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プリーシヴィンの日記 太田正一
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1919年12月19日(の続き)
……イデーが正しいとしても、いったい誰を通してそれは実行されるのか、してまた人びとはいかなる暮らしの範〔手本〕を得るのか?
「おまえたちは自分の豚どもに聖なるものをくれてやったが、奴らは、見ろ、振り向きざまにおまえたちをずたずたに引き裂いてしまったではないか!*」
*マタイによる福音書7章6節――「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」
「その実で彼らを見分けるだろう。なぜなら、あの方〔キリスト〕が〔彼らを〕教えたのは、権威ある者としてであって、律法学者としてではないからである*」
*マタイによる福音書7章16節――「あなたがたは。その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」
「欲しているのは慈悲であって犠牲などではない*」
*マタイによる福音書9章13節および12章7節――「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである」
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか?*」
*マルコによる福音書2章19節――「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちが断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と問われたときのイエスの答え。こう続く――「花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らはだんじきすることになる」
「天国は力ずくで奪い取られる*」
*マタイによる福音書11章12節――「彼〔洗礼者ヨハネ〕が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」
「分断された王国は必ずや荒廃する*」
*マルコによる福音書3章24節――「国が内輪で争えば、その国は成り立たない」
「サタンがサタンを追いやれば、サタン自身が二つに裂かれる。そんな王国がどうして持ちこたえられようか?*」
*マルコによる福音書3章26節――「サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。(中略)はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言ったからである」
「敬われない預言者はいない*」
*マルコによる福音書6章4節――「イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。』と言われた」
12月25日
スピリドーナの冬至*。獣(けだもの)たちの裁判。飾り模様をつけた氷の薔薇。文化(クリトゥーラ)は考量し判断して疑を質すが、獣は秘密そのものを知っている。獣に必要なのは問いのみ。
*旧12月12日。太陽は夏へ、冬はマロースへ。「スピリドーナ〔女〕が『スピーリャ、スピーリャ、スピリドーン〔男の名〕!』と歌って歩く」(В.ダーリ)。
自然の営為は特異性〔変種〕の営為、すなわち多様性*。そこに獣の使命(ミッシヤ)がある。そのイデー。分化し、多様化すること。それがあらゆるものの検証になる。文化・つながり〔関係〕。
*プリーシヴィンの慧眼のひとつにこの「多様性」がある。生物多様性の崩壊こそ今日最大にして最終的な問題である。「生命の最もすばらしい神秘は、ほんのわずかばかりの物質から、これほど豊かな多様性を創り出したその手段だろう。生きとし生けるものすべてをひっくるめた生物圏は、地球の質量の約100億分の1を占めるだけで、5億平方キロの表面をおおう土壌、水、そしれ空気からなる厚さ1キロの層にわたり、疎らに分布している」エドワード・O・ウィルソン『生命の多様性』(1992)、岩波書店(1995)。
わが死。糞肥の道は天に向かっている。アファナーシイ神父が行く――〈魂の安らかならんことを!*1〉をかぼそい声で唱えながら。製粉所の上に住む製粉屋は居心地のよさと暖とを同時に手にする。自分も産まれた小さなソファー*2。
*1死者の魂が肉体を離れたときに唱えられる小讃詞(コンダク)。
*2プリーシヴィン家の出産は同じソファーの上で行なわれた。
自身には何ら咎がない。自分はぬくぬく、坊さんは凍死寸前。学校では何も教えていない等々。『われわれが追い出したわけじゃない』―『じゃあ誰が?』―『ソヴェートだ!』―『でも、そのソヴェートはおまえらのソヴェートだろう、おまえらが選んだんだぞ』―『ありゃあ悪魔が選んだのさ』。
墓はその中にある。
馬とヒト。ニキーフォル〔リーヂヤの使用人〕が姉のことで泣いた。サモワールをやる〔形見分け〕と言ったら、えらい喜びよう。それを売ったら、春まで馬の餌代には困らないだろう――そう思って、やった。
日曜日、自分のライ麦を救おうと吹雪の中をフルシチョーヴォへ急いだ……月曜日、懐かしいわが家を雪が吹き抜ける。インディアン〔野蛮人〕のワーシカ。毛むくじゃらの獣――アルヒープ。野ウサギは大繁殖! 水曜日に戻る。窪みにはまって、死ぬところだった。フルシチョーヴォ=ロストーフツェヴォ村のデミヤーン・スチェパーノフに助けられた。一服し、出発。ジャガイモを大量に〔入手〕。ヤーシャ、リーヂヤ、コーリャが死んだと告げたら、みな一斉に彼らの配給を分け始めた。
