2013 . 03 . 24 up
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*『死神よ、向こうへ行ってくれ!』の意。
マロースの地吹雪のあと、街道に出てきたのは、翼の凍った越冬組のミヤマガラスたち。嘴で道路の氷を突(つつ)いている。よたよたしているのが遠目にもわかる。
「ミヤマガラスは凍死寸前……腹が減って、こっちも死にそうだ。もうあとがない!」
「ロシア人も……」
「そうだ、わしらもな。寒さと飢えでもうふらふらだ」
*市民大学――これはまだ帝政時代(1870年代の創設)になる施設。ソヴェート時代は1958年以後のものを指す。人民大学。
*ここではコザーは「雌山羊、おてんば娘」の意の普通名詞。「まだペトログラードにいるはずのコザー(コーザチカ。前出)のために祈った」という意味か?
*ミーシャはプリーシヴィンのこと。コノプリャーンツェフ一家の家庭生活。「鉄の爪の女」はソーニャである。その暗示的表出。
われわれの霊性(духовная природа)の始まりは宇宙(コスモス)への参加〔また聖餐〕であり、われわれのいのちの道の核心は理性(ラーズム)の戦いだということ。そして結びはラーズムのコスモスへのスウィッチ・オンと秘かな和解。
きょうの一日。雪解け陽気。覗き窓を塞いでいた氷柱をようやく叩き落す。横挽き鋸(のこ)はなんとか手に入ったが、鉞(まさかり)は今にも壊れそう。頭がぐらぐらして、目が回る……チフスか? チフスだったらどうしよう? 頭が痒くなってきた。虱? チフス虱なんて、まったくぞっとする。薪がない、バーニャもない。虱どもが村から町へ旅を続ける。今では誰はばかることなく虱の話(目の詰まった櫛が見つからない)。われわれを滅ぼしにかかっているのは虱なのだが、こんなときに赤軍司令官のイワン・リヴォーヴィチは、ペトログラードを占拠したイギリス軍との戦いに向かわなければならない(虱のコムーナ)。〔われわれは〕ウラヂーミル・ニコラーエヴィチ・シュービンのところへ立ち寄った。本当にこれがあの人なのか? 家は閉鎖状態。部屋が二つ――一つには子どもたちが……ぎゅう詰めだ。男の子の一人が『入ってくるな、入ってくるな、嫌な奴め!』。こちらは空想癖が強く、自分の鈍臭さにイラついている。もう一人はとてもはしっこくて生意気な子。
「どういう風の吹き回しだい?」〔誰かが鳥たちに向かって言った――「選りによってなんでまたこんなところへ?」〕
早起き鳥は嘴(はし)叩き、遅起き鳥はようやく身繕い。
わたしに向かって疑義を表明しようと、付添婦が――
「みんなはバザールに行くんだが、なんちゅう風だろ? 獣みたいに咆えて……風に乗ってやってきたあの人〔スキタイ人〕たちは、しかしまあ、どうやってここから出てくんでしょうね?」
スキタイ人たちは行ってしまった。こちらはぼおっとそれを見送る(スキタイ国はここから始まる)――これは運命(スヂバー)だ、スヂバーである。だが、わたしがこんな戦争に飛び込んでいって、しかも百のいのちが自分の双肩にかかっているとしたら、それはスヂバーだが、もし自分が自身の空しい事業のためにこれだけの情熱を注ぐなら、これはなんという運命(スヂバー)だろう?! 愚行も愚行、それこそ身の破滅ではないか。いくら泣いたって喚いたって、誰も助けに来てはくれない――「好きで飛び込んだんだ、なんでおれがそんな馬鹿を助けに行かなきゃならんのだ!」
新聞にも『吹雪になる』と出ていたし、天文学もそう予想していた。だが、ここまで酷くなるとは思ってもいなかった。
A.は薪を集めに、自分は水を貰いに。〔A.はコノプリャーンツェフ〕
「ところで、本のことだけど、どこにあるの?」
