成文社 / バックナンバー

プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 12 . 05 up
(三十四)写真はクリックで拡大されます

編訳者の参考メモ(つづき)――東方のユダヤ人

 1880年代初頭、全世界のユダヤ人人口は約750万人。ヨーロッパのユダヤ人は700万人で、うち400万人(つまり半分以上)がロシア帝国内に居住し、商工業の中心である都市部に集中。ワルシャワ(ロシア領ポーランド王国)に約12万5000人。一般に東欧のユダヤ人は西欧のユダヤ人に比べて貧しく、ごく少数の資本家・インテリをのぞけば、大多数は極貧状態だった。
 アレクサンドル三世の反動政治。その助言者にスラヴ主義者で宗務院長のポベドノースツェフ(1827-1907)。彼の提案――「ユダヤ人の3分の1は他国へ移住させ、3分の1は餓死させ、残り3分の1は改宗させる」。ユダヤ人への差別法として悪名高い〈五月法〉――「たとえ居留地区内であっても、ユダヤ人はいっさいの村落・農村から追放されなくてはならない」を制定。これは革命に走るユダヤ人への威嚇でもあった。  1881年の南ロシア(キーエフやオデッサ)でのポグロームは〈南部の暴風〉と呼ばれ、これがパレスチナの地にユダヤ人の国家を建設する運動、すなわちユダヤ民族主義、シオニズムの発生を促すきっかけに。ポーランドでもユダヤ人の北米、パレスチナその他へ移住が急増した。ロシア領ポーランド王国の「無慈悲な迫害者」として悪名をとどろかしたポーランド総督フルコ(在職1883-94)およびワルシャワ地区監督官アプーフチン(在職1879-97)。文化や教育が大弾圧を受けた時期を〈アプーフチンの夜〉と称した。

 革命運動の進展。アレクサンドル・ウリヤーノフ〔レーニンの実兄〕らの処刑。1898年、ロシア社会民主労働党、1901年、社会革命党(エスエル)の結成。1903年、社会民主労働党の分裂(ボリシェヴィキとメンシェヴィキ)。1905年の第一次革命後に、有産階級のリベラル派が議会制度確立を主張して、立憲民主党(カデット)を結成。1905年〔日露戦争〕以後、ポーランド語による授業の復活運動(反ロシア運動)、親日ユダヤ人の援助(戦費外債)。
 ユダヤ人たちによる社会主義運動は、シオニズムの運動と並行して、1890年代から盛んになった。1897年、ヴィルノ(リトアニア)で社会主義政党「ブンド(同盟)=リトアニア・ポーランド・ロシア全ユダヤ人労働者総同盟」を旗揚げ、労働組合闘争と対専制政治闘争へ。  第一次革命期のポグロームは、国民の関心を革命よりもユダヤ人に向けさせる政府の画策。首相ストルィピン(1862-1911)の国会解散。反動政治の断行と並行して、農村共同体(ミール)の解体、共有地の廃止によって自作農を創設する改革も。だが、この改革で農民の貧困化と社会不安は増大し、 工業労働者のストライキ、農民一揆が頻発する。
 第一次大戦への参戦。戦争の長期化、食糧不足、経済生活の逼迫と社会矛盾の尖鋭化。二月革命から十月革命へ。革命時にも内戦時にもポグロームは発生、その規模も拡大した。主な加害者は、白軍・ウクライナ軍・赤軍・匪賊および農民。
 ロシア革命によって帝政期の反ユダヤ法は廃止、居住制限も撤廃されて、ユダヤ人は自由になったが、アンチセミチズム(反ユダヤ主義)が消滅することはなく、ソヴェート政権もそれを利用した。ソヴェート体制崩壊後も、反ユダヤ主義の感情は厳然として存在する。

10月9日(つづき)

