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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 10 . 03 up
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 ソースニツィの祝日。雹が降った日。明日のモレーベン〔教会の短い祈祷〕は聖三者に対するもの。ずっと昔、祖父たちがまだ生きていたころのことだ。天に黒雲が現われ――おおこれぞ神の思し召し!――雹で畑はめちゃくちゃになってしまった。畑を見てまわって、祖父たちは口々に「ああ、たまらん、たまらんなあ!」。以来、聖幡(せいばん)を掲げて聖三者に誓ったのだ――雹の降る日には必ずモレーベンを捧げますと。「ああそれにしても、くそっ、たまらんなあ!」
 「もうへとへとですか、親父さん?」
 それには答えず、親父は言う。
 「ああ、くそっ、たまらんなあ!」
 お茶を飲もうとサモワールで湯を沸かす。でも、話題が何に移ろうと「ああ、たまらんたまらん!」

 

 ソースニツィ村〔ノーヴゴロドの南、イーリメニ湖の西岸の村か?〕。各戸が入江で隔てられている。小さな筏のロープを手繰って往き来しているのだ。坊さんが乗ったとき、そのロープがぷっつり切れた。流された筏は見当ちがいの岸に着いてしまう。修理を待つあいだ、坊さんは歌をうたった。『父なる聖者ニコーラ*1よ、われらがために主に祈り給え!』。〔村の〕百姓たちも合唱でもってそれに応える。『父なるニコーラよ、われらを主に祈り給え! 至聖聖母よ、われらを救い給え!』
 「われらを救い給え!」
 わたしは、かつて反抗心を起こしてこのモレーベンを嗤ったことがあったが、今ではどんな音楽もこれほどの感動をもたらさないのである。
 「至聖聖母よ、われらを救い給え!」
 と不意に、どこからか〔烈しい〕ざわめき。何の騒ぎだ? 小川の方を見た。牧草地にも目をやったが、〔まわりには〕何もない。と今度はどこの子か――少年が声を上げた。
 「ああほら、黒尾*2が飛んでる!」

*1西暦270年ごろ、小アジアの半島南岸のパタルで生まれたニコラウス(ニコーラ)は、(ロシア人は容易に信じないが)生涯一度もロシアの地を踏まなかった。祈りと実践とで人びとを貧困と飢餓から救った慈愛の人は、リキアのミラ市の大主教であったことから、《ミラ・リキアの奇蹟者ニコライ》と呼ばれている。イェルサレムへの巡礼中、船に入ってきた悪魔を幻(み)、荒れ騒ぐ海を静めて、たびたび神の声を聞く。ロシアでは名もなき民衆の第一の守護聖人だが、ロシアにかぎらず聖人の概念を持つすべての教派で聖人として崇敬されている。サンタクロースの元となったといわれるローマ帝国の聖人・大主教。

*2クロオドリまたコウノトリ。昔からの言い伝えに、鳥の姿をして遠い異国から来る者のことを〈黒尾〉と呼んだ。ついでに言えば、コウノトリの尾は黒くはなく、翼の黒い部分がそれをたたんだとき黒く見えるだけ。

 黒尾に関して疑い深い面々は口々に言った――
 「ありゃあ(一語判読不能)が飛ばしたやつじゃないか」
 よくよく見れば、たしかに飛んでいる、コウノトリそっくりの黒いやつが。しかも一羽や二羽でない。
 「アエロプラン〔飛空器とでも訳そうか。初めは飛行機(サマリョート)をそう呼んだ〕じゃあ!」
 村中に叫び声。空を見上げていた坊さんがまた歌いだした。
 「父なる聖者ニコーラよ、われらがために主に祈り給え!」
 お百姓のひとりは激しく魂を揺さぶられている。概して中農は中農らしい反応だ。暦で物事を判断する癖がついているから、中農を驚かすことなどドダイ無理。『鳥がいつ飛んで来るか暦を見りゃあわかるだろ!』――これだもの。彼らが驚いているのは、今にも〔飛空器に〕問いかけそうな様子の男のほうだ。
 わたしは、その驚いている男のそばへ寄って、こう言った――
 「もしあれが爆弾を投下しようと思ってるなら、どうするかね?」
 「そりゃ爆弾を落とすだろうよ」
 「落としたければ落とす、か! そうなったら、うちの小屋は燃えちゃうな」
 「なんのなんの小屋どころか、村は火の海さ」
 「そうだ、村全部だ!」
 「畑も焼けちまう」
 「畑も丸焼けだね」
 「やりたい放題さ!」
 男はそうとうショックを受けているようだが、坊さんは歌をうたっている。
 「父なる聖者ニコーラよ、われらがために主に祈り給え!」
 飛空器――新たな事実、あからさまな。そいつが墜ちたという噂、苦しい体験の始まりだ。つくられる数々のレゲンダ――〔村の〕そばの野菜畑に墜落して、たくさん人がやられた、飛空器乗りは瀕死の状態でこう言った――畑は補償するが、死んだ人間の責任まではとらない、と。

