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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 08 . 29 up
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 ペテルブルグから200露里、ヴァリャーグ時代のように、文化のブの字もなく、何ひとつ与えられずに骨の髄までしゃぶられた、原始自然のままの村むら。ペテルブルグの生活はこんな村よりずっと安上がりである。だいたい価格が低い。ペテルブルグでは仔牛肉1フントが16コペイカだが、ここでは30コペイカもする。バター〔また油、何グラムなのか?〕はペテルブルグで35コペイカ、ここでは40コペイカ。卵は25コペイカ、こっちは30コペイカ。いずれもそんな感じだ。何のためにこんなところに住んでいるのか? ある村で訊いてみた――「どうしてここに住んでいるんだね?」「そりゃあ空気のせいさ。ここの空気はからだにいいんだ」。そう言いながら、誰もがペテルブルグへ逃げ出そうとしている。小さな村から大村(スロボダ)へ。

ノルマン人の古代ロシア名。西ヨーロッパではヴァイキングともデーン人とも呼ばれた北方系ゲルマン部族。バルト海(主として現在のスウェーデンの湖水地帯)を本拠地として世界の各地へ遠征。略奪と交易を繰り返した。ノルマンディー公国、ノルマンのイングランド征服など。ロシア北部地方への遠征については、『過ぎし歳月の物語』(『原初年代記』)の862年の項に、内乱に苦しむスラヴ諸族の招きに応じて到来した半伝説的な三兄弟とその一族郎党のこと〔いわゆるリューリク招致説話〕が記されている。長兄リューリクがノーヴゴロドを、さらに南下してキーエフを一族のオレーグが占拠・支配し、そこにリューリク王朝(キーエフ・ルーシ)の礎が築かれた。以後、ヴァリャーグ出のリューリクの子孫がキーエフ国家の統治者(公)となる(イワン雷帝まで)。

 親父さん〔親しみをこめて言ってるだけ〕から小さな一軒家を借りた。ズボールナヤ通りの住人はみな彼の井戸から水を汲んでいるが、今は、家も庭も井戸も、借りたわたしのもののはず。でも、村人たちは相変わらず、あたりまえのようにわたしのところに水汲みに来る。井戸端にたまに顔なじみが集まれば、世間話に花が咲き、その花はしぼむことがないのだが、それが独りのときは、桶の音と車輪の軋む音しか聞こえてこない。うまく水が汲めないときは、『おお、イエス・キリストよ!〔Господи Иисусе Христе!〕』と天を仰いだり罵ったり、かと思うと『えいくそ、この……〔Черт тебя…〕』などと、一転して悪魔に与する者さえ出てくる。誰もが幸せな気持ちになっているときは、互いに『おかげさんで〔Слава тебе, Господи!〕!』を言い合っている。そうした言葉のやりとりから、少しずつわたしの中に、ここの住人たちの精神世界を支配する三つの異なる存在(のイメージ)が形づくられてきた。『おお主よ!〔О,Господи!〕』とは幸福な人たちの神のこと、イイスース・フリストース〔イエス・キリスト〕は不運な人たちと従順な人たちの神であり、悪魔さえ呼び招かんとする『えいくそ、この!』というのは、不運で不幸で反抗的な(つまり従順でない)人たちの神なのである。そんな言葉がわが窓のすぐそばであまりにも頻繁に繰り返されるので、何かが起こると、その三つの神のカテゴリー――すなわち幸福な人びとの神、不幸だが従順な人びとの神、不運で不幸で反抗的で傲慢不遜な人びとの神――にすぐさま反応し対処する自分に気づくようになった。それでわたしは、この三つの神(本質)から自分のミロズダーニエ(宇宙)を打ち建てようとした……

 

 氾濫―――それは惑星(プラネット)の変容。最初の地の耕作者はモグラである。森のしじまを一匹のミズネズミが泳いでいる。水たまりの向こう岸めざして。見えているのは、小さなその黒い頭部と長く尾を引く航跡

