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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 10 . 31 up
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〔8月26日〕――この日付は推定による。

 ドイツ兵の残虐性についてわたしは言った。「ロシア兵の中には、ひょっとしてドイツ側に走る者もいるかもしれない。でも彼らが本当にケダモノだと知っていたら、そんな馬鹿なことはしないはず――とまあ、そんな子どもだましは聞き飽きたろうがね。ドイツの兵たちだって、ロシア人はケダモノだと教えられているんだが、互いに会ってみれば、どうしてどうしてロシア人はケダモノなんかじゃない、全然そんなことはない……ということになる」
 「あんな奴ら、吊るしちまえ!」という声があった。わたしが、それを言った長身の赤毛の男に、何事だねと質すと、相手はわたしの口真似をして、からかった。「何事だって? 何事なんてもんじゃない。卑劣そのものだからさ。あいつらオーストリア野郎がわが連隊を全滅させたってのに、こっちは奴らを……おれはこの目で見たんだよ、うちの将校が――まったくとんでもねえ将校がいたもんだ――奴らと握手するところをよ。吊るしやいいのさ、握手なんてとんでもねえ」
 ほかにも何人かわたしに、オーストリア軍がわが一連隊を全滅させた話をした。「話の出どころは?」と、わたしが問うと、すぐに指さして「ほれ、あの兵隊だ」。その兵士のところへ行って、訊いてみた。「オーストリア軍はどんなふうにロシア兵を全滅させたんだね?」すると「まだよくわかりません」と言う。そして戦闘のあと、腹を空かせたオーストリア兵が畑の林檎を食い尽くしたという話までする。「それをきみは見たのか?」「見てやしません。こっちは行軍中だったし」「じゃ、全滅させたなどと誰が言い出したのだろう?」「あいつですよ!」そう言って、兵士は、さっきの赤毛の男を指さした。赤毛の男は、一方の隅で止むことなく、その舌っ足らずの、しかし悪意に満ちた、人間らしいところが少しもない言葉で、オーストリア兵の残忍非道をまくし立て、何とかいう将校が握手した、わが軍にはそんなとんでもない将校がいるんだ、とそればっかりを繰り返している。
 明らかにそれは、ヒトの子が人間の腐敗堕落を焼き尽くそうと〔その証拠を〕捜し回っている図である。

 現代人は心からマス的人間たることができない。ある者にとってドイツ人への民族的な憎しみの感情に完全に身をゆだねることを許さないのがキリストであり、またある者にとっては通商関係、イリヤー・ニコラーエヴィチにとってはそれがロシア政府だった(ここには〈個人〉がある)。

プリーシヴィンの母方(イグナートフ)の従兄、「ロシア通報」紙の共同経営者の一人で社会政治評論家(1858-1921)。

 10日の間(8月15日から26日まで)にモスクワは一変した。大変な変貌ぶり! 辻馬車に乗ってすぐに感じた――ああどこもかしこも負傷兵でいっぱいだ、と。はっきりと確かめたわけじゃない。ただ何とはなしに、いや御者とのやりとりからそう感じたのである。その顔はじつに悲しげだった。生きているのは目だけ、というような不幸な人たちがいる、と彼は言った。彼は傷病兵の恐ろしい光景をさんざん目の当たりにしてきたのだ――砲弾で頭部を吹き飛ばされた者、同胞戦士の共同墓に葬られた者、飛来した凄まじい数の鳥たち、ロシアからも列強からもありとあらゆる鳥が戦場に押し寄せたため空が真っ黒になった等々。話をしているあいだ、御者はずっと堪えに堪えていて、鳥たちのところまできて、思いきり号泣したのである。

〔編訳者の注――プリーシヴィンは「ロシア通報」紙(従兄のイリヤー・イグナートフの要請による)の戦地特派員として、14年の9月後半から10月半ばまでを前線近くで過ごした。レーミゾフの回想によれば、この従兄は、記事の結論を明確に書くよう何度もしつこく忠告したが、プリーシヴィンはしきりに、〈チェーホフみたいに〉、つまり結論なしに書きたいと漏らしていたという。以下は出立直前までのノートである〕

