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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 10 . 10 up
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 周知のごとく、われらが庶民は自らの未来図を今ある地上の暮らしのうちに思い描いている。焼いたり煮たり揚げたりと何でもこなす巨大な竈(ペーチ)、またの名を悪魔の調理人、炎熱地獄。食卓に向かっているのは殿方で、地獄の竈で料理されたものを次から次と平らげている。
 致命的敗北と決着(自殺、自傷、失踪)の渇望という観点、その他の〔地獄の〕竈の向こうの驚嘆すべき創造という観点。
 はるか遠くの他の惑星からも見える――徐々に死につつある地球が宇宙空間の〔闇〕に向かって(それこそ〈あちらに向かって〉だ!)永遠の光を放っているのが。〈あの世〉――神秘的概念。

 敵にすべてを差し出しながら勝利するもまた可なり……
 何があっても停滞は許されぬ。ぐずぐずすれば、他のもの(生命)を逸することになる。
 文明への来るべき隷属。技術上の発明は、新たな国の発見――最初の発見は軍人の、そののち僧侶階級。高位聖職者は〔宙を飛んで〕、穂の出たライ麦を祝福する。
 飛空器とモレーベン――健康・幸福――新しい土地(健康)と〔旧套の〕墨守――空飛ぶ高位聖職者で決着。
 地上は恐ろしいが、空中なら怖くない。
 地上の人びとは、不幸で貧乏なうちは祈ることをやめない。

 ナショナルな個性美は政治によってではなく、その全般的な暮らしぶりから創出されるものであり、そうした社会環境に生きる者に、美は一切の努力なしに賦与される――美は自らを顕わす。ナショナリズムが嫌悪の対象になるのは、生活〔いのち〕の美を滅ぼすからだ。美それ自体がナショナリティーなのである。
 全般的な人間の暮らしを、善なるもの(добро)を、より高度な自覚が滅ぼすことはない。独眼はもう一方の健康な目にも影響を及ぼすが、駄目になるのは全体の一部にすぎない。ナショナリストは歪んだ人間だ。驚きかつ呆れるのは、そのナショナリストが政治にたずさわらぬ者たちから自分の富を得ていることだ(ひん曲がった角をつけた悪魔)。

7月1日

 猟に出ていちばん愉しいことの一つは、7月の夏の静寂の中、苔むした沼のほとりで、へとへとになるまでクロライチョウを追ったあと、不意に森の向こうから子どもたちの叫び声が聞こえてくるときだ。エフロシーニヤ・パーヴロヴナが子どもたちを連れて露営地にやって来たのだ(荒涼たる孤独の端と俗界の隙間)。
 オクローシカ〔刻んだ肉や野菜をクワスに浸した夏の冷たいスープ〕の鉢。みなして食べるが、母親は待っている。いつもそうだ。自分はお腹が空いていても、最後のパンの皮を子どもたちに与える。他人から教わったのではない、生まれついてのものなのだ。きょうオオタカの巣に近づいたら、すぐさま母鳥が宙に舞い上がった。そして突然の急降下――銃の先にぶつからんばかりの勢いである。身を挺して威嚇したのだ。まあ鳥でも人間でも、母親というのはそうしたもので、エゴイズム……母親のエゴイズムだ。エゴイズムはこの世の骨組み〔現世の骨格〕であり、人間が〈エゴイズム〉と言うときは、単にスケレット〔根幹、ギリシア語でskeletos、乾き切ったものの意〕のことを言っているのだ。〈聖なる〉人にもスケレットはある。でも彼はエゴイストではない。ものみなおれのもの、ならば〈おれのもの〉など存在しない。ある人が「それは〈おれの〉だ!」と言う。すると全世界が「いいや、それは〈われらのもの〉」。世界のこだまが〈われらのもの〉と呼応する。
 わたしが「おれのだ」と叫ぶと、こだまは「われらの」と応え、わたしが「われらのだ」と叫べば、こだまは「おれの」と返してくる。
 若者が「おれのだ!」と叫んでも、返ってくるのは「われらのだ!」。
 広野(ひろの)は目ざとく、暗い森は耳ざとい。森に向かって叫べば、こだまは返ってこよう。森の口で若者が、「おれのだ!」……でも森のこだまは「われらのだ!」。森の隠者が「われらのものだ!」と叫んだら、森は黙ってしまった。

