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プリーシヴィンの日記        太田正一

2013 . 03 . 24 up
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1919年2月16日

 民主主義の宗教はおそらく家庭生活の秘密の場所に隠れているのだ。そこであらゆる碌でもないもの(нечисть)との接触が、その変容が、あらゆる物質、あらゆる仕事〔労働〕の人格化が生じるのである。
 一日が始まる。呻っている老婆に処方されるのはカノコソウ。それしかない。それが現状だ。婆さん、黙って飲んでくれ! チフス。死人が運び出される。婆さんはまだ何か言っている――『当たらんように、障(さわ)らんように!』とそればっかり。祈りながら泣いている。まわりの者たちもそれを悲しんでいるようだが、なに内心は嬉しくて仕方がないのである。〔料理が〕出されれば一応は遠慮する客たちの社会的習慣のようなもの――本当は食べたくて仕方がないのだ。生きてるのが恥ずかしい、でも生きたい〔これが本音〕。水運び人(サモワール用に砕氷)。旅行鞄には腿肉(ももにく)を。

『死神よ、向こうへ行ってくれ!』の意。

 チフス。もしわれわれの中から患者が出たら……〔どうしよう?〕
 村で。彼女〔ソーニャ〕のために砂糖とキビを手に入れた。行きたいけれど、持ってはいけない。チフス。

 マロースの地吹雪のあと、街道に出てきたのは、翼の凍った越冬組のミヤマガラスたち。嘴で道路の氷を突(つつ)いている。よたよたしているのが遠目にもわかる。
 「ミヤマガラスは凍死寸前……腹が減って、こっちも死にそうだ。もうあとがない!」
 「ロシア人も……」
 「そうだ、わしらもな。寒さと飢えでもうふらふらだ」

 市民大学がチフス伝染の温床であることがわかった。

市民大学――これはまだ帝政時代(1870年代の創設)になる施設。ソヴェート時代は1958年以後のものを指す。人民大学。

2月17日

 町中に噂――ペトログラードが占領された、と。だが誰に占領されたかは不明。ペトログラードの後方攪乱が急に南から北に転じた。鋳鉄炉(チュグーンカ)と司令官イワン・リヴォーヴィチ〔労農赤軍司令官〕。По козе канун(?)

ここではコザーは「雌山羊、おてんば娘」の意の普通名詞。「まだペトログラードにいるはずのコザー(コーザチカ。前出)のために祈った」という意味か?

 ミーシャの日記。家庭生活の内奥――決して他人(ひと)には見せぬ鉄の爪を持つ幽玄の女〔ソーニャ〕……いったい〔僕らは〕どこへ行こうとしているのだ?。

ミーシャはプリーシヴィンのこと。コノプリャーンツェフ一家の家庭生活。「鉄の爪の女」はソーニャである。その暗示的表出。

 老婆(「あの世ではみなが相手を識別できない」と)。
 夜――星空。はるか彼方に大熊座、永遠の謎。が、決定権は地上(ここ)にある。つまり、わが方には、知ってはいてもみなにその知識を伝えることのできない者たちがいるのだ。それこそが、自分の言葉で言いたいと老婆が思うこと――「あの世では互いに誰が誰だかわからない」のである。相手が識別できないという意味なのだ……

 われわれの霊性(духовная природа)の始まりは宇宙(コスモス)への参加〔また聖餐〕であり、われわれのいのちの道の核心は理性(ラーズム)の戦いだということ。そして結びはラーズムのコスモスへのスウィッチ・オンと秘かな和解。

 きょうの一日。雪解け陽気。覗き窓を塞いでいた氷柱をようやく叩き落す。横挽き鋸(のこ)はなんとか手に入ったが、鉞(まさかり)は今にも壊れそう。頭がぐらぐらして、目が回る……チフスか? チフスだったらどうしよう? 頭が痒くなってきた。虱? チフス虱なんて、まったくぞっとする。薪がない、バーニャもない。虱どもが村から町へ旅を続ける。今では誰はばかることなく虱の話(目の詰まった櫛が見つからない)。われわれを滅ぼしにかかっているのは虱なのだが、こんなときに赤軍司令官のイワン・リヴォーヴィチは、ペトログラードを占拠したイギリス軍との戦いに向かわなければならない(虱のコムーナ)。〔われわれは〕ウラヂーミル・ニコラーエヴィチ・シュービンのところへ立ち寄った。本当にこれがあの人なのか? 家は閉鎖状態。部屋が二つ――一つには子どもたちが……ぎゅう詰めだ。男の子の一人が『入ってくるな、入ってくるな、嫌な奴め!』。こちらは空想癖が強く、自分の鈍臭さにイラついている。もう一人はとてもはしっこくて生意気な子。

 「どういう風の吹き回しだい?」〔誰かが鳥たちに向かって言った――「選りによってなんでまたこんなところへ?」〕
 早起き鳥は嘴(はし)叩き、遅起き鳥はようやく身繕い。
 わたしに向かって疑義を表明しようと、付添婦が――
 「みんなはバザールに行くんだが、なんちゅう風だろ? 獣みたいに咆えて……風に乗ってやってきたあの人〔スキタイ人〕たちは、しかしまあ、どうやってここから出てくんでしょうね?」
 スキタイ人たちは行ってしまった。こちらはぼおっとそれを見送る(スキタイ国はここから始まる)――これは運命(スヂバー)だ、スヂバーである。だが、わたしがこんな戦争に飛び込んでいって、しかも百のいのちが自分の双肩にかかっているとしたら、それはスヂバーだが、もし自分が自身の空しい事業のためにこれだけの情熱を注ぐなら、これはなんという運命(スヂバー)だろう?! 愚行も愚行、それこそ身の破滅ではないか。いくら泣いたって喚いたって、誰も助けに来てはくれない――「好きで飛び込んだんだ、なんでおれがそんな馬鹿を助けに行かなきゃならんのだ!」
 新聞にも『吹雪になる』と出ていたし、天文学もそう予想していた。だが、ここまで酷くなるとは思ってもいなかった。

 外見は扉。中へ入るとまた扉。ずっと扉だ。いずれ『自分はあの禿(はげ)頭も好きになるのだろう』〔レーニンのこと?〕

 A.は薪を集めに、自分は水を貰いに。〔A.はコノプリャーンツェフ〕
 「ところで、本のことだけど、どこにあるの?」
 「〔あたし〔ソーニャ〕、持ってっちゃったわ」
 彼女もパンの列に並ぶ。その間に亭主はこっそり勤めに出ていく。自分は薪運び。かなりの量を挽く。今、自由〔義勇〕大隊の本部でこれを書いている。大隊がまるごと――将校27名――逃亡。樽が凍り、それを叩き割るのに1、2時間。女君主〔ソーニャ〕がやってきた。〔二人は〕水運び人たちのあとについていく。通りに石炭が積んである。わいわいがやがや――
 「12ルーブリだとよ。以前は12コペイカだったのに」
 水運び人。〔ソーニャの〕金属的(メタリック)な命令口調。
 「さあ運んで、運んで」
 〔彼女は〕途中、急に思い直したように――
 「ああミハイル・ミハーイロヴィチ、その桶は洗面台にね。こっちはストーヴのとこまで運んでちょうだい」
 暖炉職人がやってきた。たった1時間の労働で〔手間賃〕25ルーブリ。おまけに男はフライパンをちょろまかしていった。
 とにかく〔彼女は〕一刻も早く部屋を暖めたかったので、すぐに焚きつけにかかった。しかし出るのは煙だけ……
 「もういいわ、焚くのはやめて!」
 風が渦巻く。通りに出てみると、月は煌々と照っている(虱のために気もそぞろ。痒い、とにかく痒い!)。月の光に鳥は黒鳥また雪白鳥。いかにも悠然と舞っている。朝のうちは『ワシリッサ、ワシリッサ!』と金属的(メタリック)な声が響き渡るが、夜にはじつに曖昧で中途半端な寝ぼけ声になる〔ワシリーサは女中の名〕。朝のあの〈必要不可決鳥〉はワシでもハヤブサでもオオミミズクでも人面鳥(アルコノスト)でもなくて、間違いなくプロメテウスの心臓を啄ばむ仕事鳥であり、朝の勝利と自由(抗議の声――誰にだって自由の時間は必要だわ!)の鳥でもある。が反面、気になるのは妊娠とアムバール……
 キビを石鹸と交換しに来た者たちが言う――
 「寒いアムバールどころか、今じゃ賦課税を払わん奴らは額にイニシャル〔焼き鏝〕だよ」
 一方、チェカーの男は――
 「仕方ない。どうしても払わんのがいるからな。それがどんな相手かちゃんと見きわめる必要がある。それには直接自分の目で確かめなくちゃ。そしたらアムバール行きかどうかの判断がつく」。まったく。〈剣〔つるぎ)を取る者は皆、剣で滅びる〉だ。理想(イデア)もヘチマもすでになく、国家的必要性だの必然性などはとうに萎んでしまい、今は縄張り争いに汲々だ。