『裸の春』(1938)にそっくりの表現がある。『自然の暦』(邦題『ロシアの自然誌』)、『森のしずく』、『裸の春』は、いずれも革命(1917)以後の作品だが、1914年の日記にも〈森と水の詩人〉の面目躍如たるものがさまざまメモされている。

 水たまりと藪がどこまでも続いていて、なんだか新しい惑星にでも降り立ったよう……海はわが国では毎年春にやって来る〔春の氾濫〕。そのたびに何もかもが一大変容を遂げるので、新しい惑星にでも舞い降りた気がするのである。自然の至純、何にも代えがたい融雪の匂いの汚れなさこそ、神聖にして侵すべからざる至上の美――美しすぎて、清浄(しょうじょう)無垢な白いスズランの薫りでさえ、侮辱されたみたいに、あたかも自分を都会のどぎつい香水か何かのように思うのではないか。それからかすかに樹皮が匂い始める……

 響きわたる沈黙……春先、とはいえまだ名のみの春だが、太陽と冬とが戦端を(それも日没前に)開く。鳥たちはまだ口を噤んでいる。冷たい濃紺の雨雲が太陽を隠すと、忽ち冬も闇も舞い戻ってくる。そのうえ雨まじりの風でも吹きだせば、森羅万象死に絶えたかと思うほどである。朝焼けはなく、冬と夜がごちゃまぜだ。と、不意に分厚い雨雲の下へ突き抜けた大鎌の刃一閃。ぴかっと光って、ついに姿を現わす。何が? もちろん太陽が。切り裂かれた空の青を静かに流れて行くのは、眠れるプロメテウスの頭とも紛う雲……森に静寂が、力みなぎる朗々たる沈黙が、音なう〔訪れる〕。そんなとき、わたしはなぜかいつも、どこかでカッコウが鳴いているような気がするのだが――ふと我に返れば、なにそんな気がしただけのこと! でもなぜか、歓びが、嬉しさがこみあげてくる。カッコウが鳴きだすにはまだたっぷりと時間があり、山なす緑の奇蹟がつぎつぎ起こるのはもう明らかだ。

 良心――それは人間の社会的関係において害を為す現象だ。ヒトは自分自身と不和であるが、最後まで自責の念と戦い、因を外部に求めようとする。そうして怒りにかられて、まわりの何の罪もない多くの人間が身を滅ぼす――それが自身に及ぶまで。おのれの身に及ぶと、卵が潰れるときのように、まず殻にひびが入るが、その殻の下からまた殻が現われて、それを破ればまた次から次に殻が、まるで複雑きわまる復活祭の卵のごとく現われ、開けても開けても、どんどん新しい殻が出てきて、ついに最後まで行き着くと、大きさは小さなエンドウ豆ほどになって、もうそれ以上は開けることができずに、それでおしまい。それでもまだいいのだ。少なくとも最後まで行き着いたわけだから。次の日、何かいいことを思い出すかもしれないではないか。じゃそれは何だろう? そう、それは最後に残った小さな小さな卵。次の次の日にはもっといいものが……なぜ「もっといいもの」なのか? わたしは自分がどんな人間であるかを知っているのだ! そうであるのに、最初の殻はすでに閉じ、次の殻も次の次の殻も閉じて、すでに卵が複雑きわまる鎧で覆われていることに、誰も気づかない。そして良心の新たな爆発にまで、最終的な暴露と新しい人びとの破滅にまで行ってしまうのである。自分自身の小さな卵をもっておのれの良心に他人を巻き込むことがなければ、ようやく人間は人間としてとどまって、愚かしさと手を切ることができるのだ。

