》成文社 / バックナンバー
プリーシヴィンの日記 太田正一
2010 . 11 . 28 up
(三十三)写真はクリックで拡大されます
10月7日
士官の体は土の匂い。三月(みつき)も戦場で過ごしたのだ。負傷して、オーストリア製の施条銃にすがって歩いている。
将校集会場で、新聞を読み、たっぷりと食事を摂っている。電話もオーケイだ。塹壕。小さい穴まで距離があるから、〔背中を丸めて〕機関銃のタッタッタの下を走り抜ける。塹壕に滑り込めるのは幸運な少数者。そうでなければ、しようがない、後ずさりするしかない。
「怖いものなしだが、機関銃だけはだめだった」
榴散弾は怖くない――自分はずっと離れたところで横になっていた。敗走した部隊は少ない。多いのかもしれないが、あまり見ていない、という。
「負傷者を見かけました?」
「いいや、彼らは後方に残ってる」
「死者は?」
「ちょっとだけ」
概してわたしたちは、死というものを実際よりもずっと多く想像の中で見ている。何といっても凄まじかったのは駅の構内。大変な数の兵士が床に横たわっていた。敷いた外套の上で膝にひっついたガーゼを剥がそうとしている者。担架に横たわったまま、身じろぎもせずもっぱら〈おのれにかまけて〉いる者。ひとり裸の男が立っている。背中に小さな赤い円いもの。腰を下ろす。手をまわしてその赤い傷口をさぐる。そこへ看護婦が小さな四角いものをかぶせる。人間の修理だ。修理されるほうはもっぱら〈おのれの世界に浸って〉いる。円い毛皮帽をかぶったクバーンのカザーク兵。短い革鞭を手に、ひとりの女を突き刺すような目で睨みつけている。誰もがこの男を怖がっている。でも、何事も起こらない。ここでは兵士も将校も一緒である。兵士たちは上官に敬意を払わず、会話もざっくばらんで、至って開放的。騎兵隊も歩兵隊も同じカーキ色。
ミコラーエフでの噂。ユダヤ人の逃亡――奴らは臆病者さ、というまことしやかな風評。駅から撤収すれば必ずや勝利する(らしい)。兵士たちは何も知らないが、勝利を感じている。ユダヤ人は何も知らないが、こう言っている――ロシアは負ける、さあどう逃げようか。
とはいえ、われわれだって、戦場で何度自分たちの運命が崖っぷちに立たされたか、知らないのである。
ミコラーエフから戻ったマクラコーフ*の話――飛行機から爆弾が投下されて、硝化綿(ピロキシリン)の爆発で〔生じた有毒ガスのため〕危うく命を落とすところだった、夕方近くに砲声が止んだ。カルパチア山地に二列の砲火――上が墺軍、下が露軍。昼夜の別なく砲撃が続いていた、と。
*ワシーリイ・アレクセーエヴィチ・マクラコーフ(1869-1957)は、立憲民主党(カデット)の指導者の一人。
夕方。マホルカ、箱……穴、廃墟。ペレムィシ〔プシェミシル?〕。哨兵の誰何(すいか)があった。味方だ味方だ! 自動車からのサーチライト。右に行け! だが、ルシーン人は左に寄る。ここでは左側通行が原則。どうしてまた? 道路はいよいよ穴だらけ。すべて塹壕だ。露軍と墺軍、塹壕が互いに向き合っている。暗くなってきた。どうしてまたそんな恰好になったのか? 自軍が追い立てて、それで塹壕が入れ替ったのだ。目を凝らす――ロシア側の塹壕にはマホルカ、オーストリア側の塹壕には缶詰。闇が迫ってくる。しかし塹壕は途切れない。天の川が現われた。大熊座、そのまわりを……
「あれは何だろう? 彗星?」
上級監督官が(一語判読不能)した仕官に訊いている。
「彗星です。ああ、ほら、やっぱり彗星だ。(一語判読不能)でも何度か見たことがあります」
穴が途切れた……もう無い。爆裂音。右前方で戦闘再開。彗星も同じく右。戦場は右前方だ。
小さな十字架、四角い土地、ぼろぼろの土。わたしたちは血を、馬みたいに、動物みたいに、横目でちらり。
〔遠くに、〕贅を凝らした(一語判読不能)の庭園。リヴォーフはおとぎの国の兵隊の町……夜更けて(一語判読不能)泊まり。夜のリヴォーフ。金満家が現われた。リヴォーフで出会った最初のロシア人である。眠れる無人の町。廃墟に焚火。贅沢な寝床で眠る。薪もがなく、かなりの寒さだが、暖かい毛布の下はいいものだ。
深夜になって、士官が従卒を連れて戻った。壁の向こうで話し声がする。
各自勝手に喋っている――ロシア語が聞こえてくると、キーエフにでもいるような、ポーランド語だとワルシャワに、ドイツ語だとライプツィヒにでもいるような気がしてくる。
グゥツール〔カルパチア山地のウクライナ人〕の挨拶――何事もありませんように(ミーラム・ミール・ヴァーム)!