マタイによる福音書第26章52節「そこでイエスは言われた。『剣を鞘に収めなさい。剣を取る者は……』」

 師団が〔首都に〕向かうらしい。兵士が言う――
 「行かなきゃね」
 「逃げるとしたら?」
 「難しいな。イチかバチか。下手すりゃ壁ぎわだよ」
 では、なぜ権力はまだ残っているのか、誰も楯突かなかった? 誰もこれ以上間違いを犯したくない――そう思っているのだ。

2月20日

 リャビンキ〔村〕。子どもたちが『マーマ、マーマ!』とじゃれつくが、母親は『しつこくしないで!』と冷たい。子どもたちはしきりに――『ねえ、ねえ、ミーシャ小父さん、僕の子鴨〔おもちゃ〕を動かして』。ミーシャ小父さんはそれに対して――『いいか、わたしの部屋に入るんじゃないぞ!』と怒鳴る。何なんだ、これは? 撃たれた鳥が猟人の足下でもがいている狩場さながらだ。みごと射止めて悦に入っている猟人は、新たに弾を装填する。

 愛想のいいコントロール。『今は遠く離れていましょう』そう言われたら、近づくことはできない。何かが邪魔している。それが何なのか、自分にはわからない。彼女のもとを去る。ずっと遠くへ。〔気がつくと〕また彼女の近くに来ている。〔彼女と〕どっかの惑星で逢うこともある。愛に代わる憐憫か? それは双方にとって拷問だ。不幸な従順そのものの状態を脱したと思ったら、〔彼女にとって〕自分が嫌な存在になったこと――ほとんど拷問ではないか。彼女にとっての拷問は? 理由を語る言葉が見つからない〔妊娠か?〕。『ワシリッサ、ワシリッサ!』と呼び続ける、あのメタリックな声の響き。あれは明らかに上下の関係であり、彼女自身が自分の蟻塚を管理支配していることを意味する。それが権力。
 権力とはそんなものだと思っている。それは人間をモノとして管理し統率する力。愛といのちの歓びはその反対で、モノをも霊化してしまう。権力と愛は相対立する力だ。わたしは愛する。すれば死んだものはみな生き返る。自然が、全コスモスが生けるリーチノスチとして動きだすはず。わたしは支配する。すれば生きているものはみな死物と化すはず。緩衝器としての理性(ラーズム)は権力と愛の間にあるのだが、もし愛が弱まって権力が無力化したら、ラーズムなど何の役にも立たない。ラーズムはただの二重帳簿の数字にすぎない。権力は攻撃し〔侵略し〕、愛が後退するや、途端に勝ち誇ったように現われて、無人のテリトリーを占拠する。それが権力である。権力は弱いところだけを侵す。愛は同等の者たちの間でしか存在し得ない。権力は敵対し衝突するマスと量の力であり、愛はリーチノスチと質の力である。愛には自由が、権力には不自由〔隷属〕が付帯する。互いに愛し合う者たちは無力である。だがそのことから国家権力とは何かがわかる。国家権力の基礎を成すのは――不平等。
 現代の権力は愛におけるわれらの無力であり、それはわれわれの今の権力が民衆(ナロード)的なものであるということだ。
 権力は宿命(ロック)ないし運命(スヂバー)の働き*、すなわち悲運、悪運の。たとえ愛に善(ドブロー)があっても、その愛が後退したら、権力はどうして善き愛(ドーブラヤ・リュボーフィ)であることができるだろう……愛には善(ドブロー)が、権力には悪(ズロー)がある。
 だが、悪は善の試金石、権力は愛の試金石なのだ。

ロック(рок)は好ましくない運命。否定的ニュアンスの宿命。悲運、不運。(ロックについては前出)

 エゴイストたる権力の保持者には顔がなく、リーチノスチがない。われわれは犠牲者だ、リーチノスチの。

 正確でない――論理的ミス。
 こう言いたいのだ――君主は小さな君主(エゴイスト)たちの世界を産み、愛の活動家はみんなの世界を産む。現代――権力は自らをコムーナと称して、他人の衣装を着る。羊の皮をかぶった狼だ。これは正教の衣をまとった専制権力へのパロディーである。君主は犬が犬に襲いかかるように君主に襲いかかる。彼にとって世界は空疎だが、愛の活動家は自らのうちに全一世界を産む。
 チーホン・ザドーンスキイの聖骸が粉々になったと知ると、民衆はそれを〈お隠れになった〉〈目に見えぬ存在になられた〉と信じた。王国の〔明らかな〕悪は権力であり、愛するものはみな目に見えぬものとなり、どんな善(ドブロー)なる言葉も発しなかった。われわれはロックに身を任せて口を噤む。なぜなら語ってはならないからである。われわれは悪事の放任と黙過において罪がある。われわれの苦しみが終わるまで、ロックが飽和に達して雲散するまで、口を緘していなければならない。そしてその暁に、われわれは一斉にこう叫ぶのだ――
 神よ、甦らせ給え!