 オクローシカのことでさらに言えば――母親だけでなく、何かしら自分のものを持っているような人間なら誰しも、それのためにおのれを抑え、身を捧げ、精進する。それは意志、意欲の法であり、あらゆる意欲の発端(もと)である、その一方で、意欲は自らを犠牲に供するもの(自分のもの)と獲得されるもの(一般の、みんなのもの)とに分ける《個》のうちに生ずる。
 すべての創造物のもとは個によって実現されるところの意欲である。この意欲する個……個の特性とは選択、選ぶこと……。
 創造的意欲とは自分のもののみを自分のものと呼ぶ才能、おのれのより良きもののためにおのれのより低きものを犠牲に供するところの才能だ。そのより良きものとは同時に、誰の目にも見え誰もが手に取ることのできる、無料の、つまり天与の美しいもの(美はみんなの無償のもの)でもある。
 この自然のアスケチズムはかつて体系化されていた。わたしのおばはまったく神の存在など信じない人だったが、あるとき、わたしと一緒にシャモルヂノの僧院〔(十)に少し出てくる〕へ行った(おばは心を静めるために秋をそこで過ごす予定だった)。で、そのとき、驚いたことに、修道尼たちが口にしたのは――
 「そのままでよろしいですよ、何も要りません。修道生活に接すれば、必要なものは向こうからやってきます。修道生活における親和と平等はそのように出来ておるのですから」
 修道院の実体を捉えるには、現代の出家生活でのナイーヴな修練法に目を向ければいい。現代における真の生活の創造者とは誰であるか? 修道僧では、苦行者ではないのか?

 「ロシア通報」紙に載った「カインの伝説」の感想――著者は何を言いたかったのだろう? ひょっとすると、個が分泌される創造的プラズマについてだったのかも。プラズマ(それはナロードだ)というものは、空きを埋めれば(愚と死を和解させれば)いいとばかりに、適当にレゲンダ〔伝説〕をでっちあげる。プラズマはその創造において邪悪な手を用いる。つまり、創造する蝗(いなご)〔駆逐できない貪欲な群れ〕だ。問題は〈蝗〉 がどう創造するか――群れをなしてか、それとも〈個によってか〉? もしかして、〈プラズマ〉などまったく存在しないのかも。どんなプラズマも〈個〉に分解するのかも。プラズマの根底には、よく似たプラズマ的個――女の個(たとえば女は、誰かが川にはまって死ぬと、あれは溺れたんじゃない殺されたのよ、と言う。女は原因となる人(罪人)をつくる。それが女性に特有のエレメンタルな個であり、ナロード的創造的個)が存在する。

「ロシア通報」(Русские ведомости)――1863年から1918年までモスクワで発行された有力紙の一つ。1870年代からリベラル派インテリ層の機関紙のごときものになり、綱領は政治的経済的改革。1905年以降は立憲民主党(カデット)に移って、十月革命後、廃刊。「カインの伝説」は、前年に載ったレオニード・アンドレーエフの戯曲を指すか?

 プラズマ的個と本来の個とは本質的に異なる。後者は個性(人格、individuality)の土台の上にしっかりと足を据えているが、前者は個性を持たない(女はいつも誰それが悪いと言う)。女のプラズマ的かつ受容的なものと男の個性的かつ否定的なもの――換言すれば、女のスカースキ〔作り話また物語〕と男のスケープシス〔懐疑説〕だ。意欲、意志、創造、個は男性(純粋に個的なもの)とプラズマ的な個(女の)と。
 意欲とは節制、抑え(精進)であり、独身を通す(ロシアのインテリゲンツィヤ)ことで女性なるものを抑えることが可能だ。
 アスケチズムは男のカルト、修道僧は〔女の〕――。

 

 ロシアはただのデブ女――そう侮られているのはわかっている。なにごとも議論する神秘家たちは、異口同音に、ロシアにおける女性的原理、パッシヴな基盤、を口にする(ラスプーチンの成功)。

グリゴーリイ・エフィーモヴィチ・ラスプーチン(本名ノヴイフ、生年は1864年か65年、72年とする説もある)――〈怪僧〉とあだ名された。トボーリスク県の農民だったが、各地の修道院を遍歴した。貴族と知り合って皇室に接近。皇太子アレクセイの不治の(当時)病(血友病)を祈りによって治癒し、ニコライ二世と皇后アレクサンドラの信任を得た。この年(1914)から16年まで絶大な権力をふるう。国権に関与し、大臣の任命・罷免まで取り仕切った。その不思議な怪しい力に魅せられた上流階級の婦女子(皇后も含むラスプーチン信者たち)とのスキャンダルは当時、新聞雑誌の格好のネタになった。ドイツとの交戦がロシア帝国の破滅への道であることを説くが、1916年12月16日の深夜、彼を憎むフェーリクス・ユスーポフ公爵(妻はニコライ二世の姪)、ドミートリイ大公(ニコライ二世の従弟)、プリシケーヴィチ(極右の君主制主義者で国会議員)らによって殺害された。

