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プリーシヴィンの日記 太田正一
2013 . 03 . 30 up
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1919年2月22日(の続き)
ドゥープキ~ロパーチノを行く。いよいよ春。黒土はさながら黒い海。黒海を髣髴とさせる。土の匂い。向こうで畑を耕している。心臓ポンプから先祖たちの血が送られてくるように、ドゥープキからも健全さというのか、ある種の指令、祝福、〈絆)のごときものが感じられる。だが、今は何もない。すべてが貧困、窮乏の中にある。わたしはある屋敷(ウサーヂバ)に寄ってみた。そこには女の先生が住んでいた。彼女はワーレンキを履き、頬かむりして、薪を割っていた。1日教え、2日休む。なんせ寒すぎるのである……『もう少し塩が手に入れば……塩のためなら何でもします!』
〔村の〕寄り合いは叫び合い! 暑い。マホルカがない。虱(しらみ)が這い出てくる。行き交う大橇。橇同士のキス〔衝突〕し合い。盗んだ薪を積んだ荷馬車が2台。さてこれをどう追い越すか? 抜こうとして、こっちが吹き溜まりに突っ込んでしまう。再度こころみたが、また突っ込む。あがいてあがいて、やっと本道に戻ると、荷馬車ははるか前方に。
これは何という村だろう? 井戸のそばに若い女が立っている。どう呼べばいいのかな? 『おばさん!』では失礼のようだし、『お嬢さん!』は違うだろう――とてもお嬢さんには見えないから。迷っていると、イワン・ミハーイロヴィチが声をかける――
「若奥さん(ダーマチカ)!」
女が振り返った。
「ここは何という村です?」
「セクレタールカですよ」〔奇妙な名だが、スペルはсеклетарка〕
われわれの橇のあとを追うように声をかけてきたのはエリザヴェータ・ロパーチナ――ここの文化啓蒙サークルの議長だ。
「短い戯曲を書いて送っていただけますか?」
領地の名は以前と同じジョルジヤだった。カフカースを旅したかつてのお嬢さんがグルジア男に恋をして、そんな名になったらしい。
毛皮の長外套(トゥループ)が凍った。〔馬車に〕横にならせてもらう。悪寒がする。熱病か? 虱の餌食。咬み方が尋常でない(他人の血……)。
星が瞬く。東の方の星が数を増し、次第にひんやりしてくる〔ようだ〕。まだ日は落ちないのに、ぐんぐん星たちが冷たくなる(虱はまた咬んだ)。
暮れなずむ春の空。
まわりは青一色。青い空と青い雪の間に霧。霧の中に〔電〕柱、製粉所。
2月23日
知識欲に富む人たちはわれわれに招待状を送ってよこすべきだ。『これは謎かけなかではありません。わたしたちの真実の生活です、さあ見てください……』と。
……たとえばシュティルナーだ*。彼の著作にはコムーナに関することがすべて書かれ、予言までされている。何やかや言われているが、しかしそのコムーナは実現した。鍋に入ったら肉は肉鍋である。
*マックス・シュティルナー(1806-1856)、本名はヨハン・カスパー・シュミット。ドイツの哲学者。ヘーゲル左派。個体的自我のみを実在と認める極端な個人主義をを唱え、社会的権威を虚妄とするアナーキズムへ走った。何者にも服従しない自己=唯一者。徹底した利己主義の典型。主著である『唯一者とその所有』(1845)をダダイストの辻潤が翻訳している。マルクス、キルケゴール、ニーチェと並ぶ一九世紀の代表的思想家のような言われ方をしたこともある。
愛については……言うまでもない。この言葉には自由と同じ広闊(こうかつ)さがある。わたしの愛は愛ではなく、歓び。
シュティルナーからの引用――『もしそれ(社会)がわたしの独自性(独創)を脅かせば、それはわれわれに対する権力となる。わたしには手の届かない驚くべき権力、侮辱することも敬意を払うこともできる。あだが、打ち負かしたり取り込むことは絶対にかなわない……なぜなら、自分は自分に見切りをつけているから。権力はわたしの個人的利益の放棄ゆえにまた謙遜柔和と称される無力感ゆえに存在する。謙遜柔和は権力側を勢いづかせ、忠誠心は権力支配をより確かなものにする』
2月24日
