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プリーシヴィンの日記        太田正一

2013 . 07 . 28 up
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1919年12月8日

 「飢えた人間はキリスト教徒にはなれない」
 「〔ひとは〕パンのみにて生きるにあらず……」
 「そして精神(ドゥーフ)のみにても。飢えた者もドゥーフを喰って生きることはできない。飢えた者は獣(けだもの)だ。獣がキリスト者にはなれない」

 なぜ獣は咬んだり咆えたりするのか、わかってきた。
 心に痛みがあれば、それを鎮めようとして犬は吠えるが、痛みがどうにもならないと、うーうー呻りながら、犬は自分のしっぽに咬みつく。
 夢ばかり見る。フルシチョーヴォの打ち倒された菩提樹(リーパ)の並木道と、死の床にあるサーシャ〔長兄アレクサンドルは1911年に死亡〕が出てきた――それで、自分も〔獣のように〕咆えた……

 母親の愛(もしかすると、それ以上に父親の愛も)と、近親者に対する、自分自身への愛のような本物の愛

マタイによる福音書7章6節――「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」

 モスクワから戻ったシェリーモフ。もうじき平和になる、と。救われるかも。希望の灯。

イリヤー・スピリドーノヴィチ・シェリーモフはエレーツ市の測量士。

12月9日

 自分が犬のように自分のしっぽを咬んで吠えたわけ。月曜日、眠りから覚め(めちゃくちゃにされた故郷のリーパの並木道と兄のサーシャの夢を見た)、深い憂愁(トスカ)の中で、トスカに酔ったような状態で、ふらふらとそこらを歩き回った。深夜、姉のリーヂヤが死にかけていた。そして朝の6時に亡くなった。12月7日、月曜日。赤十字〔病院〕。寒さと飢えに苦しんで――。
 自分が葬る……アレクサンドルと一緒に。リーヂヤはアレクサンドルの妻に代わって〔彼の結婚生活は不幸だった。前出〕、その隣に眠るのだ。そのほうが自然だろう。サーシャ――夢に出てきた兄。
 われわれ兄弟の関係はいろんな点で、どこか変な((滑稽なと言ってもいい)ところがあった。セルゲイ(末弟、四男)はまだ生きているのか、そうでなければ全滅だ。自分に遺されたのはシューバだけ。

1919年現在、プリーシヴィン家の生き残りは3男のミハイルのみ。長姉(リーヂヤ)と兄弟3人(長兄アレクアンドル、次兄ニコライ、末弟はセルゲイ)はすでに死亡。末弟のセルゲイ・ミハーイロヴィチ(1876-1917)は医師で、すでに前々年(1917)に死んでいたが、誰もそれを知らなかった。セルゲイの死後、息子のアンドレイ(プリーシヴィンの甥、党活動家で作家)はタムボーフの母親(離婚していた)に引き取られた。彼は伯父ミハイル・プリーシヴィの思い出を書いている(『回想記』)。拙著『森のロシア野のロシア』第6章「アルセーニエフ――密林の彼方へ」を。

 リーヂヤと最後に会ったのは製粉所だった。彼女はそこへ製粉しにやって来たのだ……ともあれ、弟のアレクサンドル〔リーヂヤが一番上、一女四男〕と一緒だから、満足だろう……
 赤十字。ミトロファーノフ〔エレーツの赤十字社員〕が言った――
 「バラーノワのことを言ってるのかね? バラーノワなら、治りかけているが」
 「バラーノワじゃない、これはわたしの姉のプリーシヴィナだ」
 「プリーシヴィナは全快したんじゃないか(しかし、この時点で姉は死んでいた)」
 しっぽを食いちぎった犬。時計屋が故人の下着を手にしている……許可が要るって? 血を分けたひとの墓だというのに。荒地は駄目だ。恐ろしい。許可だと? おいおい、これは身内の墓なんだよ! (身内の墓があるって? そんなことを言ったって!)。近親者たちが姿を現わす。自分の墓を(兄弟の墓ではなく)建て始める……コールサコフ家、リュボ〔ーフィ〕・アレク〔サードロヴナ〕、山羊たちを連れて。この衰弱退廃(マラーズム)からの唯一の救いは、時〔代〕に対して自由の意志(ヴォーリャ)を打ち建てる〔確立する〕こと。でなければ、チフス虱によって果てなき苦難の時(ベズヴレーメニエ)へと追いやられてしまう……(虱に対する叛乱(ブント)だ)……医者も看護婦も虱など眼中にないが、ナヂェージダ・イワーノヴナにはうつろに反応した――『わたし、体が暖かくならないの』……〈わたし(ヤー)〉はそれでも〈ヤー〉だ。なんだかその〈ヤー〉がどこかへどんどん持っていかれるような感じ。自分が自分でないようだ。でも大丈夫、生きている――ぞっとする環境下ではあるけれど。