 時を、時代を知る必要がある。悪が唯一の創造する力である時代がある。いっさいを破壊し吞み込んで、見えざる城市(グラード)を創造する時代がある。早晩そこから〈神よ、甦らせ給え!〉の大合唱の聞こえてくるのだ。
 雪に覆われた植物の根がなぜ茎をつけるのか、雪を貫いて伸びる茎がなぜマロースにも花を咲かすのか? だが、時が来て雪が融け、花が蕾を開けば、人びとはこう讃えるだろう――
 おお、光の復活(ヴァスクレセーニエ)、愛よ、平和よ!
 と、そこへ春の宵が、星月夜が、暖かい夜が。そして川の氷はバリバリと音を立てて割れ始める。
 神よ、甦らせ給え!
 渺茫たる大氾濫。水位は下がり、氷が浄化され、岸は緑に蔽われる。花が咲き、人びとは互いにひとつであることを理解する。
 神は愛なり!
 人間はまるで赤ん坊だ。人間の生と自然の生(いとなみ)の違いは、(人間が自分の前には何ものも存在しなかったかのように)すべてを自分流にやりたい――そこにその点にあるのではないか――そうわたしには思われる。だが、自然にもそれとまったく同じもの――人間が自然の本質と呼ぶものが、あたかもそこには――神はいない、法はない、自然界の王たる人間を除けば、概して何ものも存在しない――かのように働く自然の本質があるのである。
 その自己欺瞞に人間の本質のすべてがあるのだ。
 自らの恐怖とリスクとを引き換えに、その自然の生(いとなみ)を実験すること――それが人間の目的なのだ。
 とことん苦しみ、苦しみ抜き、すべてを知り、神と出会うこと。
 放蕩息子は人類の姿(オーブラス)。

 叡知は〈時を知ること〉。季に準じ節に応じて、窓に枠を嵌めること、家の周囲の盛り土(ザワーリンカ)を掘り崩すこと……その必要性を教え示すこと。
 自然の法則を、人間の反乱(ブント)の法則性を知るゆえに、賢者は、神経の張り裂けそうな個所をただの亜麻糸でかがるのである。
 いったい何のために彼はそうするのか? 人間を愛するから。自身、人間であり、自分のものはどれも可愛いからである。
 キリストは賢者だったか?

2月21日

 恐ろしい日々。安らぎはなく、ろくに眠れない。そんな夜ばかりが延々と続く。眠れぬままに目を開ける――辛かった。昼の打撃から身を護るコルクで覆われた心の夜。黒雲が心の全天を覆ってしまったかのような……あるとき、その帳(とばり)が落ちた。そしてこんな夢を見た。
 村の盃(мирская чаша)。自分の心が盃に、村の器になった夢。その盃の中身をみなぶちまけて、そこにシチーを注いで喰い始めたのだ。誰が? 執行委員会の20人の男が――委員と書記が、木の匙で。

この1年後に書かれた作品。革命後の何年かの地方の生活を鮮やかな筆致で描いた。1922年の日記では、その作品の題名は『猿の奴隷』だった。検閲を通らないと見て、直接トロツキイに手紙を添えて送った。トロツキイは編集者のヴォローンスキイを通して電話してきた。「作品の背後にある大きな芸術的価値は認めるが、政治的観点からすれば、全体として反革命的である」と。プリーシヴィンはヴォローンスキイに言った――「これで僕にパスポートをくれたということだな」。この作品が世に出たのは死後の1982年のこと。トロツキイ宛の手紙は、邦訳『森のしずく』の(長男レフの「父の思い出」の訳注に。

2月22日

 道がひどい凸凹で、橇の前の方が躍り上がると、馬も頸木も、空の半分が見えなくなるほどだった。
 スキタイの原。2月の氷層。枯枝から落ちたオークの葉が氷層を滑走する。ザワザワと音を立てて。どの枝も雪の上に〔馬の〕頸木のように曲がってしまう。なんと見事な立派なアーチだ! 真昼間、橇の音に驚いて、ひょいと身を起こす狐。あたりを見回し、ちょっと顰めつらをし、しばらくじっとしている。

 銃殺された地主の姉妹(きょうだい)であるエリザヴェータ・〔ニコラーエヴナ〕ロパーチナは人びとに読み書きを教えていて、今は文化・啓蒙サークルの議長をしている。

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