「〔あたし〔ソーニャ〕、持ってっちゃったわ」
彼女もパンの列に並ぶ。その間に亭主はこっそり勤めに出ていく。自分は薪運び。かなりの量を挽く。今、自由〔義勇〕大隊の本部でこれを書いている。大隊がまるごと――将校27名――逃亡。樽が凍り、それを叩き割るのに1、2時間。女君主〔ソーニャ〕がやってきた。〔二人は〕水運び人たちのあとについていく。通りに石炭が積んである。わいわいがやがや――
「12ルーブリだとよ。以前は12コペイカだったのに」
水運び人。〔ソーニャの〕金属的(メタリック)な命令口調。
「さあ運んで、運んで」
〔彼女は〕途中、急に思い直したように――
「ああミハイル・ミハーイロヴィチ、その桶は洗面台にね。こっちはストーヴのとこまで運んでちょうだい」
暖炉職人がやってきた。たった1時間の労働で〔手間賃〕25ルーブリ。おまけに男はフライパンをちょろまかしていった。
とにかく〔彼女は〕一刻も早く部屋を暖めたかったので、すぐに焚きつけにかかった。しかし出るのは煙だけ……
「もういいわ、焚くのはやめて!」
風が渦巻く。通りに出てみると、月は煌々と照っている(虱のために気もそぞろ。痒い、とにかく痒い!)。月の光に鳥は黒鳥また雪白鳥。いかにも悠然と舞っている。朝のうちは『ワシリッサ、ワシリッサ!』と金属的(メタリック)な声が響き渡るが、夜にはじつに曖昧で中途半端な寝ぼけ声になる〔ワシリーサは女中の名〕。朝のあの〈必要不可決鳥〉はワシでもハヤブサでもオオミミズクでも人面鳥(アルコノスト)でもなくて、間違いなくプロメテウスの心臓を啄ばむ仕事鳥であり、朝の勝利と自由(抗議の声――誰にだって自由の時間は必要だわ!)の鳥でもある。が反面、気になるのは妊娠とアムバール……
キビを石鹸と交換しに来た者たちが言う――
「寒いアムバールどころか、今じゃ賦課税を払わん奴らは額にイニシャル〔焼き鏝〕だよ」
一方、チェカーの男は――
「仕方ない。どうしても払わんのがいるからな。それがどんな相手かちゃんと見きわめる必要がある。それには直接自分の目で確かめなくちゃ。そしたらアムバール行きかどうかの判断がつく」。まったく。〈剣〔つるぎ)を取る者は皆、剣で滅びる*〉だ。理想(イデア)もヘチマもすでになく、国家的必要性だの必然性などはとうに萎んでしまい、今は縄張り争いに汲々だ。
*マタイによる福音書第26章52節「そこでイエスは言われた。『剣を鞘に収めなさい。剣を取る者は……』」
愛想のいいコントロール。『今は遠く離れていましょう』そう言われたら、近づくことはできない。何かが邪魔している。それが何なのか、自分にはわからない。彼女のもとを去る。ずっと遠くへ。〔気がつくと〕また彼女の近くに来ている。〔彼女と〕どっかの惑星で逢うこともある。愛に代わる憐憫か? それは双方にとって拷問だ。不幸な従順そのものの状態を脱したと思ったら、〔彼女にとって〕自分が嫌な存在になったこと――ほとんど拷問ではないか。彼女にとっての拷問は? 理由を語る言葉が見つからない〔妊娠か?〕。『ワシリッサ、ワシリッサ!』と呼び続ける、あのメタリックな声の響き。あれは明らかに上下の関係であり、彼女自身が自分の蟻塚を管理支配していることを意味する。それが権力。
