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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 12 . 26 up
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 新年の第2日に徴兵があった。通りは呻き声、泣き喚き、罵声が飛び交う。女たちは泣きながら、酔っぱらいみたいによろけて、雪の中に倒れ込む。徴兵された男は、女たちを避けて橇に乗り込むのだが、その身のこなし、すでに未来の戦士である! 女たちを遠ざけることで特別の存在となり、あっぱれ陣地で変身を遂げるのだ。

 向かいの家のペチカを、わたしはずいぶん愛していたのだが、朝早く(5時前後?)目が覚めたら、時計の針はやっぱり止まったままである。サモワールの用意をと思ったが、壁を叩いたものか(わからない)、ひょっとしたら、早すぎて、この家主の一家はまだ夢の中かも。いつもは窓から向かいの家のペチカの火が見えるのだが、徴兵騒ぎから3日も経っているのに、ペチカは焚かれず、明かりといえば燈明ばかりである。

 人間に鉄の箍(たが)。生きている二人、うち一人が箍になる〔ここでは徴兵の苛酷さ〕。どっちがいいのだろう? 箍を嵌められるほうか、それとも箍そのものか? さほどに国家の強制は怖いし厭なもの。でも必要であり、死と同様に避けることができない。そうして兵士の数は増えてゆく。それは人間を喰らう巨大な怪物だ。命あるかぎり生長し続ける。地図を見れば、忽ち食欲が湧いてきて、どうしてもダーダネルスを獲得せねばと思ってしまうのだ。

ダーダネルス海峡――中央ヨーロッパ列強側(独墺軍)についたトルコによりダーダネルス海峡が占拠されて、ロシア帝国は世界市場から締め出された。過去一世紀にわたってロシアとイギリスによって交互に保護されたり嚇かされたりしてきたトルコ(大仰に言えばオスマン帝国)は、今やこの両国を一度に撃破したい誘惑に駆られたのだ。トルコは露軍攻撃のためまず全軍をカフカース地方に、一方でにわか仕立ての軍隊をスエズ運河にも差し向けた。カフカースでの戦いは凄惨をきわめる。補給もままならぬ真冬の戦闘で、数千名のトルコ兵が一夜のうちに凍死した。相対した露軍も烈しく追い詰められて、英軍に救援を要請する。

1月5日

 何とかいうアメリカ人の研究者の報告――ドイツ人、この比類なき民族には祖国(くに、母国、ローヂナ)の感覚が欠如している、と。それが真実なら、わたしには、ドイツ人は自分のローヂナをいつでもどこでも持ち歩いていて、ほかのもの他人のものなぞ眼中になく、おのれをおのれのものと切り離すことなく、したがって鬱状態(トスカー)に陥ることがないように思われる。

トスカー(тоска)――ロシア人たちは昔からこの精神的および肉体上の一種異様な状態を自分らにしかわからないものと思い込んでいるふしがある。「悲哀、憂愁、不安、興奮――こんなものはどれもトスカーという言葉の一部にすぎない。憤怒、胸騒ぎ、絶望、恨み、煩悩――これにそっくりの症状ならまだまだいくらでも数え上げられるが、しかしトスカーそのものは、否定的感情の総和よりさらに大きな何か、まったく異なる何かなのである……というわけで、ロシア人自身、この悪魔の誘惑にも似た不思議な現象がなかなかうまく定義できなくなってしまう」(カザケーヴィチ『落日礼讃』太田正一訳・群像社)。プーシキン、ゴーゴリ、レールモントフ、トゥルゲーネフ、ドストエーフスキイ、トルストイ――まるでロシア文学はこのロシア生まれのトスカーの観察記録のようではないか。チェーホフ医師の小品はそのものずばり『トスカー(邦題「ふさぎの虫)」である。  

 戦争は世の中に意味ある〔本質的な〕ものをもたらすのか、わたしにはわからない。ただロシアにとって戦争はまったく新しい生活の稜線(グラニ)となるかも。

 新聞にこんな記事――この戦争で明らかになった最も興味深い現象の一つは、国家権力、つまり支配勢力に対する民族の、たとえばイギリス人への回教徒の、またオーストリア人その他へのトランシルヴァニア人、ルーマニア人の、敵意むき出しの忍従ぶりである、と。 こうした現象は、今日の生活において、民族的宗教的ファクターに対する経済的ファクターの圧倒的な意味、重要性の結果であるのかも。

