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プリーシヴィンの日記 太田正一
2013 . 04 . 07 up
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2月26日
きのうカザキーに行ってきた。そこには32年前に行ったことがあったが、自分たちが従姉のドゥーニチカ*と住んでいた家がわからなくて、だいぶ頭を悩ました。でも、誰かが教えてくれた――『その家は昔、あそこ――糖蜜工場の幹部が住んでるあのあたりに確かにあったよ……』。現在その小さな家は影も形もない。それでも、まだ若かったドゥーニチカの姿がまざまざとわたしの脳裡に浮かんできた。珍しいことだった。こんなことは生まれて初めてである。何だろう、これは? どう言ったらいいのか? 小柄な、厳しい、でも明るい、誇り高いあの顔――これまで経験したこともない生活に苦しんでいる若い女の顔。彼女はいつも民衆(ナロード)と共にありながら、〔彼らとは〕限りなく遠いところにいた。そして片時も自分の使命を忘れなかった(いつも「ロシア通報」や「ロシアの富」を手にして)、それでたえずツァーリに敵対していたのである。少しも妥協せず、巧く立ち回るようなこともなく……
*母方(イグナートフ一族)の、年の離れた従姉(1852-1936)。ソルボンヌ出の才媛で、帰国後、ナロードニキの運動に身を挺し、生涯を農村(カザキー村もその一つ)の子どもたちの教育に捧げた。イリヤー・ニコラーエヴィチ・イグナートフ(1858-1921)(は実弟(前出)。
カザキー村に彼女の小さな家があった。帰国して自分の仕事(ナロードに献身する)のためにそれを買ったのだ。
「ロシア通報」を発行していた弟〔イリヤー〕とワルグーニン*は、地下に潜った過激な亡命インテリゲンツィヤとは一線を画してもっぱら合法的な活動を展開した。いずれも理念においてはヒューマニストの西欧人だが、モラルにおいては頑固一徹な若者たち(先祖は旧教徒(スタロヴェールィ))だ。
*ワルグーリンについては委細不明。ロシアの解放運動に尽力した社会活動家。
ワルグーニンはワルグリの断崖の上に宮殿を構えていた。そこはスイスのような素晴らしい土地だった。美しい公園、見事な厩舎、ナロードの教育に捧げた生活(人生)、立派な学校がいっぱい建てられ、私生活でも自分の妻=教師たちがいっぱいいた。これをしも幸福というのではないだろうか。そう思われていた――幸せな人、雑階級出の旦那(バーリン)だ、と。しかし同時に、何か厭なものがあった。それが何なのかよくわからないのだが。どうもそこは彼のものではなかったようである。スイスの館、厩舎もスイスふうの造りで、その思想も外国製なら、その妻たちもみな便利で重宝な教師たち(子どもは一人もなく、ワルグーニンは医者)だった……。富裕でも幸福でもなかったのかも。その点はドゥーニチカも同じだった。宮殿に住んでいたワルグーニン――ただそれだけだったのかも。
ついこのあいだロパーチノの近くを通った。ある貴族が造った大きな村である。ちょっと不潔で、蝿が多かったが、それなりに快適だった。目を閉じて冬の村を思い描いてみたが、なぜか黒土地帯の春しか浮かんでこない。犂を手に黒い海に沈んでいく人。波立つ大地の匂い。ハシバミの茂みの下のスミレも土塁に咲いたスズランもいっぱい露を浴びていた(驚きの一語!)。菩提樹の並木道、花の香り。暑気の中の蜜蜂たちの羽音が聞こえた。昼食のあとの大テーブルにはサモワールとジャムが載っていた。
なんと素晴らしい懐かしい光景だろう! ワルグーニンの村にはどこよりもいいものがあると思っていたのだが、今何もない。それどころか……
自分は彼ら〔ナロードニキ〕には無縁の存在であり、彼らも自分にとっては余所者である――彼らに対する〈尊敬の念〉に嘘偽りはない、もちろん手紙の結びには「敬具」と書くだろう……なのに、にもかかわらず。
ツァーリを打倒したその大なる功績のゆえに、革命は彼らを追放しなかった。だがそれだけである。彼らに許されたのは今ある場所に居続けてそこで生計を立てること――ただそれだけである!
ワルグーニンに与えられたのは、館の2部屋とソヴェートが派遣したお手伝いだった。彼はもう白髪と禿の目立つ、退官したどっかの老教授のようである。客が4人来ていた。執行委員会の議長と3人の地元のアーティスト。いずれも彼の教え子たちだ。
わたしは彼らにペトローフスコエでの出来事―わたしの橇を追いかけながら、文化啓蒙サークルの議長が『小さいお芝居の台本をぜひ書いて送ってくださいね!』と頼んだ話をしてやった。どこでもいつでも同じ芝居をやっているのだ。まったく、いつもこうでは堪らない……そこでわたしは村の俳優たちに提案した――ひとつ自分たちで戯曲を書いてみたらどうだろう、農民たちの夜毎の昔話や洒落だの地口(じぐち)だのを大いに活用すべきではないか、と。
「でも、ここにはインテリがおらんのです。あの人たちがいなくて、わしらに何ができますか?」そう言ったのは執行委員会の議長だ。
「旦那(バーリン)なんかいなくたって……自分たちで書くんですよ」
これは問題だった!