ガチガチに凍った窪地のふちは墓石の山んのよう。白い花をつけて、きらきらした僧服をまとっている。箒で軽く掃きながら*1、そこに吹雪が新しい飾り模様を縫いつけていく。懐かしい死者たちを思って悲しみに暮れはしたが、自分が生き残ったことを心中、秘かに喜んでいる*2。
*1北国ロシアにはさまざまな〈吹雪)があるが、メチェーリ(метель)――ここではメチェーリツァ(метелица)――はどれも「掃く」もしくは「箒」の意。地を掃く。
*2ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』(ジュコーフスキイ訳)の言い替え。多くの戦友を失い、幾多の困難を乗り越えて、祖国へ妻のもとへ帰還したオデュッセウスの心境。
だが、わたしの頭にあるのはイエスのことだ。自分は今、微笑みのない、厳しい思念と揺るぎない意志とを秘めたその人〔イエス〕の顔に見入っている。一方、わがアファナーシイ神父は(思うに)常に〈キリストに倣って〉いる。イエスの思想を生きて、はにかみの笑みを絶やさない。微笑むのは、人間である彼には神のようには厳しく〔なれない〕からだ。
「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか。それとも、わたしの気前のよさを嫉むのか?*」
*マタイによる福音書20章15節。ぶどう園の主人と労働者たちへの賃金の支払いの逸話。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と続く。
12月26日
多くの無法がまかり通れば、どうしたって愛は冷えていく。
キリストの柔和な顔(山上の垂訓*1)、怒った顔(あなたたちは不幸だ*2)、悲劇的な顔(終末の……だがまだ〔世の〕終わりではない!*3)。
*1マタイによる福音書5章。
*2マタイによる福音書23章13-15節――「律法学者とファリサイ派の人びと、あなたたち偽善者は不幸だ。人びとの前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。
*3マタイによる福音書24章6節――「戦争の騒ぎや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」
予感は裏切られるが、死は間近らしい。サーシャ〔長兄〕のことを思い出す。『死んであなた〔イエス〕のところへ参ります*』。それはつまり、死の思いの最中(さなか)に彼の最良のものが保たれていたということ。わたしは死に臨んであなたの優位を認め、あなたのところへ還ります。
*長兄アレクサンドル・ミハーイロヴィチの悲劇は家庭と(おそらくは)自分の職業に対する不満にあった。天性のアーティストだった彼を医学の道に進ませたのは従姉のドゥーニチカだった。のちに看護婦のマルーハを道連れにして、家庭を捨てたが、死病に取りつかれて、母親の膝下へ。死後、マルーハが後を追った。(百三十二)の注。
イエスとアファナーシイ神父。われらが農民の坊主――最後に残ったわれらがいのちの最後のものとしての〔お坊さん〕。崖の氷を搔き出す箒。きらきら輝く墓の上の氷にふわふわの白い花を飾る箒。吹雪の箒。
自分がまだ、獣のこと、獣たちの間の相違(差異)(ラズリーチエ)について考えていた。獣(人獣も単にケモノである)は自らの内に問いそのものへの解〔答〕を秘めている。獣は問うことなく生きている。いのちがすべて、そのすべてが他との違い(アトリーチエ)(形象の多様性)に表われている。
……吹き溜まりになった道は誰にも歩けない。自分が歩いているのは、吹き溜まりの山の上。風がひゅうと雪を吹き上げると、そこは白い氷の花の棺衣となる。そんな自然の兄弟たちの墓に参って感ずるいのち。歓びが自分を圧倒する。そしてこんなことを思う――『春が来れば、きみらはみな甦る――獣も人間も小鳥もみな! わたしは懇願する――きみらは、起きたら、どうかわたしが発する問いに答えてくれ』。
生きる歓びがわたしを捉えた。すると、まわりのものがみな融けてしまったみたいに、草原には草や花が……樹が葉をつけ、鳥が歌っている。青空と緑の大地が地平線で抱き合った。そしてわたしに答えがあった。生きる歓びは多様性にある、と。鳥の囀り、獣の唸り。発せられた音が即、問いへの答えである……
わたしは問い、そしてすべてをひとつにつなげようとする。わたしの問いは〈あなたたちの合体〉だ。わたしはあなたたちをみなひとつにつなぎ、こう問う――何のためにあなたたちは生きているのか、あなたたちはみな一緒に、声を合わせて、わたしに答えようとする。
時事問題。茶を飲みながら宿題をさせる。リュボーフィ・アレクサーンドロヴナの使用人のピョートル・ペトローヴィチのとこ(健康衛生課)へバターを貰いにいく。課で、分与地所有についての記録と委任状の写しを取ること。薪を手に入れること。メルクーロフのとこへは桶を持っていく。それからバザールへ――ユーヂンがシューバを買うと言っているので。昼食後、お茶。リョーヴァとオリガにテスト。ソスナーの川向こうのプリャーホフにはブラウスは要らないかと訊く。それとマトヴェーエフ(川のことを訊く〔?〕)とピョートル・ペトローヴィチ(彼から脂身(サーロ)を手に入れる)に会うこと。
夜明けに通りの十字路へ。空はマリーナ色〔真っ赤〕。ソスナー川の向こうに日が昇る。コクマルガラスの塒(ねぐら)である大きな木。そのそばの、兵士たちが火をつけて出ていった家が今、燃え尽きようとしている。目を覚ましたコクマルガラスたち、ギャーギャー啼きながら教会の屋根へ。そこで話がまとまったものか、そこから今度は各自、餌を探しに別々の方角に飛び立った。小僧がひとり、余燼くすぶる家の角で木炭(すみ)を狙っている。最後の兵士がいなくなったら、失敬しようというのだ。
12月28日
ソスナーの川向こうからこんな歌――
アカーツイヤ(アカシア)の木よ!
