成文社 / バックナンバー

プリーシヴィンの日記        太田正一

2013 . 07 . 15 up
(百七十)写真はクリックで拡大されます

1919年11月15日

 わが第四二師団の兵士たちの間に、マフノーの〈教え〉なるものがかなり浸透しているらしい。『ユダヤ人とコミュニストは消え失せろ! ソヴェート権力、万歳!』。この〈教え〉を大半の百姓が支持(現にわがソロヴィヨーフ郡も似たような状況だ)している。
 婆さんが『十字架を首にかけなされ』と言うので、わたしは言ってやった――『いったいあんたは今、十字架を首にかけるというのがどういうことか、わかってるのか? いいかね、それは――もしいきなり磔(はりつけ)だと言われたら堪らんから、だから前もってイエスの苦しみをわが身に負おうってことなんだよ。そこに自由がある。無理やり連れてかれたら、そりゃあ動物みたいに破滅するしかないが、前から覚悟していれば、何が起こっても、そうは恐ろしくない。自由なんだからね』。

 ワインの王様〔(百六十五)の注〕が金の王様に変じつつある。黄金中ワイン。こんなふうにして一人の帝国役人から千人の役人が、一人の良心的なブルジュイから千人の恥知らずなブルジュイが生まれたのだ。

11月17日

 男の愛にあっては、父祖相伝のものが一瞬にして断線、自由の火花が飛び散り、一閃の光芒を放って幕となるが、しかし愛する者同士の新たな出会いが生まれるや、たちまち電線はまた繋がってしまう。妻が自分の夫の母親に成り代わるからである。〔三角関係の暗示?〕
 メイン・テーマはこれ。鏡の中に自分の未来の家庭生活を余すところなく見て、夢想的な愛を保持し続ける。これが愛の試練。誰にそれが耐えられよう(しかも三つ巴で!)。もしかしたら、リョーヴァがパパを救ってくれたのかも……
 女の〈知恵〉――それは、自由と必要の境界を無くして男の夢の実現のためのマテリアルを限りなく与える能力であり、またそのようなものを(夢見る夫が薪を割り、尿瓶(しびん)を始末し、子守をすることではなく)夫を現実的なものに、理想的な子ども(結婚相手)を現実的な夫につくりかえる(育てる)能力でもある。以上のことを言葉で言い表わすなら――〈和合(лад)。リアルになること、現実的になること――それは、足を止め、身を屈めて、モノに飛びつくこと、すなわち〈知ること(знать)〉だ。もちろん、信念と信頼がなければ、知ることはできない。今われわれが知識と称しているのは理性(ラーズム)の知識、独身者の知識である。
 テーマ〔作品のテーマ、作家の目〕――リョーヴァが物語る(どのようにして自分はパパを救ったか?〔父と子と父の三角関係〕。
 娘の嫁がせ方(トルマチーハの場合)。トルマチーハは娘の婚約者の愛の激発が短時のものであること、そんな愛では一族(ロード)のケーブルが一瞬にして切断されてしまう(火花が散るだけ)ことを知っていたので、結婚にまつわるあるゆる荷重、つまり産児の肌着一式が入った衣装箱、持参金、親戚一同(伯母や叔母、婆さん爺さん)と家財道具その他のありとあらゆるがらくたを、愛の光の下に晒し、愛の発火の光で祓い浄めることを、時を逸せず(すぐに)やってのけた。そうすることで、たっぷりと磁気を帯びた若い二人が人生の最後の日まで幸せな夫婦でいられるようにしたのであった。

 君主制主義者。ペネロペの求婚者どもは、出されたものをみな平らげ、オデュッセウス*1の全財産を喰い尽した。ある者は(少数者だったが)オデュッセウス(ニコライ)が生きている*2とまだ信じている。

1ホメロスの叙事詩『オデュッセウス』からの諷刺。ペネロペはその妻。夫のトロヤ遠征後、求婚者たちに結婚を迫られ、夫の父の棺衣を織ってから応ずると言って、昼に織ったところを夜ほどいて時間を稼いだ。3年後に嘘が暴露されて、万策尽きるが、出征から20年を経て、夫が乞食姿で帰国し、求婚者たちを皆殺しにする。