 結論の前に。町から来た女性農業技師、大半は都会の人間。都市のミッション〔援助すること〕。農民階級についての議論――ほとんどが土地所有者でないこと。
 で、それ以来、モレーベンを耳にすると、自分を放蕩息子のように感じたものだ。

 ルケーリヤ〔構想中のヒロインの一人か。モデルは実母のマリヤ・イワーノヴナと思われる〕が夢に見たのは、大きな川の切り立った岸辺で、そのとても透きとおった水の底を自分が覗き込んでいる光景である。川底の様子がはっきりと見てとれる。髭を震わす4匹のザリガニ。カワスズキの口は小さな指輪のよう。底の砂の上にカワカマスがいて、その鋭いぎざぎざの歯でもってきれいな小石をすすっと転がしていく。何でも見えるが、息子はいない。太陽も、月も、出ていない――星のひとつも。でも、明るくて、ずっと遠くまで、まるで鏡に映ったように、森が、野原が、白い道が、見える。道の方にようやく何かが――そう、息子が歩いているのだ。彼の声が遠くから聞こえてくる。まるですぐそこに立ってでもいるかのように。
 「お母さん、ぼくはずっとこうして歩いてるんですよ。もうくたくたです。こっちへ来てください」
 ルケーリヤは朝、教父と話し合って、険しい崖の川を探しに出かけた。
 やってきたのは老婆。わたしたちは事情を老婆に話す。息子が将軍夫人の借地人だったことを老婆は知っているのだ。老婆にはそれこそ一切がっさい話して聞かせたかったのだが、ナロードというのはどうしようもない。みなして老婆を取り囲むや、あることないこと(わかってもわからなくても)、ただ心に生じ胸に溜まったものを残らず一気にぶちまけ始めた。そうでもしなければ、耳の奥は蝉しぐれ歯はむずがゆくなり、じっさい死ぬほど辛いのである。問題はすべて将軍夫人にある、ようだ。老いたるとはいえ、将軍夫人はまだまだ〈コルセットをきつく締め上げている奥方(クソワーヤ・バールィニャ)〉なのである。ところが彼〔放蕩息子〕は、将軍夫人の玄関の間で眠ってしまった……妻も初めのころはいちいち反抗やら何やらやらかしていて……。〔いきなり出てきたこの〈妻〉はフローシャ(プリーシヴィンの妻)である。身分違いの結婚を許そうとしない実母=将軍夫人。じっさい気位の高い母は侯爵夫人(マルキーザ)と渾名されていた。妻の回想「ミハイル・ミハーイロヴィチとの生活」(『森のしずく』所収)および『巡礼ロシア』第二部「キーテジ――湖底の鐘の音」第一章を参照されたし〕

 不安な魂についての民衆の宗教的伝説(レゲンダ)を物語形式で伝えること、レゲンダ(宗教)がいかにして生まれ、いかにして求められ、〔その場合〕原因となる人(ヴィノーヴニク)がいかに必要であるかを描くこと。それとついでにマルーハ〔(十)を参照〕のレゲンダも……レゲンダだけで中編になる。
 ところが、ドクトルは老婆とは正反対。原因となる人(毛なし頭骨、はげ頭)などおらず、ドクトルのまわりには、いつもレゲンダを否定する男性ばかりが。
 ディテールには、教会のパニヒーダ〔死者の追悼祈祷〕と自前のパニヒーダ、それと老婆の泣き歌を。

6月21日

 (女の)創造はレゲンダ、すなわち意味ある宗教的創造としての〔噂話〕。空飛ぶ器械はレゲンダ。墜落(野菜畑も人間もめちゃくちゃにされた。畑は弁償しよう、でも人間にはしない)……老婆が息子のいるところへやってきた。険しい崖の川、針葉樹の林。坊さんはよく考えもせずにレゲンダに同調して――殺される。
 女性はレゲンダを創り、男性は懐疑論者だ。創造するタイプと否定するタイプ。
 パニヒーダと人波のざわめき。大地に身を投げつつ歌う泣き女たち〔職業上の〕。それと岸には恐怖に駆られた女や子どもばかり、男たちの姿はない。