「そりゃ無理だ、できやしない!」反対したのはワルグーニン。もちろんできないことではないのだが。彼としては、それは〔無理〕……と言いたいのである。
まったく、わが革命のなんと汚れなくなんとナイーヴであることよ! ここの男たち――読み書きもろくにできない労働者たちは、肉刺(まめ)だらけの手でいまだにツァーリの王しゃくの破片(かけら)にしがみついているので、コレも駄目アレも駄目、要するに誰にも何もさせないのだ。『熊を生け捕ったぞ、熊を生け捕ったぞ!』―『あっちへ連れてけ!』―『駄目だ、こいつ、おれから離れようとしねえんだ!』。これはインテリゲンツィヤに対する大変な侮辱である。インテリゲント〔熊〕は怒っている――彼ら〔百姓たち〕の方へ行こうとしているのに。
ワルグーニンが言う――
「歴史の教養がある人間にははたしてこんなことが信じられだろうか、そんなことに着手できるものだろうか? 聞け、あの歯軋り――『ぶっ倒せ!、やっちまえ! 奴らを生け捕りにした。押さえつけてやった。粉砕したんだぞ!』。まったくこんな状況で、どうして何かを分かち合うなんてことができるだろう?」
執行委員会が言う――
「だが、ケーレンスキイのときなんか、インテリゲンツィヤはブルジョアや白衛軍と組んでたじゃないか。とんでもない話だよ。権力を握ったのはわれわれなんだ……」
わたしはマックス・シュティルナーの権力の話をした。彼らにしてみれは、びっくりするような話である! 唯一の反駁は、結局、誰かが権力を握る必要がある、そうでなければ国家そのものが無くなり、みなが互いに戦い合うことになる――そういうことだった。
今は執行委員会が権力を握っている。歌っているのは君主制の時代とそっくり同じもの。
「われわれはニコライの頸木を脱したのだ!」
「わたしは作家だが、作家にとってはツァーリ時代のほうがよかった。少なくとも書くことができたから……今はぜんぜん*1」
「でも、おれには今のほうがいい……」
「そりゃ当然だ。権力を握ってるんだから。寄木細工(パルケット)の床を歩けるだけでなく、裁判権だって握っている。圧力をかけることだって……」
あっちでもこっちでも槲(カシワ)の森(富農)が伐採されている。
彼らはとてもナイーヴだ。これら独裁者たちは〈人間(チェラヴェーク)〉の恵みによって*2王しゃくを手に叫んでいるのだ――『小さなお芝居を書いてください!』と。
が、ワルグーニンはというと――
「そりゃ駄目だ、そりゃあ危険だ」
独裁政治の砕かれた王しゃく。その破片は鏡の小さなかけらのように飛び散って、われわれの心に突き刺さった。われわれが見ているのはその破片に映った歪んだ世界の像なのである*3。
*1プリーシヴィンはこのころ『猿の奴隷』(1920)(のちの題は『村の杯』)の出版許可を直接トロツキイ宛てに送ったが、現時点では〈反革命的だ〉として拒否された(前出)。この作品が世に出たのは1982年になってから。
*2〈神)の恵みにより、というところを〈人間〉の恵みによりと言い換えている。
*3アンデルセンの童話『雪の女王』(1844)のアリュージョン。
「どうしたら書けるかな? われわれには才能がない」
「書くんですよ。創作するんです」
「そんなことができるのは少数者だ」
「誰でも創造者になれます」
「みんながなれるわけがない」
「まず、大衆的創造のプロセスを準備し整えること〔甚だ曖昧?〕。すれば追っつけシェイクスピアも現われます」
「大衆にだって思想(ムィスリ)はあるからな」
ムィスリは大衆を吹き抜けるるもの。でも、川の頭〔始まり〕はどこだ? それは河川の氾濫ということだ。では、泉はどこにあるのか? 教えてくれ、泉はどこだ? 川の頭であるアンチリゲンツィヤ〔インテリゲンツィヤのつもり?〕は今、どこにいるのか?