 きのうまで誰まごうことなきロシア人であった司祭がきょうはもうガリツィアの大学教授です、と〔中学生に〕陰口を叩かれている当の教授が、ナロードニキ系の政党によく似たある社会主義政党の話をしてくれたのだが、わたしにはそれがとても面白かった。その党は戦前から少しずつ〔ポジションを〕変えてきたのに、ついに譲歩・撤退が避けがたいものになったという。
 数十露里先で砲声が轟き、停車場には今では知らぬ者のいないサン川の川幅より数倍も広い人間(ぴったり体を寄せ合ってる負傷兵)の川ができているときに、「面白かった」は不謹慎の謗(そし)りを免れないが。
 教授はあのジェズイットがバ〔ジリアン〕僧団を取り込んだあたりから始めたらしく、話の最後を「自分の妻はモスクワ人云々」で締めくくった。モスクワ生まれの女と結婚しているという、最も平凡な(おそらく)事件が史的事実となるとき、どうして人生面白くないことがあろう。モスクワ生まれの女房のせいで、危うくオーストリアの異端審問の餌食にされるところだったのだから。

17世紀以来、ポーランド、のちガリツィアにあった聖大ワシーリイ・グレコ=ウニア修道士団。17世紀100年にわたってこの僧団に送り込まれたジェズイット教団(イエズス会)によるカトリック化政策(東方独自の儀式典礼その他の漸進的消滅)のこと。

 戦争が始まる2年ほど前、すでに教授は(戦争ありと)予感していた。必要欠くべからざる日用雑貨の流れがぱたりと止んで、なぜか野良犬の数が増えてきた。ふとサライェヴォの殺人がロシア人の仕業のように思えてくる。悪の糾明、捜査、それとあのロシア軍のリヴォーフ進駐まで続けられた政府の作り話。そうしたこと一切をありありと心に思い浮かべるのは非常に興味深い。
 教授には、毎朝〔誰もいないときに〕博物館で仕事をするという習慣があった。今では妻と2人で散歩をするし、女中がいなくなったので、自分でバザールへ行くようになった。勝利よ、おお歓びよ! ガリツィアにモスカーリなんかひとりもいなくなるだろう……ところが、(三語判読不能)何もかもが混乱を〔きたして〕、その混乱ぶりは「神のみぞ知る」だが、にもかかわらず、この有頂天!
 逮捕、捜査が始まって……博士の会話はドイツ語だけになった。疑わしき人物になったからである。捜査が〔直接個人への〕脅迫に。縛り首だ、やれ銃殺だ。聖職者が300人吊るされた。銃殺、銃殺、銃殺。妻はモスクワ生まれなのです……耳元で囁くように言うのだが、そんなことは(その筋どころか)もう誰でも知っている。高等中学の学生は蔵書を火中に投じた。ロシア語の使用禁止。まさにそんなとき戦争が勃発したのである! 一つ目伝説だって? われわれのような人間がなんでまた? 甦る伝説――「モスカーリは一つ目だ、おまけに尻尾までついてるんだぞ!」

大ロシア人=モスクワ人、すなわち帝国ロシアの人びとに対する蔑称。ロシア語のмоскальには否定的なコノテーション(言外の意味)、また皮肉や冗談のニュアンスあり。文書資料に出てくるのは17世紀から。18、19世紀に、とくに白ロシア(東部)人やウクライナ人がロシア帝国の軍人、兵士、役人をこう呼んだ。ウクライナ語ではモスカリ、白ロシア語ではマスカリ、ポーランド人はモスカル。

