2010 . 10 . 24 up
(二十八)写真はクリックで拡大されます
志願兵のラーコフ〔知人〕は徴発された自分の馬を救い出すために戦地へ行った。兵士になれば馬は戻るにちがいないと考えたのだ。さらに、輜重(しちょう)隊にくっついていれば何かと儲け口があるらしいということも耳にしていた。それで出征したのである。
頑固で片意地な産婆。
将軍と看護婦が話している。
「でもやっぱり、戦争は軍人さんのお仕事ですわね、ああ怖い!」
「生きていたいんじゃ、人間は!」
「人を殺(あや)めなくちゃなりませんわ」
「たかが命……」
「でも、昔の聖者さまのような生き方だってありますわ……」
「あのおめでたい人のことかな? みんなおめでたい聖者になりたいのかね? 人間なんて血に飢えた生きものだよ」
「ほんとにもうここは人間らしい匂いがしない!」
国営ヴォトカ販売店が閉鎖になってみんな喜んでいる――呑んだくれさえ。
ロシアは膨れた泡になり――戦争へ突入、膨れに膨れて、しまいにパチン!フローシャ〔妻のエフロシーニヤ・パーヴロヴナ〕が最終的に底意地悪いクサンチッペに変身を遂げた今、思い出されるのは、わたしが大好きだった昔の彼女の、可憐な立ち居振舞い。サラファン、プラトーク、水の上の櫂、森、茸、それとあらゆるものとひとつになった優しさ、飾り気なしのあの言葉の数かず。だがそれが今や、不平不満のふくれっつらで、友人知人をわが家から遠ざけてしまう、愚かしい要求ばかり繰り返す存在になってしまった。
みなが徴〔前兆〕のことを思い出したのは、すべて〔戦争の勃発〕を知った日の翌日のこと。そういや空の雲が赤かったな、と。徴、表象としての――ニーチェその他。何か新しいものが――最後の戦争が、生まれるにちがいない。
そもそも最初からロシア人は侮辱を忘れ、恨みを忘れ、手で蚊を追い払うようにそれを払って、新たな巧い生き方を、それも立派に始めている。プリシケーヴィチ*などはヨーロッパ人に赦しを乞い、そして上層部は――どうだい、有難いことに、蚊なんていやしないんだ――と思っている。* ウラヂーミル・プリシケーヴィチ(1870-1920)――1905年10月に結成された極右団体〈ロシア国民同盟〉及び〈ミハイル・アルハーンゲル同盟〉のリーダー。この団体は、国内のインテリやユダヤ人を攻撃、ポグローム〔ユダヤ人などへ組織的虐殺・略奪〕を引き起こす引き金となった。プリシケーヴィチは怪僧ラスプーチンの殺害にも加担した。十月革命以後は反ソ組織の首魁。
夕刻。品のいい奥さんが、きのうの新聞を1部1コペイカで売っている。
「誰もが抱いている感情は、最も厳粛なこの戦争が、計り知れない規模を有する、恐ろしく重大な世界的事件であるということ。戦後は、新しい世界、新しいヨーロッパ、新しいロシア、新しい人びと、新しい心理学、新しい芸術が出現するだろう」(タヴリーダ宮殿での演説――これは7月26日か6月の記事)。「株式通報」紙の記事――国境辺の憲兵の目に映ったロシア軍の装備のひどさ、その負けっぷり、多くの兵がヒステリー状態に陥った、と。
ペテルブルグに来てもう一週間近くになる。慣れてきた。市内は軍のキャンプ地だ。戦時下にもかかわらず、生活はずいぶん自由な感じを受ける。ならず者と乞食はどっかへ行ってしまったし、雑多、ピンからキリの暮らしの花々、予想外のことはあらかた姿を消して、誰もが同じ顔付き、互いによく似た顔になってしまった。ペテルブルグそのものが車馬の行き交う大道、つまりは戦場に直結する一本の通りなのである。今では目下の敵を〈打ち砕く〉などとは言わない。逆にやられなけりゃいいがと密かな懸念も生じている。もしやられたら、待っているのはそら恐ろしい革命だからだ。
