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プリーシヴィンの日記 太田正一
2010 . 09 . 26 up
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6月2日
ソフィヤ・ウラヂーミロヴナ〔未詳。ペソチキ村の住人か?〕の小さな家は見晴らしのいい場所に建っていて、夕景色がじつに美しい。フランス人の神父が立ち寄ったので、みなして日没を見に出かけたことがあった。まだ登りきらないうちから、神父は手を叩いていた。誰に向かって〔手を叩いているのだろう〕? 振り返ったら、なんとそのフランス人、今まさに沈まんとする太陽に向かって拍手していたのである。
〔ペソチキの〕うちの近くに教育家のレーベヂェフが移ってきた。彼はこの土地が気に入って、歓声を上げている――植物学的にも地理学的にも美学的観点からも、ここは讃嘆すべき土地である、と。
ついで、子どものための未来の教育プランを展開しだした。彼によれば、子どもたちは家庭から専門家たちの手に移されるべきである――たしかにそのとおり、それが最も民主的な考え方であるだろう。〔しかし、教育者としての〕天分があろうとなかろうと、それぞれわが子を養い育てて、たとえ世界的な共同事業の最小限なりともそれを成さんとする家庭以上に民主的なものはないのではないか。だからこそキリストの教えもつねに家庭をそのシンボルと見なしているのだ。
ウラヂーミルの妻が窓から拉致された。この一家は大変な金持ちで、農民などには手が出なかった。ウラヂーミル家の家風に誇り高さを持ち込んだのは、その妻だった。そんじょそこらの農家の若者がこの家の娘たち――ウラヂーミルには娘がたくさんいた――に近づこうと思っても、まったく無駄だった。農民に嫁がせる気はまるでないから、誰も窓から忍び込もうなどとは考えないのだ。〔ウラヂーミルとその家族については未詳。ペソチキ村の住人か?〕
失敗者は失敗したから失敗者ではない。成功した幸福な人間も失敗者(ヨヴ*)になるのだ。失敗者――それは一種特別な尺度、哲学、タイプ、現実認識、である。わたしの失敗は失敗でない。なんとなれば、わたしは〔個人として〕生涯、取り組みかつ突破しなければならない大きなものを感じているからだ。
*旧約・ヨヴ記――ヨヴの教え。
6月10日
ほとんどの人間は自分のスカースカ*を持っている。必要なのは選ぶ仕事ではなく、そのおのれのスカースカを理解する〔掴む〕ことだ。
*スカースカ(сказка)は、おとぎ話、昔話、民話、童話、世にも不思議なこと、夢物語、作り話、でたらめ、といろいろ翻訳できる言葉だが、プリーシヴィンは、これを単なるフィクションとしてではなく、夢を現実のものとする人間の〈創造的な夢見る力〉として、〈この現実を変革する力〉としてとらえている。「わたしたちはみなこう理解している――スカースカの中にこそ真実は潜んでいるのだ、と」(1945年の日記)。よく知られた児童文学作品『太陽の倉』(袋一平訳・講談社)の副題はスカースカ=ブィリ(ブィリは実話の意)、中篇『船材の森』の副題はポーヴェスチ=スカースカ(ポーヴェスチは中篇あるいは物語の意)で、ともに逆境にある子どもたちの克己がテーマである。
6月11日
地〔バック、背景〕(一字判読不能)、原因、物自体〔カント哲学でいう〕――これが創造の個(個性、личность)であり、信念〔信仰〕はそれをめぐるもの。作品は作品、信念は信念、つまり別のものである。作品と信念。そこで問う――創造の個たるゴーゴリは、トルストイはなぜ、道を説き始めたとたんに創造を停止したのか? 彼らの伝道が不完全なのか?
