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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 08 . 8 up
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編訳者の参考メモ(つづき)――フルィスト(鞭身派)について

 〈秘密のセクト〉にかかわっているのは、いわゆるフルィスト(ないしフルィストーフシチナхлыстовщина)で、これにはさまざまな変形・変種・分科・支流が存在する。フルィストーフシチナということばは、フリストーフシチナхристовщина〔フリストース(キリスト)〕の歪曲された名称で、前世紀〔ここでは18世紀〕の最初の四半期に、聖ドミートリイ・ロストーフスキイとトヴェリ大主教フェオフィラクト・ロパチーンスキイが書いたもの(原注1・ロストーフスキイの『探索』とロプチーンスキイの『分離派的虚偽の暴露』。後者は前世紀〔18世紀〕20年代の著作、著者は当時、新設された聖シノード〔宗務院〕に勤務)に初めて出てくる。そう呼ばれたのは、このセクトの中に至上の天恵(恩寵)を授けられた人びと(キリストと見なされている)がたえず現われるためである。前世紀末か今世紀〔19世紀〕の初めに、フリストーフシチナに代わってフルィストーフシチナと呼ばれるようになったのである。この呼び名がхлыстатьすなわち「鞭打つ」に、宗教的儀式の最中に信者たちが次のような歌をうたいながら互いに鞭打つхлыстать ことに由来すると考える者たちもいる。

 Хлыщу, хлыщу、(フルィシシュー・フルィシシュー)鞭打って、鞭打って、
 Христа ищу,―(フリスター・イッシュー )キリスト様を探すのだ――

 だが、これは少々怪しい。鞭打ちというのは新しい儀式であり、どこの〈船〉――カラーブリとは鞭身派の用語で〈共同体〉を意味する――でも行なわれているわけではないからだ。たとえば、ピョートル一世の最後のころにあったメシチェールスキイ公爵の〈船〉を除けば、教育ある者たちの船で自らをまた他者を鞭打つというやり方はまったく存在しなかった。わたしの知るかぎりでは、〈フルィストーフシチナ〉〈フルィスト〉という言葉は今世紀〔19世紀〕になって、セクトを呼ぶのに聖なる救い主の名を使うなどもってのほかと憤る聖職者たちによって考え出されたものである。

 聖ドミートリイはフリストーフシチナの支流をなすさらに二つのセクトに言及している。
  ① ポドレシェートニキあるいはカピトーヌィ
  ② 特定の名称を持たないセクト(原注1・『探索』第3編第12章)

