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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 09 . 05 up
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 5月初め、木々が枝葉をいっぱいに広げるころ、ときおり森の中から、真っ白な、着替えをすっかり忘れてしまったらしい小さな野ウサギが飛び出してきて、青い草の上をまるで生きている雪みたいにぴょんぴょん跳ねていたりする。

 真っ昼間、フクロウがびっくらこいて、えらくぶざまに翼をはばたかせ、自分でもわからぬまま、とにかく前方へ飛んだ。銃声が轟いたのだ。それで反対方向へ。だが、そっちは伐採の真っ最中である。驚いたのなんの。逃げ場がない。ばさばさ羽を鳴らして、垂直線を描くように、どんどん空に舞い上がっていった。こちらはそれがほとんど消えそうになるまで見つめていた。目の見えないフクロウは光をめざして飛び続けた……まさか、こんなことってあるのだろうか――フクロウがたった一羽で、しかもたった一度のあんな飛翔が!

 権力、栄誉、概して何かそういう特別なものが欲しいと思う人間は、たとえいちばん簡単で容易なもの、たとえば結婚などを願っても、その望みが全存在を満たすほどに願っても、うまくいかない。それで結局のところ、結婚しないのである。こうした異常な願望は、失敗者の心理学をつくりあげてしまう。
 すべてがうまくいく幸福な人間は、決して骨の髄まで望まないが、失敗者は因循姑息な頭で願望する。幸せな人間はぶるっと体をゆするだけですべてを手に入れてしまうが、不幸な人間は死に物狂いだ――どうしてそうなるのか? そんな特別の願望でもって、彼は群れから出ようとするけれど、しょせん単独者、うまくはいかない。なぜか。独りだから。一方、欠けるところのない人間には常に共鳴者、同調者が現われる。そしてそこには、みなと共通した、理解し合える何かがある。それゆえ誰もが手を差し伸べる――『みんなと一緒なら(ナ・ミルー)死も恐るるに足らず』というわけだ。
 幸福者の不運はみなと一緒の〔共通の〕不運である。だが、失敗者の不幸は単独の不幸、自分だけの不幸だ。そしてさらに厭なのは、すべてが見え見えである――骨格が透けて見えている――こと。たとえば、権力を志向するのは勝手かもしれないが、失敗者はそのことには一言も触れずに(いったい権力者の何が悪いのか?)、隠したまま、みなと同じように振舞うという点だ。その取る態度も行動も高飛車でじつに高圧的……無作法で……そんな奴が権力を握るなど、もってのほか。権力を握るとは、人びとの幸福(ブラーゴ)を護る覆いとなることでなければならない……そうでなければ、あまりにちっぽけであまりに卑しい……だが、失敗者はみなちっぽけで卑しいか? そうは言ってない。ただ最後の最後で傷ついて、骨がずきんずきんするだけである。
 失敗には背を向けよ……幸福に顔を向けること……人生は戦いだ。
 人生は戦い。戦場にいるのは二つの神――幸せな勝利者の神と不運な敗残者の神だ……勝利をめざす人間は仆れる人間のことなどどうでもいい。戦闘中なのだ。そんなふうにして、最後に戦場は不具者と勝ち組に二分される。そしてその両立こそが大問題!
 これはべつに失敗を運命づけるその異常な願望の分析ではない。
 「人類の未来――それは失敗者たちの勝利。思想と骨とが勝利し、肉は腐って悪臭を放つだろう」とは誰かの言(哲学の結論だ)。
 だが、肉の幸せ……彼らは、その勝利者たちは自然を憎悪するにちがいない。それが彼らの復讐だ。