12月10日

 エレーツのブルジョアジーに混じって、姉のために自分の墓〔共同墓(穴)でなく〕を建てた……アファナーシイ神父が来てくれた。

12月11日

 リーヂヤを埋葬。余計なことを言った〔ひっかき傷をこさえてくれた〕のは医者のセルゲーエフ――『寿命だったのですな』。それに対してリョーヴァが――『チフスでも寿命でもないです。〔伯母さんは〕凍死したんです』―『この子はどこの子かね?』―『うちの息子です』―『そうか、えらいな』。教会へ運び込むとき、リュボーフィ・ニコラーエヴナ・ヴィジェニ〔エレーツでの知人〕とナヂェージダ・イワーノヴナ・バラーノワがばったり鉢合わせ。リュボーフィが『〔リーヂヤは〕死んでよかったのよ。どうしようもない世の中だもの』。するとナヂェージダも『まったくなんという人生でしょう、良くなることなんてあるのかしらね。あのひと〔リーヂヤ〕は死んだというより死なせてもらったんだわ』

 『棺の先には何も無いし、何もあり得ないんだ……』リョーヴァがきっぱりとそう言ったので、わたしは言った――『それは誰にもわからない。無いと信じる人には無いし、あると信じる人にはあるんだ』―『それが信仰からくるものだということには同意するけど、でも、何も無いんだ……』
 わたしは考える――肉体を無くしてさ迷い始める霊(ドゥーフ)を思い浮かべればいいのだ……
 『わたし、体が暖かくならないの』――肉体とは、精神的(霊肉一体の〈わたし(ヤー)〉という意識の内に表現された個人(インヂヴィドゥアーリノスチ)の霊)と、そのつながりだ。
 それをどう描くか。夢のように、生を迷走して何かの上に翼を休めること――たとえば、あまねくスキタイの国を照らす月光の下、凍った樹の枝の裂ける音。自分はその木の傍らに居つづける。もうこれ以上どこへも行けない、さ迷うこともない。そのままそこに居つづける。もう体の中には戻れないのだ。体は残り、動けなくなる――そして霊(ドゥーフ)も木のそばに。木は〔自分の入るべき〕魂(ドゥシャー)を見つける。白いスキタイの旅人は朝にやって来て、日の出の十字架を目にする。花と十字架。それに〈ヤー〉が照り映える……
 花と十字架。月下の、真っ白なスキタイ国の凍れる樹と日の出。十字架と花(狼たち)。

 文化――それは新たな肉体への霊のつながり。つながりは凝縮であり充実であるので、それこそが復活した体、肉体の現実(リアル)。物語に対してお金を払うときの(本に本代が要るように)、あの一種奇妙な感じを思い出すこと。すべてのものは商品であるというマルクスの観点ではなく、霊体と物質世界を計算に入れた観点に立つこと。
 メレシコーフスキイがこの身体について語っている。彼は、歴史の形象で具体化された美〔の感情〕からアプローチする。キリストの形象。第1の道は物音を聞いて森の魔(レーシィ)が近づいてくる。そして気に入って、自分の時〔暇〕を潰し始める。時慣れ(ヴェーク・ヴイク)し時慣れ(ヴェーク・ヴイク)しているうちに、本当に習慣化(プリヴイク)して、ついには教会の寺男(ヂヤチョーク)になってしまう。
 第2の道は人間の歴史のさまざまな形象における美の探究。キリストの人間的天才の発見。つまり美を探究し、十字架を発見する。
 十字架は恥ずべき処刑法である。なぜそんなことになったのか。恐ろしい暗黒、悪意の極地。絞首台(歴史上のキリスト)としての十字架。生身を神に差し出すとは、なんたる狂気の沙汰! 〈キリストに倣いて)だって!
 福音書にはわれわれの理解を超えるものが一つある。それはキリストが磔になることが初めからわかっている。生きながら、そのことを承知している(生の歓びを彼は求めないが、自分が磔になることは知っている)のである。
 ……学びつつ準備(覚悟)する……そうではない! これは教えではない。〔キリストたる〕わたしは誰にも教えようとはしていない。わたしはただ自分の傷みと喜びをあなたたちに告げる。だから、あなたたちはその痛みと喜びをもって自分の欲することをしなさい。わたしは教師ではなく、交わりとつながりにかかわる活動家にすぎない……

