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プリーシヴィンの日記        太田正一

2013 . 03 . 03 up
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1919年1月20日(の続き)

 フォームカの兄弟。
 権力とは鋼のワイヤー、必要不可欠の電線だ。切断された必要不可欠から自由の火花が飛び散り、それらの火花の野蛮な明かりが、不吉な炎となって闇を照らした。電流が切られるまで、そうして照らし続けることだろう。
 そのとき藪睨みのフォームカの兄弟が飛び出してきて「自説」を弁じ始めた。この男は粗暴なアナーキストにして盗伐者、屋敷(ウサーヂバ)荒らしで、言うところの〈蛇の巣〉であって、要するに何が何でもここは生き延びて、とことんコムーナを論破することを至上命令と思っているのである。この藪睨みの犯罪的俗物はコムーナをあっさり袖にして、それで(……)、そもそも彼らは何者なりや? アナルヒスト〔アナーキスト〕? いや君主制主義者(モナルヒスト)だ。その存在は即「君主制」の承認であり、彼らを満足させる唯一のもの――それは有無を言わせぬ、争う余地なき権力なのである。彼らこそは自由の火花が飛び散る必要不可欠の電線(権力)の、切断された末端部分なのだ。だから、その火花の野蛮な明かりは、電流が断たれぬうちは、閉じ込められた力が工場や汽車や機械のねじや歯車を動かさぬうちは、ずっと闇を照らし続けるのである。
 しゃしゃり出てきたのは、そんなのらくら者と小者(トルドヴィク)。彼らは互いに死ぬまで顔を合わせる人びと――「集う人たち」である。なんせブルジュイも希望がなくては生きてはいかれないので。
 三つの階級がある――のらくら者、小者、それとブルジュイだ。いずれも反コムーナ派。

 兵士だった男が語る――
 「今になってやっとはっきりした――兵隊というのは殺すか殺される存在だということが。兵隊にはそれ以上もそれ以下もない。以前、自分は兵隊だった。上等兵になり曹長になった。何も考えず、ただひたすら仕えた……
 「タリムの町。自分は何かの本で読んだのだが、ひょっとしたら、夢で見たのかも。今タリツァ駅と言われているところがタリムの町なのかもしれないが、ともかくそこには城壁と塔があって、そこをありとあらゆる民族が通過し、代わるがわる町は占拠されたのだ。そして城壁の下にはさまざまな民族人種の骨が山のように積み重なっていた。つまりそこが故郷になったわけだ。タリツァには今も人間が住んでいる。ロシア人たちである。だからそこが彼らのローヂナ、生国だ。それがわが民族わが町なんだ、これをどう思うかね? そんなものに価値があるかね? なぜ価値などと? 価値なんてありゃしない。ローヂナも母国もない。ロシア人もな。ところがわしはローヂナとロシア人が愛おしいんだ。いったいこれはどういうことだと思うかね?
 「そんなわけでわしらには今、工場も更紗もカローシャ〔オーヴァーシューズ〕も長靴もない、何もない。大地の恵み――穀物も塩もない。あるのは土地だけだ。同じことは人間にも言える。法も、宗教も、家庭もないが、肝腎の人間がいない。いるのは、藪睨みのフォームカの兄弟ばかりさ。そういうわけだから親戚縁者はいない。土地はあっても、そこに住んでいるのはフォームカの兄弟だけなんだ。ナショナリティー〔民族性あるいは国民性〕が滅びちまったんだよ。地球上のナショナリティーは全滅するそうだ。ドイツ人の運命もフォームカの兄弟と同じだし、フランス人もイギリス人も日本人も同じ運命だ。するとどこもかしこも裸の土地とフォームカの兄弟だけになって、みんなが唯一の神の下にひれ伏し仕えることになる。
 「みんなのための唯一神。わしはそれが正しいと思ってる。これが完全唯一のもの――蒸気プラウだ。不完全とは何を指すか? それは古臭い犂(ソハー)のことさ。ひとつ教えてくれないか――もしソハーを捨てろ、わしらがおまえに蒸気プラウをやると言われたら、自分は実際にプラウを見もせずその言葉を信じるだろうか? ソハーを捨てたのに蒸気プラウは手に入らない、口約束だけだ。そこで亀裂が、溝が生まれる……同じことはわれらが旧き正教の神にも言えるのだ。自分はそれを捨てるが、まだ共同共通の神は現われない。あるのは約束だけだから、ここにも亀裂が生まれる――『コムーニヤ〔コムーナに同じ、ここでは理想の共産社会〕だ、コムーニヤだ!』とみなが叫ぶ。つまり新しい神はコムーニヤだというわけだ。それはいいだろう。文句なしにいい。だがな、その亀裂を誰が、そんな深い溝をいったい誰が跳び越せる?! おまえさんたちの目が行ってるのは言葉じゃなくて生活ではないのかね? この今のわしらの暮らしはどうだ! 以前は襤褸(ぼろ)商や屑屋がいた。村々を回って襤褸だの骨だのブリキだのを回収していた。1年、2年、10年、いや20年後には商売が落ち着いて、エレーツに倉庫を建てた。そのうち何百人もの人間を使って同じことをさせた。そうなるともう一大事業だ。襤褸と屑から立派な紙がつくられてようになった。凄いもんだ。しかし今、このブルジュイは破産し、寒い納屋(アムバール)に押し込められている。今では誰も襤褸なんか集めちゃいない。男が便壷の掃除をしているので、見ていたことがあった。イグサを丸めてそれで便器のまわりを拭いていた。けっこう満ち足りた顔の、明るく陽気な男だった。便所掃除をやるのはいいことだが、しかし近ごろはその肝腎のイグサが手に入らないから、便所は見るも無残な有様だ。ひとつ訊いてみてくれ――いずれこの地上にはコムーニヤしかなくなって誰もが唯一の神にひれ伏すのか、って」