河川の氾濫のあと水が引くと、どうして浅瀬にあれだけ多くの島々が出現するのだろう? 水と土。そんなとき自分は、新大陸の希望の岸を目のあたりにした気持ちになる。すぐにもその岸のことを土のことを誰かに喋りたくてたまらなくなる。冠水前の同じ土が姿を見せただけなのに、自分らの土地がただ水に取り囲まれたにすぎないのに、誰もが面白がって、いつも繰り返すのである――あそこは今や特別の土地になったが、なに、まわりの水はただの水にすぎないのだよ*。
*余計な注だが、「地肌が見えてきた」(『ロシアの自然誌』の春の章)では、水と島ではなく、春の雪解けでところどころに黒い地肌が見えてきたのを、プリーシヴィンの息子は、航海中のコロンブスみたいに「陸だ、陸だ!」と叫ぶ。こちらは雪と島。
もし自身が悲しみの因なら、その悲しみはどうでもいい。信念が個性をつくるのだ――プラズマがフォルムを得ようとするように。
つまり、創造の根底にはフォルムがあるということ。個性が群集と大きく異なるところは、個性はフォルムの秘密をわがものとしているが、群集はフォルムにその内容物を注ぎ込むばかりで、彼ら自身はその信ずるところに従って器を聖なるものとする――ただそれだけである。したがって小さな器が自分のものでない中身を繰り返し唱えてもどうなるものでもない(繰り返しは意味がない)。
不幸が生ずるのは、創作自体が信念の身体を動かしているからである。
信念は身体とフォルムを有している。身体は信ずるもの〔身体〕、フォルムは創造者。
そこで〔一語判読不能〕のテーマあり――他人の名を騙る者(サモズヴァーン)もしくは神の使命を担う者(ボゴズヴァーン)。
これまで尊崇の対象だった石の女(バーバ)の、あのベレンヂェーイの沼地から、ツルコケモモの小道をたどってトロイツェ詣でにやってきたのは、ひとりの老婆であった。
人間はすべて二つに分かれる。信仰の海へ流れ込む(それを願う)者たちと、創造者たらんとする者たち。二種類のヒト――水と牧人〔司祭〕。
6月13日
ボボルィキン〔作家のボボルィキンではなく、ここでは構想中のロマンの登場人物。同様に、以下に出てくるオネーギンもプーシキンの《オネーギン》ではない〕の心理について。搾りたての牛乳のように、手付かずの地味・素朴さで持っている簡単なものがある。スメタナ〔サワークリーム〕は複雑で価値ある製品だが、スメタナから搾りたての乳をつくってみろと言われても無理である。結婚も同じだ。誰にもさして難しくない、特別どうということもない出来事なのに、ボボルィキンにはとても実行不可能なことに思える結婚。彼はあれこれ頭を悩まし、結局、すべてが自分自身に帰着してしまう。自分はみなとはまったく違う、何かが変だ、おかしいんだ――そう感じている。ところが実際のところ、ほかの地主たちと比べても、駄目な劣ったところなど、何もないのである。十分教育は受けているし、貴族の家庭で教養もあり、非の打ちどころのない美男子で仕事もよくできる。この上なしの志を抱き、素面でいるときは、恋人として誰より勝れて立派であるのは明らかなのだが、それでもどこか自分にはまずいところ、いや罪がある、みなより劣ったところがあるのかも、と思ってしまうのだ。家庭は彼にとって永遠の避難所であり、大いなる事業、ひょっとしたら、そこにこそ自分の罪があるのかも。誰しも容易に手に入れるものを、彼はあまりに強く求めた。そうした欲求にもおのずと限度やきまりごとがあるものなのに、ふつう以上に、極端に烈しく求めれば、本も子もなくなるし、踏んでいる地面もぐらぐらしてくる……
この現代版《オネーギン》のタイプは、新しくはないだろうか? 平凡な暮らし(ブードゥニ)に惚れ込んだ人間、ブードゥニの暴力的なポエジー。家族、正教。行動。原則としての農婦との結婚*。
*明らかに自伝的性格を帯びている。長編『カシチェーイの鎖』のヒーローの形象。
アジーモフ・フョードロヴィチ老人〔プリーシヴィン家の領地の隣家の地主〕の名の日*1は5月12日。この日にはアジーモフ家の全員が集まる。郡内だけでも相当の数だ。この一族は昔、ヨーロッパを脱してこの地へやってきた。家紋は、絶滅しかかっている希少動物のビーバー。青いビーバー*2だ。だが、アジーモフ一族がロシアであまりに増えすぎたため、イワン雷帝は、彼らの青いビーバーの紋章を剥奪してしまう。
「貴様たちは豚のように繁殖した」そう言って、彼らの家紋をイノシシにするよう命じた。
*1名の日(また聖名日)――ギリシャ正教で自分の洗礼名にあやかった聖人の祭日にあたる個人的祝日(聖名祭)。誕生日と混同される。
*2《青いビーバー》は『カシチェーイの鎖』のヒーロー(アルパートフ)の幼年時代そのものを指すかのように記されている。(八)を参照されたし。
懐疑論者は神聖な存在だ。創造的個と信ずる個との間の存在――あれでもないこれでもない、と。懐疑論者は失敗者から生まれる。そのミッションは信ずる者たちの道を清めること。
6月17日
ペテルブルグ。
公爵家の屋敷〔敷地が高等農業専門学校に〕。公園、樹木(菩提樹、オーク、ここには稀なトネリコ、広葉樹)。ロシアでは樹木は唯一の記念碑だ――北方におけるオークとトネリコとは、(一語判読不能)と同じく人間の創造物である。