 スモレンスクの駅で、わたしは傷兵たちに出遭った。近くまで寄ろうとしたが、止められた。遠くから見たのだが、学生たちが自動車のある方へ担架を運んでいる。躓きながら兵隊たちが歩いている。路面電車の方へ行こうとしているのだ。なかでもぞっとしたのは、灰青色の外套を着たドイツの傷兵たちが、ふらつき、びっこをひき、ぴょこぴょこ跳ねたりして歩いている姿だった。ロシア人もドイツ人もオーストリア人もみな一緒くたに、赤十字の車輌に突っ込まれている。たまに別の車輌に重傷者が運ばれていく。そしてずっとそのままそこで待たされていた。人間がみな哀しくせわしい小さな兵士にでもなったよう。彼らはあそこで何を待っていたのだろう? 赤ん坊を抱いた女に訊いた――「何を待ってるんです?」「ええ、その……」口にするのが恥ずかしそうだった。駅に行けば夫に会えるかも、そう思ってやって来たのである。身内と出会える確率はゼロに近い。覆いをかけた車輌はあっと言う間に通り過ぎてしまう。予告もなくいきなり発車するから、われわれに見えるのはせいぜい最後尾の、包帯をぐるぐる巻きにした顔だけである。と不意に、その女が声をあげた――「ああ、ああ、うちのひとが!」。夫を認めたのだ。みなが振り返る。女は赤ん坊を抱えて、電車のあとを追う。
 なんとか駅までたどり着く。一隅に人だかりがあって、銃を持った一人の兵士を取り囲んでいる。士官たちの荷物の番をしているようだ。その兵士が何か話していた。背高のっぽのその兵士の怒りは相当なもので、しきりに喚き立てる。「まったくひどいもんだ、くそっ、碌でなしめ! なんでわしらがあんな碌でもない捕虜どもの世話を焼かなきゃならんのだ! そんな馬鹿なことがあるか! あんな奴らはやっつけちまえばいいんだ……」
 ロマーンはクワスの中に落っこちた〔この一文に下線あり。ロマーン・ワシーリエヴィチ・キュトネルとは留学中にベルリンで知り合う。日記にほんの数回この名が出てくるが、未詳。クワスはロシアの愛国的清涼飲料。クワス(すなわちロシア)にはまってしまってロシア人化してしまった外国人の意〕。ナポレオンの侵攻以来、キュトネルの一族はモスクワ暮らしである。ロマーンはあまりにロシア化してしまったので、学生時代を監獄で政治史の勉強に打ち込み、そのあと女商人と結婚、モスクワに惚れ込み惚れ抜いて、誰もが認めるパトリオットになった。それで、古くからの友人はよく言い言いしたものだ――ロマーンはクワスん中にざんぶと落ちた、と。その彼が今、ドイツ国民として兵舎(カザルマ)に送られようとしている。彼と一緒に刑務所に入れられているのは、いずれもスプーンを長靴の胴に挟み込むまでにロシア化した〈ドイツ人たち〉だった。婆さんがひとり彼らの鉄格子に近づき、じっとドイツ人たちを眺めている――「ドイツ人とはいかなる生きものなりや?」。婆さんはいちどこの目で確かめてみたかったのだ。ロマーンはここを出られたら、ぜったい自分の祖国愛を証明しようと思っていた。そして考えた――志願兵になるか、自分のアパートに負傷兵を住まわせるか、どうしたものか? 結局、負傷兵を受け入れた。つい熱を入れ過ぎてイコンまで飾った。彼らといろいろ話をした。ひとりは指を1本、もうひとりは2本、失っていた。ひとりは以前、刑事課にいて、もうひとりは憲兵だった。イコンはまったく意味がなかった――カトリックの信者だったから。

9月4日

 敵を愛するとはそもそもどういうことか? 汝の敵の天晴れ見事さに向けられたオマージュなのか、それとも優れた敵なら何か(それが何であれ)優れたものを創り出すことを認めることから、いやこの世には悪をのみ取り込む生きものなど存在しないと確信していることから、起こるのか? 悪魔のための祈りもそこに根拠があるのではないだろうか? アファナーシイ師〔故郷フルシチョーヴォの聖職者〕は、悪魔のために祈ることができるとは考えない。なぜなら、悪魔は絶対的な悪であって、悪と一緒にすべてが滅びるからである。だが、言い伝えによれば、かつて悪魔は天使であったのだ。
 わが愛すべきА・П〔アレクサンドル・ペトローヴィチ・ウスチイーンスキイはスターラヤ・ルッサの、のちノーヴゴロドの長司祭(1854-1922)〕よ、あなたは人類の敵をも愛する心を知れと教えてくださった。ということは、人類の敵のために祈ることができると思っておられるのですね。
 わたしは、絶対的な敵ではない日常生活における敵という意味では――そいつが何も知らずに〔無自覚に〕事をなすかぎり、キリスト教の〈汝の敵を愛せ〉ということは理解できる。わたしは絶対的悪への愛の根拠を知らないし、祈りという行為がその本質上、どう万古不易のものへ向けられるのか、わたしにはわからない。