 要するに、ロシア語を話す聖職者の言葉だ(それ自体が犯罪!)ということ。聖職者と〔敵〕は同類。税の取立て。  

10月18日

 土曜朝8時、ヤロスラーフ〔サン川沿いの町〕の正面陣地からリヴォーフへ戻る。12日にリヴォーフを出発、夜8時に駅着、構内に深夜の2時までいた。ロプーヒン〔ロシア赤十字社員〕は必死で自分の車輌を捜している。こちらはその間ずっと負傷兵たちに包帯を巻く作業を眺めていた。ソペーシコ教授〔医学部教授〕はちょっとしたアーティストである。マゼッパ似の、ふっくらした初老の紳士、生一本の男。足を負傷した若い将校に看護婦が靴下を履かせようとしているが、なかなか巧くいかない。見ていた教授が冗談を言う――『どうやら亭主持ちじゃないようだ』
 兵士の大きな松葉杖。教授自ら鋸を引き、自ら歩いて確かめる。それを見て、みなが笑う。なかなか愉快な男なり。重傷を負った兵士がわたしを呼びとめた。胸部貫通銃創。ダムダム弾で片肺が飛び出しているのに、ただじっと何かを見ている。もう一人は担架に横たわったまま空中の何かを捕らえようとしている。さらにもう一人、恐ろしいまでに顔が変形した男は、歪んだ口でしきりに何か話そうとするが、獣みたいに吼えるばかりである。そのとき思った――いずれ自分はもっと凄まじい地獄を見て、もっともっとひどいショックを受けるだろう、と。「戦争」に近づきすぎた。近づきすぎて、もう何も怖くない。それでも、なんだか嵐の海で船酔いの恐怖と戦いながら、無我夢中で甲板を歩きまわってるような感じがしている。われわれ五体満足な者と傷ついた者とをはっきりと隔てているのが何かと言えば、後者にはどこか生きいきした官能的なもの、出産を終えたばかりの女性が感ずるような、これぞわが身体といった「感覚」があることではないだろうか。包帯をぐるぐる巻かれて、それまで味わった苦痛がすべて去ってしまうと、一転して今度は白い布でぐるぐる巻きの新生児のごとく、白い大きな外的物体と化すのである。

 

 だが、教授は、新生児たちへの対応で、こちらの平静な観察を台無しにしてくれた。負傷者の大半が〈パーリチキ〉であると言い張ったのだ。パーリチキ? いったい何ですか、それは? どうやらこれまでなかったタイプの戦争の悪夢らしい。敵の弾丸から遁れるために、兵士が自分で自分を(とくに指を〔パーリチキは指の意〕)撃つのだという。恐ろしいのは自傷行為そのものではなく、それが事実かどうか疑うことなのだ。もしそれが真実でなかったら、どうするのか? しかし、〈パーリチキ〉の伝説は、たとえそれが真実であれ作り話であれ、ともかく息づき始めたら、身の置きどころがない。手に包帯を巻いた人間は、まず間違いなく、蔑んだ疑わしい目で見られてしまう――この男は英雄かそれとも犯罪者か?
 「パーリチキです。犯罪者に決まってますよ!」と、ソペーシコ教授。「あの男の目を見たらいい。犯罪者の目ですよ。あなた、馬はお好きですか? 馬の目をじっと見たら、わかります。馬も人も同じ。犯罪人と英雄は紙一重ですからね。戦争なんか始めても、新しいことは何も起こりませんよ」  「新しきもの自ずから明らかなり」です、とわたし。どうやら彼はそれがとても気に入ったようである。
 教授はすでに科学的な正確さでもって自傷行為の研究を進めていた。実験もいろいろ――連日町の外へ出て、そこらに転がっている死体の手を撃っている。手のひらを至近距離から撃つと、ほとんどの負傷兵と同じ星形の銃創と火傷が残る。指骨の損傷も至近距離からしか生じない。自傷行為は増える一方で、今では日に600件も起きている。これは教授の発見だ。ずいぶん嬉しいらしく、第一発見者の喜びを隠しきれない様子だが、同時にそれがもたらす恐ろしい結果――〈パーリチキ〉の銃殺が、心配で堪らない。彼自身が事実(秘密)を洩らすことはない。どの程度の処罰になるかはっきりしないうちは、結果を公(おおやけ)にしないだろう。治療が済んだら兵は前線に戻される。ただそれだけだ。それが人道的で正義にかなっている。なぜなら、〈パーリチキ〉に罪ありとされるのは生存条件の平等性に違反――額に一発と指の骨折では比較にならない――しているからである。教授は自分の〈人間性〉について、なぜか喋り過ぎた。自分が悪いことをしたみたいに釈明までした。そして、自傷行為を非難する者たちに向かって、それじゃ食糧なしの塹壕暮らしを数昼夜やったあとでヒトを裁いたらいいだろう、などと言い出す始末。しかし彼が何を言おうと、パーリチキ伝説はもうわたしの心に深く入り込んでしまっていた。
 「ほれまた負傷兵だ!」と誰かが言う。
 間髪入れずに、わたしが――
 「軽傷者かな?」
 すると返ってくるのは――
 「なに、またパーリチキさ」

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


成文社 / バックナンバー