 「あんたの言い分を残らず聞いたが、あんたは大変革(ペレヴォロート)に何を期待してるんだね?」
 「そんなことはどうでもいい。わしは思ってることを口にしただけだ。意見が合わんなんてことはよくある話さ」
 わたしはこの男が生きてきた不信の深さに怖気をふるった。さらに訊ねた――
 「この貧窮状態がどんふうに共同計画になると思っているのか? 戦争前夜までヨーロッパの諸民族は村の兄弟同士のようだった。父親が死んだら子どもたちは分配のことで揉めかねない。旧い神は死につつあるが、新しい神はまだ現われない。ちゃんとした人たちは敢えて新しい神の名を口にせず、偉大なる死者たちの財産(ボガッツトヴォ)の間を遍歴者としてさ迷った。父親が死ぬと、たちまち分配(戦争)が始まった。そしてそれへの回答が革命と社会主義だった。社会主義者たちは神の名を口にしようとしない。なぜなら、その神の計画の失敗から、大旋風(ウラガーン)のごとき大気の激震が起こったからである。われわれは社会主義の中に物質的(マテリアル)な部分の運動しか見ていない。彼らは火を噴く山の灰でわれわれを埋め尽くそうとしている。時が来れば、嵐は収まる。そしてそのとき、われわれはなぜあんなウラガーンが吹き荒れたのかがわかるだろう……」
 「なかなか結構なお話で」そう言ったのはイワン・アファナーシエヴィチだ。「でもね、そんなのはたった一発で一気に崩れっちまうんだ。それだけはあんたに言っておくよ」
 そう言って、手を振ると、わたしを睨みつけた。突き刺すような一瞥だ。
 「たった一発で?」
 「いや、たった一語さ。アムバールだよ!」
 それを言って何か嬉しくなったらしい。さらに話を続けた――
 「寒いアムバールだよ! あんたには学があるから、過去の民族の暮らしについてあれこれ考えたり、暇々に民族間の関係〔繋がり〕を探ったりする余裕がある。だがな、突然あんたが寒いアムバールにぶち込まれたら、どうなるか? わしは見てのとおり菜園丁で、キャベツの根分けなんかしてるが、でももし自分がぶち込まれたら、根分けどころじゃないよ、あんたもそうだろ。やっぱし自分の繋がりってものを解消しないわけにはいかんだろう?」
 「わたしの仕事が消えてなくなることはない!」
 「もちろん消えやしないさ。あんたのあとを引き継ぐ奴が出てくるからな。あんたそっくりのの渡り者(レトゥーン)があんたにしつこく付きまとって関係を築くだろうが、それも束の間で、要するに息継ぎだ。あんたは拘束される。あまりの寒さに考えることも関係を続けることもできないんだ。わしは思うんだ――今のこんな暮らしは全人類にとっての寒いアムバールなんじゃないか、それ以外の何物でもないってね」
 「寒いアムバールから逃れること――」とわたし。「それは言うまでもない。キリストは自らの死を越えようとして『死をもて死を正せ……』と言ったんだよ、知っているかい?」