 モスクワからの列車が遅れてノーヴゴロドへの乗換えができない。チュードヴォ〔ノーヴゴロドの北北東〕で停車したまま、ここで24時間じっとしているよりはと、一旦ペテルブルグへ行ってまた戻ることにした。チュードヴォではペテルブルグまでの切符を買う暇がなかった。車掌はリュバーニで買えばいいと言ってくれた。ところがリュバーニに着くと、同じ車掌が料金を二倍徴収されるかもなどと言い出す始末。抗議したら駅の当直のところに連れて行かれたので、わたしはそこで領収書を出すよう頼んだ。すると思い出したように車掌が、「この人〔わたし〕のお金を預かっている」と言った。確かにわたしは3ルーブリ預けていた――リュバーニで両替してピロシキを買ってもらうつもりだったのである。当直の男はその3ルーブリからさっさと料金分を差っぴき、残りをわたしに戻した。ずいぶん勝手なこと〔差っぴくだけで領収書を書こうともしない〕をするので、わたしは彼らに説明しようとした。それは横暴というものだよ。他人の金を勝手に流用するのは法律違反じゃないか。二人はきょとんとした顔をしている。こっちの言うことが全然わからないようだ。そのとき列車が動きだしたので、わたしは自分の席へ急いだのだが、その出来事を同室者たちと話しているうちに、自分の敵を愛するという意味がちょっとわかりかけてきた。ああドイツ人なら、あれの不法性がわかるだろうになあ。「じゃあ、どうしてあなた、ドイツにお住みにならないの?」――白い顔した丸ぽちゃのマダムが訊いてくる。わたしはもういちど説明した――自分が車掌に預けていた金のうちから、駅の当直の男が未払い分を勝手に差っぴいて受取りすら書かなかったこと、抗議したが、ぜんぜん無駄で、当直の男にはわたしの言ってることがまるでわからなかったようだ云々。そしてついでにこう言い添えた――それでね、どうすれば自分の敵を愛せるかがわかってきたのですよ。平和な時代のドイツ人にはあれが不法行為だということがわかるでしょうね、と。「あなた、じゃあどうしてドイツにお住みになりませんの?」太った、白いまん丸顔のぽっちゃりマダムが言いつのる。そんなにドイツがお好きならドイツに住めばいいのに、そう言いたいのだ。「ロシアに住んでるから仕方ありませんね」と、わたし。が相手は一向にひるまない。「わたしたちの国じゃいつもそんなふうに身内に罵声を浴びせるんですわ」――「何をもって〈身内〉とおっしゃられるのかな?」わたしは言い返す。「あなたが着ておられるのはドイツ製の衣装じゃありませんか?」――「いいえ、これはパリ製です!」マダムは大いに憤慨し、むくれて、声を荒立てる。「まあまあ、モードというのは趣味の問題ですから」。年配の大佐がマダムの援護にまわった。「もちろん、そうですわ」マダムは感激し、「モードが存在するのはパリだけざますから……」。わたしは〔余計なことを言ってこれ以上〕火に油を注がぬよう、それからはずっとドイツ人の獣性と違法行為について語り続けるマダムと大佐の聞き役に専念するしかなかったのだった。

〔編訳者の注――戦地特派員としていよいよガリツィア(前線)へ。ガリツィアは現在のリヴォーフ、イワノ・フランコーフスク、チェルノーポリ、一部にポーランド南東部を含む地域。期間は1914年9月24日から10月18日まで。記事は「ロシア通報」「レーチ」「株式通報」各紙に載ることになる〕

9月24日

 シポーフ〔ドミートリイ・ニコラーエヴィチ・シポーフは立憲民主党(カデット)の指導者の一人(1851-1920)〕が着いたかどうか問い合わせる。もう来ているという。頭がいいから、やって〔救い出して〕くれるだろう。みなして彼のところへ出向いたが、さすがのシポーフをもってしても、どうにもならない。いやはや。誰もが自分のことで精一杯なのである……これじゃキセル〔ただ乗り〕しかない、そう思っていたとき、突然、レオニーラ・ニコラーエヴナ〔未詳〕が助け船を出してくれた。〔出発が〕3日ほど延びる。
 新聞でベヌアーとヴラーンゲリが論争している――「旧時代」誌を廃刊にすべきか否か?