スペクリャーツィヤ(投機)の機よ!
名無しのユダヤ女が隠匿された虱みたいにデニーキン側につき、大いに儲けて、今や喰い太り。チェキストと投機は血を分けた姉妹だ。思うに、その女は(目つきからして)チェカーの予審判事の母親ではあるまいか。すれば、その母親こそスペツリャーツィヤにちがいない。
他人には何の価値もない。自分には何もない、自分が無用の人(秋の落葉か)であることは、本人がいちばんよく知っている。どおっと風が起こると、もう夏の埋葬どころか、木の葉と一緒に秋まで散ってしまうのである。人間もまた然り。生きている人間はわが身に吹きつける他者の霊(ドゥーフ)によってしか生きられないのだ。だが、地上には人の子〔イエス〕がいた。力の源、通常の風に抗(あらが)う活力の源泉そのものだった。して、その(、、)力は言(ことば)であった。
人の子は天と地とを、宇宙の創造主と最上等のサルとを取り持つ仲介者だった。
12月29日
彼はゴルゴタを心に負いながら、この世に足を踏み入れた……でも、彼の幼年時代は、少年時代は、青年時代はどうだったのか? イエスの幼年時代は、青春は?
……まだ小さかったころ、福音書はずいぶん奇妙なものに思えた。たとえば、キリスト=神自身、自分の運命を知っていたらしい(こちらは何も知らず、ただ無意識裡に〈その人〉が死の杯を飲み干さずに済むことを願っている)。それが避けられないもの、予めわかっていること。なのに〈その人〉は神なのだ……ぜんぜん真実らしくない。変だ。これは奇怪ではないか。簡単に避けられるのに、これが〈受難〉か! だいたいが、この苦しみ(神にとって)それほど大きなものなのか? しかし〈その人〉は人間のように本当に苦しんだのである。何からそれがわかるか(つまらない口論、瑣末、下らなさ、辱め――これがいちばんの苦、次が自尊心、愛、病――これらだって素足で熱い鉄板の上を歩くよりずっとひどい)。十字架上の呻き――そうしたことがいずれも、わざとらしく「真実らしく」書かれたし、磔にされた強盗たち*も――ひとりは分別ある奴隷だが、もうひとりはこんなことをずっと呟いている始末だ。『ほれ見ろ、旦那の磔だ、旦那が磔にされたんだぞ、よく見ろ!』。
*ルカによる福音書23章39-43節―「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない』
今〔のロシア〕は旦那と百姓が同じ十字架にかけられている。旦那はイデーのために、百姓は強盗を働いて。
百姓は言う――
「おい、旦那よ(おまえがキリストなら、自分もおれたちも一緒に救ってくれ)……」
避けられない獄を歓喜して待っているリガの学生たち*――あれもすべてゴルゴタだ、破滅を知っているラズームニクだ、運命のセマーシコなんだ……
*リガの学生たち――リガの総合技術学校(1893-97)で農化学を学んでいたとき、マルクス主義にはまった。属したのは社会民主党系のサークル〈プロレタリアの指導者の学校〉だった。その活動中に仲間と共に逮捕され、まる1年をミタウの独房で過ごす。釈放後、故郷のフルシチョーヴォに帰ったが、警察の監視下に置かれ、国内で教育を受ける権利を奪われてしまう。
12月30日
……ほら、熊穴だ、這入っていったぞ! 光はあるか……
自分の神に祈る――『どうかこの真っ暗い穴の底に光を差し込んでください!』この穴底に光は差すのだろうか?
12月31日
フルシチョーヴォの百姓たちがバターと卵を持ってやって来た。商売だ。厩肥と薪を運んできたのはラムスコイ〔?〕の百姓である。自分は昼飯まで商いをやり、ソスナーの川向こうへ更紗の服を持っていった。昼飯を済ませてからは薪を割り、ストーヴに火を入れ、夜はランプの下で子どもたちと勉強しようとしたが、いまひとつ元気が出ない。終日、自分には光が差さなかった。
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