 えいこん畜生め、角無きものよ呪われよ(ついカモに悪態をついてしまった)。〔弾が当たらなかった?〕

 先祖追善の土曜日、親の供養が村の墓地であった。これは立派な、特別なロシアの習慣である。

正教で親族記憶のスボータ(土曜日)。断肉のスボータ、大斎の2、3、4の土曜日に親族(死者)記憶の儀式を行なう。五旬祭前のスボータにも行なわれる。

 ひょっとしたら、人間は無意識のうちにキリストの事業を行なっているのかも。協同組合、社会主義、科学、これらすべてを。ひょっとしたら、必要なのは、中心に目を据えるのではなく、周縁をめぐって、それから中心へ向かわなくてはならないのかもしれない。(二人の聖職者―スピリドーン神父とニコライ神父〔エレーツの人〕)。さらに言えば、それは、これまでのように(長老、隠者という)個性にではなく、社会性〔公共的なもの〕にこそ見るべきなのではないか。議論すべきはこの一点。

 針葉樹の森で育った丈高い松、カーンカーンと音のよく通る松の大木。それで家を建てて、余計な壁紙など一枚も貼らなければ、家での会話は全部、おもての通りへ筒抜けである。こちらが移り住んだのはまさにそうした家だったのだが、そんな造りであることを全然知らずにいた。

 芸術家となるのはヒトが幻影と化す、まさにそのときである。ロマンとしてのわが私的生活は終わったなどと言う作家たちがいるけれど、そんなことだからロマンが書けないのだろう。おそらく才能が無いのだ。

 

 芸術家となるのはヒトが幻影〔非現実〕と化す、まさにそのときだ。そうした状態(エゾマツその他*1――どうしてそれを描かずにいられよう?)をわたしは経験している。ベールィの『ペテルブルグ』*2もまさにそこから生まれている。世界の非現実性――それは芸術家の魂の個人的(主観的)な状態であり、そこから現実(リアリティ)へは移行できない(もし〈わたし〉がリアルでないなら、いったいリアリティなどどこにあるだろう?)。非現実性――それは結び目〔複雑に絡み合ったもの〕を露にすること。

*1プリーシヴィンの、とくにミニアチューラ(小品)には、自然への生への没入忘我=エクスタシーが横溢している。「流れの生ずるさまを、わたしは陶然として見守っていた。丘に木が一本立っていた――かなり背の高いエゾマツである。雨のしずくが枝をつたって幹に集まり、大きく膨らんだかと思うと……」(「別れと出会い」)、「……生のまったき充溢がわたしをとらえた。(中略)漲る涼気とやさしい雨の伴奏にうとうとと微睡んで、次第に自分が宇宙とひとつだと感じていくのは、いかにも心地よい」(「サギ」)。
 
*2アンドレイ・ベールィの代表作。20世紀ロシア象徴主義の鬼才の異常なまでの想像力。(『ペテルブルグ』川端香男里訳・講談社)。(十五)の注。

   われわれには都市と農村の生活面を交互に取り込むという大いなる習慣〔習性〕があり、もっぱらそうすることで、われわれのバランスは保たれているのだ。

 〈生けるお荷物〉――独立農家(フートル)を所有する個人主義者は、オープシチナ(共同体)のかつての仲間たちをそう称している。連中に必要なのは、棒か鞭かはたまた学習――そう、これまでのやり方とは違った何か特別の、それもフートルの個人主義者が有するような能力をちゃんとひとりひとりに賦与する訓練だ。弁護士とか医者とか技師とか、要するに人の役に立って、各自が目標に向かって進めるためのさまざまな訓練学習が必要である。それがない農民は駄目だ。なんとなれば、すべての農民が農業をしたいと思っているわけではないから。仕事をちゃんとこなしている者もいるけれど、実態は10人中9人までが〈生けるお荷物〉。こうしたお荷物には法もしくは訓練学習があって然るべき――そうフートルの個人主義者は思っている。

 シチェドリーン*1の『亡霊』は〈一幕物〉だが、とても退屈だ。賞味期限が過ぎてしまったからだろう。アレクサンドリンスキイ劇場の俳優たちがあれほど立派に演じたにもかかわらず、なんだかマリオネットの舞台でも観ているようだった。わたしがペテルブルグを発って根のロシア*2へ行こうと決心したその翌日、突然、登場人物のタイプが生き返って、わたしと同道すると言いだし、そのためペテルブルグそのものがファンタスティックな都(まち)と紛うばかりになった。リアルなものは何ひとつなく、ただただ奇妙な感じ――まあ、白樺の若木が一段と緑を濃くしたせいかもしれないのだが。
 タイプとは、リアリティーとは、いったい何なのか?