コーヒー店にいると、わたしの方へとても顔色の悪い売春婦がやってきて、こう言った――
「ケーキがないの!」
わたしはその女を見つめた。
「イーストが高いんだわ」
「そんなに高い?」
「高いわよ。だからケーキをご馳走して!」
わたしは女に15コペイカ玉をあげた。女はケーキを三つ平らげた。まったくがっついて(一語判読不能)。
*フョードル・ソログープ(1863-1927)――作家・詩人。前期シンボリズムを代表。現世を嫌悪し、幻想の世界に逃避、唯美主義的傾向に走った。モダニズム文学といわれるもので、代表作に『小悪魔』。
乞食もならず者もどこかへ消えてしまった。出会った二人の乞食が言っていた――
「今じゃ、人さまを当てにはできんよ。みんな自分のことで精一杯だからね」
でも、実際はその逆のようだ、そんなに自分にかまけてはいない。乞食の言い分が正しいのは、今はもっとずっと自分にかまけているが、しかしそのかまけ方が、気まぐれや突拍子もない馬鹿げたものではなくなったという点だ。
*1ニコライ・ニコラーエヴィチ・ロマーノフ(1856-1929)はニコライ一世の3男ニコライ・ニコラーエヴィチ大公の息子。父子は同名にして大公。根っからの軍人、ニコライ二世の大叔父にあたる。1895年から1905年まで騎兵総監、1905年から近衛およびペテルブルグ軍管区の総司令官(同時に08年まで国家防衛評議会議長)。第一次大戦では最高司令官(14~15)。途中でニコライ二世にとって替わられ、カフカース軍の総司令官に(左遷)。1919年に亡命、余生をイタリアとフランスで。1924年からロシア全軍人同盟(РОВС)最高指導者。
*2セルゲイ・サゾーノフ(1861-1927)――1910年から16年まで外相を務めた。親英仏路線をとり、バルカン問題で独墺と対立、第一次大戦の一因をなす。革命後パリへ亡命し、白衛軍政府の代表となる。
人気のないアパートの通風孔。どこだろう、戦闘の気配。女の立場〔銃後〕にあるわれわれは、その闘争については何も知らずに生きながら、読めるものは何でも読んで、そんなものがことごとく思想となってしまった。自分の亭主にぞっこんのソコローワは、夫のために奔走して、ペテルブルグの近くに住めるようにした。わたしに向かってじつに正直に、こんなことを漏らした――『あたしたちはついてるわ、幸せよ』。一方、医師である夫のために縫った見事なルバーシカを見せながら、女房のラーピナが言う――『うちの人をこんなに愛してるなんて思ってもみませんでした』。一緒になって15年くらいだという。ソコローワの夫はマルクス主義者だったが、今は本気で家族の世話を焼き、昇給もしたと。
幸せが顔を見せるのは、ほんの一瞬。それを掴むには、なるべくものを考えず、なるべく早く何かにキスし、愛撫し、抱擁し合って、おのれを忘れる必要がある……
レーミゾフ夫妻がやって来た。ドイツ人の獣性はやっぱりたわごとだったのだ。国外にいるロシア人たちは同胞のために力を尽くしている。
進歩(プログレス)の友は今や、大いなる試練を受けることになるだろう。わたしには予見できる――万事(内政外交ともに)順調に事が運べば、ロシアは体制を堅持して、そのままどんどん突き進むにちがいない。
*民間の出版社「シリーン」は実業家のチェレシチェンコとその姉妹によって1912年に創立(14年まで)。ブローク、ベールィ、ソログープが関わり、ソログープ(16巻選集)、レーミゾフ(8巻)、ブリューソフ(8巻)、文芸作品集(3巻)などを出版した。
text - 太田正一 //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk