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プリーシヴィンの日記 太田正一
2010 . 11 . 21 up
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10月5日
ポーランド人に教会の場所をたずねた。
「ほら、そこ。ロシアの教会ですよ」
「あれかな?」
今度はロシア兵に訊く。
「あれがそう? ロシアの教会だろうか?」
「いや、違うね。あれはロシアの教会じゃない」
東方帰一教会(ウニアト)のプレオブラジェーニエ教会をさがしていると、カトリックの教会にぶつかった。その先にまたカトリックの教会、さらにまた同じ教会が……そしてついに唯一の正教、ウスペーンスキイ寺院に辿り着く。輔祭、法衣。イコンの後光。
ウニアト教会には、カトリックから正教までの多彩な、変化に富む内陣、舞台装置、それと雰囲気がある。シェプチーツキイ*のカトリック〔教会〕。プレオブラジェーニエの座席と壁。聖幡(せいばん)が壁の低位置に。珍しい天使たちの御姿があり、後方に控える合唱隊は手に手に祈祷書を。法座。真っ赤な帽子をかぶった司祭。法王(パパ)のように髭を剃っているが、輔祭のほうはさしずめ歌手のシャリャーピンかソービノフというところ。その輔祭が魂の平安について説教している――さりげなく、賢く、優美に。祈りのことばはウクライナ語。司祭が手を組む。聖歌隊、それに続く信者たちのコーラス。聖餐式。聖餐拝受者の輪。ここへ旧教徒(スタロヴェール)を連れてきたら、どういうことになるか? 怖気をふるうにちがいない! わたしにとって、しかしそれは合同(единение)の可能性の喜び、いやそれ以上、すこぶるつきの美であった。神の僕たち、慰めと喜びを与える儀式――『長寿万歳(ムノーガヤ・レータ)、ロシア皇帝ニコライ・アレクサーンドロヴィチ!』
*アンジェイ〔アンドレイ〕・シェプチーツキイ伯はウニアト教会の長(1865-1944)。後出の「ガリツィアにおけるウニアト教会の府主教」についての注を併せて参照のこと。
リヴォーフ市は戦争のバロメーター。きっと好くない状態が続いたのだ。どの店もお釣りを払ってくれず、小銭ならおたくが政府に要求すりゃあいいだろう、などと宣う。厭な感じ。業突張りの屁理屈だ。品性も何もない。通りは掃除もされずゴミだらけ。町に汚物が溢れだしている。
女が柵を引き抜いた。銃殺だぞと兵士。
「じゃあ撃てば!」
女がやり返す。
銃後のヒーローたち。赤十字社〔ロシアでの創立は1867年〕はボヘミヤン。イリヤー・リヴォーヴィチ〔レフ・トルストイの次男。(三十一)に写真〕、ヂーマ伯、А・スターホヴィチ〔ロシア赤十字社員〕……
旅(つづき)
深く、しっかりした黒土。森。ちゃんとペンキが塗られたガードレール。裂け目どころか罅(ひび)ひとつ見当たらない。なぜだろう? 木のへりを丹念にタールで塗り固めているからだ。
先へ行くほどに冬麦畑が少なくなる。タルノーポリ〔チェルノーポリ〕あたりは芽を出したばかり。黒土、風景は〈波打つロシアの県〉といったところか。戦闘の跡は見当たらないが、タルノーポリの道端に花で飾られた同胞たちの墓があった。どこでだったろう、ひょいと畑に蒸気式の脱穀機。
われらが請負人の親方タイプ――なにせあらゆる言語を知っている。軍隊が通過する大道のごとき人種。ことばの戦争でもある。ことばとことばの交戦だ。そこへいくと、商人(あきんど)などは単なる交通路にすぎない。
路傍。明らかに缶詰とマホルカの箱を運んだと思われる轍(わだち)、それと聖人の立像。像は一体も倒されていない。
タルノーポリ――爆破された兵舎、弾痕。何の変哲もない普通の町だが、こうして通りをぶらつく奇態な人間のかたまりを見ていると、ああ今はどの家もからっぽだな、と。
ペストから来た婦人と食堂車で言い合う。ドイツ女は市警察分署長や請負業者といかにして手を結んだか? 二週間もすればペストの町だ。葡萄、花、ドイツ式の型どおりのお愛想とぐらりと揺れた心のうち。誰しもこう思っている――老皇帝〔フランツ・ヨーゼフ〕のためにオーストリアがまず宣戦布告したのだ、と。
市場で見かけた最初のロシア人(巡査)は誰かの襟首を引っぱっていた。その巡査を分署長が掴まえて、問いただす――この町の長官〔直轄市行政長官〕はどういう人物かね? 巡査がオーストリアの巡査を紹介し、そのオーストリアの巡査にくっついて調練場へ。そこで巡査はルシーン人〔ガリツィア、ザカルパチア、ブコヴィナに住むウクライナ人で、とくにオーストリア・ハンガリー帝国の支配時代に使われた呼び名。前出〕の年寄りに向かって、慇懃に、だが高圧的に行けと命じる。ルシーン人は戦々恐々だ。
町に残っているのはたったの1パーセント。ほとんどが逃げ失せた。
10月6日
リヴォーフから数十露里の地点にかなり大きな戦場があり、その先では今もドンパチが。戦闘地域から遠く隔たっているわれわれには、電文が何と伝えてこようと――自軍の小さな後退も前進も、大した問題ではない。
リヴォーフ市では小銭が払底。ロシアのバロメーターが高いレヴェルにあるときは、釣銭もにっこり恭しくロシアかオーストリアのお金で返ってくる。〔小銭が〕なければ、わざわざ隣の店から借りてくるとか後でまとめて清算するとかいろいろだが、ひとたび〔バロメーターの〕目盛りが下がり始めると、態度は一変、厚かましい答えが返ってくる――「文句があるなら、政府に言え!」
ガリツィアにもう2ヵ月も主人づらして居坐っている支配者たちの、素朴で自然な感情のことではない。わたしが言ってるのは人の道のこと。こちらが恐れているのは、ガリツィアの地にもしまた戻って来れば、オーストリア軍が間違いなく縛り首にするだろうわがルシーンの朋友たちの運命なのだ。
開戦当初から、わたしは多くの残虐行為の噂を耳にしていたが、正直言って、あまり実感はなかった。飛び込んでくる他人の感情も大きな動揺も、ほんのちょっと頭の隅に置いていたにすぎない。だがガリツィアの地でいま味わっているのは、まったく別の感情だ。わたしが嗅いだのは、変幻自在な〈異端審問の時代〉の匂いである。それは、報道でもなく、ゲルマンの俘虜となった者たちの〈物語〉でもない。すべてを失った人間たち……いったい何のためだ?
オーストリアの軍隊が、たとえばルシーン人の司祭が所有する畑か何かを占拠したとする。司祭は心配なので様子を見に行く。そしてその場で逮捕されてしまう。ポケットから、戦争に行っている息子からの手紙が見つかる。そこには地形やら地物が記されている。証拠は十分――司祭は首をくくられる。今や村は荒れ放題だ。聖職者がひっきりなしに逮捕され、国の奥へ送られていく。ために、村によっては正教に改宗せざるを得なくなる。ガリツィアの住人はロシア人よりずっと宗教的な人間だから、こんな大きな不幸に見舞われれば、宗教への要求はいや増すばかりである。加えて、正教の儀式はウニアトのそれと大差がないので、いよいよもってそちらへ移っていく。
もちろん、傷つけられて恨みを抱く人びとをひとり残らず救うことは〔できない〕――次から次に吊るされているのだ。でも、わたしを動揺させるのはそのことではない。わたしには夢(メチター)が痛ましい……ガリツィアには〈偉大にして純粋この上なき素晴らしきロシア〉というメチターがあるからである。
兵士の歌が聞こえてくる。どこからだろう、清廉潔白なロシアの奥地からでも聞こえてくるような――
ああ 誰があたしの捲毛を 誰がこの
亜麻色のあたしの髪を 梳いてくれるのかしら?