アレク〔サンドル〕・ミハー〔イロヴィチ〕・コノプリャーンツェフ。彼は自分の分身のあとを付かず離れず追っている。一人は自由な夢想家、もう一人は義務の人(何も書いてはならぬ、書くことは不道徳でさえある)。自由の神への悪魔=義務(チョールト=ドールク)の果てしなき嘲り。

12月12日

 十九世紀全体が外的世界(〈アメリカ発見〉)の研究に捧げられた。手にとって見ることのできる不思議、レンズを通して見ることのできる不思議その他。と同時に、奇跡発見の小市民的(メシチャン)な分け前。
 科学もそれと同じだった。まるで夢に出てきた最高の世界価値が、目を覚ますと、それが子どもの用のベッドに玩具のように置いてある。価値受容の方法を発見し――価値の受容と発見――分配する。蓄えつつ分配も始める。徐々に科学が小市民根性へのサーヴィスにかかる。かくして古い予言的な夢は忘れられていったのである。では今、何を為すべきか? 真の知識の源に戻ること、外的世界のすべての知識を留保しつつ信仰に回帰すること。

 猿の起源(人間からの)。
 а)人民教育課の鉄道担当者であるコミュニスト。
 б)教官のスィチン。
 コミュニストが言う――
 「ところで、わが国の学校ではダーウィンは、つまり人類の起源が猿だということは教えているのかね?」
 スィチンが答える――
 「ダーウィンと人類の起源は大学で教えるのです。わが中等学校では猿の起源は人間であると教えていますが……」

12月13日

 Н.И.ジバーロワ〔女性、不詳〕からの手紙。チェリャービンスクで11月15日にヤーシャ〔義理の息子〕が発疹チフスで亡くなったとの知らせ。肉親知人がどんどん死んでいく。必要なのは心の準備。覚悟。

赤軍に入って国内戦で戦死した、そんな噂は伝わっていた。

12月14日

 至福の死(ウスペーニエ)と至福の運動について。個性(リーチノスチ)――これは運動(息子)、没個性的至福(父)。苦悩するリーチノスチは目的たり得ない。目的――至福のプラズマ――円なるもの、リーチノスチは手段である。

ウスペーニエは死、眠りに就くこと。聖母マリアの昇天。

 きのうから暖冬後の厳寒(マロース)。マロースの空焼けは、色彩から言うと、冷たい9月の露を浴びたアントーノフ林檎。
 コノプリャーンツェフ夫妻。真二つに裂けながらも最後まで睦まじい。

12月15日

 平和への希望がまた消える。すべてが欺瞞――『デモンストレーション』だった。『じゃあ、どうすれば?』と客が訊く。『行動しなくては』とわたし。『何もかも昔に、旧くて都合のいいものに戻るなどと期待してはいけない』と。
 夢を見た。通りで銃声がし、今にも自分が殺されるような――それは痛みのトスカ――そっちへずるずると落ちていくような恐怖。自分はトスカの重さから、これまで経験したことのない鉛のような重さから、それがわかる。自分は落ちていく――石に激突して顔が潰れないよう、最後の瞬間、ちょっと〔顔を〕背けて。そして通りの真ん中に横たわっている。体をぴくぴくさせたり、広く真っ直ぐな(ペテルブルグの)通りを行く人に向かって叫んだりする力は、もう残っていない。
 ……〔彼は〕自分のような、成功もせず、辱しめられた人間を愛した(憐れんだ)。自分自身を愛したように愛したが、成功を収めた強い人間は愛さなかった。もっと愛したのは、いやより正確に言えば、圧倒的に強い(スヴェルフシーリヌィ)人間だ。彼らの人間的なさらにさらに細かな点まで、つまり委細を見究めきれぬほど縁遠い人たちを溺愛し、ほとんど神格化したのである。

