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プリーシヴィンの日記 太田正一
2013 . 06 . 02 up
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1919年10月15日(の続き)
全世界的カタストロフィーというベーベルの夢想がロシア民族の反乱(ブント)と一つになって、ボリシェヴィズムは生まれた。ボリシェヴィズムはゲルマン・スラヴ的現象であり、協商国(アンタンタ)側の民主主義的進化の思想とは無縁のもの。官僚主義と社会主義は概ねドイツからわが国に入ってきた。ロシア人がイギリスやフランスの進化するデモクラシー思想の影響を受けていれば言うことはないのだ――そのためにカデットは闘うだろう。ドイツ的官僚主義と社会主義のために闘うのは君主制主義者(モナルヒスト)たちである。
噂によれば、装甲列車《プロレタリア》は、課題(橋梁爆破)を遂行せぬまま、急遽オリョールへ(対白戦)向かったらしい。
いよいよ高まる社会の気運、まさに狂濤。だがその大波もピークを過ぎ、次第に小さくなって、今はただのさざ波だ。
昼の12時、ユーヂン〔エレーツでの知人〕と話す。もしかすると、〔白は〕来ないかも。でももうこんな生活は駄目だよ、堪らない。動いたほうがいいんだ。向こうに行けば、そりゃあばらばらにされる〔一人ひとり調べられる〕だろうが、でもここのコミサールだって一人ひとり別々にちゃんと把握しているんだ。ああでも、あっちは……。5時ごろには明らかになった――きょう中に何もかも町から出ていくことが。
白軍がここから7露里地点(ヴォローニェツとカザキーのあたり)にいることがわかった(わかったのも午後の5時ごろ)。
課は女教師たちでごった返し。給料を貰おうと必死なのだ。お金でなく塩になるかも。誰かが不正なサイン〔塩でも構わないと〕をしたらしい。待ちきれない女教師リャザーノワの運命が狂った。一人の兵士に向かってつい喚いてしまう――トロツキイなんて碌でなしよ。この件で彼女はチェカー(女郎屋・課)で調書を取られた。
脱走兵は地下の穴蔵で巣作りだ。夕刻までに全軍全幹部が出発。暗くなって、脱走兵たちが四方に散る。雲の上へサーチライト。
ロストーフツェヴォから移動してきた軍用トラック(№6)が最終的に停止、わが家〔誰かの小さな屋敷のようだが、委細不明〕の窓近くに放置されている。ほかに動きを停止したのは、芝生をうろつく豚、〔見世物の〕熊と駱駝、それと山羊。〈脱走兵〉が言った――『〔脱出は〕あしただ!』。
10月16日
朝も早くから、てくてく歩く者、走る者、嬉しそうにジャガイモ袋を抱えている者もいれば、丸太を担いでいる者もいる。兵士の頭にはテーブル。ガキどもが№6トラックをいじくっていく。
朝の8時、ウラヂ〔ーミル〕・ヴィーク〔トロヴィチ〕がやって来て、言う――『ラッパを吹いてる』―『赤〔軍〕にラッパ手はいないがね』―『たしかに、赤にはラッパ手はいない、あれはそうすると、白〔軍〕の起床ラッパかも』。15分後、通りで大声がする――「犂と鎚(ソ(ハー・イ・モーロト)!」。するとまたも、ウラヂ・ヴィークが新聞を手に、駆け込んできた。わたしは訊いた――『どうして二つの事実(ラッパ手と「犂と鎚」)が一つになったんだろう?』。それに対して彼は答えた――『あのラッパ手も、ひょっとしたら、赤かもしれんね』。
次第に、武装した乗馬兵、車馬、水兵の数が増してくる。いつもの、赤支配下の、希望のない暮らしが始まる。波は退(ひ)いてしまった。われわれはまたしても浅瀬の中。きのう話していたことはすべて戯言(たわごと)、今は何もわからない。人民教育課の課長は課を閉鎖すると言った――2ヵ月したら〔われわれは〕戻るので、給料はそのとき支払う、と。
塩と綿〔綿入れ用〕!
