2010 . 08 . 15 up
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*メレシコーフスキイとギッピウスの奥ヴォルガへの旅についてのプリーシヴィンのコメントが思い出される。(三)の*1を、また『巡礼ロシア』第二部キーテジ――湖底の鐘の音(平凡社刊)を参照されたし。
ソファーに寝転がっているのは、「ある男」などという代物ではない、平凡な、つまらん人間だ。そいつが、ソファーに寝転がってタバコをふかし、下らぬものを読み、大いに退屈している。「べつにかまやしない」が、軽蔑の対象であることは確かである。そいつがごろっと寝返えり、ときどき体をぴくりとさせて、どこだろう(ウラルかな、それともイタリアか?)――『ああ快適快適!』などと呟いたかと思うと、いきなり〈何か〉にしがみついて、〈紙のソファー〉か本格的なやつに乗っかったのか、てんで〔わかりゃしないけれど〕、ともかくその国へ出かけてしまったのだ。なんという歓びであろう! 充実、信頼、ソファーへの完全没我の果てである。現われたのは青(голубое)*、その青には、ヒーローたちと意味と変容した大地が……青とソファーとのあいだにはいかなる継承性も存在しない。にもかかわらず、ソファーへは戻って来れるのである――そこには青のためのいかなる根拠もないのだが。
わたしは自分が、まったくその点では、碌でなしどもに学ばなくてはならぬ人間であることを十分に承知している。碌でなしの強みは、自分を現実のもの必要あるものと認め、それを行動原理としているからであり、したがって奴らはまったく根絶されない(この不壊不滅の承認の上に碌でなしの最後の踏んばりとしての死刑がある)。ところが善人はなぜか、自分の善なることを疑い、疑うだけでなく、まず間違いなくそういうリアリスト=碌でなしどもを恐れている。
それでいったいソファーはどうなったのか? この物体を死体と認めるなら、そもそも青はどこから現われ、その操縦不能の気球は何を意味するのか? それは青空――存在しないが、それでもやっぱり存在する青い空なのだ。
ソファーと青、これら二つのあいだに何か関係はあるのだろうか?
憂愁(トスカ)――それが最終的なつながりだ。トスカがわかればすべてがわかる。しかし、トスカも恐怖もなくて、完全ゼロ(無)ということもよくあるのだ。顎髭、頬、力学……思い浮かぶのは、劇場の予約チケットを手にしながら、同時に複雑な国家的活動に邁進できる人間の、非常に完成度の高いメカニックな装置(アパラット)である。好き勝手なことをする奴だが、それでもそいつはメカニズム(行動するオブローモフ*)なのだ。
メカニックな人間と青のあいだには、どんな関係があるのか? つながりが見えず、驚いている。しかし、つながりがないとなれば、青をメカニックなもののようにしっかりと確立(認定)する必要があるし、大きな、しかも偽り(架空のもの)でさえあるフルィストにおけるようなつながりは破壊する必要がある。青のリアリストの法則もあれば、それとは別の、ソファーのリアリストの法則もある(複式簿記あるいは表裏あるやり口)。
最後のところを譲らず、そこに(藁をも掴むみたいに)しがみついて、それでもすべてよし(всё хорошо)と言う人たちがいる。そういう人たちには、青を失うのではという不安や恐怖が、青なしでは生きていけないような信仰が、ある。もし青が消えたら、彼らはきっと死ぬ(ドゥーニチカ〔従姉のナロードニキ〕)。それで彼らはキリストに祈るみたいに、絶えず『光へ、光へ、光へ!』を繰り返している。なかにはえらく強情を張って、棺の中でも『光へ、光へ!』をやってる奴もいる。ところがそんなのは単なる片意地にすぎなくて、じつは奴らには夜を止めるほどの力がないのだ。
青の本質に深く根を下ろすことが不可欠である。なんとか意識的に〈ソファーなるもの〉の領域に這入り込んで、そいつと話を交わし相談する。でそいつに完全な生存権を与えて、そいつのために死刑を廃止することだ。それも偽善的にではなく(青の柔和さ)、汚れなき良心から、いやいや、ただサモワールで湯を沸かして、お茶を飲みながら語り合う、それだけでいいのだ……まあでも、そんなことして『光へ、光へ!』ばかり唱えている連中のためになるのかどうか、ちょっと怪しいものだ。どうせ夜がやって来れば、いくら電気を点けて回っても青空は手に入らない。いよいよ空は赤茶けてくる。青なんてとてもじゃない。一晩中『光へ!』を唱えてれば、もちろん光はやってくるだろう。でもそんなこと、黙ってたって起こること。個人の手柄とは感じられない。二度と夜がめぐって来ないに越したことはないのだ……ああ、そうじゃないぞ。まず日の出前にサモワールに火を入れ、テーブルクロスを掛け、四隅に向かって『どうぞいらしてください!』と繰り返す。すれば、角の生えた亭主〔不貞の女房を持った夫〕も、太鼓腹のおっさんも姿を現わすはずだ。いちいち毛嫌いしてはいけない。そんなのは初めだけだから、夜明けごろは不快でも、そのうち慣れてしまう……厭な臭いがしてくるかもしれん。彼らと機知に富んだ会話を始めること。そして夜明けまで歌をうたい、ものを食べて、お互い愉快な気分になることだね。どっちみち会話が始まったら、光の守護者の誰も味わったことのないような歓喜がみなを呑み込むにちがいないのである*。
精進であれ、祈りであれ、懺悔であれ、試練であれ、それらはみな手段であり方法であって、すべての基礎――それは、心臓の最初の神秘に満ちた運動、夜の一番鶏(いちばんどり)の鳴き声だ。
夜の町。電灯がしつこく叫んでいる――『光へ、光へ、光へ!』と。空は赤みがかってきて、その赤らみの上に、ぽつんと小さな星ひとつ。そうして電灯の明かりとともに、心臓の最初の不思議な運動が始まる。それが何を意味するかは神のみぞ知るだが、ふいにどこかで鳥が鳴く。たしかに愚かしげな声ではあるが、その愚かさ加減(グルーポスチ)は強さ(クレーポスチ)。そうしてまたもや静寂につつまれる。でも、わたしの耳には聞こえてくる、聞こえてくるのだ――どこかはるかに奥深いところから、人間の暮らしの時計のチクタクが。一日の最初の重たい車輪のガラガラと、一斉にあちこちで鳴りだす工場の始業のホイッスルが……
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