 女性問題は本質的には男性の問題、われわれ男性の意識の問題である。なぜなら、大多数の人間にとって、意識の目覚めのときは〈生命(ジーズニ)〉の、すなわち女性の必要欠くべからざる要求の瞬間であるからだ。で、そのとき、〈幸せな人間〉だけは生の識閾(しきいき)が横へ広がるのに、〈不幸せな人間〉の場合はそれが縦に(垂直に)深化するのである。幸と不幸は単に異なる生の二つの次元にすぎない。わたしは〈深く〉不幸せだったし、外への広がりも持たず、最初の意識の閃きとともにすでに自分の内へと沈み込んでしまい、一緒にいたのは一度も具体的な形を与えられたことのない青い許婚(いいなずけ)〔голубая невеста〕だったのだ。わたしはただ外へ広がる幸福の予感を味わっただけで、たった一度、二つの道、二つの世界の境界にいたにすぎなかった……それか、ときどき脳裡をよぎったのが、途轍もなく大きな湖、いやもっとどこかに巨大な鏡が――澄んだ水を湛えた静かな湖そっくりの鏡がかかっていて、その水鏡に万物が映っているという図であった。そうしてそこにこそ本物の美しいものがあると思い、それで、ここが、今いるところが全然よくなく、貧弱で、理解がいかないときには、そちらの湖にちらと目をやるだけですべてが氷解するのかも――そう思っていた。そういうわけで、わたしがやってきたのは、オタマジャクシの泳ぐ粘土質の池のフルシチョーヴォ〔故郷の村〕からではなく、そっちの湖からなのである。何よりだったのはわが家に庭があったこと。夢によくその庭が出てきた。なぜか丘の斜面を歩いている。木々はまばら。なのに一本一本が遠目にもきらきら光っていて、鳥がいた。メソポタミアのどこか、まるで天国にでもいるようだった。今でもそんな夢を見続けている〔ということは〕、小さなわたしが、庭の、どこにでもあるそんな林檎の木が本当に好きだったということだ。
 わたしは自分の母親を――聖母のような母を憶えている。全身黒づくめで、わたしの小さなベッドで話してくれる。『今夜、ひかりのお子がお生まれになって、夜空に鐘の音が響き渡るのよ……』でもそれは母、わたしの母親だった。ただの、商家に生まれた女の子……そのあとは何も、聖母の記憶など、まったくない。
 しかし、なぜいつも自分のことばかり……不慣れな人には、わたしがいつもいつも自分のことばかり書いているように思われるにちがいない――自分のことばかり! いいや、全然そうではない! この〈わたし〉は大いなる世界の〈わたし〉の一部であり、自由に誰彼に変身し、あれやこれやに肉体化されうる存在なのだ。
 この〈わたし〉は、ありとあらゆる穴ぼこ、河谷、小山、丘の、無数の〈わたし〉の上に引かれた稜線だ。この〈わたし〉は、黒土地帯の森なき平野でこちらが生まれたときにはすでに存在していたのだ……

 大いなる孤独こそが天の星々に手を触れ得るのである。破滅した碌でなしが森の荒野をさまよいながら、こんなことを思っている――おれみたいなダメ人間は二度とよみがえることはなく、過去には気取りと見栄のほかには何もない、と。だが、ひょいと天を仰げば、思いがけずその目に映る星影ひとつ。エゾマツの梢の先のその先の、冷ややかにして荘厳なる空焼けにきらきら光る大きな星。

4月15日

 朝、小雪……昼は風、冷ややかな黄色い夕焼け。驚いて、蛙はぴたり鳴き止んだが、かわりにフクロウたちが勇壮に羽ばたいた。
 ペテルブルグのアパートに泥棒が入った。おかげで、ペソチキ村に腰を据え、一家してそこで冬を越す決心がついた。リョーヴァの〔入学〕試験の準備は小学校の先生がやってくれるだろう。ヤーシャ〔継子〕も一緒だ。ペテルブルグで家族は養えない。それにエフロシーニヤ・パーヴロヴナは都会人ではない。彼女はどんなに子どもたちによって鍛えられていることか。子どもたちにぴったり寄り添うことで、その未来は確かなものになる――彼女と3人の後ろ盾。彼女への同情など笑止千万。自分なんかよりずっと豊かだし、へこたれない人間だ。自分の子どもたちが悪の道に走るなんて思ってもいない。彼女は国家なのである。国民はみな立派。だから国家を侮辱しない。子どもたちがひどいことをしても叱らず、うまいこと誤魔化して無かったようにしてしまうのだ。国家の起源が雌鶏にあるというのは確かな事実らしい。

 ヨーロッパに行きたい、逃げたいのかも。

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