ワイワイがやがや。男たちが砂糖を分配している――1人あて半フント。春、まったくの雪解け陽気。壁の向こうで〔二人だけでの意?〕。イワン・アファナーシエヴィチに言った――
「きみたちはコミュニストたちに答えていない。彼らはきみたちにイデーを与えているのに、きみらは腹が痛いなどと言う」
「もちろん、そうです」とイワン・アファナーシエヴィチ。「でもいったいそれをどこで見つけろと? なんにしても、いきなりだから……そうは問屋が卸しませんよ。じゃ、あなたは何か、そんなものを……イデーをお持ちなのですか?」
「持ってるよ!」とわたしは言った。
そしてシュティルナーのことを話してやった。『全権力はわたしにある。だがもし誰かが(コミュニストでも君主制主義者(モナルヒスト)でも)わたしから権力を奪ったなら、それはこっちが悪いのだ。わたしは屈して、あとは衰えるかただ寝て過ごすしかない……いや、そんなことでは済まない。生ける自由〔意志〕だったわたし自身に強制がかかってくるからだ――上からの、有無を言わせぬ、苛烈を極めた、社会の、国家の強制力が。だからこそ国家社会を打ち破って個人と個人の連帯(ソユーズ)を創り上げなければならない』のだと、そんな〔シュティルナーの〕イデーを話したのである。
「それは認められない」とイワン・アファナーシエヴィチ。「だってそりゃあ……」
彼はしばし考え込む。それから不意に――
「ま、言わんとするところは認めますけど」
「言わんとするところ、だって? それはどこ?」
「ほら今、小窓に雀たちがとまりましたね。あのうちの1羽をおれが捕まえ、首をひねって、窓からポイする――それは何のため? どういうことですかね、教えてくれませんか? そこにどんな意味があるんです?」
「意味なんかない。きみたちもわたしも雀に触らないために連帯(ソユーズ)をつくろうとしているんだよ」
「そうです、そうです」イワン・アファナーシエヴィチはまたちょっと考える。そして――
「ああ今、別のことを思い出した……話すべきかな、やめたほうがいいかな? いや話そう。夜、子牛を屠殺するのでナイフを砥いだんです。砥ぎ終わって、少し横になった。深夜、目を覚ましたら、どっこかで子どもの泣く声がするんだ。耳を澄ます。子どもの泣きじゃくりじゃないんだ、子牛が鳴いてたんです! これ、どういうことかわかります?」
「どういうことかな?」
「子牛には自分が殺されることがわかってたんですよ」
「そうだ、わかってたんだ」
「しかし、子牛にわかってたことが、わしらにはわからなかった」
「うむ…」
「それだけのことですよ」
「ところで、僕らは個と個の連帯(ソユーズ)の話をしてたんじゃなかったっけ?」
「それじゃ、その話に戻りますか。われわれの連帯はわかりやすい。少しも難しくないんです。摂理と言ってもいいくらいなんだが、でも、いくら考えてもよくわからない。連帯なしにしかし、何ができますか? どうしたって小さなものを大きなものに組み込まずにいられるでしょう?」
70歳の老婆が償金が払えないので、寒いところ〔アムバール〕に入っている。誰もこの違法行為に腹を立てないのは、居酒屋をやって儲けているのに支払わないから報復されていると思っているからだ。どうやら婆さんは、復活大祭(パスハ)にも商売を休むどころか肉までサーヴィスしてたらしい。聖なる光の大祭に客たちはバカ食いし飲んだくれた。そして夕方には酔っ払いどもは外に引きずり出された……
チーホン・ザドーンスキイの聖骸冒涜の例や〈尊者はお隠れなさった〉という作り話(レゲンダ)はまあ、それなりに宗教闘争の無効性を示している。
『概して抗議は己の所有物に対するものではない。攻撃の対象になっているのは〔自分の財産ではなく〕他人の財産なのだ。少しでも多くを、いやすべてを自分のものにしたがっているのである。そういうわけで、他人のものを求めてしのぎを削っている。では、自己救済をどう考えているのか? 他人のものを自分のものに変えるかわりに、党に属さぬ人〔無党派〕の役を演じるのだ。全財産が第三者(たとえば社会・世間一般)のものであることが求められる。他人のものを当人名義ではなく第三者の名義に書き換えるのである〔名義書き換え〕。すれば、利己的なニュアンスが薄れて、すべてがピュアで人間的になる!』(シュティルナー)。
以下もシュティルナー――