乗馬兵(政治コミサール)が行く。そのあとを人民教育課の職員と女性教師たちが後を追う。乗馬兵が〔わずかばかりの〕塩と綿を出すと約束したのだ。そのあと一人が戻ってきて、言った――『くそっ、騙しやがった』。あの政治コミサールはどっかでも〈無償援助〉を触れ回ったようである。カザーク兵についてのナンセンス――住民のパンを手に入れるために今、ボブルィキノに向かっている(そんな噂が聞こえてくる)。靴屋の親父の意見にさえ真面目な顔して聞き入っている――『奴らがエレーツに何しに来るんだって? 奴らがめざしてるのはトゥーラだぞ。あっちに着いたころ、しっぽ〔後尾〕はエレーツだ。そのしっぽにはデニーキンがいる。あとはデニーキンがすべてやってくれるさ』。
あした中学で地理の授業。一回目の講義のプログラム。
一七世紀まで地球に関して二つの相容れない観念(認識)が存在していた。〔地球は〕ブリンのような円盤状だ、いや球体であると主張し、互いに譲らない*。第一の意見は感情(情緒)に、第二の意見は知識(理性)に依拠している。コペルニクスは一七世紀に最終的に地球は二重に回転(自転と公転)する球であることを証明した。以来、地理学は本当の意味での「科学」になったのである。
*『巡礼ロシア』の第二部(1909)、湖底に沈んだスヴェトロヤール湖(キーテジ)の岸辺での人びとの議論を思い出す。邦訳では343-346頁。
郷土(ローヂナ)としてのわがロシアはとても小さい。町の鐘楼の上からも見えるくらい小さい。ローヂナ感覚*は、平らな地球というイメージの、あの大昔の感情とそっくりの観念(認識)をわれわれにもたらした。その感覚に知識(理性)が加わったとき、地球は球体になったのである。そういうわけで、もしわれわれが地理学を知れば、われらがローヂナ=ロシアはわれわれにとって祖国(アチェーチェストヴォ)になるのだ。自分のローヂナを知らなければ、ローヂナは決してわれわれにとっての祖国とはならない。
*郷土感覚については『プリーシヴィンの森の手帖』所収の「ひかりの都(まち)」を、自然感覚については拙著『森のロシア野のロシア』の第一章「ウラルからの発信――マーミン=シビリャーク」を。
問い――ローヂナ、アチェーチェストヴォという言葉は何を意味するか? これら二つの言葉にどんな違いがあるか? 答え――ローヂナはわれわれが生まれた場所。アチェーチェストヴォとはわたしが自覚した〔意識された〕ローヂナのことである。
自らのローヂナを知って自らのためにアチェーチェストヴォをつくる手段としての旅。
旅人(ナンセン)と〈アメリカ*1〉。個人的勇気と知識(ナンセンは自らの内にそれら二つ(勇気と知識)を一つにした。彼の慎ましさによくそれは表われている――個人的印象*2。長期休暇の探検行。
*1エレーツ中学の仲間と企てた〈アメリカ〉(別のメモには〈黄金のアジア〉)への逃亡のこと。プリーシヴィンはそれを創造的個性の最初の発現と思っている。
*2〔二〇〕世紀初頭のペテルブルグで、プリーシヴィンはノルウェイの探検家フリチョフ・ナンセンの姿を目撃している(『身上書』40-49頁)。
章立てすれば、北と南から修道士とカザークの話へ。
ロシア――北ロシア〔セーヴェル〕、中部ロシア、黒土地帯、辺境。
中部ロシア――モスクワ周辺諸県――オカ川、ヴォルガ上流とその支流。
結びに、ロシアの広大さに関する本。『黒いアラブ人*』の一部を朗読する。
*1910年に書いた中編《Чёрный Араб》のこと。
何年も何年も熱心に主なる神に祈りを捧げ、日々の食物を乞い続ければ、いつかは立派な人間になれるかもしれないけれど、知識としての地球はブリンの形のままである。
また、星の数をかぞえて天体の運行について詳しく知ることはできても、神に自分のパン(感情と理性)を求めることことなど、できない相談である。
10月17日
スィチンの家族と自分たちの関係を例にとると、家族の基盤が性でないことがはっきりとわかる。それは自ずからのもの、自然の生活のように始まり、過ぎていく。で、その過ぎていかない基盤、結婚のもとたる家族の義務は、性愛の感情と向き合っている〔対立する〕。そのような構造が失敗である理由は……(塩と砂糖の混ぜものは戯言であり、塩はあくまで塩にすぎない)。まあ、どうだろう? 〈愛〉の教会的まぜもののどこが優れているのか、コムーナのすべてと今日的混ぜものを比べて、それのどこが優れているというのか、今は誰がそんなことを意識〔自覚〕しているだろう? 一夫一婦制(モノガミヤ)。
恋愛結婚は塩と砂糖の混合物。新婚の床の〈麗しの淑女〉はモノガミヤである!