復活祭の奉神礼におけるトロパリの一節。トロパリ(讃詞)は正教で祭日や聖人を讃える聖歌(前出)。

 「知ってるさ。その教えはいいもんだ。わしらの暮らしは亡ぼされちまったんだから。でも、その教えはわしらのために未来を、あの世をつくるだろうな。なに、わしはそのことに文句を言ってるわけじゃない……」
 「じゃあ、寒いアムバールなど何のためにあるのかね?」
 「必要のためさ! 菜園家なのに、わしには一人当たりの分与地もないんだ。ほかの農民とも平等じゃない。わしは朝から晩まで耕し、6度も耕し直してキャベツを作って売ったもんだが、儲け過ぎだと言われて5000ルーブリを課せられた。とてもじゃないが払えんよ。これじゃアムバール行きだ。ぶち込まれたら菜園の仕事はもうおしまいだよ。それでわしと奴らの間には裂け目ができたんだ。これからは全人類は菜園をシャベルではなく蒸気プラウで耕すんだろうな。1人が耕し、あとの99人は人類としての共通の関係を築くのに役立つ本を読むことに専念するんだ。1人の農婦が蒸気を使って除草して、残りの99人は子どもの面倒を見るってわけさ」

前出。農奴制廃止(1861)以後、地主は農民(生きている農民)だけを対象に土地を分与することになったが、それ以前は納税義務者(男のみ)名簿に記載された者に限られていたので、次回の人口調査まで死亡者も生存者扱いされた。ゴーゴリの『死せる魂』の詐欺事件はこれに因る。

 リーヂヤ〔長姉〕の魂は生娘のまま。

1月21日

 歓喜。この歓びはどこから来るのか? 母からか――夫にも乙女の最良のものを与えず、誰にも知られることなく保(も)ち続けた、不朽の、大事な宝を、息子のわたしに渡してくれた、これは母からの贈り物なのだろうか、それとも自分自身に由来したものだろうか、わたしは祈ることなく、未だ知ることのない神にしつこく頼んで、この朝の静かな一分(とき)を得たのである。空の星の消え残るこの刻に、まだ木々の鳥たちもぼろ家の人間たちも眠っているこの刻に、わたしは言いようのない歓びを味わっているのだ。そのときわたしが感じたのは――自分は星やどこまでも蒼い月や木の上で寝ている鳥たちと何か対等な同盟を組んでいるような、そのときすべてのものがわたしを歓ばせているような気がしたのだ。どこか遠くの荷馬車のギシギシも橇の滑り木のキュッキュッも、目を覚ました犬の突然の吠え声も、屋根の猫も、雪の上の薄蒼い光も――要するに何もかもがそうだったのである。わたしは今、地上の、世界の、宇宙のすべてと共に歓喜に浸っている。
 日の出だろうか。雪に埋まって母なる大地に守られた種子とその未来の花とが、自らに春の甦りを予感して、その歓びをわたしに伝えようとしているのではないか?
 わたしはここに曙光の最初の兆しとして独り存在する。人間的な何か〔地上の人事〕がこの歓びを消すことはできないのだ。
 わたしは外に出ずに、このまま、病気で臥せっている子のベッドのそばに留まるか、心に突き刺さったきのうの悪党〔イワン・アファナーシエヴィチ?〕の言葉の匕首(あいくち)でぴくぴく痙攣しながら自分の部屋に引っ込むか、または、いろんなものから堕ちて、それこそ満身創痍のぼろきれみたいになってベッドに横たわるか、まあどちらも大した違いはないが、まったく違うのは、「わたしはそれを償った、責任はすべて自分にある」という一点だ。しかし遅かれ早かれ、わたしは自分の朝の星〔ソーニャ?〕と逢い、そのとき星はいたがわたしはいなかったということを知るはずである。わたしの不在なぞ宇宙では問題外だ。誰にもなぜとも、それについて語る必要はない。なぜならそれは完全で永遠だから――偉大なものだからである。わたしは知っている――もし十字架の近くを歩きながら、磔にされたお方の顔をちらと見たら、その方はそれでも、われわれが致命的な病気に罹っている幼子たちに微笑むように、微笑んでくださるかも。カフカースの崖に縛りつけられて鷲に心の臓を突(つつ)かれているプロメテウスは目をしばたたきながら、目配せまでして、男らしく、こんなことを言うかもしれない――『おい子どもたち、そうじろじろ見るんじゃないぞ!』。
 そのとき、幼子たちはまだ眠っている――微笑を浮かべて。そうしてようやく日が昇ってくる。