『もしいっさいを私有物とするなら、所有者が主(あるじ)となるだろう。では選び給え。きみは主人になりたいか、それとも社会が主となるべきか? きみが持ち主(権力者)になるか乞食になるかは、一にそこにかかっている。エゴイストは持主、社会主義者は乞食なのだ。しかし赤貧(ないし無所有状態)は封建制度(フェオダリズム)の謂い、すなわちここ百年の間に領主を領主でなくした采邑(さいゆう)受領従属制度のことなのである。なぜなら封建制度は神の座に〈人間〉を置いて、その人間から昔は神の恵みによって得ていたものを受け取るようになったのだから。以上われわれは、コミュニズムが人道的諸原則の力を借りて絶対的貧困に到らしめること、そして同時にその貧困がいかに独自(独創)性に転じ得るかを示してきた。革命時に旧い封建制度は完膚なきまでに粉砕されたので、以来、ありとあらゆる反動的狡知はなんら成果を残さなかった。やはり死んだものは死んだもの……だが一方、復活はキリスト教時代におのれの真性(イースチンノスチ)を示さなければならなかった。封建主義は――新たな封建制度は、来世でまた変容を遂げるかたちで甦った。封建領主、すなわち〈人間〉(チェラヴェーク)を頭(かしら)に戴いて再び甦ったのである』>
『キリスト教は廃絶されない。キリスト教がもたらした戦いはすべてキリスト教の浄化と努力への奉仕と考える信者たちは正しい。そして実際にキリスト教は啓蒙教化されて「新たに発見されたキリスト教」は「人間的なキリスト教」となった』
『人間としてわたしは権利を有するが、自分が人間以上の、まさに特別な〈人間〉であるために、特別な人間のわたしはその権利を拒否されるだろう』
一度も読んだことのない著者〔シュチィルナー〕のものを読んで、どこか懐かしいもの自分の経験に近いものと出会うのは素敵なことだ。社会主義のアナーキズム(つまり社会と個人)の戦いは量と質の闘いである。量の悲劇――全員に割り振られた質は質であることをやめて、擦り切れて色褪せた更紗地みたいに無色になる。たとえば村の公共図書館に割り振られた旧地主たちの個人蔵書だ。あるいは分配のために価値を失った富裕な大貴族の領地……ツァーリの宮殿の黄金だって兵士が手にすればただの銅製品になってしまう。
質の悲劇――何を創るか自分自身も知らない。
総括(シーンテス)。公共図書館の個室。公共浴場の個室(いわゆる家族風呂)。売春宿での娼婦とのロマンその他。〈専門家の民族化*〉、〈才能ある者たちの集団(社会)化〉。
*革命初期に行なわれた「民族化」――その地域の民族要員の参加を得て民族的基盤に立つ公共機関を組織すること。集団(社会)化は単なる人材の社会化・共同化・共有化である。のちの農業の集団化のことではない。
シュティルナーは言う――『自己認識ではない、自己実現だ!』
最高の価値とは、シュティルナーによれば、独創(独自)性である。
雪に覆われた貧しい家々は、さながら連帯保証人たちの共倒れといったありさまだ。
村の防備には村内の家々が当たるが、独立農家(フートル)は自分独りで護らなくてはならない。
自己実現化とは(これはわたしの意見だが)、自分を社会から分離して「この世のものとも思えぬ」特質(つまり独自の質)を抽き出すことである。通常その後に起きるのがペテン、詐欺行為。自分の価値をお金に替える(売る)ことはできても、「この世のものならぬもの」を消費社会の価格(価値基準)で交換することはできない。
そこにシュティルナーの根本的な過誤がある。
わたしを買うことは不可能だ。一方、わたしは――自身を売ることができない。我(ヤー)とは精神(ドゥーフ)だから。
詩人は決しておのれを売らない。本を書いてお金を受け取れば、彼はヨソモノ扱いされる。社会は自分の好きな歌手には(潜在意識的に、つまり本能的に)いくらでもお金を払うのだ。デリカシーの問題。
恋人たちは世界をまるごと愛するエゴイストだ。
雪解け陽気。年老いた川原毛*の馬が病気の女を運んでいく。女の目のまわりに大きな黒い隈(くま)。
*馬の毛色で、淡茶色で尾とたてがみが黒い。月毛とも。
馬糞だらけの道を川原毛がゆっくりゆっくり。女の黒い大きな隈は路上の黒い水溜りにそっくりそっくり。女は発疹チフス……
半睡半眠。どうしたものか?