 暦が個性ある創造を圧殺した

ロシアの暦、とくに汎用カレンダーと呼ばれるものは、正教会の年間行事、聖人の〈名の日〉から、諺、一日一善式の教訓、簡単な科学知識、歴史読物、皇帝一家の紹介、電報の略語までを網羅した、生活一般のためのいわば実用書であって、意識的無意識的を問わず、長い間に人びとの生き方やものの考え方に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。

 飛空器にわたしは全然興味がない。飛ぶ鳥については熟知しているし、想像力の翼がはるかに複雑なマシーンにわたしを乗せて、いともあっさりと別の惑星へ移住させてくれるからである。わたしの関心は、新しい事実(ファクト)から新しい信念(ヴェーラ)をつくりだす人間たちにあるし、それも、個としての人間でさえない――自然の諸法則をつくりだす、あのナロード的で民衆的でプラズマ的な女の――個にあるのだ。その意味において、わたしは、それが個であって、その新たな勢力が人間に対して責任を負わない〔と考えるのである〕。

〔編訳者の注――ちょうどこの時期、ヨーロッパのど真ん中で重大事件が起こっているのだが、日記にはそれについての具体的な記述がない。「黒尾」、「飛空器」、「致命的敗北と決着」、「宇宙空間の〔闇〕」、「敵」、「勝利」は、もちろんこの事件を暗示している。1914年6月28日(6月15日)、サライェヴォで、オーストリア=ハンガリー(ハプスブルグ)二重帝国のフェルディナンド皇太子夫妻が暗殺され、それがそのまま人類未曾有の大量殺戮戦へ(第一次世界大戦)。〈プラズマ的個〉論、女性論、自然のメモのほうはもう少し続くが、いずれにせよ帝国ロシアの参戦は時間の問題である〕

 7月に入ると、自然にわたしの足はライ麦畑に向く。実の熟した、黄色い、乾いた、美しい畑。穂の一本一本が銀の小鈴を振っているような気さえする。目に見えない何千匹ものキリギリスが歌っているが、どうも熟れた実のほうはすぐにも外へ飛び出したがっているようだ……。立ち寄ったのはほんの一分なのに、まる1年も、いやそれ以上そこにいた感じがする。轟く雷鳴にちょっとびっくり。だが、襲ってきそうな雨雲はそれほどでもない。雄鶏どもは怖じけたが、キリギリスたちはさも嬉しそうに声を張り上げ、請合っている――なぁに、きょうは雨も雷もたいしたこたぁないですよ、と。
 夏。7月。鳥たちは口を噤む。7月の空で囀る鳥類は、秋を約束するシギである……亜麻――海波の色〔の畑〕。血の色をしたニワトコのブーケ。

 セミョーン・カールポヴィチ・ザベーリンがやって来た。労働者、電気技手。3時間ぶっ続けで自分の世界観を喋りまくる。諸原理だの創造的個性だのいろいろ飛び出すものの、話題はころころ変わる。あれこれ作家の暮らしから例を引いて――しまいには、自分にとって生きるのは困難だが、作家は生きるのが面白くて楽なんだなどと文句を言って、つい本音が漏れ出る。その妬ましさの響きは労働運動一般に共通したもので、宗教運動とは最も際立った特徴である。
 われわれの運動に特徴的なのは、大衆(マス)の労働者が農民の心を抱いていることだ。アレクサンドル・クズネツォーフ――20年ペテルブルグ暮らしをして自分のフートルに帰ったが、本物の百姓(ムジーク)よりずっとムジークのムジークたるところを残している。その間に村の男たちは、都市住民であったクズネツォーフよりはるかに多く都会の影響を受けていたのである。
 労働者大衆は農民大衆と同じ、顔のない〔個性・特徴のない〕プラズマ――それは巡礼(創造的蝗)のごとき、希望するプラズマ、ヒーローを待望するプラズマである。
 〈宗教・哲学会〉でのセミョーン・カールポヴィチ・ザベーリン、それとその貴顕紳士たちへの憎悪。未来の労働者はあんな要求を学者たちに突きつけまい。教育ある人びとの社会では、彼らはもう労働者では、〈政治的動物〉ではないであろう。政治は今、労働者の基本的特性であるかのようだ。
 労働者階級のこのマテリアリズムには多くの確かなものがある。穀物生産者としてムジークが自分の麦1俵(クーリ)でぎりぎりイデアリストであるように、労働者もまた自分の〈価値〉の生産でぎりぎりイデアリストなのだ。ムジーク(巡礼)とプラズマ――創造する肉体との不可分性の新たな証明。そしておそらく宗教的背景(プラン)における労働者階級の役割は世界の更新なのである。彼らの〈哲学的〉マテリアリズムは、物質(マテリア)の、プラズマの、土地の社会的役割(価値)への指摘であるにすぎない。労働者は土地の使者(ポスラーンニキ)――ムジークと労働者は互いに敵視し合っているけれど。
 わたしは労働者を土地の使者と見なしている……。

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