は2月15日から3月15日までの1ヵ月間と決定。プリーシヴィンにとっては2度目の前線視察である。ペトログラード出発まで余すところ8日〕

 雑記帳、ことばとテーマ。日誌は欠かさず付け、そこから5日ごとに、送るべき記事を選び出す。
 記事は戦争に関するもののみ。基本は(戦場視察による)実体験。古いものは採らない。新しい発見だけを書き送ること。

2月9日

 波浪(ヴァルナ)のごとき噂話(マルヴァ)に聞き耳を立て、それを真実と思いたがっているが、そんな波はもはや存在しない。いま交わされているのは、まったく違う会話である。ただ近親者だけには、その目の先、人波の果てを一望できる高い目線のせいで、大波の流れる方角はほぼ見当がついている。

〔2月10日〕

   自由〔の問題〕はすでに古代の賢者たちによって解決されている。外界との関係を絶つ――これが自由の条件だ。問題は、物質(マテリア)(外的世界)に関してだけで、あとはそれにどう魂を入れて自由なものにするかである。マテリアルな問題を恐れているのは単独者であって、みながひとつになれば、怖くはないし問題も生じない。つまりマテリアルな問題は人間関係に帰するのだ。すべては人間のうちに在る。〔編訳者注――1月12日以前にも同じ趣旨のことを記している〕   

2月11日

    祈り。どの家もまだ寝息を立てている朝まだき、薄闇の空を鳥たちが飛んでゆく。手の指はひとりでに祈るかたちに組まれて、被造物たること永遠なることの喜びが人をしてこの世界の一員たらしめる。
 で、新しいもの、最も偉大な(偉大ですらある)新しいものとは何か? 〈新しい〉とは、古き時代の永遠なるものをさらに深く覗き見ることによってのみ〈新しい〉にすぎない。そのように一日を始めて、わたしは祈る――夕べには自分の仕事に自分自身を発見できますようにと。
 ゴーリキイは情熱的に苦悩と格闘している。まるで何者かの苦悩が存在目的ででもあったかのように。いいや、そうではない。苦が避け難いからなのだ。われわれが苦を受け入れようとするのは、世界をではなく、神を慮(おもんぱか)ってのこと。神への慮りは苦の咎人(とがにん)を見出すが、世界への慮りは咎人そのものをつくり出す。そして苦悩する人間はこう告白する――悪いのは自分だと。だが、苦は避けられない!

ゴーリキイとの出会いは、彼がプリーシヴィンの初期作品『黒いアラブ人』『鳥の墓』(1910)を絶賛したのがきっかけ。手紙はよくやりとりしたが、じかに会って話したことはさほど多くない。「今でも憶えているが、のちにマクシム・ゴーリキイに自分の文学生活の初めのころ〔苦しかったペテルブルグ時代〕の話をしたとき、彼はこう言った――『そりゃ生活(ジーズニ)じゃない、聖者の暮らし(ジチエー)というものだ』。しかし、それは真実でない。ジチエーは苦であるのに、わたしはそれでも幸せだったし、文学というすこぶるつきの職業が限りない自由への道をひらいてくれたという思いに、しんそこ魅せられていたわけだから」(「ひかりの都」『プリーシヴィンの森の手帖』所収・成文社)

 経済とは現代の商取引であり、貴族はその商人(あきんど)である。
 未来の建設を可能ならしめるには、その土地の暮らしを研究せねば。古臭く有害なものをいかに何を用いて改良するか、また新しいものがどこからどのようにして現われるか、を。
 戦時における創造的かつ建設的な労働(《花咲く庭》)に繰り込まれ表現された国民の労働の総計が、あり得べき幸福のあり得べからざる展望を明らかにする。死と破壊は今や人間の心にひたすら地上の幸福を願うさまざまな勢力を産みつつある。
 この戦争の最後に出現するのは、ひょっとすると、地上の宗教のようなものであるかもしれない。たしかに人間は、ここのこの地上の生きものにちがいないのだから!

 過去。何もかもが完全に過ぎ去った――もう二度と会いたくないと思うまでに。もともと無理なのだ。彼女としては〈結婚はなし!〉、ただそれだけ。詩人は結婚できても、ポエジーが夫婦生活を始めないのだ。

ワルワーラ・イズマルコーワがいきなり出てくる!