 またトヴェリの大主教フェオフィラクト・ロパチーンスキイはフリストーフシチナ以外に、ボゴミール派、メセリアーン派、アクリノーフシチナについて語っている。これらもみなフリストーフシチナである。①は、かつてのビザンチン帝国で異端とされたボゴミール派やメセリアーン派と教義が似ているところから、正教会の聖職者たち、いや、もしかするとフェオフィラクト自身がつけた名称であるかもしれない。しかし彼にはその教義についての知識がほとんどないのだ。18世紀にフリストーフシチナの中からスコプツィ(去勢派)のセクトが形成された。これこそ教義も儀式もまさにフルィストそのものだが、肉欲を抑えるために自らを去勢した者たちである。秘密のセクトはまだまだある……(煩瑣だが、でもこの時代、ロシアに宗教上(あるいは政治上の)の異端者がいかに多かったか知ってもらうため列記しておく――編訳者)
 ファリセイ派、ボゴミール派、リャドゥィ派、クピドゥーヌィ派(ロストーフスキイが言及したカピトーヌィの崩れ)、ラザレーフシチナ派、モンタン派、ミリュチーンスキエ派あるいはアラトゥイルスキエ派、アダミートゥィ派、タターリノワ・グループ、ポルズーヌィ派あるいはホルトーフシチナ、シェラプートゥィ派、ドゥホーヴヌイエ・スコプツィ派、ナポレオーノフツィ派(原注2・これらのセクトは1862年に出た『ラスコール書簡』に列挙されている)、スースレニキ派、スヴェトノーフツィ派、ドゥロブイシェーフスキイあるいはセドヴィーチェフのセクト、マラーンスキエ派(原注3・以上はザカフカージエに流刑になり、1825年にエルモーロフ将軍のもとでクタイスク県マラニ村に定住した去勢派。村はリオン川に注ぐツへニス・ツハリ川の岸沿いにある。将軍は去勢派信者から成る第96傷痍中隊を組織。これはのちにマラニ中隊あるいは去勢派中隊として知られるようになる)、スカクーンヌィ派、プルィグーヌィ派、トゥリャスーヌィ派、ボージイ派、ドゥホーヴニキ派、ドゥホーヴヌイエ・フリスチアーネ派、その他がある(原注4・古文書保管所の記録からさらに以下のことが判明――フルィストたちが、カルーガ県ジズドリンスク郡、オリョール県ムツェンスク、クロムスクおよびドミートロフの各郡、クールスク県ベルゴロド、ファテジおよびシチグロフの各郡では〈スボートニキ〉、ヤクート地方では〈イコノボールツィ〉、ペルミ県オシーナ郡では〈モロカーヌィ〉、前世紀〔18世紀〕のエリザヴェータ・ペトローヴナ帝〔ピョートル一世の娘(在位1741-1761)〕治下のモスクワおよび今世紀〔19世紀〕のペルミ県エカチェリンブルグ郡では〈クエーカー教徒〉等々の名で勝手に呼ばれている)。

 以上、すべて――いくつかのものに儀式上のわずかな違いはあるものの、やはり同じフルィストーフシチナхлыстовщинаである。
 わが身に手術を行なうスコプツィと、フランス皇帝ナポレオン一世を〈再臨した神の子〉とするナポレオン派(ナポレオーノフツィ、このセクトはあまり研究されていない)だけが、他と似たところのない特異なセクトである。
 フルィストーフシチナとは別に――多少の接触はあったようだが、〈神秘的な〉秘密のセクト、たとえば、シオンの教会、ラブジーヌィ派、理性論者あるいは〈モロカンの〉セクト――これの起源はフルィストのセクトのそれとはまったく異なるのに、しばしば区別がつかなくなる――などがある。1715年ごろ(ピョートル一世時代)に起こったイコノボールツィ(イコン崇拝反対派、現在のモロカンというセクト)なるナスターシヤ・ジミヒのセクトというのがモスクワその他の都市でかなり広まったが、これらもフルィストーフシチナと近い関係にある。現在も(6、7年前だが)、タヴリーダ県(南露クリミヤ)の地方で、フルィストとモロカンとドゥホボールが合意をみて、一部ではそれら秘密のセクトの融合さえ生じた。(太田正一訳)