12月16日

 わがのコムーナの第2のひび割れ。これがたぶん最後のひび割れ。麦粉が第1で、第2がジャガイモ。なぜそうなったか。共同生活についての理解の仕方が各人各様、てんでんばらばらだったからだ。食糧の等分は当然である――すべてが共同生活の上に成り立っている以上は。

 メレシコーフスキイを読み終えた。自分も基本的には彼の哲学にある。たとえば、1)昔の暗い神に対する恐怖、畏怖。2)教会外の異教的(宗教上の)個人主義的感情の(わが個性すなわち独自性(インヂヴィドゥアーリノスチ)の家(ドーム)の不可侵的な感情の)正しさ、正当性。社会主義の資本主義との違いは、誰もが個人主義者になりたい(なろうとする)点にある。個人主義者(エゴイスト)は、分不相応に精神的な寄生生活を始めると、あっと言う間に小市民(ブルジュイ)に成り下がる。

12月18日

 スィチン一家と分かれる〔共同生活=コムーナの解消〕。カフカースへ行って一緒に暮らそうとも思ったが、飢餓状況下のエレーツは冬の最中(さなか)。どうにもならない。分かれるしかない。カフカース行きでたとえ〈試練〉は免れても、はたして向こうでまともな暮らしができるのか? 早々に不幸に見舞われて、それきりになってしまうのでは?
 人間には必ず「塩」が(砂糖ではなく)1プードの「塩」が必要なのだが、なぜか? 面白おかしい生活の土台が苦くてしょっぱい生活のそれより脆くて崩れ易いというのは本当だろうか? そうだと思っている人間は、きっと、共同全体の喜びや楽しさに1ゾロトニク〔96分の1フント、4グラムちょっと〕も差し出すことができないのだ。一瞬の幸福より長く続く〔もつ〕堅固さ(1プードの塩)を選ぶのである。

 バザールは今や教師たちの行列だ。肉親たちの死後、わたしに遺されたのは彼らの毛皮外套(シューバ)――霜模様の真鍮を張った長持にずっと仕舞われていた古着だが、なかなか立派なものばかり! 母とよく言い合った。『何のために溜め込んでいるの、こんなもの? 有り難いことに、うちには領地があるし、町(エレーツ)にも家宅がる。銀行預金だって。なのに、どうして、何のためにシューバばかり溜め込んでるの? やれナフタリンだ、やれ乾燥だ、風に当てて、収納場所を換えるのですよと、口癖のように言ってたね。売っ払ってしまえば、家には衣魚(シミ)など一匹もいなくなるのに』。すると母が言った――『まあ、なんということを! 万一のときのために取っておくのよ。銀行だってそう。銀行が潰れることはないわ。ああ、あなたは若いから、万一というのがどういうことかわからないのよ!』。まったくだ! 何もわかっていなかった――そんな古いシューバが今、バザールで4万ルーブリ、5万ルーブリで売れているのだ……

十九世紀末から二〇世紀の初めまでよく見られたもので、ウラルのニェヴィヤーンスクの工場で製造された。独特の茸形の釘(真鍮)が使われた。製法はイギリスから伝わったが、ロシア人の熟練工によって完成された。独特の霜模様は錫と鉛の混合物の溶融・結晶化の過程で生じる。今は造られていない。

12月19日

 冬の聖ニコーラ〔旧12月6日はニコライ聖者の記念日〕。
 バザールでリーヂヤ・ミハーイロヴナのジャケットを商った。バザールには歴史と文学の女教師たちも来ていた。夢で味わった憂愁(トスカ)がまたぞろ襲ってくる。鉛のような重苦しさ。日暮れごろにはトスカではなく、もう鉛そのものだった。家に帰って遺書を書いた。
 戦争の初めのころを思い出した。まるで古老のようなその語りぶり〔中学生たちを前に語ったのだろう〕。戦争と革命とわが狩猟・農業生活について、それとバザールで姉のジャケットを売った話まで。

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