2ロマーノフ王朝最後の皇帝であるニコライ二世。

11月18日

 冬の奇跡! 初霜もなくいきなり本格的な冬が襲来した。たちまち吹雪だ。氷点下15度。きょうは晴れ、ただし氷点下15度。
 姉のリーヂヤがチフスで倒れて8日目であることを知る。フルシチョーヴォで罹ったのだ。
 昼食のとき、ドゥーニャが――『木桶を手にしたどっかの婆さんが会いたがっていますが』―『何の用事か聞いてくれ』―『ジャガイモの皮が欲しいそうです』。かつての女地主、隣人のリュボ〔ーフィ〕・アレク〔サーンドロヴナ〕・ロストーフツェワが〈ゴミ〉桶を二つ提げて、入ってきた。

 ときどき授業を中断して、言う――『さあ、体を叩くんだ!』。生徒たちはバタバタし、体を叩いたり擦ったり。少しぬくもってきたところで授業を再開。マイナス15度なのに、教室に暖房がない。

 自分の姿――裸皮のシューバ、フェルトの長靴。

毛皮コート・衣などで、毛を内側にして皮革面を外に出したもの。

 ラスコール。
 「二本指と三本指ぐらいのことで、なんで争うんだ?」

総主教ニーコンの教会の儀礼改革(1653)の中に、「十字を切るさい、二本の指ではなく三本の指を用いること」というのがあり、それ(そればかりではないが)に対して長司祭アヴァクームらが猛反発。彼らは異端とされ、分離派(ラスコール)と呼ばれた。「二本指」は旧(古)儀式派を指す。

 「赤更紗とキャラコの切れ端で、なんで争いが起こるんだ?」

 戦争。コストロマーでは白軍の戦車が雪をかぶったままだという。パン1フント175ルーブル、バター1フント700ルーブリ。

11月19日

 リーヂヤ、チフス罹患9日目。体温は38度に下がった――危険な兆候。肉体が戦いを拒んでいる。死ぬかもしれない。リーヂヤとはよく喧嘩をしたが、今は喧嘩の種もなく、血を分けた者としてますます強く孤独を感じている。

 語られたのは、労働の必要性が全員に割り振られる社会的なバベルの塔の建設について。大いに結構。だが、病気を抱えても子を産む必要性、死ぬべき必要性(必然性)には、どう対応するのか? なにせ、労働の義務、概して社会主義は、〈問題〉の部分的でマテリアルな側面を強調する。出口でも〈方策〉でもなく、それは魂のあらゆる要求への回答だと教えられている。われわれが同意できないのはそこ、なのだが……
 (わたしは土地所有者だった――わたしは追放された、わたしは依然として自分の組織された能力・技能・手腕の所有者であり、現在わたしは所有者あるいは、より正確には、Я(ヤー)に統合された、わが先祖伝来の数十人の死せる魂を有する借家人(アレンダント)である。

ゴーゴリの未完の長編『死せる魂』から。現実には存在しない(戸籍上まだ生きている)農奴。前出。

 トルストイとドストエーフスキイについて書いたメレシコーフスキイの本を読む。ロシアのナロードは、トルストイとドストエーフスキイという偉大な天才を生んだが、これら天才が遺したのは、叛乱者=コミュニストと何千というゴキブリの俗悪な成り上がり者(メシチャン)の子孫たちだ(これはどうなのか……ふむ、何千という台所のゴキブリどもの所有者、ね)。
 精神的退廃への不安と恐怖、そこへまたしてもあの、全存在を揺るがす孤独感――癒しは女(バーバ)(自然、トルストイ、それと『コンスタンチノープルはわれらのものとなるべき』だ。

ドストエーフスキイ『作家の日記』の1877年3月の第一章。「一、再びコンスタンチノープルは早晩、われらがものとなるべきことについて」。

 いずれも墜ちた――トルストイはコミュニズムに、ドストエーフスキイは〈コンスタンチノープル)に。

11月20日

 カントにあって、物は「物自体(вещь в себе)」らしいが、自体の外に在るモノ――それは「われらが革命」だ。

カント哲学における「物自体」。客観的に実在するものとしての物。「経験的にわれわれが知ることができるものは、われわれによって構成された対象(現象)にすぎない。そしてこの現象は何ものかに由来するものである。この何ものかがわれわれの感性を触発して初めて、経験の対象は成立する。この何ものかこそが物自体である。有限な理性的存在者である人間は、この物自体を認識することはできないが、現象の背後にあって現象を成立させるものとしてこの物自体を考えることを要請せずにはいられない」