   いい給料を貰っている組織化されたロシアと、組織化されない〔ローマの〕剣闘士のような奴隷たちのロシア。地方自治体および都市の団結、それといつもながらの村落ルーシ。わが国経済、銃後のこの暮らしの絵がいかに困難であろうと、この困難の中で……もがいているのはわれわれではない、ドイツ人たちのほうがよほど苦しいはずである。この暮らしの意味は、愚痴らず、不満を漏らさず、人間(剣闘士)たちを〔国家に〕捧げる能力にある。そこから意味がかたちづくられ、敵へ返す言葉も生まれてくるのだ。数では負けない! われわれにはあらゆる苦難に最後まで耐える覚悟がある!

 ある声。われわれは、神人=キリストの体をばらばらにしてしまった。〈神〉を取ったのは僧侶たち。〈人〉は社会主義者たちが取った。素朴な民衆が宗教と袂を分かつのは、なんと簡単なことか!
 民衆から借り受けた、言うならば〈賃借された宗教〉、それがもう不要になったのである。社会の上層が自分たちの新たな関心を民衆宗教に向けた時代。それで、いつ民衆は心安く値も安くそれを賃貸ししてくれるのか?
 自分はよく知っているが――銅貨で教育を受けた〔貧乏のためろくな教育を受けなかったの意〕おばさん〔作家自身の母のマリヤ・イワーノヴナのこと、息子はときどき彼女を〈おばさん〉とか〈侯爵夫人〉などと呼ぶ〕は、75の歳までずっと進歩(プログレス)を信じていた。彼女はその進歩に対する信仰ゆえに、古儀式派の父祖たちに背いた〔母方のイグナートフ家は代々分離派=ラスコーリニキ〕。そして老境に至って、自らのナイーヴな信仰ゆえに、累々たる屍の山を目のあたりにし、「この信仰に神はおられるのか?」という問題に絶えず悩まされているのである。

 戦争で決してヒトはヒトを殺さない。兜や軍服を狙うだけで、戦争に罪人は存在しない。
 年寄り連は気力体力衰え、自分の息子のことで悩み(ロシアは粉砕された容器だ、などと)、〈内〉に不満をぶつけている。国が牛を高値で買い付けると、こんなことまで言い出した――「政府はドイツのために牛の買占めをやってんだ(本当はな、ドイツの奴らが買占めてんだよ。あいつら、こっちの秘密なんかなんでも知ってるんだぞ)」
 自分は、地上の暮らし、地上の住人、定住生活者である。だから、いつもこう考えている――定住生活に侘しさはつきものだが、それでもやはり愉しい。ここに都市生活者が――労働者あるいは職工がいる。暮らしぶりはまずまずだが、でも何かが、何か大事なものが欠けている。それは何か? 土地を持たぬ人間の、拠って立つところのもの。空飛ぶ鳥と同じだ!
 時は過ぎる、取り返しがきかない。自分はもう4度の戦争を生きている。物価はずっと低く抑えられてきたが、近ごろまた高騰しだした(それで物資はみなドイツへ流れていくなどと囁かれている)。
 「われわれロシア人は、ドイツ人や他の民族のように、他人の稼ぎで暮らすことを良しとしない……」。(産業とは他人の金で暮らすこと)
 ポーランドとガリツィアでは足踏み状態だ。じつにやるせない。君主(ゴスダーリ)がすぐにも〔軍を〕進めたら……  

 なんにせよ銃後には、空気を読みながら、ああでもないこうでもないと考えるだけの余裕がある……

 以前は、若者たちを満載した輸送隊だったが、このごろ通過するのは女と年寄りばかり――返品された不良品のような。
 年配者は、なぜ自軍が足踏みしているのか、戦争はいつ終わるのか(肝腎なのはそのこと)を知りたがっている。ある者はこの戦争がフェアであるかを問い、ある者は塩漬け胡瓜を積んだ貨車の到着を訊きにやってくる。また、以前の戦争ではいつも物価はずっと低かったのに、どうして今はこんなに高いのか――これはドイツの奴らが、わが国を迂回してスウェーデン経由で運び込んでいるためではないか。わが国の物資を密かに買い占めているからにちがいない……

 こうしたやりとりから、わたしは確信した――重苦しい現状と先の見えない未来に悶々としている人たちの士気を鼓舞しなければならないと。彼らは負傷兵の話を疑ってかかっている(亡くなったとされた兵士がじつは捕虜になっていた)。目撃者が――しっかりと証言してくれる第三者がぜひとも必要だ(傷病者の目にはすべてが最悪の状態に映っているから、彼らの話を聞くと、限りなく士気は低下する)。  ピーテル〔ペテルブルグ〕の空気と赤十字社員のそれの、なんという落差。赤十字社員がもたらすものは、銃後では夢にも見ないぜんぜん別の士気である。
 士気を高めて敵を打ち砕かなければ。

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