*1ミハイル・サルトゥイコーフ(1826-89)――トゥーラ県の地主貴族の家に生まれる。シチェドリーンはペンネームだが、ふつうサルトゥイコーフ=シチェドリーンという二重姓で呼ばれている。幼少から詩を書き、ツァールスコエ・セローのリツェイを卒業(プーシキンの後輩だ!)後、官界へ。青年時代にはベリーンスキイとサン・シモンに強い影響を受けた。48年に『矛盾』と『ごたごた事件』を書き、それが当局の怒りを買って流刑地(ヴャートカ)へ追放されたが、56年、官界へ復帰した。57年、『県の記録』で本格デヴュー。「ゴーゴリ以来、ただのひとりも、これほど徹底的に官僚主義と独裁政治の悪弊を攻撃した作家はいない」(マーク・スローニム)。雑誌「同時代人」「祖国の記録」の編集に従事する一方で、『ある町の歴史』『ゴロヴリョーフ家の人びと』などの数多くの傑作を世に問うた。
 
*2サルトゥイコーフ=シチェドリーンの「退屈な」一幕物に対抗して、プリーシヴィンはその独自のペテルブルグ論――《ペテルブルグ―根のロシア》を展開する。初めのうちはただ漠然と〈根っこのロシア〉は母なる大地のどこか奥深いところにあると思っていたが、じつはそうでないとある日ふと気がつく――『ペテルブルグこそ自分の根っこだ!』と。都市や人間よりもユーラシアの大自然を相手に仕事をしてきたと思われていた作家が、いやじつは自分の自然観を決定づけたのは「最も抽象的で人工的で非現実的(幻想的)なペテルブルグ」だったと言い出したのだ。たとえば――「わたしはこのひかりの都(まち)で自分の文学人生を始めた……私がペテルブルグを好きになったのは、自由のため、創造的な夢想の権利のためだったのだ……このひかりの都は……いま悲劇的な栄光の中で、わたしの眼前に立ち現われ、わたしを鼓舞する」(短編「ひかりの都」は『プリーシヴィンの森の手帖』に収載・成文社刊)。ちなみに「いま悲劇的な栄光の中で」とは第二次大戦下のナチス・ドイツによるレニングラード九百日の封鎖時に書かれたことを示す。日記以外でよく語られたものに『青銅の騎士』(プーシキン)やピョートル大帝の神話が、また対論としての『ペテルブルグ―モスクワ』、『ペテルブルグ―根のロシア』、『ペテルブルグ―レニングラード』、「大都市と〈小さな人間〉」のモチーフはつとに知られている。最初期の失われた原稿「霧の中の小さな家」(1905)、短編「青い旗」(1918)、長編『カシチェーイの鎖』から、短編「ひかりの都」(1943)、ロマン-スカースカ『大王の道』(1948-1954)に至るまで、すべてテーマはペテルブルグである。

4月29日

 モスクワ。スレーチェンカ(ペチャートニコフ界隈)の家具付きの部屋。オリガ・ゲオールギエヴナ・ヤノーフスカヤ――レーベヂェフ家の伯母。クラウヂヤ・ワシーリエヴナの小母さんだ。スレーチェンカの埃っぽいアパートの一室で、黒土地帯出の地主(祖母)が余生を送っている。壁の戸棚。戸棚には親戚の女たちが村から持ってきたジャムと漬物が入っている。小母さんは女子高等専門学校生の世話をしている。泊めたり、食事を与えたり、紹介状を書いてやったりといろいろだ。いちど他家へ嫁いだ(嫁がされた)が、いまは専門学校に通う女性たち。

クラウヂヤは構想中のロマンの登場人物、(十四)を参照のこと。レーベヂェフ家については未詳だが、ヴォロヂーン家(十七)と同様、プリーシヴィン家と付き合いがあったエレーツ在住の一族か?〕。

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