 いや、これは自分が選ばれた特別な人間だから、なのではない。おれはおれはと言っているのではない。誰だってそんなことは知っている……誰にも起こることだと感じている、たえず起こっているのだ。いいや、それは〈わたし〉ではない、〈われわれみんな〉なのだが、でもわたしは、ステップの蟷螂(カマキリ)が、春のおとずれに、干からびた草の茎を伝ってできるだけ高く登っていって、その手で旅人〔遍歴者〕たちに示すように、道を示そうと思っているのだ。春になればネズミだって荷馬車ももっと高いところによじ登って、そこからぴーぴー鳴くし、よじ登った者がすべての生きものにニュースを伝えるなら、眠りこけてるものたちだって徐々に目を覚ますだろう。

カマキリ(богомол)は信心家、祈る人、聖地巡礼者と同語。その前脚のしぐさが礼拝する姿に似ているところから(praying mantis)。

 歯を病んでいる。ナイチンゲールを追い払おうとライラックの茂みに土くれを投げつけてやる。ナイチンゲールは別の木に飛び移り、そこで歌をうたう。聞こえるだろうか? ナイチンゲールは歌い、ちょっと苦しむが、それはすぐに消えて、歯の痛みも鎮まる。自分がナイチンゲールに土くれを投げたことを思い出して、独り笑いをすることだろう。
 祈願。わたしは、ヒトがヒト(生ける屍たち)に加える、その企図された苦痛から逃れようと願っている――ただそれだけを願って祈っている。
 偶然がわたしにぶち当たらぬよう祈っている。歯痛、腹痛、破壊、盗み、追剥ぎ.それらを耐え忍び、自らの内に微笑む力を見出しますように〔と祈っている〕。
 わが魂(たま)の力にって自らを救う〔こと〕。
 訴願。避け難き苦の杯の過ぎ行かんことを。
 だがもし避け難ければ、主よ、わたしはあなたに身を捧げます。わたしは知っております――早晩、あなたが苦しみの内にもわたしめにご自分の朝の庇護をお示しくださるだろうことを。
 〈それ〉はあるか?
 ある!
 もちろん、神に祈るのだ、坑夫(シャフチョール)にではなく。坑夫は小さな人間だ。
 〈それ〉はある! 存在する!

существо〈スシシェストヴォー)は、ある存在、生きもの、特別な存在。また、本質、実体を。суть、сущее=бытьの能動形動詞現在(教会スラヴ語)――哲学で、存在、実在、有。ここでは神のような存在、奇跡。

 消費組合売店の議長というのがやって来て、言う――
 「コミュニストは正しい人間でなくてはならない。ばくち打ち、酔っ払い、泥棒、ごろつき、坑夫、強盗、役立たずなどであってはならない。コミュニストはしっかりしと根を下ろした正義の人であり、中等の平均的農民でなければならない。そうであるなら――お力添えもあるであろう。スシシェストヴォーだ! それはある、確かにある! 自分の場合がそうだった。自分は木を伐って薪をつくっていた。イバラの棘で目を突いて目がおかしくなった。光が消えてしまったのだ。ある村の農婦(バーバ)に相談しに行った。舌で病気を移せるというので有名な女だ。丘を越え野を越えて、あるところで足をとめる。そして一心に祈った。慈悲深き聖母様よ、どうか助けてください! するとそこへバーバが迎え出て、わしの体に手を触れた。ぺろぺろとわしの片方の眉を舐めて、痛みを追い出したんだ。何と言われようと構わんが、〈それ〉は、スシシェストヴォーはあるのだ、いや、いるのだ、確かにいるのだ!」
 農民集会は騒然としていた。ロシア人は各自勝手な話をするので、何を言ってるのか訳がわからない。喧騒の中でたったひとつだけわたしの耳に届いた言葉があった。それは「カイン」という言葉

創世記第4章2-12節。

 そっちの方に行って問いただした――
 「なぜカインがアベルを殺したかを知るのに今がいちばん相応しい時代じゃないかと思うんだが……」
 とたんにシーンとなってしまった。わたしの問いには誰も応えなかったが、そのうち互いに何やらぼそぼそ囁き出した。集会全体が小川の水のようにちょろちょろと、どこかわからない遠くの方へ流れ始めた……
 あとでわたしは知り合いの農民に、あんな流れがなぜ生じたのか質してみた。
 「あれはね、集会に人殺しがひとり紛れ込んでいたからです」
 (わたしはその男と目と目が合った。何かの山に腰かけていたのである)