権力とはそんなものだと思っている。それは人間をモノとして管理し統率する力。愛といのちの歓びはその反対で、モノをも霊化してしまう。権力と愛は相対立する力だ。わたしは愛する。すれば死んだものはみな生き返る。自然が、全コスモスが生けるリーチノスチとして動きだすはず。わたしは支配する。すれば生きているものはみな死物と化すはず。緩衝器としての理性(ラーズム)は権力と愛の間にあるのだが、もし愛が弱まって権力が無力化したら、ラーズムなど何の役にも立たない。ラーズムはただの二重帳簿の数字にすぎない。権力は攻撃し〔侵略し〕、愛が後退するや、途端に勝ち誇ったように現われて、無人のテリトリーを占拠する。それが権力である。権力は弱いところだけを侵す。愛は同等の者たちの間でしか存在し得ない。権力は敵対し衝突するマスと量の力であり、愛はリーチノスチと質の力である。愛には自由が、権力には不自由〔隷属〕が付帯する。互いに愛し合う者たちは無力である。だがそのことから国家権力とは何かがわかる。国家権力の基礎を成すのは――不平等。
現代の権力は愛におけるわれらの無力であり、それはわれわれの今の権力が民衆(ナロード)的なものであるということだ。
権力は宿命(ロック)ないし運命(スヂバー)の働き*、すなわち悲運、悪運の。たとえ愛に善(ドブロー)があっても、その愛が後退したら、権力はどうして善き愛(ドーブラヤ・リュボーフィ)であることができるだろう……愛には善(ドブロー)が、権力には悪(ズロー)がある。
だが、悪は善の試金石、権力は愛の試金石なのだ。
*ロック(рок)は好ましくない運命。否定的ニュアンスの宿命。悲運、不運。(ロックについては前出)
正確でない――論理的ミス。
こう言いたいのだ――君主は小さな君主(エゴイスト)たちの世界を産み、愛の活動家はみんなの世界を産む。現代――権力は自らをコムーナと称して、他人の衣装を着る。羊の皮をかぶった狼だ。これは正教の衣をまとった専制権力へのパロディーである。君主は犬が犬に襲いかかるように君主に襲いかかる。彼にとって世界は空疎だが、愛の活動家は自らのうちに全一世界を産む。
チーホン・ザドーンスキイの聖骸が粉々になったと知ると、民衆はそれを〈お隠れになった〉〈目に見えぬ存在になられた〉と信じた。王国の〔明らかな〕悪は権力であり、愛するものはみな目に見えぬものとなり、どんな善(ドブロー)なる言葉も発しなかった。われわれはロックに身を任せて口を噤む。なぜなら語ってはならないからである。われわれは悪事の放任と黙過において罪がある。われわれの苦しみが終わるまで、ロックが飽和に達して雲散するまで、口を緘していなければならない。そしてその暁に、われわれは一斉にこう叫ぶのだ――
神よ、甦らせ給え!
叡知は〈時を知ること〉。季に準じ節に応じて、窓に枠を嵌めること、家の周囲の盛り土(ザワーリンカ)を掘り崩すこと……その必要性を教え示すこと。
自然の法則を、人間の反乱(ブント)の法則性を知るゆえに、賢者は、神経の張り裂けそうな個所をただの亜麻糸でかがるのである。
いったい何のために彼はそうするのか? 人間を愛するから。自身、人間であり、自分のものはどれも可愛いからである。
キリストは賢者だったか?
*この1年後に書かれた作品。革命後の何年かの地方の生活を鮮やかな筆致で描いた。1922年の日記では、その作品の題名は『猿の奴隷』だった。検閲を通らないと見て、直接トロツキイに手紙を添えて送った。トロツキイは編集者のヴォローンスキイを通して電話してきた。「作品の背後にある大きな芸術的価値は認めるが、政治的観点からすれば、全体として反革命的である」と。プリーシヴィンはヴォローンスキイに言った――「これで僕にパスポートをくれたということだな」。この作品が世に出たのは死後の1982年のこと。トロツキイ宛の手紙は、邦訳『森のしずく』の(長男レフの「父の思い出」の訳注に。
銃殺された地主の姉妹(きょうだい)であるエリザヴェータ・〔ニコラーエヴナ〕ロパーチナは人びとに読み書きを教えていて、今は文化・啓蒙サークルの議長をしている。
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