 人間について考える。宗教――それはおのれの人間的感情(意識)に対する答えを宇宙に発見せんとする、気狂いじみた試み。

 老婆は気高く上品そのもの――エゾマツのそばで泣く代哭。
 比較対照すること。モレーベン――泣き歌(宗教)と医師たち(科学)のその後の活動。
 きょう自分は、多くの遺体を目にし多くのレゲンダに耳を傾けた。一日が悪夢のように過ぎた。
 

6月23日――イワンの夜〔の前日〕

 よくツァーリが閲兵したクルガン〔高塚古墳〕で、今は大学教授がメンデルの法則を講義している……
 初めは妙な感じがした。農業技師がなあ!と。しかしそれからは、ごく普通に見かける光景になった。じっさい、その普通の女教師と女学生たちが、じつにさりげなく女性部隊のような日常生活を送っているのである。

 入江の方まで土手が延びている。アラクチェーエフの百姓〔農奴〕たちが築いたものだ。少し崩れたところは、土をかぶせて踏み固めてある。入江を鶏の嘴に似た筏が往き来している。夜は、北では一瞬の間も足を止めることはなく、暗くならないうちは、南でもずっと魔法の覆い布が掛けられている。そこに彼ら〔彼女たち〕の不安な心がある。私がここ数年暮らしているノーヴゴロド県のアラクチェーエフの移住地〔6月17日の*1〕には、古老たちのこんなレゲンダがのこっている。ほんの些細なことでも鞭を喰らわされたのだが、叩かれる百姓はその鞭を自分で原っぱ〔刑の場〕に持って行かされたという。

 イワン・クパーラ*1の前夜に、ステーブト育種場の経営陣は、クパーラの火のために小さく束ねた薪を半サージェン放出している。ウグルィやボールィから人びとがやってきて、ランタンに明かりがともされ、テーブルが並べられ、寮の建物にも食堂にも白樺の花輪が飾りつけられ、あっちで大コーラスならこっちではオーケストラという具合である。土手と小さな林の中のあいだで火が焚かれ、その火をペアになった若い娘たちが〔ぴょんぴょん〕飛び越す。
 水中からはヴォヂャノーイ〔水の魔〕が――川漁師たちがヴォヂャノーイのからだに触ろうとする。 
 扮装もさまざまだ――階段口には小悪魔が、花をつけた羊歯*2だの、蝙蝠だの……
 仔馬を連れた娘、〔子羊〕や子豚と一緒の娘たちもいる。
 シムビールスク県のクルムィシの公爵令嬢がチュヴァーシのグースリ*3でワルツの《帰らざる時》を弾いている…… 

*1露暦6月23日から24日にかけての夜。イワンの夜とも、洗礼者ヨハネ(ロシアふうに発音すればイォアン(イワン)、クパーラは水に浸す人の意)の生誕祭とも呼ばれる。もとはロシア、白ロシア、ポーランド、リトアニア、ラトヴィア、エストニア、ウクライナなどで祝われた夏至祭(太陽神の祭り)だったのが、時とともにキリストの教会が洗礼者ヨハネの伝説に豊穣・健康・平安を祈る俗間の農業儀礼をマッチさせていった。この夜、草が薬効を持つとして採りに行く。

*2イワンの夜に花ひらくという不思議な羊歯の言い伝え。夜中の12時に蕾が弾けて真っ赤な熾(おき)となり、《炎の花(ツヴェト・アゴーニ)》が現われる。それを引き抜くことができたら、どんな願い事でも叶うという。森の樹木が勝手に移動を始め、葉と葉が囁き合い、動物も(草さえも)仲間同士で会話を交わすこの夜、若い娘たちは火のついた木っぱか蝋燭を立てた花冠の小舟を小川に流して、恋占いや人生占いに興ずる。高等女子農業専門学校生たちの大はしゃぎはイワン・クパーラの夜にこそふさわしい。

*3膝の上に置いて爪弾く古楽器。吟遊詩人が英雄叙事詩(ブイリーナ)の伴奏に用いた。

 白夜である。火を飛び越す女たちの頭上に、星は唯ひとつ――愛と美の女神ヴィーナス〔金星〕だ。

  永遠はつねにひと瞬き
  子らは永遠の瞬間を生きる
  愛は永遠の一瞬
  永遠の渇望は死に臨む母の祈り
  永遠の感情は死の床にある人の母性、そうではないか?
  (禁欲主義の起源―永遠崇拝、肉欲の抑え)