ある宮殿がスターラヤ・ルーサに移され、それが療養所(クルガーウス)になった。〈宿営(ラーゲリ)〉と〈兵舎(カザールマ)〉は今や、クイナが持ち前のしつこい説教を(これまでどおり)のどかにぶつ草地と化しつつあって、その先の草木が豊かに生い茂る並木道の角には、露里標まで建っている。アラクチェーエフ*1の並木道だ。これまで〈古い兵舎〉と称した広場は、ステーブト女子高等専門学校*2になっている。
*1祖国戦争(1812)のあと、ロシアは広大な農業地帯に屯田兵制(農民を軍務に就かせて国の守り手とする)を導入。アレクサンドル一世の側近で、国政を左右した反動家アレクセイ・アラクチェーエフ伯爵(1769-1834)が強行し、それに反対する農民を弾圧した。ノーヴゴロド県下の村々も免れなかった。
*2ペテルブルグに1904年創立、正式名は帝室農業博物館付属高等女子農業専門学校。農学者イワン・ステーブト(1833-1923)が主導したので、その名がある。ステーブトは1854年ゴールィ・ゴレーツキイ農業大学を卒業、しばらく母校で教鞭を執り、1865年から10年間、モスクワのペトローフ農林アカデミー教授。長年にわたって女性の農業教育に力を尽くした。著書に浩瀚の書『ロシアにおける畑作物の基礎理論とその改良法』、共著に『農業便覧』。1869年に「ロシアの農業」誌の創刊・編集(〜70)。プリーシヴィンは1904年の一時期、モスクワのペトローフ農業大学のプリャニーシニコフ教授の植物実験所で働いたことがある。
農業に盛んに振り出される貸付金のおかげで、今ではいろんなものがあっと言う間に出来上がる。一方には堂々たる植物実験所、一方には施設長たちが自力で建てた厩舎をもモルモットやアナウサギのための飼料槽をもまるごと収容してしまう巨大な畜産実験棟。以前はアナウサギだったが、今は14頭の乳牛を使って同じ実験をしている。飼料の消化吸収に及ぼす酵母(イースト)の力等々の実験である。園亭から森の番小屋へ移動する。
測地用の器械とどこかの令嬢。道端にコートを広げて横になっている。器械の存在に気づかなければ、高等専門学校の学生とはわからない。水準器。馬もただ繋がれているわけではなく研究対象そのものであるし、小屋の周辺も単なる周辺ではなく面積、容量すべて測定の対象となる。熱心が過ぎて、屋根によじ登っている女学生もいた。フライパンもただなんとなしに叩いているのではない、山羊をおどかしているのだ。屋内では乳腺の秘密に挑んでいる。おどかすことで分泌に大きな変化が生じるらしく、若い山羊のそばで、ひとりの学者が不意に「わあ!」とか叫んでいる〔山羊をびっくりさせてプレッシャーをかけているのだ〕。
中等師範学校のデッサン〔線画〕の授業では、メンデレーエフの法則のチェックだ。ダーウィン以前になされた搾乳の実験が最近また見直されている。驚くべき個性(特徴)の発生・出現についての説明は、雑種が死滅し、一方ではるか昔の先祖たちが生き残り、概して異種混合(スメッシ)や中間物が〔完全に〕姿を消すというものである。
コスチューム。幅広の紺のズボンと紺の仕事着が小柄な身体にぴったりの、痩せっぽちの少年ミーシャ。女の子なのに農民たちはしきりに「ミーシャ、ミーシャ!」と声をかける。日本製の、歩きにくい窮屈そうなスカート。ズックのズボン、ズックの上着も見える。かと思うと、紺のズボンを穿き、長い髪を肩まで垂らした女性がいかにも誇らしげに歩いている。向こうでは秤を使って糞の重さを量っている。肥やしの匂いだ。封をしてペテルブルグに運び出す作業はもある。禁欲者ナロードニキの娘。顎鬚男とそうでない男。ウローツトヴォ(奇形)は知恵が備われば、ひょっとすると、ユローツトヴォ(聖愚)に変ずるのかも。特殊な自分のいつもの気配を察知し、〔意識的に〕それを利用するだけでいいのだ。スカートを穿いたディオゲネスを自称する学生は仔馬を馴らし、仔馬を連れてどこへでも出歩く。講義のあいだ外で待たされている仔馬がひづめでドアを蹴ったりし始めると、教授が止めさせなさいと注意したりする。タイプ――地味なつくりの赤い小さな帽子が、露にぬれたクローヴァーの原をどこかへ向かっている。裸足で。担いでいるのは測量の器械だろうか。あれこそベストゥージェフカ*のタイプである。あれとこれを(母親と進んだ女を)ひとつに繋げるのは不可能だ。とどのつまりは挫折して神経衰弱――そんなことが言われる。
*ベストゥージェフ女学院の女子学生のこと。1878年にペテルブルグに創設された女子高等教育施設。初代校長である歴史家コンスタンチン・ベストゥージェフ=リューミン(1829-97)の名から。帝政時代、女子の大学への進学は許されず、向学心に燃える富裕層の子弟はヨーロッパ(フランスやスイス)へ留学した。1869年にロシア最初の高等女子専門学校(医師と教師の養成機関として)が首都とモスクワに。よく知られているのは、モスクワのウラヂーミル・ゲリエーの学校(1872)とペテルブルグのベストゥージェフ女学院(1878)である。ちなみに、レーミゾフの奥さんセラフィーマ・ドヴゲッロも、逮捕と流刑に遭うまでこの女学院の学生だった。(十三)の編訳者によるエッセイ(三)。
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