10月9日
ガリツィアへ――先ごろ戦場だったところ。近づくにつれて、次第に妙な気持ちになっていった。そこでの戦闘について聞かされたとき、わたしはなぜか家のこと故国のことをこまごまと異常なほど詳細に思い出したのだった。それで、家や故国のことに対しても今度の戦闘に対しても、空中偵察の高みからの、いわば鳥瞰的な新しい視点が出来上がった。
おととい、ポーランドの中学生が話してくれた――きのうまで誰まごうことなきロシア人であった司祭が、きょうはもうガリツィアの大学教授です、と。それを聞いて、わたしの脳裡に、異端審問時代の完全なイメージが。もちろん、昔のあの恐ろしいほど念の入った拷問というのはないのだが、代わりに民族〔国家〕主義的抑圧による尊厳(人間の尊厳)の蹂躙は度はずれたものになっている。
編訳者の参考メモ(4)――東方のユダヤ人
〈キリストを認めず殺した民族〉―キリスト教会史の父エウセビオス、神学者アウグスティヌス(4世紀)が貼り付けたレッテル(神学上の)。
聖地回復に名を借りた十字軍。ユダヤ人の法律的諸権利の剥奪・職業制限(社会生活上の)。
〈妄想による恐怖のユダヤ人像〉――ルターの「ユダヤ人の強制収容」「タルムードの没収」「ラビによる教育の禁止」「旅行と金融業の禁止」「追放」「強制労働」。
〈歴史上のさまざまな反ユダヤ主義〉―誹謗中傷(血の儀式殺人、聖パン冒瀆)・追放・虐殺・隔離(ゲットー)、また事件発生時や疫病蔓延時におけるスケープゴート、フラストレーションの捌け口。
〈ナチによる殲滅作戦〉――亜人間。
ダヴィデの星は8世紀にさかのぼる。
紀元70年、ローマ帝国の軍隊がイェルサレムの神殿を破壊。ユダヤ人のディアスポラいよいよ増大。離散の流れ――セファルディ系(セファルディーム。メソポタミヤ、エジプトから北アフリカを経由してイベリヤ半島、とくにスペインへ。ラディノ語)と、アシュケナージ系(アシュケナジーム。トルコ、ギリシア、イタリアを経由して中欧へ。主要目的地はドイツ。イーディッシュ語)のほかにタット語(カスピ海沿岸)。
東欧にはすでに13世紀から居住している。15世紀、多くのユダヤ人が迫害を逃れて、中欧から東欧へ移住。アシュケナージ系の中心がポーランドに移り、のちウクライナへも。
17、8世紀、カザークによるユダヤ人迫害――1648年、ボグダン・フメリニーツキイ率いるカザークの反乱、ウクライナで発生。ポーランドの支配階級(カトリック)に圧迫されていた正教のカザークの反乱だったが、そのとばっちりはユダヤ人に―300のカハル(ユダヤ人の自治社会)が破壊され、10万人が殺された。
ハシディズム(敬虔主義的な宗教革新運動。その運動家をハシド)、18世紀ポーランドのユダヤ人のあいだに広まる。ぺダンティックな雰囲気や重箱の隙をつつくような字義解釈を廃し、祈りを通して神に近づき救済を求めようとする。歌や踊りを盛んにして共同体のつながりを強めた。始祖であるイスラエル・ベン・エリエゼル(1700-1760)の集団セクトが東欧に広がり、伝統的ユダヤ教と対立するが、次第に受け入れられていく。
フランス革命以後、西洋のユダヤ人はキリスト教を受容し同化されていく。
18世紀末にベルリンで起こったハスカラ(啓蒙運動)が東欧にまで拡大、カトリックに改宗するユダヤ人も出てくるが、大半の東方ユダヤ人はハシディムの影響から同化を拒否。ちなみに、ハスカラの創始者はモーゼス・メンデルスゾーン、作曲家フェリックスの祖父である。
ポーランドはモンゴル軍の侵入(13世紀半ば)を受けて一時荒廃するが、その後次第に国力を回復、14世紀後半には、西欧で迫害されていたユダヤ人に対して保護政策をとる。当時の諷刺詩に、「17世紀までのポーランドは〈ユダヤ人の天国〉」である、と。