こちらのバロメーターが落ちてくれば、ロシア人より傷つくはず。当然だ。創造的なメチターにとってそれは苦く痛ましいこと。
17歳の高等中学の学生と一緒にリヴォーフの町を散策する。純粋なロシア語だ。ロシア語の学習をしつこく追及されたと話す。ロシアの地図は所持することさえ許されなかった、と。戦前には、プーシキンも、レールモントフも、トルストイも、ドストエーフスキイも焚書の対象に。ロシア語自体が迫害された。あす、中学生が使うことを禁じられた単語のリスト〔ロシア語の単語表〕を持ってきます、と言った。
「きみはどんなふうにロシア語を勉強したの?」
「祖父がこっそり教えてくれました。祖父は捕虜になりました。それで、こんどは僕がほかの人に教えていたんです。僕らは革命家のように行動しました。僕らはいつでも革命家でしたから」
もうひとつ悲しいエピソード――70歳の老司祭はロシアびいき。だが、息子は戦場でロシアと戦っている。司祭にとってキーエフに住むのが生涯の夢だった。やっと通行許可証を手に入れたと思ったら、市の許可が下りず、結局、キーエフ市民にはなれなかった。
「誰が許可しないんです?」
「ロシア人です。当時はなぜかウニアトの聖職者を恐れていましたから」
似た話はいくらでもある。リヴォーフの町を見下ろしているのは高い城の丘、その丘の盛土はリュブリンの教会合同(ウニヤ)の記憶*。
*1569年にポーランドとリトアニア大公国がひとつの国家―レーチ・ポスポリータヤ〔ポーランドの貴族統治形態〕となった協定のこと。
通りでロシア人が口をひらけば、決まってユダヤ人の噂だ。ほれ、何か買い込んだ、〔ポーランドの〕地主が牛を(家ごと)売り払ったらしい。ユダ公め、とんずらしやがったぞ。ロシア人たちがひとりのユダヤ少年を養い育てたら、その子はのちのち彼らに対して無利子で融資した、とか。
互いにやり合っている――露軍は府主教を、墺軍は修道士=神学生とシェプチーツキイ派の教師たちを連れ去った*。
*ガリツィア(1901-1944)におけるウニアト〔ギリシア・カトリック〕教会の府主教アンドレイ・シェプチーツキイについての叙述。彼は第一次大戦中、帝国ロシアの宗務院(シノード)の権力に抵抗し、ロシア教会からの分離とウクライナ指向による主教職任命制の確立のために戦ったが、キーエフでの反政府運動(煽動罪)によって追放された。1914年にオーストリア政府に宛てて書かれた彼の極秘メモ――ウィーンの後ろ盾によるウクライナ=ゲトマン国家創立の必要を説く――は有名である。
何も動かず、そよともしない。チュールのカーテンも降りたまま。イコンの影像(ようぞう)、比類ない面立ち。そこでようやく、どの家も蛻(もぬけ)の殻であることに気づく。家のまわりには花、ジャスミンの茂み、バラさえ植えてある。そこら中ゴミだらけだが。
ロシア人が恐れるもの。恐れるのはどういうロシア人? さて、〔ポーランドの〕地主たちはどこだ? もうとっくにとんずらだよ。
ズボーロフに宿泊。夜、ユダヤ人、居酒屋(コルチマー)。分警察署長は危うく主婦のベッドに寝るところだった。商人のことばの知識は素晴らしい。人馬ひとつ屋根、粘土壁の厩(うまや)泊まり。あきんど語、ルシーン人のことば。
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