 赤がクールスクを占領し、さらにほかにも大勝利したとか、デニーキンがクバンまで退却したとか言っている。デニーキンが敗北したのはいいことだ――そんなことを〔われわれは〕思い始めている。うまくいったのに誰にも気づかれずにそっとコミュニストたちが消えてしまうことだってあり得るだろう。そして急に〔われわれは〕訊いてまわる――『彼らはどこにいる? どこへ行ってしまったのか?』と。よくよく考えたら、「彼ら」などもともと存在しなかった……われわれ自身が「コミュニスト」だったし、われわれのエゴイスティックな恨みが悪鬼(ベースィ)をつくり上げたこと、そしてわれわれの魂が恨みから解放されたとたん、奴らが消えたことを知るはずである。コミュニストはわれわれ自身の過去の平々凡々な心(ドゥーフ)の形象とその類似物であるにすぎない。馬鹿を見たレーニンは玉座を降りるしかない。勝利は前代未聞のものだが、敵は狂喜している。そして敗者たちの中に勝者の居場所はない――そういうことはよくある!
 (じつにそこに彼〔勝者〕の存在(悪魔の)自明性があるのだ。彼の臼の中に無辜(むこ)の犠牲者たちが落ちていく。自明性がある、たぶん。彼がわれわれから出たにせよ、その行動は独立している、その存在も切り離されている)

ドストエーフスキイ『悪霊』の扉のプーシキンの詩およびルカによる福音書8章32-36節を。

 またこんな噂――外国人が戦争を終わらすために白と赤に最後通牒を突きつけたらしい。白は聞き入れて退却しているが赤は従わない、モスクワとペトログラードが占領された等々。ウスペーンスキイ〔未詳。作家のグレープ・ウスペーンスキイではなさそうだ〕は、百姓たちが言うことを聞かず、荷馬車を貸そうとしないとわかると、こう言った――『奴らの足に蹄鉄を打ってやれ!』。

11月21日

 深夜。ミハイルの日*1
 どうだろう――コミサロヂェルジャーヴィエ体制*2(ゴルシコーフ〔ロシア共産党(ボリシェヴィキ)エレーツ郡委員会議長〕のことを思い出せばいい!)の完全なモラル崩壊のその瞬間(とき)に、わざとのように赤軍が南部(ユーグ)で大勝利を収めようとしている。したがってトロツキイの厚かましい自画自賛(大言壮語)が予言となりつつある――このことはちょっと腕組みして考えなくてはならない……

*1大天使ミハイルの日〔旧暦11月8日、新暦11月21日。「この日から冬は徐々に動き、大地は凍りつかない〕「ミハイルの日から冬がマロースを鍛える」などと言う。

*2サモヂエルジャーヴィエ(専制独裁体制)をもじって、コミサールの専制体制を揶揄。造語。

 モスクワから聞こえてくるのは――デニーキンの退却の理由は、ユダヤ人の虐殺(ポグローム)に不満なイギリスによるものだとか、完全撤退ならハーリコフは近日中に占拠されるだろうとか。

11月22日

 わが財産は鋳鉄製ストーヴとフルシチョーヴォのパンの配給、そうしてわが歓びは今では唯ひとつ――朝早く(5時ごろ)目を覚まし、完全な静寂の中で、湯を沸かし、お茶を立てて飲むこと。〈熊の足〉のマホルカの吸うこと。なぜ熊が自分の足をしゃぶるのか、やっと合点がいった。それは熊が冬、穴の中でぬくぬくと何もしないで――食糧の心配もせずに自分の足をしゃぶっているを見て、『なんて羨ましい暮らしだろう!』と思うところからきているのだ。きょうも自分はそうして鋳鉄製ストーヴと配給パンとノートで過ごしていたのだが、そのうち外が白々としてきた。すると中庭に二つの人影。兵士らしい。窓の下を過ぎたと思ったら、家のベルが鳴る……言いようのない憎しみが湧いてきた。わたしは苛立った熊みたいに、自分のまわりに吹雪を起こし、そこから黒い干草の山のように飛び出していって、生意気な奴らを噛み殺してやろうと身構える。が、まったく何ということか! ドアを開けると――『何か御用ですか、同志!』(ああクソ!)―『部屋を見せてもらいたい』―『おたくらは?』―『チェカー〔秘密警察〕だが』―『ではどうぞ……』―『サモワールが二つか。それは何だね? アルコール?』―『メチルだよ』―『ほう、なるほど!』そう言って匂いを嗅ぐ。もう一人は向日葵の皮を、きれいに掃いた床の上にぺっぺっと吐き散らしている……ああ、どんなに自分の熊穴をめちゃくちゃにしたくなったことか。どんなに奴らに摑みかかって首を絞めてやりたいと思ったことか。熊ならたやすいこと。住居の不可侵性が保障されている熊が羨ましい。穴の主たる権利を守るためなら、熊はどんなに雄々しく立ち向かっていくことだろう!