*      *      *

 さて、日記を再開しよう――
 ヴォロヂーン家〔プリーシヴィン家と付き合いのあったエレーツ市在住の一家〕の姉妹は三人とも、彼女らの年老いた伯母(その昔、うちの父〔ミハイル・ドミートリエヴィチ〕が言い寄ったらしいがうまくいかなかった)のイースト〔素質〕を受け継いでいる。その伯母さんは、うちの父よりツィターの金属製の弦を選んだのだ。大成して優れたアーティストに、いやそういうことではなかった。彼女の情熱は何かを完全に極めてある境地に到達すること、だった。わたしの父と付き合っていたころはツィターをマスターすることだったし、そのあと絵画に熱中し、その次は英語、その次は……というふうに、ありとある努力と成果の一覧表が続いて、最後にまた――もうかなりの老齢だったが、ツィターに戻った。ツィターに戻ったのは自然の流れで、父に口説かれた娘時代の思い出などかけらもなかった。
 ヴォロヂーン家の大きな屋敷には、わたしの知らない部屋があって――部屋の数が多すぎたから、いや、それがどの部屋かを知らないのは自分ひとりだけだったのかもしれないが、その部屋に内から鍵をかけ、ひたすらツィターの極限をめざしていたのだ。われわれの前にはめったに姿を現わさなかった。つねに何かに達しようとする気概、自足し充実したその様子は、われわれに、恐ろしいまでに不幸な人という印象しか与えなかった。
 彼女の精神の一端はヴォロヂーン家に受け継がれた。姪たちはみなそれぞれ何かをものせんと頑張っていた。長姉のソフィヤ・ニコラーエヴナはすでに中年に達していたが、ずっと独身主義を貫いていた。甲虫(こうちゅう)の研究に没頭し、美しい標本類をあちこちの村の小学校へ送り届けてきた。次女のマリア・ニコラーエヴナは結婚を目前に、一方的に降りてしまった――理想の相手でないと思ったのだ。現在、三つ目の講習〔帝政下の女子高等専門学校〕を終了しようとしている。末の妹のエウゲーニヤ・ニコラーエヴナは歌の道に進み、高等音楽院を卒えて、その分野で得られるすべてを手にした。そして新たな目標にチャレンジしようとした矢先に、自分にぴったりの青年と出会ってあっさり結婚してしまった。男の子(ワーシャ)を産んだが、乳母の手は借りずに、つまりヴォローヂン家伝来の育児法ではなく、哺乳はもちろん何もかもすべて自分ひとりでした。育児にのめり込んだのだ。そして完全に母性の虜になって、自分で自分がわからなくなってしまった。そんな妹に手を差し伸べたのは、二人の姉である。姉たちは妹に絵を描くよう勧めた――育児に夢中になり過ぎて、持って生まれた才能を涸らしちゃダメ、子どもの将来にとっても良くないわ、と訴えた。姉たちの意見は尤もである。それでエウゲーニヤ・ニコラーエヴナは、不安を覚えながらも、ほんのしばらく、母性一辺倒を改めた。夫が子育てを手伝ってくれなかったら、とても芸術の世界へなど入り込む気にはなれなかっただろう。夫は、何時間でも赤ん坊の相手をし、おしめも洗ってくれた。子どもが信頼できる人に抱かれていることがわかってくると、母親は徐々に絵の世界にのめり込んでいった。夫が揺すってあやし、妻が絵筆を振るう。今や彼女はみごとに母性本能を克服し、絵画の妙技をわがものとした。さらに情熱は彫刻へ建築へと向けられた。新たな挑戦のたびに、精気が、生きる歓びが戻ってきた。
 わたしたちはいつも、次から次へ話題が(四語判読不能)、冗談まじりの会話ばかり交わしていたけれど、それでもつねにわたしは、ヴォロヂーン家の姉妹たちのうちに、ずっと離れた奥まった部屋に閉じこもってしまった、あのどこか恐ろしげな伯母さんの存在を感じ取っていた。そしていつもそこから、ツィターのかすかな爪弾きが聞こえてくるような気がしていたのである。

 原理の原理――根源の探求。古代人の火、水、あるいは個性。われらがマルクス主義者にあるのは経済的な必要性。で、突然の大変革。すべては愛の力の下にある。原理の原理、その根源を成すものは〈わたし〉、つまり個性だ。
 「わたしは小さな人間だ」とは、自分だけの〈わたし〉の殻を破って、みなに共通の世界的な民衆的な〈わたし〉、その真の〈わたし〉に到達するまでの、綿密にして周到な作業を意味する。融合(слияние)が始まる。社会の層の仕切りと小さな目的のロジックは打ち壊されて、巡礼が、道が、わたし自身の旅が始まるのだ。懐かしき山河に迎えられ力を授けられて、〈わたし〉は新たな旅仕度(文学上の)を始める――生まれ変わる、か?  

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


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