 ニコライ神父〔故郷エレーツ市の神父〕と輔祭。本物のドン・キホーテであるニコライ神父は物質的(マテリアル)なもの一切を拒み、そのためそれらをみな輔祭がせしめた。教団に残ったのは、どうやら製粉所だけのよう。輔祭は粉屋になるらしい。〈神父さまはお弱い(バーチュシカ・スラープ)〉は決まり文句だ。 

 1月12日から31日までペテルブルグに。原稿の整理と戦地への出立準備。
 記憶に残ったこと――ソログープのところでヨーロッパ問題を侃侃諤諤(かんかんがくがく)。アンドレーエフとゴーリキイに会った。ソログープの家にはブローク**も顔を出した。ユダヤ人攻撃。ペトロフ=ヴォートキン***、チュコーフスキイ****、カルタショーフ〔前出、(三)*5〕。

レオニード・アンドレーエフ(1871-1919)――小説化・劇作家。性、恐怖、死をテーマにした病的で幻想的な作品で一世を風靡。十月革命に反対し亡命。代表作に『七死刑囚物語』。

**アレクサンドル・ブローク(1880-1921)――シンボリスト詩人。メレシコーフスキイ、ギッピウスの雑誌「新しい道」でデヴュー。ウラヂーミル・ソロヴィヨーフの神秘主義の影響を受ける。革命を肯定。代表作『十二』『スキタイ人』。プリーシヴィンとの論争あり。革命後、プリーシヴィンの初恋の人、ワルワーラ・イズマルコーワがブロークのもとで仕事をしていたことがある。作家自身はそれを知っていたかどうかは詳らかでない。

***クジマ・ぺトロフ=ヴォートキン(1878-1939)――画家。リズミカルでコンパクトな構成と開放的な鮮やかな色彩が特徴。代表作に『アンナ・アフマートワの肖像』『赤馬の水浴び』。

****コルネイ・チュコーフスキイ(1882-1969)――ソヴェートの詩人・批評家・児童文学者。ペテルブルグ大学卒。早くから前衛的な文学運動に参加、新聞・雑誌を編集。評論集『チェーホフから現代まで』(1908)、『未来の民主主義詩人ウォルト・ホイットマン』(1914)などの評論集を刊行、児童向け物語詩『ワニ』(1916)、子どもの言語感覚を分析した『2歳から5歳まで』(1928)は有名。文学研究書に『ネクラーソフの手法』(1952)など。晩年は多くの回想記を。長男は作家のニコライ・チュコーフスキイ(1904-65)、長女のリーヂヤ・チュコーフスカヤ(1907-95)も作家――中編『ソフィヤ・ペトローヴナ』、『廃屋』(邦訳あり)などのほかに、詩人のアフマートワやツヴェターエワを語った回想記、日記、父との往復書簡。

 

 「ロシア通報」紙の特派記者としてカルパチアへ向かうことになった。
 今回は次なる作品のための資料収集ではない。直接現地から記事を書き送るので、これまでとはぜんぜん違う性格のものになる。
 もう文学の旅とは縁切りだ。 

 レールモントフの『仮面舞踏会』は失敗したデーモンの体現化。このデモーニッシュな感情は、俗悪なおのれ自身の存在を罰する必要から生まれたものだ。俗悪への解毒剤(similia similibus…)〔ラテン語の〈毒を以って毒を制す〉の中途半端な記述〕を見つけること。〈俗悪〉の死刑執行人への愛が悪魔主義(デモニズム)を生みだすのだが、もちろんそのとき、最もデリケート(繊細にして明敏)な美との接触が生ずるにちがいない。