植物のハアザミ(葉薊)、学名アカンサス。煙草の代用品か?

 朝起きをして〈熊の足〉を吸うのは、その時間帯だけ自分が不可侵の熊であることを知っているからだ。

 リーヂヤがきのう21日(発症後10日目)、赤十字に運ばれた。意識のないままチフス患者の隔離病棟で横になっている。彼女の唯ひとりの忠実な愛すべき下男(ニキーフォルはチフスに罹っていた)のとこへパンを取りにいき、パンと一緒に虱〔チフス伝播シラミ〕を貰ってきたのだ。そして彼女は今、病舎で死の床についている。もう駄目かも……様子を知りたいが、かなわない。外は吹雪、雪嵐……
 寒さとチフスと。あの恐ろしい革命のときも、フランスはこの二つを知らなかった。

 ソヴェート・ロシアの画家たちは観たままを瞬時に描いた。つまり美術(フドージェストヴォ)とは運動行為であって、厳密な意味での芸術(イスクーストヴォ)はなかったのである。

11月23日

 人民大学で『悪魔の臼』を読む。とてもよかったのだが、インテリ連にはただ自身〔各自〕の不信仰を改めて思い知る機会を与えただけだった。
 今後の講義の予定。ナロードの生活の花々をいかに咲かすか? ブィリーナ、宗教歌〔霊歌〕、おとぎ話(スカースカ)、歌謡、泣き歌、チャストゥーシカ。

11月25日

 ……終わりのない冬! この余儀ない十字架の暮らしから冬の4ヶ月を喜んで消し去りたい。
 ……もし十字架が必要なら(つまり逃げられないなら)、心の内にもっと生活の価値ある何かを持たなければならない。じっさい自分は、何かのために、あるいは誰かのために苦しみを引き受けている。そうでないなら、十字架はただの絞首台になってしまう。
 春までの日数(ひかず)をかぞえる。3月1日まで冬日はあと108日(神の日)。それをわれわれ一同(スィチン、コノプリャーンツェフその他)は、心から神にお返し申し上げる。望むは春。春よ来い、早く来い!

神の造り給いし日。日々の意。

11月26日

 神の107日……なんとか1日が過ぎた。

11月28日

 きのう、ニック〔不詳〕に言ってやった――ナロードにもインテリたちにもコムーナ反対の意思表示はないようだね。現に『コムーナの理念には反対じゃないないから』なんて言ってるから。そうなんだろう? われらが秘かな苦しみは個(リーチノスチ)の創造苦だ。
 彼らの入党の条件は、国家的セクトのコミサールになることをキリストに申し出る――それだけだ。
 〈サボタージュ〉というのは、〈チャン〉に飛び込む個(リーチノスチ)のレジスタンスなのだ。

11月29日

 神の日104日。赤へのオリエンテーション。
 囚人が出獄し病人が退院するとき、自然はきらきら輝いて、平安の喜びと無個性の歓びが迎えてくれる。そこには作家たちもいて、その無個性の、ぼんやりした、どっちつかずの大地を描いている(トルストイ)。問題は、その健康回復をいかに成し遂げるかである。他の作家たちは人間の病気そのものを描き、それによって個(リーチノスチ)を手に入れる〈ドストエーフスキイ)。

11月30日

 神の日103日。人民大学で、ナロードの信仰について講じる。ほとんどがわからない。もちろん、こっちが悪いのだ。唯一理解されたのは、グリゴーリイ・ラスプーチンが長司祭アヴァクームの(アレクセイ帝と息子ピョートル〔一世〕に対する)復讐の手(手段)であり、ラスプーチンはツァーリ、ニコライ〔二世〕はその奴隷だったということぐらいか。

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


成文社 / バックナンバー