インテリゲンツィヤとソヴヂェーピヤ*の武装刑事犯との闘いの環境は、刑事犯コミサールが肉とバターを喰らい、インテリたちが好んで精進料理を口にするので、余計にこじれてしまった。
*Совдепия(ソヴヂェーピヤ)――ソヴェートの俗語的表現。ソヴヂェープは代議員ソヴェートを意味する俗語。軽蔑的にソヴェート政権あるいはソヴェート的現実をいう。
権力は去りぎわに糞(ガブノー)を垂れ散らかす。雨と泥と、まことにまことに汝らに告ごうと思うが、いやまったく、権力というものはどれも、やって来るときは天国を約束し、去るときは社会をまるごとを自分の便所(ヌージニク)に閉じ込める。白軍の到着が第2のキリストの到来のように待たれているが、待ちきれずに、不信心に陥ってしまう。が、そこにさらに「犂と鎚」なる嫌な色したビラが現われる。街のガキどもでさえ「法螺と飢え」などと呼んでる代物だ。その「法螺と飢え」がきょうは、勇敢な赤軍によってキーエフが占拠されたことを報じている。
橋の下の泥棒たち。
川向こうの小高い丘にいるのは何だろう? 騎兵隊だ。羊の群れか? いや羊の群れではない、乗馬兵だ。と、そこへ、かの有名な泥棒のブルィカ(社会保障コミサール)が登っていく。そうそう、それら乗馬兵こそわがコミサールなのである。彼らは近くにカザークがいないかを上から見張っている。彼らが今いるのは、破壊されたレベヂャンス橋の先の列車の中。かなり距離があるので、泥棒たちが橋の下に棲んでるように見える。きょう、そこへ教師たちの急使(給料を貰うための)が派遣された。すると泥棒たちは(寛大にも)慈悲の心を発揮して50万ルーブリを寄こした。もっとも、泥棒のひとり(ガラーニン)は200万ルーブリを持ち逃げしたらしいが。
地理の最初の授業――一見面白そうな内容だが、実際には子どもたちにはあまり関係のない話になってしまった。自分の奥の手〔得意とするところ〕を次つぎ繰り出したから、きっと彼らには難しかったと思う。まあ、いずれにしても、こんな時代に愛国精神(祖国愛)を語るのは難しい……
どこの家の地下の穴蔵も脱走兵でいっぱいだ。権力はどこかの〈橋の下〉である。水兵600名が権力を握っている。夜間にどこかからサモワールとランプをくすねてきたり、何のためかわからないが、女子中学の物理の実験室を荒らし回ったりする。
うちの窓の下のトラック(№6)は動かないので、ポンコツにされるのは時間の問題だ。いずれガキどもに解体されてしまうだろう。
暗夜。目玉をぎょろつかせても、何も見えない。権力はどこかの橋の下らしい。権力はおのれの真の使命の奥ふところへ戻っていった。一晩中、雨。医者は赤ん坊を診にいくのを忘れて、3日ぶっ続けに酒を飲むことにした。雨はざあざあ朝まで。暗い夜空にサーチライト。泥棒コミサールたちが〈橋の下〉から空を照射している。
10月18日
重苦しい夜明け。立派な犬だが、腹ぺこだ。退屈のあまり、つい欠伸(あくび)。きっと次の欠伸のときにひと声吠えるはず。ほらまた欠伸だ。欠伸のあとまた甲高く声を空に打ち上げるぞ。
きのう、みなが異口同音に――きのう白軍から軍使が来た、夕方6時に赤軍は街を明け渡すと約束したなどと言いだす。まったく、何だって思いつく! 待ちきれなくて苛々しているのだ。自分は、おそらく白はドルゴルーコヴォからカザキーへ、そこからエフレーモフへ向かうだろうと思っている。そして徐々にエレーツは包囲の網の中。そのため赤い権力はどんどん逃げる。が、空っぽになったら、自分たちのところに斥候〔守備の騎兵隊〕のようなのがやって来て、百姓たちは敢えて町に出ていくだろう。そして町で個人消費のわがローヂナ暮らしが始まるのだ。赤軍がどこかこの近くで戦いを長引かせるだろう。そしてその戦いの波は住民の心に、潰れた腫物みたいな光景を生み出すかもしれない。
朝、茶を飲む。腹を空かせた猫が花台にジャンプ。コトンと花台に乾いた音ひとつ。それが遠くの砲声を思わせた。『大砲?』―『猫が立てた音だよ!』。飢えた猫は豹のよう。木の上からテーブルの上のパンのかけらを狙っている。すきあらば、子どもたちの手からパンをふんだくろうと構えている。