1月22日

 差しでよく話をしたイワン・アファナーシエヴィチが衆人環視の中でいきなりわたしにつっかかってくる。そして自分では一度も読んだことのないレフ・トルストイと、ロシアを滅ぼした学ある人間たちを罵り始めた……。吠えること吠えること! さっぱり訳がわからなかった。人前で呑んだくれみたいにべらべら喋るだけで、(頭の浮かんだことがそのまま舌に移って)ただもう喋りたい喚きたいだけなのである。
 それに対して自分はこう言ってやった、真情こめて――
「要するに、きみは何も信じていないんだ。畏怖のかけらもなければ、きっときみはキリストさえ罵るだろう。きみはキリストを知らないし、信じてもいない」
 そうまで言われたので、彼は着ているシャツの前をはだけて、首にかけた銅の十字架を見せた。
 コミュニストのアレクセイ・スピリドーノヴィチがワハハと笑った。
 ヤハズアザミの根。イワン・アファナーシエヴィチはヤハズアザミの根っこみたいな男である。彼のコムーナへの反駁は、学ある人間に対する黒百人組の立場と同じもの。そこにあるのは、人類のペシミズム、出口なしの無個性の意識であり個人の無力感である。一方、コミュニストたちはそれに対抗する。当然、槍と槍の突き合いだ。人間は限りなく自由である……

ヤハズアザミ(чертополох)は文字どおり「悪魔を脅す」で、家畜小屋の悪魔よけに使われた植物(前出)。

 わが哀しみ。伝えられるのは自分の無言の哀しみだけ。自由は愛のようなもの。それは口数少ない客たち。彼らについて声高に叫ぶことはできない。原則として彼らを国家機構に組み入れることはできない。それは花をマロースに曝すことができないのと同じ……
 マロースに耐えられる花はない……マロースに花を曝さんとする人間には怒りを込めて……
 自由、自由な人びと、プロメテウス、キリストについてのわれわれの歌に対して、黒百人組のイワン・アファナーシエヴィチの答えはこうである。
 「たったひとつの言葉ですべてが打ち砕かれるんだ」
 「どんな言葉?」
 「アムバール!」
 コミュニストの自由の代表者であるアレクセイ・スピリドーノヴィチに質問した。
 「戸外に花を持ち出して、マロースでも花は生きていけると断言するだけあって、きみらは人間も寒いアムバールにぶち込めるわけだ?」
 「そうする必要があるからね」と彼。「おたくだってそうするのさ。法外な税を農民から取り立てる必要がありゃ、誰だってそうする。悪いのは支払う側なんだ。奴らはやって来て泣き叫ぶ。跪いて、そんな金はないと必死で訴える。寒いアムバールにぶち込まれるが、一時間後には『出してくれ、払うから出してくれ!』と泣き叫ぶ。なんてこたない。
だから、今ではソヴェート・ロシア中が寒いアムバールだらけだよ。国家的課題を前に法外な金を集めようとすれば、あんたらだって同じことをすんだ!」
 長いことわれわれの話に耳を傾けていた男――官林の盗伐を仕事にしている陰気な男だ。そいつが口を開いた――
 「おれはコムーナに反対だ。自由に生きていきたいだけさ。こっちが寝てると『さあ同志、起きて働け!』と言われる。おれはそれが嫌なんだ』
 ビリューリキンが言う――
 『おれがいつ自由だったい!? あの体制じゃいちんちも寒さ(ホーラト)から逃げられんかったよ。夜も森で馬の放牧をさせられたんだ。そうしろと誰が言ったか? まさかおれが自分に言うわけはねえ。ほんとに自分の意志であんな寒さん中に這いずり出たってか? 真夜中に森へ出かけていったってかよ? どっちにしても、あのころは自分の意志も自由もなかったんだ。それが今はコムーナさ。てことは、抵抗したって無駄だってことだ」

 女教師たちがこんな労働を強いられている国はどこにもない。こんな無法状態に置かれている学校がどこにあるだろう! すべて事実だ。
 授業中、女教師の顔をめがけて帽子が飛んでくる。そんなことがよくある。教師は自室に鍵をかける。当然だ。割り木〔ストーヴ用の薪〕が脚に当たったことさえある。彼女は倒れたが、翌日の文学の夕べではニキーチンの詩を朗読したという。最近、ガキどもが女教師の部屋の窓を叩き割って、そこに糞(ガヴノー)をなすりつけたらしい。
 父親たちの抵抗。 
 こうした行為はすべて父親たちのコムーナへの反感〔反映という言葉を抹消〕のあらわれ以外の何物でもない。子どものための寒いアムバールが必要だ……

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


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