男たちはブートフ*が再任されたことが信じられずにいる。
「新聞で読んだ。ブートフ・セルゲイだろ?」
「ミハイルのほうだよ」
「そいつは奴の兄弟だが……まぁどっちでも同じさ*」
*ミハイル・ブートフはロシア共産党(ボリシェヴィキ)エレーツ郡委員会書記、ソヴェート権力におけるエレーツの大物指導者の一人。この男に対するプリーシヴィンの不審の表明。ミハイル・ブートフの政治的キャリアは1918年6月までエスエル左派に属していたことが発覚して消滅した。彼にはほかにも兄弟がいた。
ウスペーンスキイを読み終えたイワン・アファナーシエヴィチは言う――
「みんなのもの(公共のもの、Общее)というやつだけど、これはどこから出てきた言葉です?」(作家たちに責任がある)
ボリシェヴィキはあらゆるものから解放され、目下は「自由の強化を押し進めている」。
「彼らは狼の地位にある――しっぽは雄犬だが!」
リーザが差押えを喰らった。翌日、追放されることになった。夜、彼女はわたしに食事を出した。出されたものを食べて、辞去した。こんな声が聞こえてきた――『ああ、あたしたち、カーシャを出すのを忘れてたわね。すぐに持っていきましょう』。カーシャを持って出ようといたようだが、それをテーブルの上に置いたまま、彼女たちは思った――『ひょっとしたら、あの人〔プリーシヴィン〕、もう食べに来ないかも……でも、あの人の分もカーシャを作りましょうね』そんなことも聞こえてきたので、わたしはしばらく待っていた。でも結局、カーシャは届かなかった。翌朝、わたしのカーシャはボリシェヴィキに食われてしまった。
壁の向こうでは朝から籤引きだ。何の籤かと思えば、氷の滑り台を誰と誰が造るかだという――さあ誰が黒か誰が白か?
〈歴史的人物〉――歴史――それとЯ(わたし)における歴史の結論。
どの活動家も静かにこっそりと――エゴイストだからだが、でも活動家は声高に〈人間(チェラヴェーク)〉に仕える。おのれを際立たせ、他人はみんな平等に。エゴイスト(資本家)たちはおのれの人格を確立するや、弱者たちの独自性を殲滅しにかかった。
創造のプロセス
1)わたしはぶらつき、新しい世界と出会う。驚き、喜び。我を忘れ、好きになり、信じ込んで、わたしでないもの(не-я)になった。
2)自分の生まれ変わりを置いて、わたしはこの世を飛び出した。
12時と1時の間に胎内に入ったらしい。
わたしはかなりの年月を母の胎内で過ごした。そこから出て自由になるために、ただ自分自身(я)であるために、ペンを手に取るのである。
3月1日
わたしは無、わたしは全(すべて)。(Я――ничто и Я――всё)
分析すれば、
1)わたしは小さい。全を分析する。全は存在するのに、わたしはあまりに小さくて手に取ることができない。
2)わたしは無。わたしは自分自身を殺そうとする(自殺)。
3)わたしは全の中にある(わたしは全に身を委ねようとする)。
4)わたしは全。
つまり、2段階のわたし。わたしは無であり全である(わたしは神)。道半ばで苦しみ、中等のわたし(俗なる、ちっぽけな存在)を自滅させる。
3月2日
乳母(ニャーニカ)。
「猫たちが騒ぎだしたわ。ほら、氷が解けて水嵩を増した川面に月が残ってる」
ペトローフ〔スコエ?〕のワルフォロ〔メーイ?〕が薪を10プード運んできた。アレク〔サンドル〕・ミハー〔イロヴィチ・コノプリャーンツェフ〕は30プード支給された〔。これでわれわれは生き延びられるかも!