イワン・アファナーシエヴィチがパンを13フント、ミルクを1壜、持ってきた。どうしてわたしに? と驚いたが、今ではよくわかる。要するに、自分の話を遮らずに、これからもちゃんと聴いてもらいたいからなのである。
「おれは臆病な人間だから――」と彼は言う。「話す相手もいないし、だいたい何を話していいか、自分でもわからないんだ」
彼女〔ソーニャ〕は誰をも裏切らない。よくよく承知していてそれを押し通すことができる。われわれをうろたえさせる唯ひとつのこと――それは友〔夫アレクサンドル〕の居心地の悪さ、現実的な苦悩……いちばんは子どもたちの問題だ。いま彼らは母親がいないも同然の状態なのである。もっとちゃんと世話を焼かなくてはならないのだが……
彼女は消えてしまった。もういない。でも、愛の世界はそのままだ。自分はだんだん彼女から自由になり、愛の世界を自分の世界にした。すべての花に、一日一日に、季節季節に、自分は自分の歓びを見る。
だがまあ、それでも彼女には何の関係もない――幼子(おさなご)が山を吹き飛ばした〔というあの〕押しボタンでも出てこないかぎりは〔?〕。
農民の朝。なんと生きいきとしていることだろう! 樽を、桶を、あの天秤棒を見よ! じつに生きいきしている! 井戸端で若い娘が小さな橇に樽を載せる。そして急いでどこかへ消える。どの橇の上の樽も辛抱強く〔水を注がれるのを〕待っている。馬も樽も同じだ。通行人がみな、樽の見、あたりを眺めては自問する――『あれは誰の樽だろう? 樽は誰を待っているのか?』と。
自分がシュティルナーに同意するのは、すべてはわれわれのもの、他人の思想も自分の思想という点である。気に入らないのは、すべてがそれに、所有の問題に帰するかのごとく強調すること。それと「自己享楽(サマナスラジヂェーニエ)」だ。自分は申し分なしだが、傍目にはどう映る? だが、そこは……愛の問題。恋する二人は家を飛び出した。そして時が過ぎた。もう美しくも何ともない、滑稽なくらいになった! 他人が有頂天になるほど烈しく恋し合う二人を想像しようとするが、まったくもってとんでもない! アポロン、ヴィーナス、神は、もとより人間ではない……
彼女は、夫の前ではわたしを中学生(ギムナジスト)〔二人はかつて同級生〕のように遇する。一方、わたしの前では、夫に対して自分をただの町人(メシチャンカ)のように振舞う。わたしに属し夫に譲られる彼女の居心地のよさ(ウユート)は、たしかに町人〔小市民〕的であるように思われる。わたしは〈その町人〉に対して(アレクサンドル・ミハーイロヴィチに対してではない)彼女に嫉妬している。そのため、ほんの些細なことで嵐が巻き起こる。そんな自分に向かって彼女は――『どうしてあなたはあたしにそうよそよそしいの?』と言う。そもそも三人一緒に暮らすのが無理なのだ。
2月25日
対抗(ブント)する男どものこの氷の層をどうぶち割ろうかと考えている。
そこへ持ってきて二人がこっちのペチカを奪い(排除し)にかかっているという疑心暗鬼――なんて馬鹿な! 深夜、蛇が女の顔をして現われる。顔はとても美しい。恋しているから当然なのだが、蛇は鱗を光らせて尾の先のガラガラを鳴らす。その音がもうよその寝室から聞こえてくるのである。こっちはそれを聞かざるを得ない! 自分には関係のない蛇の世界のざわめきと音。猟人と軍人を恋する蛇は、必死で〔二人を〕自分の卵の中に閉じ込めようとする。
消費組合店のドアの向こうで、男たちの烈しい応酬、罵り合い。きのうもきょうも砂糖の分配をめぐって百姓たちがやり合っている。オーストリア人〔戦時捕虜〕は言う――『まるで畜生だ。ウクライナの砂糖(1人当て半フント)のことで、なぜあんな厭な言葉をぶつけ合うのか!』。車馬の列――スタールィ・オスコール〔モスクワの南方700キロ、現在のベールゴロド州の町〕に塩を取りに行くのだ。ここでは1フント15ルーブリだが、あっちでは2ルーブリ。あっちもこっちも同じ権力下にあるのに、なぜなのか?
笑い者にされぬよう自分を抑える必要がある。抑え過ぎれば、優しい〔声が〕耳元でこう囁く――『どうしてあなたはそうよそよそしいの?』
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