「旧時代(スタールィエ・ゴードィ)」は芸術と古事旧習愛好者のための月刊誌。ペテルブルグ=ペトログラードで1907〜16年まで。画家で美術評論家のアレクサンドル・ベヌアー(1870-1960)と芸術学者のニコライ・ヴラーンゲリ(1882-1915)は同誌の編集者。戦時下での雑誌発行の適否をめぐる論争は14年8月、首都の新聞紙上で戦わされた。

 何なのだろう、決定的な失敗にもかかわらず、この嬉しさは? 自己消耗あるいは自分自身への回帰なのだろうか? С・Л〔不詳〕は書いている――戦闘地域の村で、農婦が脂身(サーロ)を盗まれたと、とにかくどっかでパンを手に入れたい――そればっかりである。

9月25日〔キーエフ〕

 病院列車に女性が押し込まれたという、ガリツィアでの事件(Пの話)。どうやらその女は自分の夫を捜していて、リヴォーフへ連れて行ってくれるようしつこく迫ったらしい。女はとても興奮していて、泣くかと思えば笑ったり、挙句にはルシーン人〔オーストリア=ハンガリー帝国の支配時代に用いられた、ガリツィア・ザカルパチア・ブコヴィナにおけるウクライナ人の呼称〕の歌までうたうのだった。そのうちの一つがとても気に入ったので、П はポケットから手帳を取り出し、ルシーン女のそばに坐って歌詞をメモし始めた。それで相手はひどくびくついてしまった。Пは宥めにかかるが、女はよけい不安になり、デッキの方へ逃げようとした。Пは心配になった。急いであとを追ったが、女は列車の開いたドアから野原へ身を躍らせた。
 不変にして永遠の魂、それを前にしては如何なる歴史的事件も無きに等しいが、しかしそれでも戦争というものには何か意味がある。
 これはロランとハウプトマンの論争(ハウプトマン――射抜かれた胸、打ち壊された寺院)。

フランスの作家・思想家ロマン・ロラン(1866-1944)はスイスに滞在中に第一次大戦を迎え、反戦平和を主張。対するゲルハルト・ハウプトマン(1862-1946)はドイツの劇作家・詩人。代表作に『沈鐘』、自伝的小説『情熱の書』。

 軍事看護所副司令で農業技師でもあるウラヂーミル・ニコラーエヴィチ・スチェパーノフは役人になったが、すぐに自分が役人向きでないとわかる。職業がヒトを片輪にする例だ。
 Дはドイツふうの姓を有する貴族。
 「わたしはペシミスティックにものを見ている。ウィルヘルム〔二世〕は狂人ではない」。
 彼は、もしウィルヘルムが勝ったら世界連邦が誕生して戦争はなくなるだろうと夢想するタイプの役人と同等だ。
 〔徴兵される〕息子のことで絶望に陥ったК、目を覚ました社会人が訊いてくる――「どうしてこんな蛮行を許しているのか、なんで戦争なんだ?」
 女がひとり軍の診療所の中を駈けずり回っている。負傷者を捜しているのだ。
 アウグストフ近郊でゲルマン人を撃破。ソフィア寺院の鐘の響き、まず役人が駆けつける。勝ったぞ、勝利だ、勝利だ! みんなおもて通りへ。ランデヴーの家〔売春宿〕が閉鎖になったので、女たちも残らず歩道に出てきた。

ポーランド北東部の森。短編『水色のトンボ』(『プリーシヴィンの森の手帖』(成文社)所収)の舞台である。

 領事と言い合った――もともと平和は存在していて、それは人間によって押し開かれるのだ。いやそうではない、逆である。人間はゼロから平和を創造するのだ云々。

 小商人(こあきんど)の女房たちが、警備兵の頭越しにオーストリア兵〔捕虜〕にパンやタバコを投げてやると、オーストリア兵たちは犬ころみたいに飛びつくが、ドイツ兵たちはじつに軽蔑しきった顔でそこらに捨ててしまう――少なくともそういう話である。

 戦時下の〈自然〉の姿――森が砲撃されているのだ。でも、〈そは如何〉と問う想像力も、感情も、今はない。
 国内改造においてロシアが英国に義務を負ったというレゲンダ。
 「われわれがドイツを負かしたのか、それともドイツがわれわれを負かしたのか?」

9月26日

  朝、霧と雨。昼ごろ晴れ間が見えたが、夜はまた雨。

   外交政策と諸事件についてのあれこれ。1、2週間もすれば、何もかもはっきりするだろう。
 何かのために何かを捨てたなどと、わたしは何というたわごとを書いたものか。にもかかわらず、首尾よくいけば恥も恥ではなくなるだろう。成功と幸せは恥辱をも悔しさをも覆い隠す。幸福、勝利はすべてをあがなうのだ。

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