16世紀、ポーランドは勢力を伸張、リトアニア大公国を事実上併合して、バルト海から現在のベラルーシ、ウクライナの大部分を版図とするヨーロッパの大国に! ルネッサンス文化、ポーランドの〈黄金の世紀〉、コペルニクス。
17世紀半ば、ウクライナ・カザークの侵入。ロシア、スウェーデンとの戦争。国土は荒廃し、ペストの流行で全人口の3分の1以上を失った。
18世紀のポーランドは衰退の一途をたどる。3度の分割―第一次分割(1772)はロシア・プロイセン・オーストリアにより、第二次分割(1793)はロシア・プロイセンによる。1794年、タデウシュ・コシチュシュコ(1746-1817)が蜂起軍を組織して決起、しかし8ヵ月後に鎮圧された。ロシア・プロイセン・オーストリアによる第三次分割(1795)で、国家としてのポーランドは消滅! ユダヤ人のセンターがロシア帝国へ。ロシア文化への〈同化政策〉が開始されたが、1772年の分割以後の半世紀をユダヤ人はさほど干渉を受けずに伝統的な生活を送る。
1790〜91年のポーランドの人口は900万人強。うちユダヤ人が10%(約90万人)。ポーランド併合以前、ロシア帝国内にユダヤ人はほとんどいなかった。
エカチェリーナ二世、ユダヤ人居住区(черта оседлости)を限定。例外は第一ギルド商人および手工業者、職人など。限定居住区は1791年から1917年まで存続した。アレクサンドル一世によるユダヤ人の同化策。
祖国再興のため、ポーランド軍団が各国に出現。ナポレオンのフランス軍と合流し、共にオーストリア、プロイセンと戦う。1807年、ナポレオンがプロイセン領ポーランドへ侵攻、2年後にはオーストリア領ポーランドの一部が加わって「ワルシャワ公国」が。ワルシャワ公国は紛れもないポーランド人の国家となるはずだったが、結果としてそれはナポレオンのフランスが東欧に進出する一拠点であるにすぎなかった。英雄コシチューシュコはナポレオンを信用せず、自力による独立を考えていた。1812年、60万のナポレオン軍と10万のポーランド兵(最前線で戦った)によるモスクワ遠征。敗走。帰国できたポーランド兵、おおよそ2万。
1814〜15年、ウィーン会議。ナポレオン没落後、戦勝四強国(ロシア・プロイセン・オーストリア・イギリス)の〈会議は踊る、されど進まず〉。ポーランドはウィーン会議により再分割(第四次分割)。一部がプロイセンとオーストリア領に、クラクフ周辺は「クラクフ共和国(または会議王国)」に、残りの約8割がロシア皇帝を国王とする「ポーランド王国(または会議王国)」に!
ニコライ一世、ユダヤ人を強制的にロシア正教に改宗させようとして失敗。アレクサンドル二世、自由主義的な同化策を推し進めるも、1863年、ポーランドに大反乱勃発、これは革命的な農民の反乱。鎮圧されたが、翌年ロシア帝国は農奴的支配(農奴制)を廃止。以後、政策を変更して、少数民族(ユダヤ人)の差別を強化する。
国内市場は狭く、資本主義の発展も遅れている帝国ロシア。1880年代から90年代にかけて、ようやく外国資本の導入が起こって、鉄道建設などを推進。労働者階級の形成。1872年、バクーニンのアナーキスト党、74年、ナロードニキ運動。79年、ナロードニキ分裂、〈人民の意志党〉の結成。81年3月、人民の意志党員によるアレクサンドル二世の暗殺(ユダヤ人女性を含むポーランド人ナロードニキによる)! 1ヵ月後、ウクライナでユダヤ人へのポグローム(集団的暴行や虐殺)起こる。(この稿つづく)
text - 太田正一 //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk
》成文社 / バックナンバー