С(エス)〔ソーニャ〕に何か起きないかと不安だ。われわれがしていることはひどいこと(やりきれない)。まったく、とんでもない話だ。おお主よ、これを誰かが見ていると一瞬でも想像したら……性愛と家族の義務とを区別するだって? 何という議論だろう! ああ、でもこれは欺瞞だ。恐ろしい、駄目だ、あってはならない……〔意味不明2行〕
一日(まるまる8時間)、南西方面で激しい砲撃音。深夜、車列が動いた(スタノワーヤへの退却)。エフレーモフへ行く途中のどこかで戦闘が続いているのだ(やはり自分の予想は当たった)。しかし市内の情況は絶望的。期待のかけ過ぎで心身ともに疲れてしまった住民は、射撃のことなんか信じないし、もうどうとも思ってない――『いつまでも屁をひってやがれ!』)。
10月19日
人気のない通りに夜が開ける。角に人影が……とたんに砲撃再開。
思い出すこととてない――自分は何をし、何を書き、誰に何を教えてきたか。何も思い出せない! だがいったい、自分のしてきたことを思い出し、それを自分の仕事と呼べる人間がどこにいる!? そんなことができるのは、愚かで独り善がりな奴だけだ。人間の仕事で残るものなど何もない。何も増さないし、何をもってしても、過去と現在はつなげない(あのトルストイでさえ、自分の書いたものを認めないのだ*)。あとは無私の(無私とは何だろう?)生の喜び(幼児の世界感受)をつなぐこと。去年の木の葉の層を突き破って新緑の草の針の芽を見たとき、あるいは冬の訪れとともに足下に吹き寄せた綿毛の雪を目にしたとき、なんと敬虔な、なんという聖なるものが心に生じたことだろう……あるいは、月の尖った角のすぐそばに、明け方の星を見つけたときの……
*論文『芸術とは何か?』(1897)で、レフ・トルストイは芸術作品の第一の基準を宗教性と分かり易さに置き、世界文化の創造物の大半、就中自分のものを〈悪しきもの〉と断じている。
自分は今、この国の教育家たちを見ている。そしてその昔、自分の教師だった人たちのことを思い出している。彼らは日々、現実に、自分の目の前にいるのだ。反抗(ブント)の心理学。わたしは言う――『おまえさんたちは刑吏だ、死刑執行人だ! 自分は無作法でてんで支離滅裂だが、間違ってはいない。そして神にさえ反抗する!』。清く汚れないものに対する憎悪、キャンペーン(徒党)の愉悦。聖なるもの――それを前にすれば、もちろん自分などは卑劣漢にすぎないが。ただおまえさん〔教師〕たちは示してくれ、おのれの内なるその聖物をみんなに見せてくれ、それがあることをはっきりと証(あかし)してくれと言いたいのだ。ああ、おまえさんたちのあのご立派な務め、業績、清潔なカラー、ああ、あれは何のつもりだ? 自分はそいつを何よりも嫌悪した。あんなものでおまえさんたちは真に神聖なものを覆い隠してるんだよ。だからこそ、反抗(ブント)〔ボリシェヴィ…)の基本は、神の前での醜悪・下劣・忌まわしさ……コペイカ玉を恵んでやるより乞食は殺してやるほうがいい。それと、この瞬間、永遠の一瞬における存在〔人間〕の完全さ。道化の委員会と農民中最貧農についてのあの例の決まり文句。
ブントの克服と制圧。外からは制圧、内からは克服。つまり個の内なる(プガチョーフは言う―『おれは罪深い。おれを通して、主はロシアを罰したのだ*』)自由――かつての盗賊のランプ。ランプの聖なる焔は、たじろぎも揺るぎもせずに、かつて森があったあの場所で、盗賊たちが歩き回って、そのあと絞首台が置かれたあの場所で、まだちょろちょろと燃えている。いっさいがランプの灯の中に隠れているのだ。春には可憐な花が育ち、ミロのヴィーナスが彫られたあの地面には、ああどれだけの血が流れ、どれだけの苦痛が染み込んだことだろう!
*アレクサンドル・プーシキンの『プガチョーフ反乱史』(1834-35)からの不正確な引用。
「おまえさんたちよ、もうしばらく、わたしの無作法と支離滅裂を許してくれ。今おまえさんたちが祖国のために為している仕事については、おまえさんたち全員よりわたしのほうが勝(まさ)っていることを見るがいい」
新しい可能性。個人的な能力と全般的な無能+パリサイ主義〔偽善〕。
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