外が明るくなってきた。いや増す光! 終夜祈禱祭用の蠟燭を手に入れた。
村で自分の噂を耳にした。
『行っちまったのさ。わしらとは一緒に働きたくないんだろ(労働者=農民の仕事だ)。やっぱりインテリなんだよ! そりゃあもちろん、インテリゲンツィヤはわしらと一緒に働きたくなんかないのさ!』
火の山で快適に暮らし始めた。火を噴くそのクレーターで――〈我にいのちの扉を開け給え!*〉を唱和する。
*大斉期に歌われる聖エフレム・シーリンの祈りの出だし。
「わたし自身が神である。敬われるべき神々は私の年長の、あるいは年少の同志(タワーリシチ)たちだ」
「あなたはそう思ったが、実際のところ、В(ヴェー?)も自分自身に対してそれとまったく同じことを感じている。復讐として〈我これを報いん*〉。
*ロマ書第12章19節。「悪をもて悪に報いず……愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ、録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり」
母は言う――自分たちの食物を手に入れることに今、家族全員が、夫も幼い子どもたちも必死だわ。以前はあたしだけで、孤独に苦しんでいた。哀れな女たち以外には、誰にもこの小さな仕事の辛さがわからなかったけれど、でも今は家族みんなで苦労を分担している。だからもうあたしは孤独じゃない、ずっと楽になったわ……
ウスペーンスキイの『農民の仕事』を読んだイワン・アファナーシエヴィチの言葉が忘れられない。彼は突如としてウスペーンスキイ描くところの富農(クラーク)の側に立ったのである。またウスペーンスキイの言う〈みんなのもの〉が戯言(たわごと)でありそれを、インテリゲンツィヤの罪の、また〈みんなの人〉のお説教の始まりであると見なしている――そのことも忘れられない。
「おれが信じているのは」とイワン・アファナーシエヴィチ。「個々の人間の事業だけだ。個々人の連帯(ソユーズ)を信じている。平等化〔や均一化〕から何らかの結論は導き出されるだろうけど、事業なんてものは何ひとつ生まれやしない」
植字工。鉛の活字を一個一個きちんと組む――小屋と小屋を並べて建てるように。行と行はまるで真っ白い雪の原に次々と現われる村々、家々。文字と文字が連帯責任で巡礼や旅人〔漂泊者〕たちを守っているかのよう――『どこでも好きなところをさ迷え。おまえの身元はわしらが保証する。最後までおまえをみなして支えてやるぞ。だからわしらの村に来い。水も飲ませるし腹いっぱい食わせてやる!』。植字工たちの文選は作家たちを支えた――『書きたいことを書けばいい! あんたを支えるし、巡礼者である作家たちの世界と手をつないで、あんたの作り話も盛り立ててやる〔認めよう〕。そしたら、あんたもわしらにとって彼らのようになるだろう』。しかし今、その植字工もいない。組んだ活字もばらばらだ。気がつけば、自分は村にはいない。居心地のいいわが家を追い出された家なき独立農家人(フトリャーニン)である。
沈みかけた船。膝まで(もうじき口まで達するだろう!)水に浸かりながら、最後まで打電し続ける人間は幸せだったにちがいない。今の自分にはその電信技手がいない! 日記をつけているが、あしたチフスで死ぬかもしれないのだ。誰にそんな手記が読み解けるだろう! だいいち、どうしたらこの日記やメモ(破滅はまず免れない)を守れるか、それすらわからないのだ。誰かが書いた何千冊ものノート。そんものをほんとに自分は目にしなかっただろうか? 竃に投げ込まれたもの、水浸しの地下室や路上に捨てられたもの……母の手紙だってどっかの百姓小屋の壁〔の穴塞ぎ〕にべたべた貼られているありさまだ……
わたしの小道はずたずただ。道の端と前方の似たような道の端を必死につなげようと、たえずきょろきょろあたりを見回している。でもそんなつなげるような小道は見当たらない。雪の上に見えるのは自分の足跡、目の前に地吹雪が吹き寄せるのもやっぱり自分の足跡だけだ。
友よ! きみは今どこかにいて、わたしが来るのを待っているのだろうか?
自分はきみの助けを待ってはいない、断じて! 自分は独りできみのところに行く。ただ待っててくれ、僕を待っててほしい!
きみが僕を待っていることさえわかっていれば!
こうした辛い経験、こうした出版物の大精進(ヴェリーキイ・ポスト)*のあとで、また再びあの同じ歌がうたわれることはあるのだろうか? 誰かが再開のシグナルを出す。最も大事なことは、その最初の人が何についてどのように書き始めるか、だ。
*ヴェリーキイ・ポスト=復活大祭前の大斎期。斎戒、物忌(ものいみ)。この期間、飲食・行為を慎み、身体を浄め、不浄を避ける。我慢、辛抱の意味で俗に使われる表現。「楽あれば苦あり」をロシア語では――「猫だってマースレニツァ(楽しい祭)ばかりあるわけでない、我慢のヴェリーキイ・ポストもやって来るのだ」。
3月30日
インテリゲントと本。
リョーヴァ〔長男〕が〈インターナショナルの歌*〉をうたっている。「無(ニシトー)だった者が全(フショー)になるのだ」と。
*1871年にフランスで作られた革命歌。パリ・コミューンに参加したポティエが詩を作り、ドジェテールが作曲した。世界各国で労働歌として歌われた。ロシア語に訳されたのは1902年。1918年から1943年までソヴェート同盟の国歌。「無が全へ」はその第一歌の最後の部分。ちなみに日本語訳はまったくの意訳である。
歌詞の内容――創造的無(ニシトー)が全(フショー)に転じて神(ボーフ)となるという意味である。作詞家はメタフィジク〔抽象論議の好きな人間〕だ。政治学の先生がそれを〈農民中の最貧民〉のイメージに作り変えたものだから、わがフルシチョーヴォの泥棒ワーシカ・エフチューヒン(貧民委員会(カ・ベー)議長)などは、メタフィジカルな無を全となすべく大奮闘の真最中である。
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