 チュコーフスキイ(コルネイ・イワーノヴィチ)は才能ある不運な男だ。

 ソログープのサロンは俗悪の権化。音声再生と共鳴装置付きの、常に論理的な死の仮面……博すること、人気取り……(ゴーリキイ、ラズームニク、それとだらしない裸女)。
 ブーニン――ペテルブルグの官僚を真似た地方官吏といったところ(マナーも話っぷりも)。
 カルタショーフは自分の正義感の中にどんどんはまり込んでいく。
 フィローソフォフ**は暖かいジャケツにご執心である。ブロークは常に上品。

イワン・ブーニン(1870-1953)――作家・詩人。ヴォローネシの没落貴族の子。エレーツ高等中学を15歳で自主退学。同校を退学させられたプリーシヴィンの数年先輩にあたる。『落葉』(1901)でプーシキン賞。ゴーリキイと知り合い、〈水曜会〉に参加。代表作に『村』(10)、『サンフランシスコから来た紳士』(15)。1920年にフランスへ亡命し、『ミーチャの恋』を発表。1930年、ロシア人初のノーベル文学賞を受賞。

**ドミートリイ・フィローソフォフ(1872-1940)――社会政治評論家。ロシアの古い貴族の生まれで、父は政府高官、軍法会議の長を務めた。〈天才を発見する天才〉と評された興行師(パリでロシア・バレー団を結成)セルゲイ・ヂャーギレフは母方のいとこにあたる。

戦地報道の日記

 わたしのある知り合いが戦争とお産を比べて論じた……行く必要もない余所者が戦場に出向くのは恥ずかしいことだ、と。見事な比較ではないか。わたしは戦争を見てきた。そして、人間を丸ごと呑み込む生と死の問題を、その認識を、わたしはまさに(出産の)現場で得たのである。
 戦地から戻ったわたしは、しばらく、銃後の人たちとうまくいかなかった。どうでもいいようなことばかり議論し合ってるようだった。彼らの前には帳(とばり)が降りていて、こちらはちらと覗き見するだけだった。

 村では、初めのうちこそ緊張して仕事もはかどったが、そのうち不活発になり気持ちがしぼんで、とうとう怠惰と鬱がやってきた。どん詰まりの状態がやってきたのだ。もうどうにもならなくなったところで、ふいと新生活が始まったのである。それは自分本来の素晴らしい生活……あの空虚あの病的な時期は、たしかに町でも旅の途中でもあったわけだが……(グリーシャ〔ペテルブルグのホテルの玄関番。同郷人〕などは、おそらくいつでもそういう状態でいるのだろう……とはいえ、そんなからっぽのどん底から、動物的本能の世界は始まるのである。そういうわけで、グリーシャのような人間の内部では、たいていペシミズムと楽天主義ががっちりひとつに噛み合っているし、そこへ外的自由やらお金やらが投げ込まれたら、当然〈デモーニッシュな〉生きものが出来上がってしまう)。

 自由の意味を知る者は古代の賢者たち。外界と関係を絶つことが自由の条件なのだ。問題はマテリア(外の世界)にのみある――それをどう崇高な精神で満たすか自由にするか、である。物質的(マテリアル)な問題を恐ろしく感ずるのは独りであるときだけ、みなが結束すれば怖くないし、まったく問題はない。つまり物質的問題とはヒトとヒトとの関係、これに帰する。すべては人間のうちに在る。  

1月12日

 若いカップルが歩いている。とうの昔に消えてしまった光景と思われたが、現にこうして歩いている――あまりにあっけらかんとしているので、ずっとそうだったような気がしてくる。自分個人の幸福で世界を幸福にする、永遠の、無鉄砲な試み。

1月22日

 家庭のことで大いに苦しんでいる――堪らないほど。マルーハ〔情人、または仲を裂く人の意、1914年2月10日に、セラフィーマ・パーヴロヴナに関してこの言葉が使われている〕の出現の可能性。もしマルーハが現われたら、すべては終わる。しかし、マルーハは現われない。したがって、生活そのものは、どっかこそこそした、仮の、偶然のようなものになる。それで、この偶然の玩具みたいなやつが唯一最高の、つまり自分の権利を主張する。それは他者の権利への侵害。侵せば自分自身を卑しめることになる。頭の中はいよいよ宿無しと「杖ついた」孤独な漂泊人生ばかり(漂泊は最後の最後)。 

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