編訳者の参考メモ(3)――水の魔ヴォヂャノーイ

 ドモヴォーイと同様、これもウラヂーミル・ダーリのエッセイである。

 ヴォヂャノーイ、ヴォドヴィーク、ヴォヂャニーク、あるいは水の爺さん、水の魔物―― こんなふうにさまざまな名で呼ばれているものが、大きな川や湖、沼地などの、繁茂したアシとかスゲの中にひそんでいて、ときどき、丸太や素焼きのでっかい壷に摑まって泳いだりする。棲みかは、深い川の淵か、たいていは水車小屋の近くにある。この老人は素っ裸だ。ただし水底の藻や水草を衣服がわりに身にまとっている。生活習慣から言うと、レーシィ〔森の魔〕に似ているようだが、体毛はない。それと、レーシィほどしつこくない。うるさいレーシィとはよく派手に罵り合う。水にもぐって何日もそこで生きていける。陸(おか)に上がるのは、夜の間だけである。ところで、ヴォヂャノーイがあまねく知られた存在かと言えば、じつはそうでもないのだ。レーシィがつねに単独行動で、オーボロチェニ〔魔法をかけられて獣やモノに変身した(またさせられた)人、バケモノ〕などを除くと、さして仲間らしき者もいないのに対して、ヴォヂャノーイの方はルサールカ〔人魚のような姿をした水の精〕とうまくやっていて、彼らのボスと見なされることもある。ヴォヂャノーイに関する詳しい資料は、なかなか収集が困難だ。実際にこの目で見たというお百姓には、たったのひとりしか出会わなかった。大半は、どこかにおるこたおるが、そこがどこかは誰にもわからん、という話。要するに、その程度なのである。ヴォヂャノーイはけっこう臆病な年寄りで、たとえば何かに腹を立て、泳いでるヒトの足を掴んで溺れさすようなことをしても、それは自分の王国である深い淵からは一歩も出ないし、足をひっぱられる方にしたって、十字架を首から下げもせず、しかも季節外れ(秋も終わりのころ)に水浴びなどする人間に決まっているのである。
 ヴォヂャノーイは鯰が好きで、きっと鯰の背に乗ったりすることもあるだろう。ときどき、青い蒲で大貴族(ボヤーリン)ふうの帽子を編んだり、腰の辺に蒲や藻を巻きつけて、いきなりバァーと水飼い場の家畜たちを驚かすような真似をする。水中でヴォヂャノーイが、よしあの牡牛(か牝牛)に鞍を置いてやろう(つまり乗ってやろう)――そう思っただけで、当の牛はへなへなになり、ずぶずぶ深みにはまって死んでしまうこともある。静かな月夜の晩に、ヴォヂャノーイが、気晴らしに手のひらでばしゃばしゃ水面を叩くことがあるが、その音はかなり遠くからでも聞こえてくるそうだ。こんな俗信がある――氷にあけた穴のそばに去勢牛の皮を敷いて、腰を下ろしたら、蝋燭の燃えさしで自分のまわりに線を引く。すると真夜中、氷の穴からヴォヂャノーイたちが這いずり出てきて、その牛の皮を、坐ってる人間ごとどっかへ連れ去ろうとするから、こちらは間髪入れずに余裕をもって、魔除けの呪文「触るな(チュール・メニャー)!」を発しなくてはいけない。あるとき、子どもたちが水車小屋の近くで水浴びをし、遊び終わって服を着始めると、何者かが水中からぬっと顔を出して、こう叫んだ――「いいか、おまえたち、家に帰ったら、クズィマーが死んじまったと言うんだぞ!」それだけ言って、水にもぐってしまったという。子どもたちは家に戻るなり、父親にそのことを伝えた。すると、突然そのとき、何者かがペチカの上から「あーい、あいあい!」などと騒々しい声を発しながら跳び降りたかと思うと、あっと言う間におもてへ飛び出していった。それはドモヴォーイだった。どうやらドモヴォーイに、誰かのことでヴォヂャノーイからのメッセージが届いたらしい。水車を壊したり土手を崩したりする水の魔を、まじない師(ズナーハリ)は、朝夕の空焼けどき、灰をひと袋ばかり水に撒いて追っ払うのである。その手の話はごまんとある。(太田正一訳)

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