2010 . 08 . 29 up
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* ノルマン人の古代ロシア名。西ヨーロッパではヴァイキングともデーン人とも呼ばれた北方系ゲルマン部族。バルト海(主として現在のスウェーデンの湖水地帯)を本拠地として世界の各地へ遠征。略奪と交易を繰り返した。ノルマンディー公国、ノルマンのイングランド征服など。ロシア北部地方への遠征については、『過ぎし歳月の物語』(『原初年代記』)の862年の項に、内乱に苦しむスラヴ諸族の招きに応じて到来した半伝説的な三兄弟とその一族郎党のこと〔いわゆるリューリク招致説話〕が記されている。長兄リューリクがノーヴゴロドを、さらに南下してキーエフを一族のオレーグが占拠・支配し、そこにリューリク王朝(キーエフ・ルーシ)の礎が築かれた。以後、ヴァリャーグ出のリューリクの子孫がキーエフ国家の統治者(公)となる(イワン雷帝まで)。
氾濫―――それは惑星(プラネット)の変容。最初の地の耕作者はモグラである。森のしじまを一匹のミズネズミが泳いでいる。水たまりの向こう岸めざして。見えているのは、小さなその黒い頭部と長く尾を引く航跡*。
*『裸の春』(1938)にそっくりの表現がある。『自然の暦』(邦題『ロシアの自然誌』)、『森のしずく』、『裸の春』は、いずれも革命(1917)以後の作品だが、1914年の日記にも〈森と水の詩人〉の面目躍如たるものがさまざまメモされている。
響きわたる沈黙……春先、とはいえまだ名のみの春だが、太陽と冬とが戦端を(それも日没前に)開く。鳥たちはまだ口を噤んでいる。冷たい濃紺の雨雲が太陽を隠すと、忽ち冬も闇も舞い戻ってくる。そのうえ雨まじりの風でも吹きだせば、森羅万象死に絶えたかと思うほどである。朝焼けはなく、冬と夜がごちゃまぜだ。と、不意に分厚い雨雲の下へ突き抜けた大鎌の刃一閃。ぴかっと光って、ついに姿を現わす。何が? もちろん太陽が。切り裂かれた空の青を静かに流れて行くのは、眠れるプロメテウスの頭とも紛う雲……森に静寂が、力みなぎる朗々たる沈黙が、音なう〔訪れる〕。そんなとき、わたしはなぜかいつも、どこかでカッコウが鳴いているような気がするのだが――ふと我に返れば、なにそんな気がしただけのこと! でもなぜか、歓びが、嬉しさがこみあげてくる。カッコウが鳴きだすにはまだたっぷりと時間があり、山なす緑の奇蹟がつぎつぎ起こるのはもう明らかだ。
良心――それは人間の社会的関係において害を為す現象だ。ヒトは自分自身と不和であるが、最後まで自責の念と戦い、因を外部に求めようとする。そうして怒りにかられて、まわりの何の罪もない多くの人間が身を滅ぼす――それが自身に及ぶまで。おのれの身に及ぶと、卵が潰れるときのように、まず殻にひびが入るが、その殻の下からまた殻が現われて、それを破ればまた次から次に殻が、まるで複雑きわまる復活祭の卵のごとく現われ、開けても開けても、どんどん新しい殻が出てきて、ついに最後まで行き着くと、大きさは小さなエンドウ豆ほどになって、もうそれ以上は開けることができずに、それでおしまい。それでもまだいいのだ。少なくとも最後まで行き着いたわけだから。次の日、何かいいことを思い出すかもしれないではないか。じゃそれは何だろう? そう、それは最後に残った小さな小さな卵。次の次の日にはもっといいものが……なぜ「もっといいもの」なのか? わたしは自分がどんな人間であるかを知っているのだ! そうであるのに、最初の殻はすでに閉じ、次の殻も次の次の殻も閉じて、すでに卵が複雑きわまる鎧で覆われていることに、誰も気づかない。そして良心の新たな爆発にまで、最終的な暴露と新しい人びとの破滅にまで行ってしまうのである。自分自身の小さな卵をもっておのれの良心に他人を巻き込むことがなければ、ようやく人間は人間としてとどまって、愚かしさと手を切ることができるのだ。
女性問題は本質的には男性の問題、われわれ男性の意識の問題である。なぜなら、大多数の人間にとって、意識の目覚めのときは〈生命(ジーズニ)〉の、すなわち女性の必要欠くべからざる要求の瞬間であるからだ。で、そのとき、〈幸せな人間〉だけは生の識閾(しきいき)が横へ広がるのに、〈不幸せな人間〉の場合はそれが縦に(垂直に)深化するのである。幸と不幸は単に異なる生の二つの次元にすぎない。わたしは〈深く〉不幸せだったし、外への広がりも持たず、最初の意識の閃きとともにすでに自分の内へと沈み込んでしまい、一緒にいたのは一度も具体的な形を与えられたことのない青い許婚(いいなずけ)〔голубая невеста〕だったのだ。わたしはただ外へ広がる幸福の予感を味わっただけで、たった一度、二つの道、二つの世界の境界にいたにすぎなかった……それか、ときどき脳裡をよぎったのが、途轍もなく大きな湖、いやもっとどこかに巨大な鏡が――澄んだ水を湛えた静かな湖そっくりの鏡がかかっていて、その水鏡に万物が映っているという図であった。そうしてそこにこそ本物の美しいものがあると思い、それで、ここが、今いるところが全然よくなく、貧弱で、理解がいかないときには、そちらの湖にちらと目をやるだけですべてが氷解するのかも――そう思っていた。そういうわけで、わたしがやってきたのは、オタマジャクシの泳ぐ粘土質の池のフルシチョーヴォ〔故郷の村〕からではなく、そっちの湖からなのである。何よりだったのはわが家に庭があったこと。夢によくその庭が出てきた。なぜか丘の斜面を歩いている。木々はまばら。なのに一本一本が遠目にもきらきら光っていて、鳥がいた。メソポタミアのどこか、まるで天国にでもいるようだった。今でもそんな夢を見続けている〔ということは〕、小さなわたしが、庭の、どこにでもあるそんな林檎の木が本当に好きだったということだ。大いなる孤独こそが天の星々に手を触れ得るのである。破滅した碌でなしが森の荒野をさまよいながら、こんなことを思っている――おれみたいなダメ人間は二度とよみがえることはなく、過去には気取りと見栄のほかには何もない、と。だが、ひょいと天を仰げば、思いがけずその目に映る星影ひとつ。エゾマツの梢の先のその先の、冷ややかにして荘厳なる空焼けにきらきら光る大きな星。
ヨーロッパに行きたい、逃げたいのかも。
text - 太田正一 //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk